5. 茶話 - 男 の お産 - 薄田 泣 菫
むかし 大森 元 孝 と いふ 医者 が あつ た 。 すべて 医者 と いふ もの は 、 診断 が 拙 から う が 、 学問 が 無 からう が 、 唯 病 家 へ 往 つて 落つき 済まして 居 さ へ すれば それ で 良い 評判 を 取る 事 も 出来る もの な のだ が 、 不 仕合 せ に も この 元 孝 は 性 来 ひどい 慌て者 だ つた 。
ある 時 、 松平 大学 頭 の 徒士 が 病気 に 罹 つて 招 び に 来た 。 元 孝 は 二つ返事 で 飛んで 往 つた 。 そして 仔細 らしい 顔つき で 、 病人 の 腹 を 診て ゐた が 、 一 寸 小 首 を 傾げて 、
「 お 産後 で ございます か 。」
と 医者 らしい 叮嚀 な 言葉 で 訊 いた 。
徒士 は 変な 顔 を した が 、 まさか 医者 が 自分 を 産 婦 と 取 違 へ も すまい 、 これ は 屹度 自分 の 聞 違 へ に 相違 な から う と 思 つた ので 、「 さ う です 」 と 言 つて 軽く 頷いて みせた 。 徒士 は どんな 医者 でも が 、 病人 が 自分 の 診断 通り に 返事 を して 呉 れる の を 喜ぶ もの だ と いふ 事 を よく 知 つて ゐた 。
医者 は じ つと 脈 を 押 へ たま ゝ 、
「 お産 は いつ 頃 で ございました 。」
と 訊 いた 。
病人 は 困 つた らしく 頭 を 掻いた が 、 とう と 泣出し さ うな 顔 を した 。
「 先生 、 何 う か 御 戯談 を 仰 し やら ないで 下さい 。 私 は 疝気 を 病んで る ん です から 。」
その 瞬間 医者 は 相手 の 顔 を 見て 、 鰕 の や うに 赧 く な つた 。
「 いや 、 飛んだ 粗忽 を 申しました 。 実は 先刻 御 婦人 の 病気 を 診て 、 つい それ が 頭 に 残 つて ゐた もの です から 。」
かう 言 つて 、 二 度 三 度 お辞儀 を した 。 頭 に は 何も 残 つて ゐない と 見えて 、 軽 さ う に 動いた 。
また 一人 下総 に 宗 仙 と いふ 医者 が あつ た 。 その頃 の 暦 学者 と して 聞えた 伊能 忠敬 の 娘 が 病気 した 時 、 聘 ばれて 毎日 の や うに 病室 に 入 つて 往 つた 。
或日 の 午 過ぎ 、 例の や う に 慌てて 入 つて 来た 。 心安 立 に 碌々 挨拶 も し ないで 、 膝 を 進めた と 思 ふと 、 其処 に 居 合 は せた 娘 の 伯父 の 手 を 取つ た 。 伯父 は 密 源 とい つて 頭 を 円 め た 僧侶 で あつ た 。
「 成 程 、 昨日 より は ずつ と 快く な つた 。 もう 案じる 程 の 事 は ない 。」
医者 が 安心 した や うに 言 ふ ので 、 密 源 は その 手 を 相手 の 鼻先 に 衝 きつけた 。
「 宗 仙 さん 、 これ は 拙僧 の 腕 で ござ り ま する ぞ 。」
「 や 、 これ は どうも 、 飛んだ 粗忽 を ……」
と 言 つて 、 宗 仙 は 知ら ぬ 世界 へ でも 来た や うに 、 泳ぐ や う な 手 附 で 真実の 病人 を 捜し に か ゝ つた と いふ 事 だ 。
して みる と 、 今 の 医者 が 病人 の 手 を 間違 はず に 握る と いふ 事 でも 、 非常 の 進歩 である 。 よしんば 男 の 手 に 、 産後 の 脈 が 搏 たう と 、 それ は ほんの 些細 な 事 で ……。