「三 」 二百十 日 夏目 漱石
「 姉さん 、 この 人 は 肥って る だろう 」 「 だいぶ ん 肥えて い な はります 」 「 肥えて るって 、 おれ は 、 これ で 豆腐 屋 だ もの 」 「 ホホホ 」 「 豆腐 屋 じゃ おかしい かい 」 「 豆腐 屋 の 癖 に 西郷 隆盛 の ような 顔 を して いる から おかしい んだ よ 。 時に こう 、 精進 料理 じゃ 、 あした 、 御 山 へ 登れ そう も ない な 」 「 また 御馳走 を 食い た がる 」 「 食い た がるって 、 これ じゃ 営 養 不良に なる ばかりだ 」 「 なに これほど 御馳走 が あれば たくさんだ 。 ―― 湯 葉 に 、 椎茸 に 、 芋 に 、 豆腐 、 いろいろ ある じゃ ない か 」 「 いろいろ ある 事 は ある が ね 。
ある 事 は 君 の 商売 道具 まで ある んだ が ―― 困った な 。
昨日 は 饂飩 ばかり 食わせられる 。 きょう は 湯 葉 に 椎茸 ばかり か 。
ああ ああ 」 「 君 この 芋 を 食って 見た まえ 。
掘り たて で すこぶる 美味だ 」 「 すこぶる 剛 健 な 味 が しや し ない か ―― おい 姉さん 、 肴 は 何も ない の かい 」 「 あいにく 何も ござ り まっせ ん 」 「 ござ り まっせん は 弱った な 。 じゃ 玉子 が ある だろう 」 「 玉子 なら ござ り まっす 」 「 その 玉子 を 半熟 に して 来て くれ 」 「 何 に 致します 」 「 半熟 に する んだ 」 「 煮て 参じます か 」 「 まあ 煮る んだ が 、 半分 煮る んだ 。 半熟 を 知ら ない か 」 「 いいえ 」 「 知ら ない ?
」 「 知り まっせ ん 」 「 どうも 辟易 だ な 」 「 何で ござ り まっす 」 「 何でも いい から 、 玉子 を 持って 御 出 。 それ から 、 おい 、 ちょっと 待った 。
君 ビール を 飲む か 」 「 飲んで も いい 」 と 圭 さん は 泰 然 たる 返事 を した 。
「 飲んで も いい か 、 それ じゃ 飲ま なくって も いい んだ 。 ―― よす か ね 」 「 よさ なくって も 好 い 。 ともかくも 少し 飲もう 」 「 ともかくも か 、 ハハハ 。
君 ほど 、 ともかくも の 好きな 男 は ない ね 。
それ で 、 あした に なる と 、 ともかくも 饂飩 を 食おう と 云 うんだろう 。
―― 姉さん 、 ビール も ついでに 持ってくる んだ 。
玉子 と ビール だ 。
分ったろう ね 」 「 ビール は ござ り まっせ ん 」 「 ビール が ない ? ―― 君 ビール は ない と さ 。
何だか 日本 の 領地 で ない ような 気 が する 。
情 ない 所 だ 」 「 なければ 、 飲ま なくって も 、 いい さ 」 と 圭 さん は また 泰 然 たる 挨拶 を する 。 「 ビール は ござ りません ばって ん 、 恵比寿 なら ござ ります 」 「 ハハハハ いよいよ 妙に なって 来た 。 おい 君 ビール で ない 恵比寿 が あるって 云 うんだ が 、 その 恵比寿 でも 飲んで 見る か ね 」 「 うん 、 飲んで も いい 。 ―― その 恵比寿 は やっぱり 罎 に 這 入って る んだろう ね 、 姉さん 」 と 圭 さん は この 時 ようやく 下 女 に 話しかけた 。
「 ねえ 」 と 下 女 は 肥後 訛り の 返事 を する 。
「 じゃ 、 ともかくも その 栓 を 抜いて ね 。
罎 ごと 、 ここ へ 持って おいで 」 「 ねえ 」 下 女 は 心得 貌 に 起って 行く 。
幅 の 狭い 唐 縮緬 を ちょき り 結び に 御 臀 の 上 へ 乗せて 、 絣 の 筒 袖 を つ ん つる てん に 着て いる 。
髪 だけ は 一種 異様 の 束 髪 に 、 だいぶ 碌 さん と 圭 さん の 胆 を 寒 から しめた ようだ 。
