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或る女 - 有島武郎(アクセス), 39.2 或る女

39.2 或る 女

急に 周囲 に は 騒がしい 下宿 屋 らしい 雑音 が 聞こえ 出した 。 葉子 を うるさがら した その 黒い 影 は 見る見る 小さく 遠ざかって 、 電 燈 の 周囲 を きり きり と 舞い 始めた 。 よく 見る と それ は 大きな 黒い 夜 蛾 だった 。 葉子 は 神 がかり が 離れた ように きょとんと なって 、 不思議 そうに 居ずまい を 正して みた 。 ・・

どこ まで が 真実で 、 どこ まで が 夢 な んだろう ……。 ・・

自分 の 家 を 出た 、 それ に 間違い は ない 。 途中 から 取って返して 風呂 を つかった 、…… なんの ため に ? そんな ばかな 事 を する はず が ない 。 でも 妹 たち の 手ぬぐい が 二 筋 ぬれて 手ぬぐい かけ の 竹 竿 に かかって いた 、( 葉子 は そう 思い ながら 自分 の 顔 を なでたり 、 手の甲 を 調べて 見たり した 。 そして 確かに 湯 に は いった 事 を 知った 。 ) それ なら それ で いい 。 それ から 双 鶴 館 の 女将 の あと を つけた のだった が 、…… あの へん から 夢 に なった の か しら ん 。 あす こ に いる 蛾 を もやもや した 黒い 影 の ように 思ったり して いた 事 から 考えて みる と 、 いまいまし さ から 自分 は 思わず 背たけ の 低い 女 の 幻影 を 見て いた の かも しれ ない 。 それにしても いる はずの 倉地 が いない と いう 法 は ない が …… 葉子 は どうしても 自分 の して 来た 事 に はっきり 連絡 を つけて 考える 事 が でき なかった 。 ・・

葉子 は …… 自分 の 頭 で は どう 考えて みよう も なくなって 、 ベル を 押して 番頭 に 来て もらった 。 ・・

「 あの う 、 あと で この 蛾 を 追い出して おいて ください な …… それ から ね 、 さっき …… と いった ところ が どれほど 前 だ か わたし に も はっきり しません が ね 、 ここ に 三十 格好 の 丸 髷 を 結った 女 の 人 が 見えました か 」・・

「 こちら 様 に は どなた も お 見え に は なりません が ……」・・

番頭 は 怪 訝 な 顔 を して こう 答えた 。 ・・

「 こちら 様 だろう が な んだろう が 、 そんな 事 を 聞く んじゃ ない の 。 この 下宿 屋 から そんな 女 の 人 が 出て 行きました か 」・・

「 さよう …… へ 、 一 時間 ばかり 前 なら お 一 人 お 帰り に なりました 」・・

「 双 鶴 館 の お 内 儀 さん でしょう 」・・

図星 を ささ れたろう と いわんばかり に 葉子 は わざと 鷹 揚 な 態度 を 見せて こう 聞いて みた 。 ・・

「 い ゝ え そうじゃ ございませ ん 」・・

番頭 は 案外に も そう きっぱり と いい切って しまった 。 ・・

「 それ じゃ だれ 」・・

「 とにかく 他の お 部屋 に おい で なさった お 客 様 で 、 手前 ども の 商売 上 お 名前 まで は 申し上げ 兼ねます が 」・・

葉子 も この上 の 問答 の 無益な の を 知って そのまま 番頭 を 返して しまった 。 ・・

葉子 は もう 何者 も 信用 する 事 が でき なかった 。 ほんとうに 双 鶴 館 の 女将 が 来た ので は ない らしく も あり 、 番頭 まで が 倉地 とぐ る に なって いて しらじらしい 虚 言 を ついた ように も あった 。 ・・

