12.2 或る 女
しばらく して から 葉子 は 力 が 抜けた ように なって 、 ハンカチ で 口 もと を ぬぐい ながら 、 たよりなく あたり を 見回した 。 甲板 の 上 も 波 の 上 の ように 荒涼と して 人気 が なかった 。 明るく 灯 の 光 の もれて いた 眼 窓 は 残ら ず カーテン で おおわれて 暗く なって いた 。 右 に も 左 に も 人 は いない 。 そう 思った 心 の ゆるみ に つけ込んだ の か 、 胸 の 苦しみ は また 急に よせ 返して 来た 。 葉子 は もう 一 度 手 欄 に 乗り出して ほろほろ と 熱い 涙 を こぼした 。 たとえば 高く つるした 大石 を 切って 落とした ように 、 過去 と いう もの が 大きな 一 つ の 暗い 悲しみ と なって 胸 を 打った 。 物心 を 覚えて から 二十五 の 今日 まで 、 張りつめ 通した 心 の 糸 が 、 今 こそ 思い 存分 ゆるんだ か と 思わ れる その 悲しい 快 さ 。 葉子 は その むなしい 哀感 に ひたり ながら 、 重ねた 両手 の 上 に 額 を 乗せて 手 欄 に よりかかった まま 重い 呼吸 を し ながら ほろほろ と 泣き 続けた 。 一 時 性 貧血 を 起こした 額 は 死人 の ように 冷えきって 、 泣き ながら も 葉子 は どうかする と ふっと 引き入れられる ように 、 仮 睡 に 陥ろう と した 。 そうして は はっと 何 か に 驚か さ れた ように 目 を 開く と 、 また 底 の 知れ ぬ 哀感 が どこ から と も なく 襲い 入った 。 悲しい 快 さ 。 葉子 は 小学校 に 通って いる 時分 でも 、 泣きたい 時 に は 、 人前 で は 歯 を くいしばって いて 、 人 の いない 所 まで 行って 隠れて 泣いた 。 涙 を 人 に 見せる と いう の は 卑しい 事 に しか 思え なかった 。 乞食 が 哀れ み を 求めたり 、 老人 が 愚痴 を いう の と 同様に 、 葉子 に は けがらわしく 思えて いた 。 しかし その 夜 に 限って は 、 葉子 は だれ の 前 でも 素直な 心 で 泣ける ような 気 が した 。 だれ か の 前 で さめざめ と 泣いて みたい ような 気分 に さえ なって いた 。 しみじみ と あわれんで くれる 人 も あり そうに 思えた 。 そうした 気持ち で 葉子 は 小 娘 の ように たわ い も なく 泣き つづけて いた 。 ・・
その 時 甲板 の かなた から 靴 の 音 が 聞こえて 来た 。 二 人 らしい 足音 だった 。 その 瞬間 まで は だれ の 胸 に でも 抱きついて しみじみ 泣ける と 思って いた 葉子 は 、 その 音 を 聞きつける と はっと いう まもなく 、 張りつめた いつも の ような 心 に なって しまって 、 大急ぎで 涙 を 押し ぬぐい ながら 、 踵 を 返して 自分 の 部屋 に 戻ろう と した 。 が 、 その 時 は もう おそかった 。 洋服 姿 の 田川 夫妻 が はっきり と 見分け が つく ほど の 距離 に 進み よって いた ので 、 さすが に 葉子 も それ を 見て 見 ぬ ふりで やり過ごす 事 は 得し なかった 。 涙 を ぬぐい きる と 、 左手 を あげて 髪 の ほつれ を しな を し ながら かき上げた 時 、 二 人 は もう すぐ そば に 近寄って いた 。 ・・
「 あら あなた でした の 。 わたし ども は 少し 用事 が できて おくれました が 、 こんなに おそく まで 室 外 に いら しって お 寒く は ありません でした か 。 気分 は いかがです 」・・
田川 夫人 は 例の 目下 の 者 に いい 慣れた 言葉 を 器用に 使い ながら 、 はっきり と こう いって のぞき込む ように した 。 夫妻 は すぐ 葉子 が 何 を して いた か を 感づいた らしい 。 葉子 は それ を ひどく 不快に 思った 。 ・・
