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「三 」 野 分 夏目 漱石
檜 の 扉 に 銀 の ような 瓦 を 載せた 門 を 這 入る と 、 御影 の 敷石 に 水 を 打って 、 斜めに 十 歩 ばかり 歩ま せる 。
敷石 の 尽きた 所 に 擦り 硝子 ( ガラス ) の 開き戸 が 左右 から 寂 然 と 鎖 されて 、 秋 の 更 くる に 任す が ごとく 邸 内 は 物静かである 。
磨き上げた 、 柾 の 柱 に 象牙 の 臍 を ちょっと 押す と 、 しばらく して 奥 の 方 から 足音 が 近づいて くる 。
が ちゃ と 鍵 を ひねる 。
玄関 の 扉 は 左右 に 開かれて 、 下 は 鏡 の ような たたき と なる 。
右 の 方 に 周囲 一 尺 余 の 朱 泥 まがい の 鉢 が あって 、 鉢 の なか に は 棕梠 竹 が 二三 本 靡 く べき 風 も 受け ず に 、 ひそやかに 控えて いる 。
正面 に は 高 さ 四 尺 の 金 屏 に 、 三 条 の 小 鍛冶 が 、 異形の もの を 相槌 に 、 霊 夢 に 叶う 、 御 門 の 太刀 を 丁 と 打ち 、 丁 と 打って いる 。
取次 に 出た の は 十八九 の しとやかな 下 女 である 。
白井 道也 と 云 う 名刺 を 受取った まま 、 あの 若 旦那 様 で ?
と 聞く 。
道也 先生 は 首 を 傾けて ちょっと 考えた 。
若 旦那 に も 大 旦那 に も 中野 と 云 う 人 に 逢う の は 今 が 始めて である 。
ことに よる と まるで 逢え ないで 帰る かも 計ら れ ん 。
若 旦那 か 大 旦那 か は 逢って 始めて わかる のである 。
あるいは 分 ら ないで 生涯 それ ぎり に なる かも 知れ ない 。
今 まで 訪問 に 出 懸けて 、 年寄 か 、 小 供 か 、 跛 か 、 眼っか ちか 、 要領 を 得る 前 に 門前 から 追い 還 さ れた 事 は 何遍 も ある 。
追い 還 さ れ さえ しなければ 大 旦那 か 若 旦那 か は 問う ところ で ない 。
しかし 聞か れた 以上 は どっち か 片づけ なければ なら ん 。
どうでも いい 事 を 、 どうでも よく ない ように 決断 しろ と 逼 ら る る 事 は 賢 者 が 愚 物 に 対して 払う 租税 である 。
「 大学 を 御 卒業 に なった 方 の ……」 と まで 云った が 、 ことに よる と 、 おやじ も 大学 を 卒業 して いる かも 知れ ん と 心 づい た から 「 あの 文学 を お やり に なる 」 と 訂正 した 。
下 女 は 何とも 云 わ ず に 御辞儀 を して 立って 行く 。
白 足袋 の 裏 だけ が 目立って よごれて 見える 。
道也 先生 の 頭 の 上 に は 丸く 鉄 を 鋳 抜いた 、 かな 灯籠 が ぶら下がって いる 。
波 に 千鳥 を すかして 、 すかした 所 に 紙 が 張って ある 。
この なか へ 、 どう したら 灯 が つけられる の か と 、 先生 は 仰向いて 長い 鎖 り を 眺め ながら 考えた 。
下 女 が また 出て くる 。
どうぞ こちら へ と 云 う 。
道也 先生 は 親指 の 凹んで 、 前 緒 の ゆるんだ 下駄 を 立派な 沓 脱 へ 残して 、 ひ ょろ 長い 糸瓜 の ような から だ を 下 女 の 後ろ から 運んで 行く 。
応接間 は 西 洋式 に 出来て いる 。
丸い 卓 ( テーブル ) に は 、 薔薇 の 花 を 模様 に 崩した 五六 輪 を 、 淡い 色 で 織り 出した テーブル 掛 を 、 雑 作 も なく 引き 被せて 、 末 は 同じ 色合 の 絨毯 と 、 続 づく が ごとく 、 切れ たる が ごとく 、 波 を 描いて 床 の 上 に 落ちて いる 。
暖炉 は 塞いだ まま の 一 尺 前 に 、 二 枚 折 の 小 屏風 を 穴 隠し に 立てて ある 。
窓 掛 は 緞子 の 海老 茶色 だ から 少々 全体 の 装飾 上 調和 を 破る ようだ が 、 そんな 事 は 道也 先生 の 眼 に は 入ら ない 。
先生 は 生れて から いまだかつて こんな 奇麗な 室 へ 這 入った 事 は ない のである 。
先生 は 仰いで 壁 間 の 額 を 見た 。
京 の 舞子 が 友禅 の 振 袖 に 鼓 を 調べて いる 。
今 打って 、 鼓 から 、 白い 指 が 弾き 返さ れた ばかりの 姿 が 、 小指 の 先 まで よく あらわれて いる 。
しかし 、 そんな 事 に 気 の つく 道也 先生 で は ない 。
先生 は ただ 気品 の ない 画 を 掛けた もの だ と 思った ばかりである 。
向 の 隅 に ヌーボー 式 の 書棚 が あって 、 美しい 洋書 の 一部 が 、 窓 掛 の 隙間 から 洩れて 射 す 光線 に 、 金 文字 の 甲羅 を 干して いる 。
なかなか 立派である 。
しかし 道也 先生 これ に は 毫 も 辟易 し なかった 。
ところ へ 中野 君 が 出て くる 。
紬 の 綿 入 に 縮緬 の 兵 子 帯 を ぐるぐる 巻きつけて 、 金 縁 の 眼鏡 越 に 、 道也 先生 を ま ぼ し そうに 見て 、「 や 、 御 待た せ 申し まして 」 と 椅子 へ 腰 を おろす 。
道也 先生 は 、 あやしげな 、 銘 仙 の 上 を 蔽 うに 黒 木綿 の 紋 付 を もって して 、 嘉 平次 平 の 下 へ 両手 を 入れた まま 、 「 どうも 御邪魔 を します 」 と 挨拶 を する 。
泰 然 たる もの だ 。
中野 君 は 挨拶 が 済んで から も 、 依然と して ま ぼ し そうに して いた が 、 やがて 思い切った 調子 で 「 あなた が 、 白井 道也 と おっしゃる んで 」 と 大 なる 好奇心 を もって 聞いた 。
聞か ん でも 名刺 を 見れば わかる はずだ 。
それ を かよう に 聞く の は 世 馴 れ ぬ 文学 士 だ から である 。
「 はい 」 と 道也 先生 は 落ちついて いる 。
中野 君 の あて は 外れた 。
中野 君 は 名刺 を 見た 時 はっと 思って 、 頭 の なか は 追い出さ れた 中学校 の 教師 だけ に なって いる 。
可哀想だ と 云 う 念頭 に 尾 羽 うち 枯らした 姿 を 目前 に 見て 、 あなた が 、 あの 中学校 で 生徒 から いじめられた 白井 さん です か と 聞き 糺し たくて なら ない 。
いくら 気の毒で も 白井 違い で 気の毒 がった ので は 役 に 立た ない 。
気の毒 がる ため に は 、 聞き 糺す ため に は 「 あなた が 白井 道也 と おっしゃる んで 」 と 切り出さ なくって は なら なかった 。
しかし せっかく の 切り出し よう も 泰 然 たる 「 はい 」 の ため に 無駄 死 を して しまった 。
初心 なる 文学 士 は 二 の 句 を つぐ 元気 も 作 略 も ない のである 。
人 に 同情 を 寄せたい と 思う とき 、 向 が 泰 然 の 具 足 で 身 を 固めて いて は 芝居 に は なら ん 。
器用な もの は この 泰 然 の 一角 を 針 で 突き 透 して も 思 を 遂げる 。
中野 君 は 好 人物 ながら それほど に 人 を 取り扱い 得る ほど 世の中 を 知ら ない 。
「 実は 今日 御邪魔 に 上がった の は 、 少々 御 願 が あって 参った のです が 」 と 今度 は 道也 先生 の 方 から 打って出る 。