何事 も 当て に は なら ない 。 何事 も うそ から 出た 誠 だ 。 …… 葉子 は ほんとうに 生きて いる 事 が いやに なった 。 ・・

…… そこ まで 来て 葉子 は 始めて 自分 が 家 を 出て 来た ほんとうの 目的 が な んである か に 気づいた 。 すべて に つまずいて 、 すべて に 見限られて 、 すべて を 見限ろう と する 、 苦し みぬいた 一 つ の 魂 が 、 虚無 の 世界 の 幻 の 中 から 消えて 行く のだ 。 そこ に は 何の 未練 も 執着 も ない 。 うれしかった 事 も 、 悲しかった 事 も 、 悲しんだ 事 も 、 苦しんだ 事 も 、 畢竟 は 水 の 上 に 浮いた 泡 が また はじけて 水 に 帰る ような もの だ 。 倉地 が 、 死骸 に なった 葉子 を 見て 嘆こう が 嘆く まい が 、 その 倉地 さえ 幻 の 影 で は ない か 。 双 鶴 館 の 女将 だ と 思った 人 が 、 他人 であった ように 、 他人 だ と 思った その 人 が 、 案外 双 鶴 館 の 女将 である かも しれ ない ように 、 生きる と いう 事 が それ 自身 幻影 で なくって な んであろう 。 葉子 は 覚め きった ような 、 眠り ほ うけて いる ような 意識 の 中 で こう 思った 。 しんしんと 底 も 知ら ず 澄み 透った 心 が ただ 一 つ ぎりぎり と 死 の ほう に 働いて 行った 。 葉子 の 目 に は 一 しずく の 涙 も 宿って は い なかった 。 妙に さえて 落ち付き 払った ひとみ を 静かに 働か して 、 部屋 の 中 を 静かに 見回して いた が 、 やがて 夢 遊 病者 の ように 立ち上がって 、 戸棚 の 中 から 倉地 の 寝具 を 引き出して 来て 、 それ を 部屋 の まん 中 に 敷いた 。 そうして しばらく の 間 その 上 に 静かに すわって 目 を つぶって みた 。 それ から また 立ち上がって 全く 無 感情 な 顔つき を し ながら 、 もう 一 度 戸棚 に 行って 、 倉地 が 始終 身近に 備えて いる ピストル を あちこち と 尋ね 求めた 。 しまい に それ が 本箱 の 引き出し の 中 の 幾 通 か の 手紙 と 、 書き そこね の 書類 と 、 四五 枚 の 写真 と が ごっちゃ に し まい込んで ある その 中 から 現われ 出た 。 葉子 は 妙に 無関心な 心持ち で それ を 手 に 取った 。 そして 恐ろしい もの を 取り扱う ように それ を からだ から 離して 右手 に ぶら下げて 寝床 に 帰った 。 そのくせ 葉子 は 露 ほど も その 凶器 に おそれ を いだいて いる わけで は なかった 。 寝床 の まん 中 に すわって から ピストル を 膝 の 上 に 置いて 手 を かけた まま しばらく ながめて いた が 、 やがて それ を 取り上げる と 胸 の 所 に 持って 来て 鶏頭 を 引き上げた 。 ・・

きりっと 歯切れ の いい 音 を 立てて 弾 筒 が 少し 回転 した 。 同時に 葉子 の 全身 は 電気 を 感じた ように びりっと おののいた 。 しかし 葉子 の 心 は 水 が 澄んだ ように 揺 が なかった 。 葉子 は そうした まま 短銃 を また 膝 の 上 に 置いて じっと ながめて いた 。 ・・

ふと 葉子 は ただ 一 つ し 残した 事 の ある のに 気 が 付いた 。 それ が な んである か を 自分 でも はっきり と は 知ら ず に 、 いわば 何物 か の 余儀ない 命令 に 服従 する ように 、 また 寝床 から 立ち上がって 戸棚 の 中 の 本箱 の 前 に 行って 引き出し を あけた 。 そして そこ に あった 写真 を 丁寧に 一 枚 ずつ 取り上げて 静かに ながめる のだった 。 葉子 は 心ひそかに 何 を して いる んだろう と 自分 の 動作 を 怪しんで いた 。 ・・

