10.2 或る 女
船員 は 大きな は ばかり の ない 声 で 、・・
「 おい 十二 番 は すっかり 掃除 が できたろう ね 」・・
と いう と 、 医務 室 の 中 から は 女 の ような 声 で 、・・
「 さして おきました よ 。 きれいに なって る はずです が 、 御覧 な すって ください 。 わたし は 今 ちょっと 」・・
と 船 医 は 姿 を 見せ ず に 答えた 。 ・・
「 こりゃ いったい 船 医 の 私 室 な んです が 、 あなた の ため に お 明け 申すって いって くれた もん です から 、 ボーイ に 掃除 する ように いいつけて おきました んです 。 ど 、 きれいに なっと る か しら ん 」・・
船員 は そう つぶやき ながら 戸 を あけて 一 わたり 中 を 見回した 。 ・・
「 む ゝ 、 いい ようです 」・・
そして 道 を 開いて 、 衣 嚢 から 「 日本 郵船 会社 絵 島 丸 事務 長 勲 六 等 倉地 三吉 」 と 書いた 大きな 名刺 を 出して 葉子 に 渡し ながら 、・・
「 わたし が 事務 長 を し とります 。 御用 が あったら なんでも どう か 」・・
葉子 は また 黙った まま うなずいて その 大きな 名刺 を 手 に 受けた 。 そして 自分 の 部屋 と きめられた その 部屋 の 高い 閾 を 越えよう と する と 、・・
「 事務 長 さん は そこ でした か 」・・
と 尋ね ながら 田川 博士 が その 夫人 と 打ち 連れて 廊下 の 中 に 立ち 現われた 。 事務 長 が 帽子 を 取って 挨拶 しよう と して いる 間 に 、 洋装 の 田川 夫人 は 葉子 を 目ざして 、 スカーツ の 絹 ずれ の 音 を 立て ながら つかつか と 寄って 来て 眼鏡 の 奥 から 小さく 光る 目 で じ ろ り と 見 やり ながら 、・・
「 五十川 さん が うわさ して い らしった 方 は あなた ね 。 なんとか おっしゃいました ね お 名 は 」・・
と いった 。 この 「 なんとか おっしゃいました ね 」 と いう 言葉 が 、 名 も ない もの を あわれんで 見て やる と いう 腹 を 充分に 見せて いた 。 今 まで 事務 長 の 前 で 、 珍しく 受け身に なって いた 葉子 は 、 この 言葉 を 聞く と 、 強い 衝動 を 受けた ように なって われ に 返った 。 どういう 態度 で 返事 を して や ろうか と いう 事 が 、 いちばん に 頭 の 中 で 二十 日 鼠 の ように はげしく 働いた が 、 葉子 は すぐ 腹 を 決めて ひどく 下手に 尋常に 出た 。 「 あ 」 と 驚いた ような 言葉 を 投げて おいて 、 丁寧に 低く つむり を 下げ ながら 、・・
「 こんな 所 まで …… 恐れ入ります 。 わたし 早月 葉 と 申します が 、 旅 に は 不慣れで おります のに ひと り 旅 で ございます から ……」・・
と いって ひとみ を 稲妻 の ように 田川 に 移して 、・・
「 御 迷惑 で はこ ざいましょう が 何分 よろしく 願います 」・・
と また つむり を 下げた 。 田川 は その 言葉 の 終わる の を 待ち兼ねた ように 引き取って 、・・
「 何 不慣れ は わたし の 妻 も 同様です よ 。 何しろ この 船 の 中 に は 女 は 二 人 ぎり だ から お互い です 」・・
と あまり なめらかに いって のけた ので 、 妻 の 前 で も はばかる ように 今度 は 態度 を 改め ながら 事務 長 に 向かって 、・・
「 チャイニース ・ ステアレージ に は 何 人 ほど います か 日本 の 女 は 」・・ と 問いかけた 。 事務 長 は 例の 塩 から 声 で ・・
「 さあ 、 まだ 帳簿 も ろくろく 整理 して 見ません から 、 しっかり と は わかり 兼ねます が 、 何しろ このごろ は だいぶ ふえました 。 三四十 人 も います か 。 奥さん ここ が 医務 室 です 。 何しろ 九 月 と いえば 旧 の 二八 月 の 八 月 です から 、 太平洋 の ほう は 暴 ける 事 も あります んだ 。 たまに は ここ に も 御用 が できます ぞ 。 ちょっと 船 医 も 御 紹介 して おきます で 」・・
「 まあ そんなに 荒れます か 」・・
と 田川 夫人 は 実際 恐れた らしく 、 葉子 を 顧み ながら 少し 色 を かえた 。 事務 長 は 事もなげに 、・・
「 暴けます んだ ずいぶん 」・・
と 今度 は 葉子 の ほう を まともに 見 やって ほほえみ ながら 、 おりから 部屋 を 出て 来た 興 録 と いう 船 医 を 三 人 に 引き合わせた 。 ・・