「 あの 下 女 は 異彩 を 放って る ね 」 と 碌 さん が 云 う と 、 圭 さん は 平気な 顔 を して 、 「 そう さ 」 と 何の 苦 も なく 答えた が 、 「 単純で いい 女 だ 」 と あと へ 、 持って 来て 、 木 に 竹 を 接いだ ように つけた 。
「 剛 健 な 趣味 が ありゃ し ない か 」 「 うん 。
実際 田舎 者 の 精神 に 、 文明 の 教育 を 施す と 、 立派な 人物 が 出来る んだ が な 。
惜しい 事 だ 」 「 そんなに 惜しけりゃ 、 あれ を 東京 へ 連れて 行って 、 仕込んで 見る が いい 」 「 うん 、 それ も 好 かろう 。
しかし それ より 前 に 文明 の 皮 を 剥か なくっちゃ 、 いけない 」 「 皮 が 厚い から なかなか 骨 が 折れる だろう 」 と 碌 さん は 水 瓜 の ような 事 を 云 う 。
「 折れて も 何でも 剥く の さ 。
奇麗な 顔 を して 、 下 卑 た 事 ばかり やって る 。
それ も 金 が ない 奴 だ と 、 自分 だけ で 済む のだ が 、 身分 が いい と 困る 。
下 卑 た 根性 を 社会 全体 に 蔓延 さ せる から ね 。
大変な 害毒 だ 。
しかも 身分 が よかったり 、 金 が あったり する もの に 、 よく こう 云 う 性根 の 悪い 奴 が ある もの だ 」 「 しかも 、 そんな の に 限って 皮 が いよいよ 厚い んだろう 」 「 体裁 だけ は すこぶる 美 事 な もの さ 。
しかし 内心 は あの 下 女 より よっぽど すれて いる んだ から 、 いやに なって しまう 」 「 そう か ね 。
じゃ 、 僕 も これ から 、 ちと 剛 健 党 の 御 仲間 入り を やろう か な 」 「 無論 の 事 さ 。
だから まず 第 一 着 に あした 六 時 に 起きて ……」 「 御 昼 に 饂飩 を 食って か 」 「 阿蘇 の 噴火 口 を 観て ……」 「 癇癪 を 起して 飛び込ま ない ように 要 心 を して か 」 「 もっとも 崇高なる 天地 間 の 活力 現象 に 対して 、 雄大 の 気象 を 養って 、 齷齪 たる 塵 事 を 超越 する んだ 」 「 あんまり 超越 し 過ぎる と あと で 世の中 が 、 いやに なって 、 かえって 困る ぜ 。
だから そこ の ところ は 好 加減 に 超越 して 置く 事 に し ようじゃ ない か 。
僕 の 足 じゃ とうてい そう えらく 超越 出来 そう も ない よ 」 「 弱い 男 だ 」 筒 袖 の 下 女 が 、 盆 の 上 へ 、 麦酒 ( ビール ) を 一 本 、 洋 盃 ( コップ ) を 二 つ 、 玉子 を 四 個 、 並べ つくして 持ってくる 。
「 そら 恵比寿 が 来た 。
この 恵比寿 が ビール で ない んだ から 面白い 。
さあ 一 杯 飲む かい 」 と 碌 さん が 相手 に 洋 盃 を 渡す 。
「 うん 、 ついでに その 玉子 を 二 つ 貰おう か 」 と 圭 さん が 云 う 。
「 だって 玉子 は 僕 が 誂 ら えた んだ ぜ 」 「 しかし 四 つ と も 食う 気 かい 」 「 あした の 饂飩 が 気 に なる から 、 この うち 二 個 は 携帯 して 行こう と 思う んだ 」 「 うん 、 そん なら 、 よ そう 」 と 圭 さん は すぐ 断念 する 。
「 よす と なる と 気の毒だ から 、 まあ 上げよう 。
本来 なら 剛 健 党 が 玉子 な ん ぞ を 食う の は 、 ちと 贅沢 の 沙汰 だ が 、 可哀想で も ある から 、―― さあ 食う が いい 。
―― 姉さん 、 この 恵比寿 は どこ で できる んだ ね 」 「 おおかた 熊本 で ござ り まっしょ 」 「 ふん 、 熊本 製 の 恵比寿 か 、 なかなか 旨 いや 。 君 どう だ 、 熊本 製 の 恵比寿 は 」 「 うん 。