葉子 は やがて 一 人 の 女 の 写真 を 見つめて いる 自分 を 見いだした 。 長く 長く 見つめて いた 。 …… その うち に 、 白 痴 が どうかして だんだん 真 人間 に かえる 時 は そう も あろう か と 思わ れる ように 、 葉子 の 心 は 静かに 静かに 自分 で 働く ように なって 行った 。 女 の 写真 を 見て どう する のだろう と 思った 。 早く 死な なければ いけない のだ が と 思った 。 いったい その 女 は だれ だろう と 思った 。 …… それ は 倉地 の 妻 の 写真 だった 。 そうだ 倉地 の 妻 の 若い 時 の 写真 だ 。 なるほど 美しい 女 だ 。 倉地 は 今 でも この 女 に 未練 を 持って いる だろう か 。 この 妻 に は 三 人 の かわいい 娘 が ある のだ 。 「 今 でも 時々 思い出す 」 そう 倉地 の いった 事 が ある 。 こんな 写真 が いったい この 部屋 な ん ぞ に あって は なら ない のだ が 。 それ は ほんとうに なら ない のだ 。 倉地 は まだ こんな もの を 大事に して いる 。 この 女 は いつまでも 倉地 に 帰って 来よう と 待ち構えて いる のだ 。 そして まだ この 女 は 生きて いる のだ 。 それ が 幻 な もの か 。 生きて いる のだ 、 生きて いる のだ 。 …… 死な れる か 、 それ で 死な れる か 。 何 が 幻 だ 、 何 が 虚無 だ 。 この とおり この 女 は 生きて いる で は ない か …… 危うく …… 危うく 自分 は 倉地 を 安堵 さ せる 所 だった 。 そして この 女 を …… この まだ 生 の ある この 女 を 喜ば せる ところ だった 。 ・・

葉子 は 一 刹那 の 違い で 死 の 界 から 救い出さ れた 人 の ように 、 驚 喜 に 近い 表情 を 顔 いちめん に みなぎら して 裂ける ほど 目 を 見張って 、 写真 を 持った まま 飛び上がら ん ばかりに 突っ立った が 、 急に 襲いかかる やるせない 嫉妬 の 情 と 憤怒 と に おそろしい 形相 に なって 、 歯が み を し ながら 、 写真 の 一端 を くわえて 、「 い ゝ ……」 と いい ながら 、 総身 の 力 を こめて まっ二 つ に 裂く と 、 いきなり 寝床 の 上 に どう と 倒れて 、 物 すごい 叫び声 を 立て ながら 、 涙 も 流さ ず に 叫び に 叫んだ 。 ・・

店 の もの が あわてて 部屋 に は いって 来た 時 に は 、 葉子 は しおらしい 様子 を して 、 短銃 を 床 の 下 に 隠して しまって 、 しくしく と ほんとうに 泣いて いた 。 ・・

番頭 は やむ を 得 ず 、 てれ隠し に 、・・

「 夢 でも 御覧 に なりました か 、たいそうな お 声 だった もの です から 、 つい 御 案内 も いたさ ず 飛び込んで しまい まして 」・・

と いった 。 葉子 は 、・・

「 え ゝ 夢 を 見ました 。 あの 黒い 蛾 が 悪い んです 。 早く 追い出して ください 」・・

そんな わけ の わから ない 事 を いって 、 ようやく 涙 を 押し ぬぐった 。 ・・

こういう 発作 を 繰り返す たび ごと に 、 葉子 の 顔 は 暗く ばかり なって 行った 。 葉子 に は 、 今 まで 自分 が 考えて いた 生活 の ほか に 、 もう 一 つ 不可思議な 世界 が ある ように 思われて 来た 。 そうして やや ともすれば その 両方 の 世界 に 出たり は いったり する 自分 を 見いだす のだった 。 二 人 の 妹 たち は ただ はらはら して 姉 の 狂暴な 振る舞い を 見守る ほか は なかった 。 倉地 は 愛子 に 刃物 など に 注意 しろ と いったり した 。 ・・

岡 の 来た 時 だけ は 、 葉子 の きげん は 沈む ような 事 は あって も 狂暴に なる 事 は 絶えて なかった ので 、 岡 は 妹 たち の 言葉 に さして 重き を 置いて いない ように 見えた 。


39.2 或る 女 ある|おんな 39,2 Una mujer

急に 周囲 に は 騒がしい 下宿 屋 らしい 雑音 が 聞こえ 出した 。 きゅうに|しゅうい|||さわがしい|げしゅく|や||ざつおん||きこえ|だした 葉子 を うるさがら した その 黒い 影 は 見る見る 小さく 遠ざかって 、 電 燈 の 周囲 を きり きり と 舞い 始めた 。 ようこ|||||くろい|かげ||みるみる|ちいさく|とおざかって|いなずま|とも||しゅうい|||||まい|はじめた よく 見る と それ は 大きな 黒い 夜 蛾 だった 。 |みる||||おおきな|くろい|よ|が| 葉子 は 神 がかり が 離れた ように きょとんと なって 、 不思議 そうに 居ずまい を 正して みた 。 ようこ||かみ|||はなれた||||ふしぎ|そう に|いずまい||ただして| Yoko looked puzzled, as if a god had left her, and tried to straighten her posture. ・・