御 願 は 同情 の 好敵手 である 。
御 願 を 持た ない 人 に は 同情 する 張り 合 が ない 。
「 は あ 、 何でも 出来ます 事 なら 」 と 中野 君 は 快く 承知 した 。
「 実は 今度 江 湖 雑誌 で 現代 青年 の 煩 悶 に 対する 解決 と 云 う 題 で 諸 先生 方 の 御 高 説 を 発表 する 計画 が あり まして 、 それ で 普通の 大家 ばかり で は 面白く ない と 云 う ので 、 なるべく 新しい 方 も それぞれ 訪問 する 訳 に なりました ので ―― そこ で 実は ちょっと 往って 来て くれ と 頼まれて 来た のです が 、 御 差 支 が なければ 、 御 話 を 筆記 して 参りたい と 思います 」 道也 先生 は 静かに 懐 から 手帳 と 鉛筆 を 取り出した 。
取り出し は した もの の 別に 筆記 したい 様子 も なければ 強いて 話さ せたい 景色 も 見え ない 。
彼 は かかる 愚 な 問題 を 、 かかる 青年 の 口 から 解決 して 貰いたい と は 考えて いない 。
「 なるほど 」 と 青年 は 、 耀 やく 眼 を 挙げて 、 道也 先生 を 見た が 、 先生 は 宵 越 の 麦酒 ( ビール ) の ごとく 気 の 抜けた 顔 を して いる ので 、 今度 は 「 さよう 」 と 長く 引っ張って 下 を 向いて しまった 。
「 どう でしょう 、 何 か 御 説 は あります まい か 」 と 催促 を 義理 ずくめ に する 。
ありません と 云ったら 、 すぐ 帰る 気 かも 知れ ない 。
「 そう です ね 。
あったって 、 僕 の ような もの の 云 う 事 は 雑誌 へ 載せる 価値 は ありません よ 」 「 いえ 結構です 」 「 全体 どこ から 、 聞いて い らしった んです 。
あまり 突然じゃ 纏った 話 の 出来る はず が ない です から 」 「 御 名前 は 社主 が 折々 雑誌 の 上 で 拝見 する そうで 」 「 いえ 、 どう し まして 」 と 中野 君 は 横 を 向いた 。
「 何でも よい です から 、 少し 御 話し 下さい 」 「 そう です ね 」 と 青年 は 窓 の 外 を 見て 躊躇 して いる 。
「 せっかく 来た もの です から 」 「 じゃ 何 か 話しましょう 」 「 は あ 、 どうぞ 」 と 道也 先生 鉛筆 を 取り上げた 。
「 いったい 煩 悶 と 云 う 言葉 は 近頃 だいぶ はやる ようだ が 、 大抵 は 当座 の もの で 、 いわゆる 三日坊主 の もの が 多い 。
そんな 種類 の 煩 悶 は 世の中 が 始まって から 、 世の中 が なくなる まで 続く ので 、 ちっとも 問題 に は なら ない でしょう 」 「 ふん 」 と 道也 先生 は 下 を 向いた なり 、 鉛筆 を 動かして いる 。
紙 の 上 を 滑ら す 音 が 耳 立って 聞える 。
「 しかし 多く の 青年 が 一 度 は 必ず 陥る 、 また 必ず 陥る べく 自然 から 要求 せられて いる 深刻な 煩 悶 が 一 つ ある 。
……」 鉛筆 の 音 が する 。
「 それ は 何 だ と 云 う と ―― 恋 である ……」 道也 先生 は ぴたり と 筆記 を やめて 、 妙な 顔 を して 、 相手 を 見た 。
中野 君 は 、 今さら 気 が ついた ように ちょっと しょげ返った が 、 すぐ 気 を 取り 直して 、 あと を つづけた 。
「 ただ 恋 と 云 う と 妙に 御 聞き に なる かも 知れ ない 。
また 近頃 は あまり 恋愛 呼ば り を する の を 人 が 遠慮 する ようである が 、 この 種 の 煩 悶 は 大 なる 事実 であって 、 事実 の 前 に は いかなる もの も 頭 を 下げ ねば なら ぬ 訳 だ から どう する 事 も 出来 ない のである 」 道也 先生 は また 顔 を あげた 。
しかし 彼 の 長い 蒼白 い 相 貌 の 一 微塵 だ も 動いて おら ん から 、 彼 の 心 の うち は 無論 わから ない 。
「 我々 が 生涯 を 通じて 受ける 煩 悶 の うち で 、 もっとも 痛切な もっとも 深刻な 、 また もっとも 劇 烈 な 煩 悶 は 恋 より ほか に ないだろう と 思う のです 。
それ で です ね 、 こう 云 う 強大な 威力 の ある もの だ から 、 我々 が 一 度 び この 煩 悶 の 炎 火 の うち に 入る と 非常な 変形 を うける のです 」 「 変形 ?
です か 」 「 ええ 形 を 変 ずる のです 。
今 まで は ただ ふわふわ 浮いて いた 。
世の中 と 自分 の 関係 が よく わから ないで 、 の ん べん ぐ ら りん に 暮らして いた の が 、 急に 自分 が 明瞭に なる んです 」 「 自分 が 明瞭 と は ?
」 「 自分 の 存在 が です 。
自分 が 生きて いる ような 心持ち が 確然 と 出て くる のです 。
だから 恋 は 一方 から 云 えば 煩 悶 に 相違 ない が 、 しかし この 煩 悶 を 経過 し ない と 自分 の 存在 を 生涯 悟る 事 が 出来 ない のです 。
この 浄 罪 界 に 足 を 入れた もの で なければ けっして 天国 へ は 登れ まい と 思う のです 。
ただ 楽天 だって しようがない 。
恋 の 苦み を 甞 め て 人生 の 意義 を 確かめた 上 の 楽天 で なくっちゃ 、 うそ です 。
それ だ から 恋 の 煩 悶 は けっして 他の 方法 に よって 解決 さ れ ない 。
恋 を 解決 する もの は 恋 より ほか に ないで す 。
恋 は 吾人 を して 煩 悶 せ しめて 、 また 吾人 を して 解脱 せ しむ る のである 。
……」 「 その くらい な ところ で 」 と 道也 先生 は 三 度 目 に 顔 を 挙げた 。
「 まだ 少し ある んです が ……」 「 承る の は いい です が 、 だいぶ 多人数 の 意見 を 載せる つもりです から 、 かえって あと から 削除 する と 失礼に なります から 」 「 そう です か 、 それ じゃ その くらい に して 置きましょう 。
何だか こんな 話 を する の は 始めて です から 、 さぞ 筆記 し にくかった でしょう 」 「 いいえ 」 と 道也 先生 は 手帳 を 懐 へ 入れた 。
青年 は 筆記 者 が 自分 の 説 を 聴いて 、 感心 の 余り 少し は 賛辞 でも 呈する か と 思った が 、 相手 は 例 の ごとく 泰 然 と して ただ いいえ と 云った のみ である 。
「 いや これ は 御邪魔 を しました 」 と 客 は 立ち かける 。
「 まあ いい でしょう 」 と 中野 君 は とめた 。
せめて 自分 の 説 を 少々 でも 批評 して 行って 貰いたい のである 。
それ で なくて も 、 せんだって 日比谷 で 聞いた 高柳 君 の 事 を ちょっと 好奇心 から 、 あたって 見たい のである 。
一言 に して 云 えば 中野 君 は ひまな のである 。
「 いえ 、 せっかく です が 少々 急ぎます から 」 と 客 は もう 椅子 を 離れて 、 一 歩 テーブル を 退いた 。
いかに ひまな 中野 君 も 「 それでは 」 と ついに 降参 して 御辞儀 を する 。
玄関 まで 送って 出た 時 思い切って 「 あなた は 、 もしや 高柳 周作 と 云 う 男 を 御存じ じゃ ない です か 」 と 念 晴らし の ため 聞いて 見る 。
「 高柳 ?
