影 踏み :消息:5
真壁 は 毛布 を 撥ね上げた 。
硬直 した 体 が 緩む まで に 時間 が 掛かった 。
香水 の 香り 。 柔らかな 日差し 。 見回した どこ に も 鉄 格子 は なかった 。
夢 を 見た 気 が する 。
はためく 真っ赤な カーテン の ような 炎 。 全身 黒焦げ に なった 啓二 が 床 に は 這い つ くばって いる 。 熱い よ 、 熱い よ 、 と 手 を 伸ばして いる 。 真壁 も 懸命に 手 を 伸ばす 。 やっと の こと で 届く が 、 ほとんど 骨 だけ に なった 啓二 の 腕 は ドライフラワー の ように カシャカシャ と 音 を たてて 壊れて しまう 。 炭化 した 胴 や 足 が 連鎖 的に 崩れて いく 。 ついに は 目 と 唇 だけ が 残って 、 それ でも 、 熱い よ 、 熱い よ 、 と 言い 続けて いる ――。
ひところ 毎晩 の ように 見た 夢 だ から 、 本当の ところ 今 朝方 見た か どう か は わから ない 。 確かな の は 、 刑 務 官 の 「 起床 ! 」 の 声 で 飛び起きた こと だった 。 時計 は 九 時 を 回って いた 。 久子 の 姿 は なく 、 ティッシュ の 造花 も 模造 紙 も 嘘 の ように 消えて いた 。 テーブル の 上 に ラップ の 掛かった ハムサンド が ある が 、 久子 が 真壁 と の こと を 迷って いる の は 、 伝言 の メモ 書き が ない ので わかる 。
ゆうべ 、 二 人 は 一 つ に なれ なかった 。 迷い は 、 久子 より も むしろ 、 真壁 の ほう に 大きかった か 。
中 耳 は 沈黙 した まま だ 。 真壁 も 呼び掛け ず に いた 。 「 三 人 」 は 一 つ に なれ ない 。 そういう こと な の かも しれ なかった 。
真壁 は 裸 の まま 洗面 所 に 立ち 、 温み の ない 蛇口 の 水 で 頭 まで 洗う と 、 身支度 を 整えて アパート の 外 階段 を 下りた 。
モスグリーン の 自転車 は アパート の 裏庭 に あった 。 「 ひさこ 」 を もじった 「8・3・5」 の 数字 で チェーン ロック を 解除 する 。 「 ひ 」 に 漢字 の 「 日 」 を 充てて 「8」 と 読んだ の が 久子 の 自慢 だった 。 「 これ なら 盗ま れ ない よ ね 」。 後 に なって 、 その 自転車 が 泥棒 の 足 に なって いた と 知った 久子 の 嘆き は 大きかった 。
真壁 は 自転車 を 観察 した 。 新たな 情報 を 得れば 新たな 習慣 が 必要に なる 。 まずは ハンドル の 握り 部分 の ゴム を ねじって 外す 。 空洞 の パイプ の 中 に 指 を 差し入れ 、 内径 に 沿って 回転 さ せる 。 ひんやり と した アルミ の 感触 だけ が 脳 に 伝わった 。 もう 片方 の ハンドル も 探り 、 サドル や タイヤ カバー の 裏 も 念入りに 調べて 、 それ でも 何も ない と わかる と 、 周囲 を 見回し つつ 自転車 を 乗り出した 。 雁 谷 方面 へ 向かう 。
《 おはよう 》
と 抑揚 の ない 声 。
〈 ああ 〉
《 どこ ? 仕事 の 下見 ? 〈 それ も ある 〉
《 も 、って なに さ ? まさか だ よ ね 》
〈 女 の 居場所 を 探す 〉
《 やっぱり かよ ! なんで さ ? 白い うなじ に イカ れ ち まった の か よ 。 修 兄 ィ に は 久子 が いる じゃ ん か 》
〈 うるさい 〉
《 それとも 稲村 葉子 に 聞く の ? なんで 殺そう と した かって ? どうして 殺す の やめた んです かって ? 泥棒 が 殺人 未遂 の 犯人 とっちめたって しょうがない じゃ ん 。 稲村 葉子 は 離婚 した んだ ろ 。 もう ほっといて や んな よ 》
〈 黙れ 〉
真壁 は 語気 荒く 言った 。
《 な …… なんだ よ 、 そんなに 怒って 》
〈 お前 、 許せる の か 〉
《 えっ? 〈 悔しく ない の か 、 生きた まま 焼かれて 〉 《 あ ……》 〈 女 の 事情 なんか どう だっいい 。 俺 は ただ 女 の ツラ を 見て みたい だけ だ 。 人 を 焼き殺そう なんて 考える 女 の ツラ を な 〉
家 が 焼けた 日 、 真壁 は 久子 と 京都 に いた 。 久子 を 初めて 抱いた 、 その 夜 だった 。 耳鳴り が した 。 激しい 頭痛 に 襲わ れた 。 頭蓋 が 揺さぶら れた 。 そして 、 声 を 聞いた 。
熱い ! 熱い よ ! 修 兄 ィ ! 修 兄 ィ ! ――。
真壁 は ペダル を 漕ぎ 続けた 。
十五 分 ほど して 啓二 が 戻って きた 。
涙声 だった 。
《 修 兄 ィ ……。 俺 、 ぜんぜん 平気だ から ……。 もう どこ も なんとも ない から ……》