田川 夫妻 を 見送って から 葉子 は 自分 の 部屋 に はいった 。 さら ぬ だに どこ か じめじめ する ような 船室 に は 、 きょう の 雨 の ため に 蒸す ような 空気 が こもって いて 、 汽船 特有な 西洋 臭い に おい が ことに 強く 鼻 に ついた 。 帯 の 下 に なった 葉子 の 胸 から 背 に かけた あたり は 汗 が じん わり にじみ出た らしく 、 むし むし する ような 不愉快 を 感ずる ので 、 狭苦しい 寝 台 を 取りつけたり 、 洗面 台 を 据えたり して ある その 間 に 、 窮屈に 積み重ねられた 小 荷物 を 見回し ながら 、 帯 を 解き 始めた 。 化粧 鏡 の 付いた 箪笥 の 上 に は 、 果物 の かご が 一 つ と 花束 が 二 つ 載せて あった 。 葉子 は 襟 前 を くつろげ ながら 、 だれ から よこした もの か と その 花束 の 一 つ を 取り上げる と 、 その そばから 厚い 紙切れ の ような もの が 出て 来た 。 手 に 取って 見る と 、 それ は 手 札 形 の 写真 だった 。 まだ 女学校 に 通って いる らしい 、 髪 を 束 髪 に した 娘 の 半身 像 で 、 その 裏 に は 「 興 録 さま 。 取り残さ れ たる 千 代 より 」 と して あった 。 そんな もの を 興 録 が しまい 忘れる はず が ない 。 わざと 忘れた ふうに 見せて 、 葉子 の 心 に 好奇心 なり 軽い 嫉妬 なり を あおり 立てよう と する 、 あまり 手 もと の 見えすいた からくり だ と 思う と 、 葉子 は さげすんだ 心持ち で 、 犬 に でも する ように ぽい と それ を 床 の 上 に ほうりなげた 。 一 人 の 旅 の 婦人 に 対して 船 の 中 の 男 の 心 が どういうふうに 動いて いる か を その 写真 一 枚 が 語り 貌 だった 、 葉子 は なんという 事 なし に 小さな 皮肉な 笑い を 口 び る の 所 に 浮かべて いた 。 ・・
寝 台 の 下 に 押し込んで ある 平べったい トランク を 引き出して 、 その 中 から 浴衣 を 取り出して いる と 、 ノック も せ ず に 突然 戸 を あけた もの が あった 。 葉子 は 思わず 羞恥 から 顔 を 赤らめて 、 引き出した 派手な 浴衣 を 楯 に 、 しだ ら なく 脱ぎ かけた 長 襦袢 の 姿 を かくまい ながら 立ち上がって 振り返って 見る と 、 それ は 船 医 だった 。 はなやかな 下着 を 浴衣 の 所々 から のぞかせて 、 帯 も なく ほっそり と 途方 に 暮れた ように 身 を 斜 に して 立った 葉子 の 姿 は 、 男 の 目 に は ほしいままな 刺激 だった 。 懇意 ずく らしく 戸 も たたか なかった 興 録 も さすが に どぎまぎ して 、 は いろう に も 出よう に も 所在 に 窮して 、 閾 に 片足 を 踏み入れた まま 当惑 そうに 立って いた 。 ・・
「 飛んだ ふう を して い まして 御免 ください まし 。 さ 、 お はいり 遊ば せ 。 なん ぞ 御用 でも いらっしゃいました の 」・・
と 葉子 は 笑い かまけた ように いった 。 興 録 は いよいよ 度 を 失い ながら 、・・
「 い ゝ え 何 、 今 で なくって も いい のです が 、 元 の お 部屋 の お 枕 の 下 に この 手紙 が 残って いました の を 、 ボーイ が 届けて 来ました んで 、 早く さし上げて おこう と 思って 実は 何 した ん でした が ……」・・
と いい ながら 衣 嚢 から 二 通 の 手紙 を 取り出した 。 手早く 受け取って 見る と 、 一 つ は 古藤 が 木村 に あてた もの 、 一 つ は 葉子 に あてた もの だった 。 興 録 は それ を 手渡す と 、 一種 の 意味 あり げ な 笑い を 目 だけ に 浮かべて 、 顔 だけ は いかにも もっともらしく 葉子 を 見 やって いた 。 自分 の した 事 を 葉子 も した と 興 録 は 思って いる に 違いない 。 葉子 は そう 推量 する と 、 か の 娘 の 写真 を 床 の 上 から 拾い上げた 。 そして わざと 裏 を 向け ながら 見向き も し ないで 、・・
「 こんな もの が ここ に も 落ちて おりました の 。 お 妹 さん で いらっしゃいます か 。 お きれいです こと 」・・
と いい ながら それ を つき出した 。 ・・
興 録 は 何 か いい わけ の ような 事 を いって 部屋 を 出て 行った 。 と 思う と しばらく して 医務 室 の ほう から 事務 長 の らしい 大きな 笑い声 が 聞こえて 来た 。 それ を 聞く と 、 事務 長 は まだ そこ に いた か と 、 葉子 は われ に も なく はっと なって 、 思わず 着 かえ かけた 着物 の 衣 紋 に 左手 を かけた まま 、 うつむき かげん に なって 横目 を つかい ながら 耳 を そばだてた 。 破裂 する ような 事務 長 の 笑い声 が また 聞こえて 来た 。 そして 医務 室 の 戸 を さっと あけた らしく 、 声 が 急に 一 倍 大きく なって 、・・
「 Devil take it ! No tame creature then , eh ?」 と 乱暴に いう 声 が 聞こえた が 、 それ と ともに マッチ を する 音 が して 、 やがて 葉巻 を くわえた まま の 口ごもり の する 言葉 で 、・・
「 もう じき 検疫 船 だ 。 準備 は いい だろう な 」・・
と いい残した まま 事務 長 は 船 医 の 返事 も 待た ず に 行って しまった らしかった 。 かすかな に おい が 葉子 の 部屋 に も 通って 来た 。 ・・
葉子 は 聞き 耳 を たて ながら うなだれて いた 顔 を 上げる と 、 正面 を きって 何という 事 なし に 微笑 を もらした 。 そして すぐ ぎょっと して あたり を 見回した が 、 われ に 返って 自分 一 人きり な のに 安堵 して 、 いそいそ と 着物 を 着 かえ 始めた 。