どうも 知ら ん ようです 」 と 沓 脱 から 片足 を タタキ へ おろして 、 高い 背 を 半分 後ろ へ 捩じ 向けた 。
「 ことし 大学 を 卒業 した ……」 「 それ じゃ 知ら ん 訳 だ 」 と 両足 と も タタキ の 上 へ 運んだ 。
中野 君 は まだ 何 か 云 おうと した 時 、 敷石 を がらがら と 車 の 軋 る 音 が して 梶 棒 は 硝子 ( ガラス ) の 扉 の 前 に とまった 。
道也 先生 が 扉 を 開く 途端 に 車 上 の 人 は ひらり 厚い 雪 駄 を 御影 の 上 に 落した 。
五色 の 雲 が わが 眼 を 掠 め て 過ぎた 心持ち で 往来 へ 出る 。
時計 は もう 四 時 過ぎ である 。
深い 碧 り の 上 へ 薄い セピヤ を 流した 空 の なか に 、 はっきり せ ぬ 鳶 が 一 羽 舞って いる 。
雁 は まだ 渡って 来 ぬ 。
向 から 袴 の 股 立ち を 取った 小 供 が 唱歌 を 謡 いながら 愉快 そうに あるいて 来た 。
肩 に 担いだ 笹 の 枝 に は 草 の 穂 で 作った 梟 が 踊り ながら ぶら下がって 行く 。
おおかた 雑 子 ヶ 谷 へ でも 行った のだろう 。
軒 の 深い 菓物 屋 の 奥 の 方 に 柿 ばかり が あかるく 見える 。
夕 暮 に 近づく と 何となく うそ 寒い 。
薬 王寺 前 に 来た の は 、 帽子 の 庇 の 下 から 往来 の 人 の 顔 が しかと 見分け の つか ぬ 頃 である 。
三十三 所 と 彫って ある 石 標 を 右 に 見て 、 紺屋 の 横 町 を 半 丁 ほど 西 へ 這 入る と わが家 の 門口 へ 出る 、 家 の なか は 暗い 。
「 おや 御 帰り 」 と 細 君 が 台所 で 云 う 。
台所 も 玄関 も 大した 相違 の ない ほど 小さな 家 である 。
「 下 女 は どっか へ 行った の か 」 と 二 畳 の 玄関 から 、 六 畳 の 座敷 へ 通る 。
「 ちょっと 、 柳町 まで 使 に 行きました 」 と 細 君 は また 台所 へ 引き返す 。
道也 先生 は 正面 の 床 の 片隅 に 寄せて あった 、 洋 灯 ( ランプ ) を 取って 、 椽側 へ 出て 、 手 ず から 掃除 を 始めた 。
何 か 原稿 用紙 の ような もの で 、 油 壺 を 拭き 、 ほ や を 拭き 、 最後に 心 の 黒い 所 を 好い加減に な すくって 、 丸めた 紙 は 庭 へ 棄 て た 。
庭 は 暗く なって 様子 が 頓 と わから ない 。
机 の 前 へ 坐った 先生 は 燐 寸 ( マッチ ) を 擦って 、 しゅっと 云 う 間 に 火 を ランプ に 移した 。
室 は たちまち 明か に なる 。
道也 先生 の ため に 云 えば むしろ 明 かるく なら ぬ 方 が 増しである 。
床 は ある が 、 言訳 ばかり で 、 現に 幅 も 何も 懸って おら ん 。
その代り 累 々 と 書物 やら 、 原稿 紙 やら 、 手帳 やら が 積んで ある 。
机 は 白木 の 三 宝 を 大きく した くらい な 単 簡 な もの で 、 インキ 壺 と 粗末な 筆 硯 の ほか に は 何物 を も 載せて おら ぬ 。
装飾 は 道也 先生 に とって 不必要である の か 、 または 必要で も これ に 耽 る 余裕 が ない の か は 疑問 である 。
ただ 道也 先生 が この 一 点 の 温 気 なき 陋室 に 、 晏如 と して 筆 硯 を 呵 す る の 勇気 ある は 、 外部 より 見て 争う べ から ざる 事実 である 。
ことに よる と 先生 は 装飾 以外 の ある もの を 目的 に して 、 生活 して いる の かも 知れ ない 。
ただ この 争う べ から ざる 事実 を 確 め れば 、 確かめる ほど 細 君 は 不愉快である 。
女 は 装飾 を もって 生れ 、 装飾 を もって 死ぬ 。
多数 の 女 は わが 運命 を 支配 する 恋 さえ も 装飾 視 して 憚 から ぬ もの だ 。
恋 が 装飾 ならば 恋 の 本尊 たる 愛人 は 無論 装飾 品 である 。
否 、 自己 自身 すら 装飾 品 を もって 甘んずる のみ なら ず 、 装飾 品 を もって 自己 を 目して くれ ぬ 人 を 評して 馬鹿 と 云 う 。
しかし 多数 の 女 は しかく 人 世 を 観 ずる に も かかわら ず 、 しかく 観 ずる と は けっして 思わ ない 。
ただ 自己 の 周囲 を 纏 綿 する 事物 や 人間 が この 装飾 用 の 目的 に 叶わ ぬ を 発見 する とき 、 何となく 不愉快 を 受ける 。
不愉快 を 受ける と 云 うの に 周囲 の 事物 人間 が 依然と して 旧態 を あらため ぬ 時 、 わが 眼 に 映 ずる 不愉快 を 左右 前後 に 反射 して 、 これ でも 改め ぬ か と 云 う 。
ついに は これ でも か 、 これ でも か と 念入り の 不愉快 を 反射 する 。
道也 の 細 君 が ここ まで 進歩 して いる か は 疑問 である 。
しか し 普通 一般 の 女性 である からに は 装飾 気 なき この 空気 の うち に 生息 する 結果 と して 、 自然 この 方向 に 進行 する の が 順当であろう 。
現に 進行 し つつ ある かも 知れ ぬ 。
道也 先生 は やがて 懐 から 例の 筆記 帳 を 出して 、 原稿 紙 の 上 へ 写し 始めた 。
袴 を 着けた まま である 。
かしこまった まま である 。
袴 を 着けた まま 、 かしこまった まま で 、 中野 輝一 の 恋愛 論 を 筆記 して いる 。
恋 と この 室 、 恋 と この 道也 と は とうてい 調和 し ない 。
道也 は 何と 思って 浄 書 して いる か しら ん 。
人 は 様々である 、 世 も 様々である 。
様々の 世に 、 様々の 人 が 動く の も また 自然の 理 である 。
ただ 大きく 動く もの が 勝ち 、 深く 動く もの が 勝た ねば なら ぬ 。
道也 は 、 あの 金 縁 の 眼鏡 を 掛けた 恋愛 論 より も 、 小さく かつ 浅い と 自覚 して 、 かく 慎重に 筆記 を 写し 直して いる のであろう か 。
床 の 後ろ で が 鳴いて いる 。
細 君 が 襖 を すう と 開けた 。
道也 は 振り向き も し ない 。
「 まあ 」 と 云った なり 細 君 の 顔 は 隠れた 。
下 女 は 帰った ようである 。
煮豆 が 切れた から 、 てっか 味噌 を 買って 来た と 云って いる 。
豆腐 が 五 厘 高く なった と 云って いる 。
裏 の 専念 寺 で 夕 の 御 務め を か あんか あん やって いる 。
細 君 の 顔 が また 襖 の 後ろ から 出た 。
「 あなた 」 道也 先生 は 、 いつの間に やら 、 筆記 帳 を 閉じて 、 今度 は また 別の 紙 へ 、 何 か 熱心に 認めて いる 。
「 あなた 」 と 妻君 は 二 度 呼んだ 。
「 何 だい 」 「 御飯 です 」 「 そう か 、 今 行く よ 」 道也 先生 は ちょっと 細 君 と 顔 を 合せ たぎり 、 すぐ 机 へ 向った 。
細 君 の 顔 も すぐ 消えた 。
台所 の 方 で くすくす 笑う 声 が する 。
道也 先生 は この 一節 を かき 終る まで は 飯 も 食い たく ない のだろう 。
やがて 句切り の よい 所 へ 来た と 見えて 、 ちょっと 筆 を 擱 いて 、 傍 へ 積んだ 草稿 を はぐって 見て 「 二百三十一 頁 ( ページ )」 と 独 語 した 。
著述 でも して いる と 見える 。
立って 次の 間 へ 這 入る 。
小さな 長火鉢 に 平 鍋 が かかって 、 白い 豆腐 が 煙り を 吐いて 、 ぷる ぷる 顫 えて いる 。
「 湯豆腐 かい 」 「 は あ 、 何にも なくて 、 御 気の毒です が ……」 「 何 、 なんでも いい 。
食って さえ いれば 何でも 構わ ない 」 と 、 膳 に して 重箱 を かね たる ごとき 四角な もの の 前 へ 坐って 箸 を 執る 。
「 あら 、 まだ 袴 を 御 脱ぎ なさら ない の 、 随分 ね 」 と 細 君 は 飯 を 盛った 茶碗 を 出す 。
「 忙 が しい もの だ から 、 つい 忘れた 」 「 求めて 、 忙 が しい 思 を して いらっしゃる のだ から 、……」 と 云った ぎり 、 細 君 は 、 湯豆腐 の 鍋 と 鉄瓶 と を 懸け 換える 。
「 そう 見える かい 」 と 道也 先生 は 存外 平気である 。
「 だって 、 楽で 御 金 の 取れる 口 は 断って おしまい な すって 、 忙 が しくって 、 一 文 に も なら ない 事 ばかり なさる んです もの 、 誰 だって 酔 興 と 思います わ 」 「 思われて も しようがない 。
これ が おれ の 主義 な んだ から 」 「 あなた は 主義 だ から それ で いい でしょう さ 。
しかし 私 は ……」 「 御前 は 主義 が 嫌だ と 云 う の か ね 」 「 嫌 も 好 も ない んです けれども 、 せめて ―― 人並に は ―― なんぼ 私 だって ……」 「 食え さえ すれば いい じゃ ない か 、 贅沢 を 云 や 誰 だって 際限 は ない 」 「 どうせ 、 そう でしょう 。
私 なん ざ どんなに なって も 御構い な すっちゃ 下さら ない のでしょう 」 「 この てっか 味噌 は 非常に 辛い な 。
どこ で 買って 来た のだ 」 「 どこ です か 」 道也 先生 は 頭 を あげて 向 の 壁 を 見た 。
鼠色 の 寒い 色 の 上 に 大きな 細 君 の 影 が 写って いる 。
その 影 と 妻君 と は 同じ ように 無 意義 に 道也 の 眼 に 映 じた 。
影 の 隣り に 糸 織 か と も 思わ れる 、 女 の 晴 衣 が 衣 紋 竹 に つるして かけて ある 。
細 君 の もの に して は 少し 派出 過ぎる が 、 これ は 多少 景気 の いい 時 、 田舎 で 買って やった もの だ と 今 だに 記憶 して いる 。
あの 時分 は 今 と は だいぶ 考え も 違って いた 。
己 れ と 同じ ような 思想 やら 、 感情 やら 持って いる もの は 珍 らしく ある まい と 信じて いた 。