「 急に 寒い 所 に 出ました せい です かしら 、 なんだか 頭 が ぐらぐら いたし まして 」・・ 「 お 嘔 し なさった …… それ は いけない 」・・ 田川 博士 は 夫人 の 言葉 を 聞く と もっとも と いう ふうに 、 二三 度 こっく り と うなずいた 。 厚 外套 に くるまった 肥った 博士 と 、 暖か そうな スコッチ の 裾 長 の 服 に 、 ロシア 帽 を 眉 ぎ わ まで かぶった 夫人 と の 前 に 立つ と 、 や さ 形 の 葉子 は 背たけ こそ 高い が 、 二 人 の 娘 ほど に ながめられた 。 ・・
「 どう だ 一緒に 少し 歩いて みちゃ 」・・
と 田川 博士 が いう と 、 夫人 は 、・・
「 よう ございましょう よ 、 血液 が よく 循環 して 」 と 応じて 葉子 に 散歩 を 促した 。 葉子 は やむ を 得 ず 、 かつ かつ と 鳴る 二 人 の 靴 の 音 と 、 自分 の 上 草履 の 音 と を さびしく 聞き ながら 、 夫人 の そば に ひき 添って 甲板 の 上 を 歩き 始めた 。 ギーイ と きしみ ながら 船 が 大きく かし ぐ の に うまく 中心 を 取り ながら 歩こう と する と 、 また 不快な 気持ち が 胸 先 に こみ上げて 来る の を 葉子 は 強く 押し 静めて 事もなげに 振る舞おう と した 。 ・・
博士 は 夫人 と の 会話 の 途 切れ目 を 捕えて は 、 話 を 葉子 に 向けて 慰め 顔 に あしらおう と した が 、 いつでも 夫人 が 葉子 の す べき 返事 を ひったくって 物 を いう ので 、 せっかく の 話 は 腰 を 折ら れた 。 葉子 は しかし 結 句 それ を いい 事 に して 、 自分 の 思い に ふけ り ながら 二 人 に 続いた 。 しばらく 歩き なれて みる と 、 運動 が できた ため か 、 だんだん 嘔 き 気 は 感ぜ ぬ ように なった 。 田川 夫妻 は 自然に 葉子 を 会話 から のけもの に して 、 二 人 の 間 で 四方 山 の うわさ 話 を 取りかわし 始めた 。 不思議な ほど に 緊張 した 葉子 の 心 は 、 それ ら の 世間話 に は いささか の 興味 も 持ち 得 ないで 、 むしろ その 無意味に 近い 言葉 の 数々 を 、 自分 の 瞑想 を 妨げる 騒音 の ように うるさく 思って いた 。 と 、 ふと 田川 夫人 が 事務 長 と 言った の を 小 耳 に はさんで 、 思わず 針 でも 踏みつけた ように ぎょっと して 、 黙想 から 取って返して 聞き 耳 を 立てた 。 自分 でも 驚く ほど 神経 が 騒ぎ 立つ の を どう する 事 も でき なかった 。 ・・
「 ずいぶん したたか 者 らしゅう ございます わ ね 」・・
そう 夫人 の いう 声 が した 。 ・・
「 そう らしい ね 」・・
博士 の 声 に は 笑い が まじって いた 。 ・・
「 賭博 が 大 の 上手で すって 」・・
「 そう か ねえ 」・・
事務 長 の 話 は それ ぎり で 絶えて しまった 。 葉子 は なんとなく 物 足ら なく なって 、 また 何 か いい出す だろう と 心待ち に して いた が 、 その先 を 続ける 様子 が ない ので 、 心残り を 覚え ながら 、 また 自分 の 心 に 帰って 行った 。 ・・
しばらく する と 夫人 が また 事務 長 の うわさ を し 始めた 。 ・・
「 事務 長 の そば に すわって 食事 を する の は どうも いやで なりません の 」・・ 「 そん なら 早月 さん に 席 を 代わって もらったら いい でしょう 」・・ 葉子 は 闇 の 中 で 鋭く 目 を かがやかし ながら 夫人 の 様子 を うかがった 。 ・・