やっぱり 東京 製 と 同じ ようだ 。
―― おい 、 姉さん 、 恵比寿 は いい が 、 この 玉子 は 生 だ ぜ 」 と 玉子 を 割った 圭 さん は ちょっと 眉 を ひそめた 。
「 ねえ 」 「 生 だ と 云 う のに 」 「 ねえ 」 「 何だか 要領 を 得 ない な 。
君 、 半熟 を 命じた んじゃ ない か 。
君 の も 生か 」 と 圭 さん は 下 女 を 捨てて 、 碌 さん に 向って くる 。 「 半熟 を 命じて 不 熟 を 得たり か 。
僕 の を 一 つ 割って 見よう 。
―― おや これ は 駄目だ ……」 「 うで 玉子 か 」 と 圭 さん は 首 を 延 して 相手 の 膳 の 上 を 見る 。
「 全 熟 だ 。
こっち の は どう だ 。
―― うん 、 これ も 全 熟 だ 。
―― 姉さん 、 これ は 、 うで 玉子 じゃ ない か 」 と 今度 は 碌 さん が 下 女 に むかう 。
「 ねえ 」 「 そう な の か 」 「 ねえ 」 「 なんだか 言葉 の 通じ ない 国 へ 来た ようだ な 。
―― 向 う の 御 客 さん の が 生玉 子 で 、 おれ の は 、 うで 玉子 な の かい 」 「 ねえ 」 「 なぜ 、 そんな 事 を した のだ い 」 「 半分 煮て 参じました 」 「 な ある ほど 。 こりゃ 、 よく 出来 てら あ 。
ハハハハ 、 君 、 半熟 の いわれ が 分った か 」 と 碌 さん 横手 を 打つ 。 「 ハハハハ 単純な もの だ 」 「 まるで 落し 噺 し 見た ようだ 」 「 間違いました か 。 そちら の も 煮て 参じます か 」 「 なに これ で いい よ 。 ―― 姉さん 、 ここ から 、 阿蘇 まで 何 里 ある かい 」 と 圭 さん が 玉子 に 関係 の ない 方面 へ 出て 来た 。
「 ここ が 阿蘇 で ござ り まっす 」 「 ここ が 阿蘇 なら 、 あした 六 時 に 起きる が もの は ない 。 もう 二三 日 逗留 して 、 すぐ 熊本 へ 引き返そう じゃ ない か 」 と 碌 さん が すぐ 云 う 。
「 どうぞ 、 いつまでも 御 逗留 なさい まっせ 」 「 せっかく 、 姉さん も 、 ああ 云って 勧める もの だ から 、 どう だろう 、 いっそ 、 そう したら 」 と 碌 さん が 圭 さん の 方 を 向く 。 圭 さん は 相手 に し ない 。
「 ここ も 阿蘇 だって 、 阿蘇 郡 なんだろう 」 と やはり 下 女 を 追 窮して いる 。
「 ねえ 」 「 じゃ 阿蘇 の 御 宮 まで は どの くらい ある かい 」 「 御 宮 まで は 三 里 で ござ り まっす 」 「 山 の 上 まで は 」 「 御 宮 から 二 里 で ござ りますたい 」 「 山 の 上 は えらい だろう ね 」 と 碌 さん が 突然 飛び出して くる 。 「 ねえ 」 「 御前 登った 事 が ある かい 」 「 いいえ 」 「 じゃ 知ら ない んだ ね 」 「 いいえ 、 知り まっせ ん 」 「 知ら なけりゃ 、 しようがない 。 せっかく 話 を 聞こう と 思った のに 」 「 御 山 へ 御 登り なさいます か 」 「 うん 、 早く 登り たくって 、 仕方 が ない んだ 」 と 圭 さん が 云 う と 、 「 僕 は 登り たく なくって 、 仕方 が ない んだ 」 と 碌 さん が 打ち 壊 わした 。 「 ホホホ それ じゃ 、 あなた だけ 、 ここ へ 御 逗留 なさい まっせ 」 「 うん 、 ここ で 寝転んで 、 あの ごうご う 云 う 音 を 聞いて いる 方 が 楽な ようだ 。 ごうご う と 云 や あ 、 さっき より 、 だいぶ 烈 しく なった ようだ ぜ 、 君 」 「 そう さ 、 だいぶ 、 強く なった 。