したがって 文筆 の 力 で 自分 から 卒 先 して 世間 を 警醒 しよう と 云 う 気 に も なら なかった 。
今 は まるで 反対だ 。
世 は 名門 を 謳歌 する 、 世 は 富豪 を 謳歌 する 、 世 は 博士 、 学士 まで を も 謳歌 する 。
しかし 公正な 人格 に 逢う て 、 位 地 を 無にし 、 金銭 を 無にし 、 もしくは その 学力 、 才 芸 を 無にして 、 人格 そのもの を 尊敬 する 事 を 解して おら ん 。
人間 の 根本 義 たる 人格 に 批判 の 標準 を 置か ず して 、 その 上皮 たる 附属 物 を もって すべて を 律しよう と する 。
この 附属 物 と 、 公正なる 人格 と 戦う とき 世間 は 必ず 、 この 附属 物 に 雷 同 して 他の 人格 を 蹂躙 せ ん と 試みる 。
天下一 人 の 公正なる 人格 を 失う とき 、 天下一 段 の 光明 を 失う 。
公正なる 人格 は 百 の 華族 、 百 の 紳商 、 百 の 博士 を もって する も 償い がたき ほど 貴き もの である 。
われ は この 人格 を 維持 せ ん が ため に 生れ たる の ほか 、 人 世に おいて 何ら の 意義 を も 認め 得 ぬ 。
寒 に 衣 し 、 餓 に 食する は この 人格 を 維持 する の 一 便法 に 過ぎ ぬ 。
筆 を 呵 し 硯 を 磨 する の も また この 人格 を 他の 面 上 に 貫徹 する の 方策 に 過ぎ ぬ 。
―― これ が 今 の 道也 の 信念 である 。
この 信念 を 抱いて 世に 処する 道也 は 細 君 の 御機嫌 ばかり 取って は おれ ぬ 。
壁 に 掛けて あった 小 袖 を 眺めて いた 道也 は しばらく して 、 夕飯 を 済まし ながら 、 「 どこ ぞ へ 行った の かい 」 と 聞く 。
「 ええ 」 と 細 君 は 二 字 の 返事 を 与えた 。
道也 は 黙って 、 茶 を 飲んで いる 。
末 枯 る る 秋 の 時節 だけ に すこぶる 閑静な 問答 である 。
「 そう 、 べん べん と 真田 の 方 を 引っ張っと く 訳 に も 行き ませ ず 、 家主 の 方 も どうかしなければ なら ず 、 今月 の 末 に なる と 米 薪 の 払 で また 心配 し なくっちゃ なりません から 、 算段 に 出掛けた んです 」 と 今度 は 細 君 の 方 から 切り出した 。
「 そう か 、 質屋 へ でも 行った の かい 」 「 質 に 入れる ような もの は 、 もう ありゃ しません わ 」 と 細 君 は 恨めし そうに 夫 の 顔 を 見る 。
「 じゃ 、 どこ へ 行った ん だい 」 「 どこって 、 別に 行く 所 も ありません から 、 御 兄さん の 所 へ 行きました 」 「 兄 の 所 ?
駄目だ よ 。
兄 の 所 な ん ぞ へ 行ったって 、 何 に なる もの か 」 「 そう 、 あなた は 、 何でも 始 から 、 けなして おしま い なさる から 、 よく ない んです 。
いくら 教育 が 違う からって 、 気性 が 合わ ない からって 、 血 を 分けた 兄弟 じゃ ありません か 」 「 兄弟 は 兄弟 さ 。
兄弟 で ない と は 云 わん 」 「 だ から さ 、 膝 と も 談合 と 云 う じゃ ありません か 。
こんな 時 に は 、 ちっと 相談 に いらっしゃる が いい じゃ ありません か 」 「 おれ は 、 行か ん よ 」 「 それ が 痩我慢 です よ 。
あなた は それ が 癖 な んです よ 。
損じゃ あ 、 ありません か 、 好んで 人 に 嫌われて ……」 道也 先生 は 空 然 と して 壁 に 動く 細 君 の 影 を 見て いる 。
「 それ で 才覚 が 出来た の かい 」 「 あなた は 何でも 一足 飛 ね 」 「 なに が 」 「 だって 、 才覚 が 出来る 前 に は それぞれ 魂胆 も あれば 工面 も ある じゃ ありません か 」 「 そう か 、 それ じゃ 最初 から 聞き 直そう 。
で 、 御前 が 兄 の うち へ 行った んだ ね 。
おれ に 内 所 で 」 「 内 所 だって 、 あなた の ため じゃ ありません か 」 「 いい よ 、 ため で いい よ 。
それ から 」 「 で 御 兄さん に 、 御 目 に 懸って いろいろ 今 まで の 御無沙汰 の 御 詫 やら 、 何やら して 、 それ から 一部始終 の 御 話 を した んです 」 「 それ から 」 「 する と 御 兄さん が 、 そりゃ 御前 に は 大変 気の毒だって 大変 私 に 同情 して 下さって ……」 「 御前 に 同情 した 。
ふうん 。
―― ちょっと その 炭 取 を 取れ 。
炭 を つが ない と 火種 が 切れる 」 「 で 、 そりゃ 早く 整理 し なくっちゃ 駄目だ 。
全体 なぜ 今 まで 抛って 置いた ん だって おっしゃる んです 」 「 旨 い 事 を 云 わ あ 」 「 まだ 、 あなた は 御 兄さん を 疑って いらっしゃる の ね 。
罰 が あたります よ 」 「 それ で 、 金 でも 貸した の かい 」 「 ほら また 一足飛び を なさる 」 道也 先生 は 少々 おかしく なった と 見えて 、 に やり と 下 を 向き ながら 、 黒く 積んだ 炭 を 吹き出した 。
「 まあ どの くらい あれば 、 これ まで の 穴 が 奇麗に 埋る の か と 御 聞き に なる から 、―― よっぽど 言い悪かった んです けれども ―― とうとう 思い切って ね ……」 で ちょっと 留めた 。
道也 は しきりに 吹いて いる 。
「 ねえ 、 あなた 。
とうとう 思い切って ね ―― あなた 。
聞いて いらっしゃら ない の 」 「 聞いて る よ 」 と 赫気 で 赤く なった 顔 を あげた 。
「 思い切って 百 円 ばかり と 云った の 」 「 そう か 。
兄 は 驚 ろ いたろう 」 「 そう したら ね 。
ふうん て 考えて 、 百 円 と 云 う 金 は 、 なかなか 容易に 都合 が つく 訳 の もの じゃ ない ……」 「 兄 の 云 い そうな 事 だ 」 「 まあ 聞いて いらっしゃい 。
まだ 、 あと が 有る んです 。
―― しかし 、 ほか の 事 と は 違う から 、 是非 なければ 困る と 云 う なら おれ が 保証人 に なって 、 人 から 借りて やって も いいって 仰 しゃ る んです 」 「 あやしい もの だ 」 「 まあ さ 、 しまい まで 御 聞き なさい 。
―― それ で 、 ともかくも 本人 に 逢って 篤と 了 簡 を 聞いた 上 に しよう と 云 う ところ まで に 漕ぎつけて 来た のです 」 細 君 は 大 功名 を した ように 頬 骨 の 高い 顔 を 持ち上げて 、 夫 を 覗き込んだ 。
細 君 の 眼 つき が 云 う 。
夫 は 意気地なし である 。
終日 終夜 、 机 と 首っ引 を して 、 兀々 と 出 精 し ながら 、 妻 と 自分 を 安らかに 養う ほど の 働き も ない 。
「 そう か 」 と 道也 は 云った ぎり 、 この 手腕 に 対して 、 別段 に 感謝 の 意 を 表しよう と も せ ぬ 。
「 そう か じゃ 困ります わ 。
私 が ここ まで 拵えた のだ から 、 あと は 、 あなた が 、 どう と も 為さら なくっちゃ あ 。
あなた の 楫 の とり よう で せっかく の 私 の 苦心 も 何の 役 に も 立た なく なります わ 」 「 いい さ 、 そう 心配 する な 。
もう 一 ヵ 月 も すれば 百 や 弐 百 の 金 は 手 に 這 入る 見 込 が ある から 」 と 道也 先生 は 何の 苦 も なく 云って 退けた 。
江 湖 雑誌 の 編 輯 で 二十 円 、 英和 字典 の 編纂 で 十五 円 、 これ が 道也 の きまった 収入 である 。
但し この ほか に 仕事 は いくら でも する 。
新聞 に かく 、 雑誌 に かく 。
かく 事 に おいて は 毎日 毎夜 筆 を 休ま せた 事 は ない くらい である 。
しかし 金 に は なら ない 。
たま さ か 二 円 、 三 円 の 報酬 が 彼 の 懐 に 落つ る 時 、 彼 は かえって 不思議に 思う のみ である 。
この 物質 的に 何ら の 功 能 も ない 述作 的 労力 の 裡 に は 彼 の 生命 が ある 。
彼 の 気 魄 が 滴 々 の 墨汁 と 化して 、 一 字 一 画 に 満 腔 の 精神 が 飛 動 して いる 。
この 断 篇 が 読者 の 眼 に 映 じた 時 、 瞳 裏 に 一 道 の 電流 を 呼び起して 、 全身 の 骨 肉 が 刹那 に 震え かし と 念じて 、 道也 は 筆 を 執る 。
吾輩 は 道 を 載 す 。
道 を 遮 ぎ る もの は 神 と いえ ども 許さ ず と 誓って 紙 に 向 う 。
誠 は 指 頭 より 迸って 、 尖る 毛 穎 の 端に 紙 を 焼く 熱気 ある が ごとき 心地 にて 句 を 綴る 。
白紙 が 人格 と 化して 、 淋漓 と して 飛 騰 する 文章 が ある と すれば 道也 の 文章 は まさに これ である 。
されど も 世 は 華族 、 紳商 、 博士 、 学士 の 世 である 。
附属 物 が 本体 を 踏み潰す 世 である 。
道也 の 文章 は 出る たび に 黙殺 せられて いる 。
妻君 は 金 に なら ぬ 文章 を 道楽 文章 と 云 う 。
道楽 文章 を 作る もの を 意気地なし と 云 う 。
道也 の 言葉 を 聞いた 妻君 は 、 火箸 を 灰 の なか に 刺した まま 、 「 今 でも 、 そんな 御 金 が 這 入る 見 込 が ある んです か 」 と 不思議 そうに 尋ねた 。
「 今 は 昔 より 下落 した と 云 う の かい 。
ハハハハハ 」 と 道也 先生 は 大きな 声 を 出して 笑った 。
妻君 は 毒気 を 抜かれて 口 を あける 。
「 ど うりゃ 一 勉強 やろう か 」 と 道也 は 立ち上がる 。
その 夜 彼 は 彼 の 著述 人格 論 を 二百五十 頁 まで かいた 。
寝た の は 二 時 過 である 。
「三 」 野 分 夏目 漱石
みっ|の|ぶん|なつめ|そうせき
Soseki Natsume
'Tre' Nobe, Natsume Soseki.