どこ まで が 真実で 、 どこ まで が 夢 な んだろう ……。 |||しんじつで||||ゆめ|| ・・

自分 の 家 を 出た 、 それ に 間違い は ない 。 じぶん||いえ||でた|||まちがい|| 途中 から 取って返して 風呂 を つかった 、…… なんの ため に ? とちゅう||とってかえして|ふろ||||| そんな ばかな 事 を する はず が ない 。 ||こと||||| でも 妹 たち の 手ぬぐい が 二 筋 ぬれて 手ぬぐい かけ の 竹 竿 に かかって いた 、( 葉子 は そう 思い ながら 自分 の 顔 を なでたり 、 手の甲 を 調べて 見たり した 。 |いもうと|||てぬぐい||ふた|すじ||てぬぐい|||たけ|さお||||ようこ|||おもい||じぶん||かお|||てのこう||しらべて|みたり| そして 確かに 湯 に は いった 事 を 知った 。 |たしかに|ゆ||||こと||しった ) それ なら それ で いい 。 それ から 双 鶴 館 の 女将 の あと を つけた のだった が 、…… あの へん から 夢 に なった の か しら ん 。 ||そう|つる|かん||おかみ||||||||||ゆめ|||||| あす こ に いる 蛾 を もやもや した 黒い 影 の ように 思ったり して いた 事 から 考えて みる と 、 いまいまし さ から 自分 は 思わず 背たけ の 低い 女 の 幻影 を 見て いた の かも しれ ない 。 ||||が||||くろい|かげ|||おもったり|||こと||かんがえて||||||じぶん||おもわず|せたけ||ひくい|おんな||げんえい||みて||||| それにしても いる はずの 倉地 が いない と いう 法 は ない が …… 葉子 は どうしても 自分 の して 来た 事 に はっきり 連絡 を つけて 考える 事 が でき なかった 。 |||くらち|||||ほう||||ようこ|||じぶん|||きた|こと|||れんらく|||かんがえる|こと||| ・・

葉子 は …… 自分 の 頭 で は どう 考えて みよう も なくなって 、 ベル を 押して 番頭 に 来て もらった 。 ようこ||じぶん||あたま||||かんがえて||||べる||おして|ばんとう||きて| ・・

「 あの う 、 あと で この 蛾 を 追い出して おいて ください な …… それ から ね 、 さっき …… と いった ところ が どれほど 前 だ か わたし に も はっきり しません が ね 、 ここ に 三十 格好 の 丸 髷 を 結った 女 の 人 が 見えました か 」・・ |||||が||おいだして|||||||||||||ぜん|||||||し ませ ん|||||さんじゅう|かっこう||まる|まげ||ゆった|おんな||じん||みえ ました|

「 こちら 様 に は どなた も お 見え に は なりません が ……」・・ |さま||||||みえ|||なり ませ ん|

番頭 は 怪 訝 な 顔 を して こう 答えた 。 ばんとう||かい|いぶか||かお||||こたえた ・・

「 こちら 様 だろう が な んだろう が 、 そんな 事 を 聞く んじゃ ない の 。 |さま|||||||こと||きく||| "Whether it's you or not, don't ask such things. この 下宿 屋 から そんな 女 の 人 が 出て 行きました か 」・・ |げしゅく|や|||おんな||じん||でて|いき ました| Did that woman ever leave this boarding house?"

「 さよう …… へ 、 一 時間 ばかり 前 なら お 一 人 お 帰り に なりました 」・・ ||ひと|じかん||ぜん|||ひと|じん||かえり||なり ました "Goodbye...heh, if it was about an hour ago, you would have gone home alone."

「 双 鶴 館 の お 内 儀 さん でしょう 」・・ そう|つる|かん|||うち|ぎ|| "You must be the secretary of Sokakukan."