夜 の せい だろう 」 「 御 山 が 少し 荒れて おりますたい 」 「 荒れる と 烈 しく 鳴る の か ね 」 「 ねえ 。 そうして よ な が たくさんに 降って 参りますたい 」 「 よ なた 何 だい 」 「 灰 で ござ り まっす 」 下 女 は 障子 を あけて 、 椽側 へ 人 指し ゆび を 擦りつけ ながら 、 「 御覧 なさり まっせ 」 と 黒い 指先 を 出す 。 「 なるほど 、 始終 降って る んだ 。
きのう は 、 こんな じゃ なかった ね 」 と 圭 さん が 感心 する 。
「 ねえ 。
少し 御 山 が 荒れて おりますたい 」 「 おい 君 、 いくら 荒れて も 登る 気 か ね 。 荒れ模様 なら 少々 延ばそう じゃ ない か 」 「 荒れれば なお 愉快だ 。
滅多に 荒れた ところ な ん ぞ が 見られる もの じゃ ない 。 荒れる 時 と 、 荒れ ない 時 は 火 の 出 具合 が 大変 違う んだ そうだ 。
ねえ 、 姉さん 」 「 ねえ 、 今夜 は 大変 赤く 見えます 。 ちょ と 出て 御覧 なさい まっせ 」 どれ と 、 圭 さん は すぐ 椽側 へ 飛び出す 。 「 いや あ 、 こいつ は 熾 だ 。
おい 君 早く 出て 見た まえ 。
大変だ よ 」 「 大変だ ?
大変じゃ 出て 見る か な 。
どれ 。
―― いや あ 、 こいつ は ―― なるほど えらい もの だ ね ―― あれ じゃ とうてい 駄目だ 」 「 何 が 」 「 何 がって 、―― 登る 途中 で 焼き殺さ れ ち まう だろう 」 「 馬鹿 を 云って いら あ 。 夜 だ から 、 ああ 見える んだ 。
実際 昼間 から 、 あの くらい やって る んだ よ 。
ねえ 、 姉さん 」 「 ねえ 」 「 ねえ かも 知れ ない が 危険だ ぜ 。
ここ に こうして いて も 何だか 顔 が 熱い ようだ 」 と 碌 さん は 、 自分 の 頬 ぺた を 撫で 廻す 。
「 大袈裟な 事 ばかり 云 う 男 だ 」 「 だって 君 の 顔 だって 、 赤く 見える ぜ 。
そら そこ の 垣 の 外 に 広い 稲田 が ある だろう 。
あの 青い 葉 が 一面に 、 こう 照らされて いる じゃ ない か 」 「 嘘 ばかり 、 あれ は 星 の ひかり で 見える のだ 」 「 星 の ひかり と 火 の ひかり と は 趣 が 違う さ 」 「 どうも 、 君 も よほど 無 学 だ ね 。 君 、 あの 火 は 五六 里 先 き に ある のだ ぜ 」 「 何 里 先 き だって 、 向 う の 方 の 空 が 一面に 真 赤 に なって る じゃ ない か 」 と 碌 さん は 向 を ゆびさして 大きな 輪 を 指 の 先 で 描いて 見せる 。
「 よる だ もの 」 「 夜 だって ……」 「 君 は 無 学 だ よ 。
荒木 又 右 衛 門 は 知ら なくって も 好 いが 、 この くらい な 事 が 分 ら なくっちゃ 恥 だ ぜ 」 と 圭 さん は 、 横 から 相手 の 顔 を 見た 。 「 人格 に かかわる か ね 。
人格 に かかわる の は 我慢 する が 、 命 に かかわっちゃ 降参 だ 」 「 まだ あんな 事 を 云って いる 。 ―― じゃ 姉さん に 聞いて 見る が いい 。
ねえ 姉さん 。
あの くらい 火 が 出たって 、 御 山 へ は 登れる んだろう 」 「 ねえ い 」 「 大丈夫 かい 」 と 碌 さん は 下 女 の 顔 を 覗き込む 。 「 ねえ い 。
女 で も 登りますたい 」 「 女 でも 登っちゃ 、 男 は 是非 登る 訳 か な 。 飛んだ 事 に なった もん だ 」 「 ともかくも 、 あした は 六 時 に 起きて ……」 「 もう 分った よ 」 言い 棄 て て 、 部屋 の なか に 、 ごろり と 寝転んだ 、 碌 さん の 去った あと に 、 圭 さん は 、 黙 然 と 、 眉 を 軒 げ て 、 奈落 から 半 空 に 向って 、 真 直 に 立つ 火 の 柱 を 見詰めて いた 。