「 でも 夫婦 が テーブル に なら ぶって 法 は ありません わ …… ねえ 早月 さん 」・・ こう 戯談 らしく 夫人 は いって 、 ちょっと 葉子 の ほう を 振り向いて 笑った が 、 べつに その 返事 を 待つ と いう でも なく 、 始めて 葉子 の 存在 に 気づき でも した ように 、 いろいろ と 身の上 など を 探り を 入れる らしく 聞き 始めた 。 田川 博士 も 時々 親切 らしい 言葉 を 添えた 。 葉子 は 始め の うち こそ つつましやかに 事実 に さほど 遠く ない 返事 を して いた もの の 、 話 が だんだん 深入り して 行く に つれて 、 田川 夫人 と いう 人 は 上流 の 貴夫 人 だ と 自分 でも 思って いる らしい に 似合わ ない 思いやり の ない 人 だ と 思い出した 。 それ は あり 内 の 質問 だった かも しれ ない 。 けれども 葉子 に は そう 思えた 。 縁 も ゆかり も ない 人 の 前 で 思う まま な 侮辱 を 加えられる と むっと せ ず に は いられ なかった 。 知った 所 が なんにも なら ない 話 を 、 木村 の 事 まで 根 はり 葉 はり 問いただして いったい どう しよう と いう 気 な のだろう 。 老人 で も ある ならば 、 過ぎ去った 昔 を 他人 に くどくど と 話して 聞か せて 、 せめて 慰 む と いう 事 も あろう 。 「 老人 に は 過去 を 、 若い 人 に は 未来 を 」 と いう 交際 術 の 初歩 すら 心得 ない が さつ な 人 だ 。 自分 で すら そっと 手 も つけ ないで 済ませたい 血なまぐさい 身の上 を …… 自分 は 老人 で は ない 。 葉子 は 田川 夫人 が 意地 に かかって こんな 悪戯 を する のだ と 思う と 激しい 敵意 から 口 び る を かんだ 。 ・・
しかし その 時 田川 博士 が 、 サルン から もれて 来る 灯 の 光 で 時計 を 見て 、 八 時 十 分 前 だ から 部屋 に 帰ろう と いい出した ので 、 葉子 は べつに 何も いわ ず に しまった 。 三 人 が 階子 段 を 降り かけた 時 、 夫人 は 、 葉子 の 気分 に は いっこう 気づか ぬ らしく 、―― もし そう で なければ 気づき ながら わざと 気づか ぬ らしく 振る舞って 、・・
「 事務 長 は あなた の お 部屋 に も 遊び に 見えます か 」・・ と 突 拍子 も なく いきなり 問いかけた 。 それ を 聞く と 葉子 の 心 は 何という 事 なし に 理不尽な 怒り に 捕えられた 。 得意な 皮肉で も 思い 存分に 浴びせ かけて や ろうか と 思った が 、 胸 を さすり おろして わざと 落ち付いた 調子 で 、・・
「 い ゝ え ちっとも お 見え に なりません が ……」・・ と 空々しく 聞こえる ように 答えた 。 夫人 は まだ 葉子 の 心持ち に は 少しも 気づか ぬ ふうで 、・・
「 おや そう 。 わたし の ほう へ は たびたび いら して 困ります の よ 」・・ と 小声 で ささやいた 。 「 何 を 生意気な 」 葉子 は 前後 なし に こう 心 の うち に 叫んだ が 一言 も 口 に は 出さ なかった 。 敵意 ―― 嫉妬 と も いい 代えられ そうな ―― 敵意 が その 瞬間 から すっかり 根 を 張った 。 その 時 夫人 が 振り返って 葉子 の 顔 を 見た ならば 、 思わず 博士 を 楯 に 取って 恐れ ながら 身 を かわさ ず に は いられ なかったろう 、―― そんな 場合 に は 葉子 は もとより その 瞬間 に 稲妻 の ように すばしこく 隔意 の ない 顔 を 見せた に は 違いなかろう けれども 。 葉子 は 一言 も いわ ず に 黙礼 した まま 二 人 に 別れて 部屋 に 帰った 。 ・・