檜 の 扉 に 銀 の ような 瓦 を 載せた 門 を 這 入る と 、 御影 の 敷石 に 水 を 打って 、 斜めに 十 歩 ばかり 歩ま せる 。
ひのき||とびら||ぎん|||かわら||のせた|もん||は|はいる||みかげ||しきいし||すい||うって|ななめに|じゅう|ふ||あゆま|
After entering through the gate with its cypress door and silver tiles, they paved the granite paving stones with water and walked diagonally for about ten paces.
敷石 の 尽きた 所 に 擦り 硝子 ( ガラス ) の 開き戸 が 左右 から 寂 然 と 鎖 されて 、 秋 の 更 くる に 任す が ごとく 邸 内 は 物静かである 。
しきいし||つきた|しょ||かすり|がらす|がらす||ひらきど||さゆう||じゃく|ぜん||くさり|さ れて|あき||こう|||まかす|||てい|うち||ものしずかである
磨き上げた 、 柾 の 柱 に 象牙 の 臍 を ちょっと 押す と 、 しばらく して 奥 の 方 から 足音 が 近づいて くる 。
みがきあげた|まさき||ちゅう||ぞうげ||へそ|||おす||||おく||かた||あしおと||ちかづいて|
が ちゃ と 鍵 を ひねる 。
|||かぎ||
玄関 の 扉 は 左右 に 開かれて 、 下 は 鏡 の ような たたき と なる 。
げんかん||とびら||さゆう||あか れて|した||きよう|||||
右 の 方 に 周囲 一 尺 余 の 朱 泥 まがい の 鉢 が あって 、 鉢 の なか に は 棕梠 竹 が 二三 本 靡 く べき 風 も 受け ず に 、 ひそやかに 控えて いる 。
みぎ||かた||しゅうい|ひと|しゃく|よ||しゅ|どろ|||はち|||はち|||||しゅろ|たけ||ふみ|ほん|び|||かぜ||うけ||||ひかえて|
正面 に は 高 さ 四 尺 の 金 屏 に 、 三 条 の 小 鍛冶 が 、 異形の もの を 相槌 に 、 霊 夢 に 叶う 、 御 門 の 太刀 を 丁 と 打ち 、 丁 と 打って いる 。
しょうめん|||たか||よっ|しゃく||きむ|びょう||みっ|じょう||しょう|かじ||いぎょうの|||あいづち||れい|ゆめ||かなう|ご|もん||たち||ちょう||うち|ちょう||うって|
取次 に 出た の は 十八九 の しとやかな 下 女 である 。
とりつ||でた|||じゅうはちきゅう|||した|おんな|
白井 道也 と 云 う 名刺 を 受取った まま 、 あの 若 旦那 様 で ?
しらい|みちや||うん||めいし||うけとった|||わか|だんな|さま|
と 聞く 。
|きく
道也 先生 は 首 を 傾けて ちょっと 考えた 。
みちや|せんせい||くび||かたむけて||かんがえた
若 旦那 に も 大 旦那 に も 中野 と 云 う 人 に 逢う の は 今 が 始めて である 。
わか|だんな|||だい|だんな|||なかの||うん||じん||あう|||いま||はじめて|
ことに よる と まるで 逢え ないで 帰る かも 計ら れ ん 。
||||あえ||かえる||はから||
若 旦那 か 大 旦那 か は 逢って 始めて わかる のである 。
わか|だんな||だい|だんな|||あって|はじめて||
You can tell whether he is a young master or a big master only when you meet him.
あるいは 分 ら ないで 生涯 それ ぎり に なる かも 知れ ない 。
|ぶん|||しょうがい||||||しれ|
Or you may never know, and that may be the end of you for the rest of your life.
今 まで 訪問 に 出 懸けて 、 年寄 か 、 小 供 か 、 跛 か 、 眼っか ちか 、 要領 を 得る 前 に 門前 から 追い 還 さ れた 事 は 何遍 も ある 。
いま||ほうもん||だ|かけて|としより||しょう|とも||は||がん っか||ようりょう||える|ぜん||もんぜん||おい|かえ|||こと||なんべん||
追い 還 さ れ さえ しなければ 大 旦那 か 若 旦那 か は 問う ところ で ない 。
おい|かえ||||し なければ|だい|だんな||わか|だんな|||とう|||
しかし 聞か れた 以上 は どっち か 片づけ なければ なら ん 。
|きか||いじょう||||かたづけ|||
どうでも いい 事 を 、 どうでも よく ない ように 決断 しろ と 逼 ら る る 事 は 賢 者 が 愚 物 に 対して 払う 租税 である 。
||こと||||||けつだん|||ひつ||||こと||かしこ|もの||ぐ|ぶつ||たいして|はらう|そぜい|
「 大学 を 御 卒業 に なった 方 の ……」 と まで 云った が 、 ことに よる と 、 おやじ も 大学 を 卒業 して いる かも 知れ ん と 心 づい た から 「 あの 文学 を お やり に なる 」 と 訂正 した 。
だいがく||ご|そつぎょう|||かた||||うん った|||||||だいがく||そつぎょう||||しれ|||こころ|||||ぶんがく|||||||ていせい|
下 女 は 何とも 云 わ ず に 御辞儀 を して 立って 行く 。
した|おんな||なんとも|うん||||おじぎ|||たって|いく
白 足袋 の 裏 だけ が 目立って よごれて 見える 。
しろ|たび||うら|||めだって||みえる
道也 先生 の 頭 の 上 に は 丸く 鉄 を 鋳 抜いた 、 かな 灯籠 が ぶら下がって いる 。
みちや|せんせい||あたま||うえ|||まるく|くろがね||い|ぬいた||とうろう||ぶらさがって|
波 に 千鳥 を すかして 、 すかした 所 に 紙 が 張って ある 。
なみ||ちどり||||しょ||かみ||はって|
この なか へ 、 どう したら 灯 が つけられる の か と 、 先生 は 仰向いて 長い 鎖 り を 眺め ながら 考えた 。
|||||とう||つけ られる||||せんせい||あおむいて|ながい|くさり|||ながめ||かんがえた
下 女 が また 出て くる 。
した|おんな|||でて|
どうぞ こちら へ と 云 う 。
||||うん|
道也 先生 は 親指 の 凹んで 、 前 緒 の ゆるんだ 下駄 を 立派な 沓 脱 へ 残して 、 ひ ょろ 長い 糸瓜 の ような から だ を 下 女 の 後ろ から 運んで 行く 。
みちや|せんせい||おやゆび||くぼんで|ぜん|お|||げた||りっぱな|くつ|だつ||のこして|||ながい|へちま||||||した|おんな||うしろ||はこんで|いく
応接間 は 西 洋式 に 出来て いる 。
おうせつま||にし|ようしき||できて|
丸い 卓 ( テーブル ) に は 、 薔薇 の 花 を 模様 に 崩した 五六 輪 を 、 淡い 色 で 織り 出した テーブル 掛 を 、 雑 作 も なく 引き 被せて 、 末 は 同じ 色合 の 絨毯 と 、 続 づく が ごとく 、 切れ たる が ごとく 、 波 を 描いて 床 の 上 に 落ちて いる 。
まるい|すぐる|てーぶる|||ばら||か||もよう||くずした|ごろく|りん||あわい|いろ||おり|だした|てーぶる|かかり||ざつ|さく|||ひき|かぶせて|すえ||おなじ|いろあい||じゅうたん||つづ||||きれ||||なみ||えがいて|とこ||うえ||おちて|
暖炉 は 塞いだ まま の 一 尺 前 に 、 二 枚 折 の 小 屏風 を 穴 隠し に 立てて ある 。
だんろ||ふさいだ|||ひと|しゃく|ぜん||ふた|まい|お||しょう|びょうぶ||あな|かくし||たてて|
窓 掛 は 緞子 の 海老 茶色 だ から 少々 全体 の 装飾 上 調和 を 破る ようだ が 、 そんな 事 は 道也 先生 の 眼 に は 入ら ない 。
まど|かかり||どんす||えび|ちゃいろ|||しょうしょう|ぜんたい||そうしょく|うえ|ちょうわ||やぶる||||こと||みちや|せんせい||がん|||はいら|