図星 を ささ れたろう と いわんばかり に 葉子 は わざと 鷹 揚 な 態度 を 見せて こう 聞いて みた 。 ずぼし|||||||ようこ|||たか|よう||たいど||みせて||きいて| Yoko asked this question with an air of self-importance, as if she had been targeted. ・・

「 い ゝ え そうじゃ ございませ ん 」・・ |||そう じゃ||

番頭 は 案外に も そう きっぱり と いい切って しまった 。 ばんとう||あんがいに|||||いいきって| ・・

「 それ じゃ だれ 」・・

「 とにかく 他の お 部屋 に おい で なさった お 客 様 で 、 手前 ども の 商売 上 お 名前 まで は 申し上げ 兼ねます が 」・・ |たの||へや||||||きゃく|さま||てまえ|||しょうばい|うえ||なまえ|||もうしあげ|かね ます|

葉子 も この上 の 問答 の 無益な の を 知って そのまま 番頭 を 返して しまった 。 ようこ||このうえ||もんどう||むえきな|||しって||ばんとう||かえして| ・・

葉子 は もう 何者 も 信用 する 事 が でき なかった 。 ようこ|||なにもの||しんよう||こと||| ほんとうに 双 鶴 館 の 女将 が 来た ので は ない らしく も あり 、 番頭 まで が 倉地 とぐ る に なって いて しらじらしい 虚 言 を ついた ように も あった 。 |そう|つる|かん||おかみ||きた|||||||ばんとう|||くらち|||||||きょ|げん||||| It seems that the proprietress of Sokakukan was not really there, and even the clerk was Kurachi, so it seemed as if he had made a silly lie. ・・

何事 も 当て に は なら ない 。 なにごと||あて|||| 何事 も うそ から 出た 誠 だ 。 なにごと||||でた|まこと| …… 葉子 は ほんとうに 生きて いる 事 が いやに なった 。 ようこ|||いきて||こと||| ・・

