31.2 或る 女
倉地 の ほう から 手紙 を 出す の は 忘れた と 見えて 、 岡 は まだ 訪れて は 来 なかった 。 木村 に あれほど 切な 心持ち を 書き 送った くらい だ から 、 葉子 の 住所 さえ わかれば 尋ねて 来 ない はず は ない のだ が 、 倉地 に は そんな 事 は もう 念頭 に なくなって しまった らしい 。 だれ も 来る な と 願って いた 葉子 も このごろ に なって みる と 、 ふと 岡 の 事 など を 思い出す 事 が あった 。 横浜 を 立つ 時 に 葉子 に かじり付いて 離れ なかった 青年 を 思い出す 事 など も あった 。 しかし こういう 事 が ある たび ごと に 倉地 の 心 の 動き かた を も きっと 推察 した 。 そして は いつでも 願 を かける ように そんな 事 は 夢にも 思い出す まい と 心 に 誓った 。 ・・
倉地 が いっこうに 無頓着な ので 、 葉子 は まだ 籍 を 移して は い なかった 。 もっとも 倉地 の 先 妻 が はたして 籍 を 抜いて いる か どう かも 知ら なかった 。 それ を 知ろう と 求める の は 葉子 の 誇り が 許さ なかった 。 すべて そういう 習慣 を 天から 考え の 中 に 入れて いない 倉地 に 対して 今さら そんな 形式 事 を 迫る の は 、 自分 の 度胸 を 見すかさ れる と いう 上 から も つらかった 。 その 誇り と いう 心持ち も 、 度胸 を 見すかさ れる と いう 恐れ も 、 ほんとう を いう と 葉子 が どこまでも 倉地 に 対して ひけ 目 に なって いる の を 語る に 過ぎ ない と は 葉子 自身 存分に 知り きって いる くせ に 、 それ を 勝手に 踏みにじって 、 自分 の 思う とおり を 倉地 に して のけ さす 不敵 さ を 持つ 事 は どうしても でき なかった 。 それなのに 葉子 は やや ともすると 倉地 の 先 妻 の 事 が 気 に なった 。 倉地 の 下宿 の ほう に 遊び に 行く 時 でも 、 その 近所 で 人妻 らしい 人 の 往来 する の を 見かける と 葉子 の 目 は 知らず知らず 熟 視 の ため に かがやいた 。 一 度 も 顔 を 合わせ ない が 、 わずかな 時間 の 写真 の 記憶 から 、 きっと その 人 を 見分けて みせる と 葉子 は 自信 して いた 。 葉子 は どこ を 歩いて も かつて そんな 人 を 見かけた 事 は なかった 。 それ が また 妙に 裏切られて いる ような 感じ を 与える 事 も あった 。 ・・
航海 の 初期 に おける 批点 の 打ち どころ の ない ような 健康 の 意識 は その後 葉子 に は もう 帰って 来 なかった 。 寒気 が 募る に つれて 下腹部 が 鈍痛 を 覚える ばかりで なく 、 腰 の 後ろ の ほう に 冷たい 石 でも 釣り下げて ある ような 、 重苦しい 気分 を 感ずる ように なった 。 日本 に 帰って から 足 の 冷え 出す の も 知った 。 血管 の 中 に は 血 の 代わり に 文 火 でも 流れて いる ので は ない か と 思う くらい 寒気 に 対して 平気だった 葉子 が 、 床 の 中 で 倉地 に 足 の ひどく 冷える の を 注意 さ れたり する と 不思議に 思った 。 肩 の 凝る の は 幼少 の 時 から の 痼疾 だった が それ が 近ごろ に なって ことさら 激しく なった 。 葉子 は ちょいちょい 按摩 を 呼んだり した 。 腹部 の 痛み が 月経 と 関係 が ある の を 気づいて 、 葉子 は 婦人 病 である に 相違 ない と は 思った 。 しかし そう で も ない と 思う ような 事 が 葉子 の 胸 の 中 に は あった 。 もしや 懐妊 で は …… 葉子 は 喜び に 胸 を おどら せて そう 思って も みた 。 牝豚 の ように 幾 人 も 子 を 生む の は とても 耐えられ ない 。 しかし 一 人 は どう あって も 生みたい もの だ と 葉子 は 祈る ように 願って いた のだ 。 定子 の 事 から 考える と 自分 に は 案外 子 運 が ある の かも しれ ない と も 思った 。 しかし 前 の 懐妊 の 経験 と 今度 の 徴候 と は いろいろな 点 で 全く 違った もの だった 。 ・・
一 月 の 末 に なって 木村 から は はたして 金 を 送って 来た 。 葉子 は 倉地 が 潤沢に つけ 届け する 金 より も この 金 を 使う 事 に むしろ 心安 さ を 覚えた 。 葉子 は すぐ 思いきった 散財 を して みたい 誘惑 に 駆り立てられた 。 ・・
ある 日当たり の いい 日 に 倉地 と さし向かい で 酒 を 飲んで いる と 苔 香 園 の ほう から 藪 うぐいす の なく 声 が 聞こえた 。 葉子 は 軽く 酒 ほてり のした 顔 を あげて 倉地 を 見 やり ながら 、 耳 で は うぐいす の なき 続ける の を 注意 した 。 ・・
「 春 が 来ます わ 」・・
「 早い もん だ な 」・・
「 どこ か へ 行きましょう か 」・・
「 まだ 寒い よ 」・・
「 そう ねえ …… 組合 の ほう は 」・・
「 うむ あれ が 片づいたら 出かけよう わ い 。 いいかげん くさく さ し おった 」・・
そう いって 倉地 は さ も めんどう そうに 杯 の 酒 を 一 煽り に あおり つけた 。 ・・
葉子 は すぐ その 仕事 が うまく 運んで いない の を 感づいた 。 それにしても あの 毎月 の 多額な 金 は どこ から 来る のだろう 。 そう ちらっと 思い ながら 素早く 話 を 他 に そらした 。