先生 は 生れて から いまだかつて こんな 奇麗な 室 へ 這 入った 事 は ない のである 。
せんせい||うまれて||||きれいな|しつ||は|はいった|こと|||
先生 は 仰いで 壁 間 の 額 を 見た 。
せんせい||あおいで|かべ|あいだ||がく||みた
京 の 舞子 が 友禅 の 振 袖 に 鼓 を 調べて いる 。
けい||まいこ||ゆうぜん||ふ|そで||つづみ||しらべて|
今 打って 、 鼓 から 、 白い 指 が 弾き 返さ れた ばかりの 姿 が 、 小指 の 先 まで よく あらわれて いる 。
いま|うって|つづみ||しろい|ゆび||はじき|かえさ|||すがた||こゆび||さき||||
しかし 、 そんな 事 に 気 の つく 道也 先生 で は ない 。
||こと||き|||みちや|せんせい|||
先生 は ただ 気品 の ない 画 を 掛けた もの だ と 思った ばかりである 。
せんせい|||きひん|||が||かけた||||おもった|
向 の 隅 に ヌーボー 式 の 書棚 が あって 、 美しい 洋書 の 一部 が 、 窓 掛 の 隙間 から 洩れて 射 す 光線 に 、 金 文字 の 甲羅 を 干して いる 。
むかい||すみ|||しき||しょだな|||うつくしい|ようしょ||いちぶ||まど|かかり||すきま||えい れて|い||こうせん||きむ|もじ||こうら||ほして|
なかなか 立派である 。
|りっぱである
しかし 道也 先生 これ に は 毫 も 辟易 し なかった 。
|みちや|せんせい||||ごう||へきえき||
ところ へ 中野 君 が 出て くる 。
||なかの|きみ||でて|
紬 の 綿 入 に 縮緬 の 兵 子 帯 を ぐるぐる 巻きつけて 、 金 縁 の 眼鏡 越 に 、 道也 先生 を ま ぼ し そうに 見て 、「 や 、 御 待た せ 申し まして 」 と 椅子 へ 腰 を おろす 。
つむぎ||めん|はい||ちりめん||つわもの|こ|おび|||まきつけて|きむ|えん||めがね|こ||みちや|せんせい|||||そう に|みて||ご|また||もうし|||いす||こし||
道也 先生 は 、 あやしげな 、 銘 仙 の 上 を 蔽 うに 黒 木綿 の 紋 付 を もって して 、 嘉 平次 平 の 下 へ 両手 を 入れた まま 、 「 どうも 御邪魔 を します 」 と 挨拶 を する 。
みちや|せんせい|||めい|せん||うえ||へい||くろ|もめん||もん|つき||||よしみ|へいじ|ひら||した||りょうて||いれた|||おじゃま||し ます||あいさつ||
泰 然 たる もの だ 。
ひろし|ぜん|||
中野 君 は 挨拶 が 済んで から も 、 依然と して ま ぼ し そうに して いた が 、 やがて 思い切った 調子 で 「 あなた が 、 白井 道也 と おっしゃる んで 」 と 大 なる 好奇心 を もって 聞いた 。
なかの|きみ||あいさつ||すんで|||いぜん と|||||そう に|||||おもいきった|ちょうし||||しらい|みちや|||||だい||こうきしん|||きいた
聞か ん でも 名刺 を 見れば わかる はずだ 。
きか|||めいし||みれば||
それ を かよう に 聞く の は 世 馴 れ ぬ 文学 士 だ から である 。
||||きく|||よ|じゅん|||ぶんがく|し|||
「 はい 」 と 道也 先生 は 落ちついて いる 。
||みちや|せんせい||おちついて|
中野 君 の あて は 外れた 。
なかの|きみ||||はずれた
中野 君 は 名刺 を 見た 時 はっと 思って 、 頭 の なか は 追い出さ れた 中学校 の 教師 だけ に なって いる 。
なかの|きみ||めいし||みた|じ||おもって|あたま||||おいださ||ちゅうがっこう||きょうし||||
可哀想だ と 云 う 念頭 に 尾 羽 うち 枯らした 姿 を 目前 に 見て 、 あなた が 、 あの 中学校 で 生徒 から いじめられた 白井 さん です か と 聞き 糺し たくて なら ない 。
かわいそうだ||うん||ねんとう||お|はね||からした|すがた||もくぜん||みて||||ちゅうがっこう||せいと||いじめ られた|しらい|||||きき|ただし|||
いくら 気の毒で も 白井 違い で 気の毒 がった ので は 役 に 立た ない 。
|きのどくで||しらい|ちがい||きのどく||||やく||たた|
気の毒 がる ため に は 、 聞き 糺す ため に は 「 あなた が 白井 道也 と おっしゃる んで 」 と 切り出さ なくって は なら なかった 。
きのどく|||||きき|ただす||||||しらい|みちや|||||きりださ|なく って|||
しかし せっかく の 切り出し よう も 泰 然 たる 「 はい 」 の ため に 無駄 死 を して しまった 。
|||きりだし|||ひろし|ぜん||||||むだ|し|||
初心 なる 文学 士 は 二 の 句 を つぐ 元気 も 作 略 も ない のである 。
しょしん||ぶんがく|し||ふた||く|||げんき||さく|りゃく|||
人 に 同情 を 寄せたい と 思う とき 、 向 が 泰 然 の 具 足 で 身 を 固めて いて は 芝居 に は なら ん 。
じん||どうじょう||よせ たい||おもう||むかい||ひろし|ぜん||つぶさ|あし||み||かためて|||しばい||||
器用な もの は この 泰 然 の 一角 を 針 で 突き 透 して も 思 を 遂げる 。
きような||||ひろし|ぜん||いっかく||はり||つき|とおる|||おも||とげる
中野 君 は 好 人物 ながら それほど に 人 を 取り扱い 得る ほど 世の中 を 知ら ない 。
なかの|きみ||よしみ|じんぶつ||||じん||とりあつかい|える||よのなか||しら|
「 実は 今日 御邪魔 に 上がった の は 、 少々 御 願 が あって 参った のです が 」 と 今度 は 道也 先生 の 方 から 打って出る 。
じつは|きょう|おじゃま||あがった|||しょうしょう|ご|ねがい|||まいった||||こんど||みちや|せんせい||かた||うってでる
御 願 は 同情 の 好敵手 である 。
ご|ねがい||どうじょう||こうてきしゅ|
御 願 を 持た ない 人 に は 同情 する 張り 合 が ない 。
ご|ねがい||もた||じん|||どうじょう||はり|ごう||
「 は あ 、 何でも 出来ます 事 なら 」 と 中野 君 は 快く 承知 した 。
||なんでも|でき ます|こと|||なかの|きみ||こころよく|しょうち|
「 実は 今度 江 湖 雑誌 で 現代 青年 の 煩 悶 に 対する 解決 と 云 う 題 で 諸 先生 方 の 御 高 説 を 発表 する 計画 が あり まして 、 それ で 普通の 大家 ばかり で は 面白く ない と 云 う ので 、 なるべく 新しい 方 も それぞれ 訪問 する 訳 に なりました ので ―― そこ で 実は ちょっと 往って 来て くれ と 頼まれて 来た のです が 、 御 差 支 が なければ 、 御 話 を 筆記 して 参りたい と 思います 」 道也 先生 は 静かに 懐 から 手帳 と 鉛筆 を 取り出した 。
じつは|こんど|こう|こ|ざっし||げんだい|せいねん||わずら|もん||たいする|かいけつ||うん||だい||しょ|せんせい|かた||ご|たか|せつ||はっぴょう||けいかく||||||ふつうの|たいか||||おもしろく|||うん||||あたらしい|かた|||ほうもん||やく||なり ました||||じつは||おう って|きて|||たのま れて|きた|||ご|さ|し|||ご|はなし||ひっき||まいり たい||おもい ます|みちや|せんせい||しずかに|ふところ||てちょう||えんぴつ||とりだした
取り出し は した もの の 別に 筆記 したい 様子 も なければ 強いて 話さ せたい 景色 も 見え ない 。
とりだし|||||べつに|ひっき|し たい|ようす|||しいて|はなさ||けしき||みえ|
Although the child was retrieved, there was no indication that he wanted to write, nor did he appear to want to speak.