…… そこ まで 来て 葉子 は 始めて 自分 が 家 を 出て 来た ほんとうの 目的 が な んである か に 気づいた 。 ||きて|ようこ||はじめて|じぶん||いえ||でて|きた||もくてき||||||きづいた すべて に つまずいて 、 すべて に 見限られて 、 すべて を 見限ろう と する 、 苦し みぬいた 一 つ の 魂 が 、 虚無 の 世界 の 幻 の 中 から 消えて 行く のだ 。 |||||みかぎら れて|||みかぎろう|||にがし||ひと|||たましい||きょむ||せかい||まぼろし||なか||きえて|いく| All stumbling, all forsaken, all forsaking, a tormented soul vanishes from the illusion of a world of nothingness. そこ に は 何の 未練 も 執着 も ない 。 |||なんの|みれん||しゅうちゃく|| うれしかった 事 も 、 悲しかった 事 も 、 悲しんだ 事 も 、 苦しんだ 事 も 、 畢竟 は 水 の 上 に 浮いた 泡 が また はじけて 水 に 帰る ような もの だ 。 |こと||かなしかった|こと||かなしんだ|こと||くるしんだ|こと||ひっきょう||すい||うえ||ういた|あわ||||すい||かえる||| The happy things, the sad things, the sorrowful things, the painful things, in the end, are like bubbles floating on the water bursting again and returning to the water. 倉地 が 、 死骸 に なった 葉子 を 見て 嘆こう が 嘆く まい が 、 その 倉地 さえ 幻 の 影 で は ない か 。 くらち||しがい|||ようこ||みて|なげこう||なげく||||くらち||まぼろし||かげ|||| Kurachi may not grieve when he sees Yoko's corpse, but isn't even Kurachi a phantom shadow? 双 鶴 館 の 女将 だ と 思った 人 が 、 他人 であった ように 、 他人 だ と 思った その 人 が 、 案外 双 鶴 館 の 女将 である かも しれ ない ように 、 生きる と いう 事 が それ 自身 幻影 で なくって な んであろう 。 そう|つる|かん||おかみ|||おもった|じん||たにん|||たにん|||おもった||じん||あんがい|そう|つる|かん||おかみ||||||いきる|||こと|||じしん|げんえい||なく って|| 葉子 は 覚め きった ような 、 眠り ほ うけて いる ような 意識 の 中 で こう 思った 。 ようこ||さめ|||ねむり|||||いしき||なか|||おもった しんしんと 底 も 知ら ず 澄み 透った 心 が ただ 一 つ ぎりぎり と 死 の ほう に 働いて 行った 。 |そこ||しら||すみ|す った|こころ|||ひと||||し||||はたらいて|おこなった 葉子 の 目 に は 一 しずく の 涙 も 宿って は い なかった 。 ようこ||め|||ひと|||なみだ||やどって||| 妙に さえて 落ち付き 払った ひとみ を 静かに 働か して 、 部屋 の 中 を 静かに 見回して いた が 、 やがて 夢 遊 病者 の ように 立ち上がって 、 戸棚 の 中 から 倉地 の 寝具 を 引き出して 来て 、 それ を 部屋 の まん 中 に 敷いた 。 みょうに||おちつき|はらった|||しずかに|はたらか||へや||なか||しずかに|みまわして||||ゆめ|あそ|びょうしゃ|||たちあがって|とだな||なか||くらち||しんぐ||ひきだして|きて|||へや|||なか||しいた With a strangely calm and collected eye, he quietly looked around the room, but before long he stood up like a sleepwalker and pulled out Kurachi's bedding from the cupboard. , and put it in the middle of the room. そうして しばらく の 間 その 上 に 静かに すわって 目 を つぶって みた 。 |||あいだ||うえ||しずかに||め||| それ から また 立ち上がって 全く 無 感情 な 顔つき を し ながら 、 もう 一 度 戸棚 に 行って 、 倉地 が 始終 身近に 備えて いる ピストル を あちこち と 尋ね 求めた 。 |||たちあがって|まったく|む|かんじょう||かおつき|||||ひと|たび|とだな||おこなって|くらち||しじゅう|みぢかに|そなえて||ぴすとる||||たずね|もとめた Then he got up again and, with a completely unfeeling look on his face, went to the cupboard again and searched here and there for the pistol that Kurachi always kept close at hand. しまい に それ が 本箱 の 引き出し の 中 の 幾 通 か の 手紙 と 、 書き そこね の 書類 と 、 四五 枚 の 写真 と が ごっちゃ に し まい込んで ある その 中 から 現われ 出た 。 ||||ほんばこ||ひきだし||なか||いく|つう|||てがみ||かき|||しょるい||しご|まい||しゃしん|||ご っちゃ|||まいこんで|||なか||あらわれ|でた 葉子 は 妙に 無関心な 心持ち で それ を 手 に 取った 。 ようこ||みょうに|むかんしんな|こころもち||||て||とった そして 恐ろしい もの を 取り扱う ように それ を からだ から 離して 右手 に ぶら下げて 寝床 に 帰った 。 |おそろしい|||とりあつかう||||||はなして|みぎて||ぶらさげて|ねどこ||かえった そのくせ 葉子 は 露 ほど も その 凶器 に おそれ を いだいて いる わけで は なかった 。 |ようこ||ろ||||きょうき|||||||| 寝床 の まん 中 に すわって から ピストル を 膝 の 上 に 置いて 手 を かけた まま しばらく ながめて いた が 、 やがて それ を 取り上げる と 胸 の 所 に 持って 来て 鶏頭 を 引き上げた 。 ねどこ|||なか||||ぴすとる||ひざ||うえ||おいて|て|||||||||||とりあげる||むね||しょ||もって|きて|けいとう||ひきあげた After sitting down in the middle of the bed, I put the pistol on my lap and watched it for a while with my hand on it. ・・

きりっと 歯切れ の いい 音 を 立てて 弾 筒 が 少し 回転 した 。 |はぎれ|||おと||たてて|たま|つつ||すこし|かいてん| The bullet rotated a little with a crisp sound. 同時に 葉子 の 全身 は 電気 を 感じた ように びりっと おののいた 。 どうじに|ようこ||ぜんしん||でんき||かんじた||びり っと| しかし 葉子 の 心 は 水 が 澄んだ ように 揺 が なかった 。 |ようこ||こころ||すい||すんだ||よう|| 葉子 は そうした まま 短銃 を また 膝 の 上 に 置いて じっと ながめて いた 。 ようこ||||たんじゅう|||ひざ||うえ||おいて||| ・・