室 内 は むっと する ほど 暑かった 。 葉子 は 嘔 き 気 は もう 感じて は い なかった が 、 胸 もと が 妙に しめつけられる ように 苦しい ので 、 急いで ボア を かい やって 床 の 上 に 捨てた まま 、 投げる ように 長 椅子 に 倒れかかった 。 ・・
それ は 不思議だった 。 葉子 の 神経 は 時 に は 自分 でも 持て余す ほど 鋭く 働いて 、 だれ も 気 の つか ない に おい が たまらない ほど 気 に なったり 、 人 の 着て いる 着物 の 色合い が 見て いられ ない ほど 不調和 で 不愉快であったり 、 周囲 の 人 が 腑抜 け な 木 偶の ように 甲斐 なく 思わ れたり 、 静かに 空 を 渡って 行く 雲 の 脚 が 瞑 眩 が する ほど めまぐるしく 見えたり して 、 我慢 に も じっと して いられ ない 事 は 絶えず あった けれども 、 その 夜 の ように 鋭く 神経 の とがって 来た 事 は 覚え が なかった 。 神経 の 末梢 が 、 まるで 大 風 に あった こずえ の ように ざ わざ わ と 音 が する か と さえ 思わ れた 。 葉子 は 足 と 足 と を ぎゅっと から み合わせて それ に 力 を こめ ながら 、 右手 の 指先 を 四 本 そろえて その 爪先 を 、 水晶 の ように 固い 美しい 歯 で 一思いに 激しく かんで 見たり した 。 悪寒 の ような 小刻みな 身ぶるい が 絶えず 足 の ほう から 頭 へ と 波動 の ように 伝わった 。 寒い ため に そう なる の か 、 暑い ため に そう なる の か よく わから なかった 。 そうして いらいら し ながら トランク を 開いた まま で 取り 散らした 部屋 の 中 を ぼんやり 見 やって いた 。 目 は うるさく かすんで いた 。 ふと 落ち 散った もの の 中 に 葉子 は 事務 長 の 名刺 が ある のに 目 を つけて 、 身 を かがめて それ を 拾い上げた 。 それ を 拾い上げる と ま 二 つ に 引き裂いて また 床 に なげた 。 それ は あまりに 手 答え なく 裂けて しまった 。 葉子 は また 何 か もっと うんと 手 答え の ある もの を 尋ねる ように 熱して 輝く 目 で まじまじ と あたり を 見回して いた 。 と 、 カーテン を 引き 忘れて いた 。 恥ずかしい 様子 を 見られ は し なかった か と 思う と 胸 が ど きん と して いきなり 立ち上がろう と した 拍子 に 、 葉子 は 窓 の 外 に 人 の 顔 を 認めた ように 思った 。 田川 博士 の ようで も あった 。 田川 夫人 の ようで も あった 。 しかし そんな はず は ない 、 二 人 は もう 部屋 に 帰って いる 。 事務 長 ……・・
葉子 は 思わず 裸体 を 見られた 女 の ように 固く なって 立ちすくんだ 。 激しい おののき が 襲って 来た 。 そして 何の 思慮 も なく 床 の 上 の ボア を 取って 胸 に あてがった が 、 次の 瞬間 に は トランク の 中 から ショール を 取り出して ボア と 一緒に それ を かかえて 、 逃げる 人 の ように 、 あたふた と 部屋 を 出た 。 ・・
船 の ゆらぐ ごと に 木 と 木 と の すれ あう 不快な 音 は 、 おおかた 船客 の 寝しずまった 夜 の 寂 寞 の 中 に きわ立って 響いた 。 自動 平衡 器 の 中 に ともさ れた 蝋燭 は 壁板 に 奇怪な 角度 を 取って 、 ゆるぎ も せ ず に ぼんやり と 光って いた 。 ・・
戸 を あけて 甲板 に 出る と 、 甲板 の あなた は さっき の まま の 波 また 波 の 堆積 だった 。 大 煙 筒 から 吐き出さ れる 煤煙 は まっ黒い 天の川 の ように 無 月 の 空 を 立ち 割って 水 に 近く 斜めに 流れて いた 。