彼 は かかる 愚 な 問題 を 、 かかる 青年 の 口 から 解決 して 貰いたい と は 考えて いない 。
かれ|||ぐ||もんだい|||せいねん||くち||かいけつ||もらい たい|||かんがえて|
「 なるほど 」 と 青年 は 、 耀 やく 眼 を 挙げて 、 道也 先生 を 見た が 、 先生 は 宵 越 の 麦酒 ( ビール ) の ごとく 気 の 抜けた 顔 を して いる ので 、 今度 は 「 さよう 」 と 長く 引っ張って 下 を 向いて しまった 。
||せいねん||よう||がん||あげて|みちや|せんせい||みた||せんせい||よい|こ||ばくしゅ|びーる|||き||ぬけた|かお|||||こんど||||ながく|ひっぱって|した||むいて|
「 どう でしょう 、 何 か 御 説 は あります まい か 」 と 催促 を 義理 ずくめ に する 。
||なん||ご|せつ||あり ます||||さいそく||ぎり|||
ありません と 云ったら 、 すぐ 帰る 気 かも 知れ ない 。
あり ませ ん||うん ったら||かえる|き||しれ|
「 そう です ね 。
あったって 、 僕 の ような もの の 云 う 事 は 雑誌 へ 載せる 価値 は ありません よ 」 「 いえ 結構です 」 「 全体 どこ から 、 聞いて い らしった んです 。
あった って|ぼく|||||うん||こと||ざっし||のせる|かち||あり ませ ん|||けっこうです|ぜんたい|||きいて||らし った|
あまり 突然じゃ 纏った 話 の 出来る はず が ない です から 」 「 御 名前 は 社主 が 折々 雑誌 の 上 で 拝見 する そうで 」 「 いえ 、 どう し まして 」 と 中野 君 は 横 を 向いた 。
|とつぜんじゃ|まとった|はなし||できる||||||ご|なまえ||しゃしゅ||おりおり|ざっし||うえ||はいけん||そう で||||||なかの|きみ||よこ||むいた
「 何でも よい です から 、 少し 御 話し 下さい 」 「 そう です ね 」 と 青年 は 窓 の 外 を 見て 躊躇 して いる 。
なんでも||||すこし|ご|はなし|ください|||||せいねん||まど||がい||みて|ちゅうちょ||
「 せっかく 来た もの です から 」 「 じゃ 何 か 話しましょう 」 「 は あ 、 どうぞ 」 と 道也 先生 鉛筆 を 取り上げた 。
|きた|||||なん||はなし ましょう|||||みちや|せんせい|えんぴつ||とりあげた
「 いったい 煩 悶 と 云 う 言葉 は 近頃 だいぶ はやる ようだ が 、 大抵 は 当座 の もの で 、 いわゆる 三日坊主 の もの が 多い 。
|わずら|もん||うん||ことば||ちかごろ|||||たいてい||とうざ|||||みっかぼうず||||おおい
そんな 種類 の 煩 悶 は 世の中 が 始まって から 、 世の中 が なくなる まで 続く ので 、 ちっとも 問題 に は なら ない でしょう 」 「 ふん 」 と 道也 先生 は 下 を 向いた なり 、 鉛筆 を 動かして いる 。
|しゅるい||わずら|もん||よのなか||はじまって||よのなか||||つづく|||もんだい||||||||みちや|せんせい||した||むいた||えんぴつ||うごかして|
紙 の 上 を 滑ら す 音 が 耳 立って 聞える 。
かみ||うえ||すべら||おと||みみ|たって|きこえる
「 しかし 多く の 青年 が 一 度 は 必ず 陥る 、 また 必ず 陥る べく 自然 から 要求 せられて いる 深刻な 煩 悶 が 一 つ ある 。
|おおく||せいねん||ひと|たび||かならず|おちいる||かならず|おちいる||しぜん||ようきゅう|せら れて||しんこくな|わずら|もん||ひと||
……」 鉛筆 の 音 が する 。
えんぴつ||おと||
......" The sound of a pencil is heard.
「 それ は 何 だ と 云 う と ―― 恋 である ……」 道也 先生 は ぴたり と 筆記 を やめて 、 妙な 顔 を して 、 相手 を 見た 。
||なん|||うん|||こい||みちや|せんせい||||ひっき|||みょうな|かお|||あいて||みた
中野 君 は 、 今さら 気 が ついた ように ちょっと しょげ返った が 、 すぐ 気 を 取り 直して 、 あと を つづけた 。
なかの|きみ||いまさら|き|||||しょげかえった|||き||とり|なおして|||
「 ただ 恋 と 云 う と 妙に 御 聞き に なる かも 知れ ない 。
|こい||うん|||みょうに|ご|きき||||しれ|
I know it may sound strange to you if I say I am in love with you.
また 近頃 は あまり 恋愛 呼ば り を する の を 人 が 遠慮 する ようである が 、 この 種 の 煩 悶 は 大 なる 事実 であって 、 事実 の 前 に は いかなる もの も 頭 を 下げ ねば なら ぬ 訳 だ から どう する 事 も 出来 ない のである 」 道也 先生 は また 顔 を あげた 。
|ちかごろ|||れんあい|よば||||||じん||えんりょ|||||しゅ||わずら|もん||だい||じじつ||じじつ||ぜん||||||あたま||さげ||||やく|||||こと||でき|||みちや|せんせい|||かお||
しかし 彼 の 長い 蒼白 い 相 貌 の 一 微塵 だ も 動いて おら ん から 、 彼 の 心 の うち は 無論 わから ない 。
|かれ||ながい|そうはく||そう|ぼう||ひと|みじん|||うごいて||||かれ||こころ||||むろん||
「 我々 が 生涯 を 通じて 受ける 煩 悶 の うち で 、 もっとも 痛切な もっとも 深刻な 、 また もっとも 劇 烈 な 煩 悶 は 恋 より ほか に ないだろう と 思う のです 。
われわれ||しょうがい||つうじて|うける|わずら|もん|||||つうせつな||しんこくな|||げき|れつ||わずら|もん||こい||||||おもう|
それ で です ね 、 こう 云 う 強大な 威力 の ある もの だ から 、 我々 が 一 度 び この 煩 悶 の 炎 火 の うち に 入る と 非常な 変形 を うける のです 」 「 変形 ?
|||||うん||きょうだいな|いりょく||||||われわれ||ひと|たび|||わずら|もん||えん|ひ||||はいる||ひじょうな|へんけい||||へんけい
です か 」 「 ええ 形 を 変 ずる のです 。
|||かた||へん||
今 まで は ただ ふわふわ 浮いて いた 。
いま|||||ういて|
世の中 と 自分 の 関係 が よく わから ないで 、 の ん べん ぐ ら りん に 暮らして いた の が 、 急に 自分 が 明瞭に なる んです 」 「 自分 が 明瞭 と は ?