ふと 葉子 は ただ 一 つ し 残した 事 の ある のに 気 が 付いた 。 |ようこ|||ひと|||のこした|こと||||き||ついた Yoko suddenly realized that she had only one thing left. それ が な んである か を 自分 でも はっきり と は 知ら ず に 、 いわば 何物 か の 余儀ない 命令 に 服従 する ように 、 また 寝床 から 立ち上がって 戸棚 の 中 の 本箱 の 前 に 行って 引き出し を あけた 。 ||||||じぶん|||||しら||||なにもの|||よぎない|めいれい||ふくじゅう||||ねどこ||たちあがって|とだな||なか||ほんばこ||ぜん||おこなって|ひきだし|| Without knowing exactly what it was, I got up again from my bed, went to the bookcase in the cupboard, and opened the drawer, so to speak, in obedience to some unavoidable command. . そして そこ に あった 写真 を 丁寧に 一 枚 ずつ 取り上げて 静かに ながめる のだった 。 ||||しゃしん||ていねいに|ひと|まい||とりあげて|しずかに|| 葉子 は 心ひそかに 何 を して いる んだろう と 自分 の 動作 を 怪しんで いた 。 ようこ||こころひそかに|なん||||||じぶん||どうさ||あやしんで| ・・

葉子 は やがて 一 人 の 女 の 写真 を 見つめて いる 自分 を 見いだした 。 ようこ|||ひと|じん||おんな||しゃしん||みつめて||じぶん||みいだした 長く 長く 見つめて いた 。 ながく|ながく|みつめて| …… その うち に 、 白 痴 が どうかして だんだん 真 人間 に かえる 時 は そう も あろう か と 思わ れる ように 、 葉子 の 心 は 静かに 静かに 自分 で 働く ように なって 行った 。 |||しろ|ち||||まこと|にんげん|||じ|||||||おもわ|||ようこ||こころ||しずかに|しずかに|じぶん||はたらく|||おこなった 女 の 写真 を 見て どう する のだろう と 思った 。 おんな||しゃしん||みて|||||おもった 早く 死な なければ いけない のだ が と 思った 。 はやく|しな||||||おもった いったい その 女 は だれ だろう と 思った 。 ||おんな|||||おもった …… それ は 倉地 の 妻 の 写真 だった 。 ||くらち||つま||しゃしん| そうだ 倉地 の 妻 の 若い 時 の 写真 だ 。 そう だ|くらち||つま||わかい|じ||しゃしん| なるほど 美しい 女 だ 。 |うつくしい|おんな| 倉地 は 今 でも この 女 に 未練 を 持って いる だろう か 。 くらち||いま|||おんな||みれん||もって||| この 妻 に は 三 人 の かわいい 娘 が ある のだ 。 |つま|||みっ|じん|||むすめ||| 「 今 でも 時々 思い出す 」 そう 倉地 の いった 事 が ある 。 いま||ときどき|おもいだす||くらち|||こと|| こんな 写真 が いったい この 部屋 な ん ぞ に あって は なら ない のだ が 。 |しゃしん||||へや|||||||||| A photo like this shouldn't be in this room. それ は ほんとうに なら ない のだ 。 倉地 は まだ こんな もの を 大事に して いる 。 くらち||||||だいじに|| この 女 は いつまでも 倉地 に 帰って 来よう と 待ち構えて いる のだ 。 |おんな|||くらち||かえって|こよう||まちかまえて|| そして まだ この 女 は 生きて いる のだ 。 |||おんな||いきて|| それ が 幻 な もの か 。 ||まぼろし||| 生きて いる のだ 、 生きて いる のだ 。 いきて|||いきて|| …… 死な れる か 、 それ で 死な れる か 。 しな|||||しな|| 何 が 幻 だ 、 何 が 虚無 だ 。 なん||まぼろし||なん||きょむ| この とおり この 女 は 生きて いる で は ない か …… 危うく …… 危うく 自分 は 倉地 を 安堵 さ せる 所 だった 。 |||おんな||いきて||||||あやうく|あやうく|じぶん||くらち||あんど|||しょ| As you can see, this woman is still alive, isn't it? そして この 女 を …… この まだ 生 の ある この 女 を 喜ば せる ところ だった 。 ||おんな||||せい||||おんな||よろこば||| ・・

葉子 は 一 刹那 の 違い で 死 の 界 から 救い出さ れた 人 の ように 、 驚 喜 に 近い 表情 を 顔 いちめん に みなぎら して 裂ける ほど 目 を 見張って 、 写真 を 持った まま 飛び上がら ん ばかりに 突っ立った が 、 急に 襲いかかる やるせない 嫉妬 の 情 と 憤怒 と に おそろしい 形相 に なって 、 歯が み を し ながら 、 写真 の 一端 を くわえて 、「 い ゝ ……」 と いい ながら 、 総身 の 力 を こめて まっ二 つ に 裂く と 、 いきなり 寝床 の 上 に どう と 倒れて 、 物 すごい 叫び声 を 立て ながら 、 涙 も 流さ ず に 叫び に 叫んだ 。 ようこ||ひと|せつな||ちがい||し||かい||すくいださ||じん|||おどろ|よろこ||ちかい|ひょうじょう||かお|||||さける||め||みはって|しゃしん||もった||とびあがら|||つったった||きゅうに|おそいかかる||しっと||じょう||ふんぬ||||ぎょうそう|||しが|||||しゃしん||いったん||||||||そうみ||ちから|||まっ ふた|||さく|||ねどこ||うえ||||たおれて|ぶつ||さけびごえ||たて||なみだ||ながさ|||さけび||さけんだ Like someone who was rescued from the dead in an instant, Yoko's face was filled with an expression of astonishment, her eyes wide open, and she stood up as if to jump with the photo in her hand. However, he became frightened by the unfavorable feelings of jealousy and rage that suddenly attacked him. When I tore it in two, I suddenly fell on the bed and let out a terrifying scream, screaming without shedding tears. ・・

店 の もの が あわてて 部屋 に は いって 来た 時 に は 、 葉子 は しおらしい 様子 を して 、 短銃 を 床 の 下 に 隠して しまって 、 しくしく と ほんとうに 泣いて いた 。 てん|||||へや||||きた|じ|||ようこ|||ようす|||たんじゅう||とこ||した||かくして|||||ないて| When the shopkeeper rushed into the room, Yoko looked dejected, hid the pistol under the floor, and was really crying. ・・

番頭 は やむ を 得 ず 、 てれ隠し に 、・・ ばんとう||||とく||てれかくし| The clerk had no choice but to cover it up...

「 夢 でも 御覧 に なりました か 、たいそうな お 声 だった もの です から 、 つい 御 案内 も いたさ ず 飛び込んで しまい まして 」・・ ゆめ||ごらん||なり ました||||こえ||||||ご|あんない||||とびこんで|| "Did you see it in a dream? It was a voice that sounded terrible, so I jumped in without even asking for guidance."

と いった 。 葉子 は 、・・ ようこ|

「 え ゝ 夢 を 見ました 。 ||ゆめ||み ました あの 黒い 蛾 が 悪い んです 。 |くろい|が||わるい| 早く 追い出して ください 」・・ はやく|おいだして|

そんな わけ の わから ない 事 を いって 、 ようやく 涙 を 押し ぬぐった 。 |||||こと||||なみだ||おし| ・・

こういう 発作 を 繰り返す たび ごと に 、 葉子 の 顔 は 暗く ばかり なって 行った 。 |ほっさ||くりかえす||||ようこ||かお||くらく|||おこなった Yoko's face grew darker each time she repeated these attacks. 葉子 に は 、 今 まで 自分 が 考えて いた 生活 の ほか に 、 もう 一 つ 不可思議な 世界 が ある ように 思われて 来た 。 ようこ|||いま||じぶん||かんがえて||せいかつ|||||ひと||ふかしぎな|せかい||||おもわ れて|きた Yoko began to think that there was another mysterious world in addition to the life she had thought of until now. そうして やや ともすれば その 両方 の 世界 に 出たり は いったり する 自分 を 見いだす のだった 。 ||||りょうほう||せかい||でたり||||じぶん||みいだす| In doing so, I found myself moving in and out of both worlds. 二 人 の 妹 たち は ただ はらはら して 姉 の 狂暴な 振る舞い を 見守る ほか は なかった 。 ふた|じん||いもうと||||||あね||きょうぼうな|ふるまい||みまもる||| The two sisters could do nothing but watch their sister's violent behavior in anticipation. 倉地 は 愛子 に 刃物 など に 注意 しろ と いったり した 。 くらち||あいこ||はもの|||ちゅうい|||| Kurachi told Aiko to be careful with knives. ・・

岡 の 来た 時 だけ は 、 葉子 の きげん は 沈む ような 事 は あって も 狂暴に なる 事 は 絶えて なかった ので 、 岡 は 妹 たち の 言葉 に さして 重き を 置いて いない ように 見えた 。 おか||きた|じ|||ようこ||||しずむ||こと||||きょうぼうに||こと||たえて|||おか||いもうと|||ことば|||おもき||おいて|||みえた