よのなか||じぶん||かんけい||||||||||||くらして||||きゅうに|じぶん||めいりょうに|||じぶん||めいりょう||
」 「 自分 の 存在 が です 。
じぶん||そんざい||
自分 が 生きて いる ような 心持ち が 確然 と 出て くる のです 。
じぶん||いきて|||こころもち||かくぜん||でて||
だから 恋 は 一方 から 云 えば 煩 悶 に 相違 ない が 、 しかし この 煩 悶 を 経過 し ない と 自分 の 存在 を 生涯 悟る 事 が 出来 ない のです 。
|こい||いっぽう||うん||わずら|もん||そうい|||||わずら|もん||けいか||||じぶん||そんざい||しょうがい|さとる|こと||でき||
この 浄 罪 界 に 足 を 入れた もの で なければ けっして 天国 へ は 登れ まい と 思う のです 。
|きよし|ざい|かい||あし||いれた|||||てんごく|||のぼれ|||おもう|
ただ 楽天 だって しようがない 。
|らくてん||
恋 の 苦み を 甞 め て 人生 の 意義 を 確かめた 上 の 楽天 で なくっちゃ 、 うそ です 。
こい||にがみ||しょう|||じんせい||いぎ||たしかめた|うえ||らくてん||||
それ だ から 恋 の 煩 悶 は けっして 他の 方法 に よって 解決 さ れ ない 。
|||こい||わずら|もん|||たの|ほうほう|||かいけつ|||
恋 を 解決 する もの は 恋 より ほか に ないで す 。
こい||かいけつ||||こい|||||
恋 は 吾人 を して 煩 悶 せ しめて 、 また 吾人 を して 解脱 せ しむ る のである 。
こい||ごじん|||わずら|もん||||ごじん|||げだつ||||
……」 「 その くらい な ところ で 」 と 道也 先生 は 三 度 目 に 顔 を 挙げた 。
||||||みちや|せんせい||みっ|たび|め||かお||あげた
「 まだ 少し ある んです が ……」 「 承る の は いい です が 、 だいぶ 多人数 の 意見 を 載せる つもりです から 、 かえって あと から 削除 する と 失礼に なります から 」 「 そう です か 、 それ じゃ その くらい に して 置きましょう 。
|すこし||||うけたまわる|||||||たにんずう||いけん||のせる||||||さくじょ|||しつれいに|なり ます|||||||||||おき ましょう
何だか こんな 話 を する の は 始めて です から 、 さぞ 筆記 し にくかった でしょう 」 「 いいえ 」 と 道也 先生 は 手帳 を 懐 へ 入れた 。
なんだか||はなし|||||はじめて||||ひっき||||||みちや|せんせい||てちょう||ふところ||いれた
青年 は 筆記 者 が 自分 の 説 を 聴いて 、 感心 の 余り 少し は 賛辞 でも 呈する か と 思った が 、 相手 は 例 の ごとく 泰 然 と して ただ いいえ と 云った のみ である 。
せいねん||ひっき|もの||じぶん||せつ||きいて|かんしん||あまり|すこし||さんじ||ていする|||おもった||あいて||れい|||ひろし|ぜん||||||うん った||
「 いや これ は 御邪魔 を しました 」 と 客 は 立ち かける 。
|||おじゃま||し ました||きゃく||たち|
「 まあ いい でしょう 」 と 中野 君 は とめた 。
||||なかの|きみ||
せめて 自分 の 説 を 少々 でも 批評 して 行って 貰いたい のである 。
|じぶん||せつ||しょうしょう||ひひょう||おこなって|もらい たい|
それ で なくて も 、 せんだって 日比谷 で 聞いた 高柳 君 の 事 を ちょっと 好奇心 から 、 あたって 見たい のである 。
|||||ひびや||きいた|たかやなぎ|きみ||こと|||こうきしん|||み たい|
一言 に して 云 えば 中野 君 は ひまな のである 。
いちげん|||うん||なかの|きみ|||
「 いえ 、 せっかく です が 少々 急ぎます から 」 と 客 は もう 椅子 を 離れて 、 一 歩 テーブル を 退いた 。
||||しょうしょう|いそぎ ます|||きゃく|||いす||はなれて|ひと|ふ|てーぶる||しりぞいた
いかに ひまな 中野 君 も 「 それでは 」 と ついに 降参 して 御辞儀 を する 。
||なかの|きみ|||||こうさん||おじぎ||
Even Nakano, who had no time to spare, finally surrendered and bowed.
玄関 まで 送って 出た 時 思い切って 「 あなた は 、 もしや 高柳 周作 と 云 う 男 を 御存じ じゃ ない です か 」 と 念 晴らし の ため 聞いて 見る 。
げんかん||おくって|でた|じ|おもいきって||||たかやなぎ|しゅうさく||うん||おとこ||ごぞんじ||||||ねん|はらし|||きいて|みる
「 高柳 ?
たかやなぎ
どうも 知ら ん ようです 」 と 沓 脱 から 片足 を タタキ へ おろして 、 高い 背 を 半分 後ろ へ 捩じ 向けた 。
|しら||||くつ|だつ||かたあし|||||たかい|せ||はんぶん|うしろ||ねじ|むけた
「 ことし 大学 を 卒業 した ……」 「 それ じゃ 知ら ん 訳 だ 」 と 両足 と も タタキ の 上 へ 運んだ 。
|だいがく||そつぎょう||||しら||やく|||りょうあし|||||うえ||はこんだ
中野 君 は まだ 何 か 云 おうと した 時 、 敷石 を がらがら と 車 の 軋 る 音 が して 梶 棒 は 硝子 ( ガラス ) の 扉 の 前 に とまった 。
なかの|きみ|||なん||うん|||じ|しきいし||||くるま||きし||おと|||かじ|ぼう||がらす|がらす||とびら||ぜん||
道也 先生 が 扉 を 開く 途端 に 車 上 の 人 は ひらり 厚い 雪 駄 を 御影 の 上 に 落した 。
みちや|せんせい||とびら||あく|とたん||くるま|うえ||じん|||あつい|ゆき|だ||みかげ||うえ||おとした
五色 の 雲 が わが 眼 を 掠 め て 過ぎた 心持ち で 往来 へ 出る 。
ごしき||くも|||がん||りゃく|||すぎた|こころもち||おうらい||でる
時計 は もう 四 時 過ぎ である 。
とけい|||よっ|じ|すぎ|
深い 碧 り の 上 へ 薄い セピヤ を 流した 空 の なか に 、 はっきり せ ぬ 鳶 が 一 羽 舞って いる 。
ふかい|みどり|||うえ||うすい|||ながした|から|||||||とび||ひと|はね|まって|
雁 は まだ 渡って 来 ぬ 。
がん|||わたって|らい|
The geese have not yet crossed.
向 から 袴 の 股 立ち を 取った 小 供 が 唱歌 を 謡 いながら 愉快 そうに あるいて 来た 。
むかい||はかま||また|たち||とった|しょう|とも||しょうか||うたい||ゆかい|そう に||きた
肩 に 担いだ 笹 の 枝 に は 草 の 穂 で 作った 梟 が 踊り ながら ぶら下がって 行く 。
かた||かついだ|ささ||えだ|||くさ||ほ||つくった|ふくろう||おどり||ぶらさがって|いく
おおかた 雑 子 ヶ 谷 へ でも 行った のだろう 。
|ざつ|こ||たに|||おこなった|
軒 の 深い 菓物 屋 の 奥 の 方 に 柿 ばかり が あかるく 見える 。
のき||ふかい|かもの|や||おく||かた||かき||||みえる
夕 暮 に 近づく と 何となく うそ 寒い 。
ゆう|くら||ちかづく||なんとなく||さむい
薬 王寺 前 に 来た の は 、 帽子 の 庇 の 下 から 往来 の 人 の 顔 が しかと 見分け の つか ぬ 頃 である 。
くすり|おおじ|ぜん||きた|||ぼうし||ひさし||した||おうらい||じん||かお|||みわけ||||ころ|
三十三 所 と 彫って ある 石 標 を 右 に 見て 、 紺屋 の 横 町 を 半 丁 ほど 西 へ 這 入る と わが家 の 門口 へ 出る 、 家 の なか は 暗い 。
さんじゅうさん|しょ||ほって||いし|しるべ||みぎ||みて|こうや||よこ|まち||はん|ちょう||にし||は|はいる||わがや||かどぐち||でる|いえ||||くらい
「 おや 御 帰り 」 と 細 君 が 台所 で 云 う 。
|ご|かえり||ほそ|きみ||だいどころ||うん|
台所 も 玄関 も 大した 相違 の ない ほど 小さな 家 である 。
だいどころ||げんかん||たいした|そうい||||ちいさな|いえ|
The house is so small that the kitchen and the entrance are not much different.
「 下 女 は どっか へ 行った の か 」 と 二 畳 の 玄関 から 、 六 畳 の 座敷 へ 通る 。
した|おんな||ど っか||おこなった||||ふた|たたみ||げんかん||むっ|たたみ||ざしき||とおる
「 ちょっと 、 柳町 まで 使 に 行きました 」 と 細 君 は また 台所 へ 引き返す 。
|やなぎまち||つか||いき ました||ほそ|きみ|||だいどころ||ひきかえす
道也 先生 は 正面 の 床 の 片隅 に 寄せて あった 、 洋 灯 ( ランプ ) を 取って 、 椽側 へ 出て 、 手 ず から 掃除 を 始めた 。
みちや|せんせい||しょうめん||とこ||かたすみ||よせて||よう|とう|らんぷ||とって|たるきがわ||でて|て|||そうじ||はじめた
何 か 原稿 用紙 の ような もの で 、 油 壺 を 拭き 、 ほ や を 拭き 、 最後に 心 の 黒い 所 を 好い加減に な すくって 、 丸めた 紙 は 庭 へ 棄 て た 。
なん||げんこう|ようし|||||あぶら|つぼ||ふき||||ふき|さいごに|こころ||くろい|しょ||いいかげんに|||まるめた|かみ||にわ||き||
庭 は 暗く なって 様子 が 頓 と わから ない 。
にわ||くらく||ようす||とん|||
机 の 前 へ 坐った 先生 は 燐 寸 ( マッチ ) を 擦って 、 しゅっと 云 う 間 に 火 を ランプ に 移した 。
つくえ||ぜん||すわった|せんせい||りん|すん|まっち||かすって|しゅ っと|うん||あいだ||ひ||らんぷ||うつした
室 は たちまち 明か に なる 。
しつ|||あか||
道也 先生 の ため に 云 えば むしろ 明 かるく なら ぬ 方 が 増しである 。
みちや|せんせい||||うん|||あき||||かた||ましである
床 は ある が 、 言訳 ばかり で 、 現に 幅 も 何も 懸って おら ん 。
とこ||||いいわけ|||げんに|はば||なにも|かかって||
その代り 累 々 と 書物 やら 、 原稿 紙 やら 、 手帳 やら が 積んで ある 。
そのかわり|るい|||しょもつ||げんこう|かみ||てちょう|||つんで|
机 は 白木 の 三 宝 を 大きく した くらい な 単 簡 な もの で 、 インキ 壺 と 粗末な 筆 硯 の ほか に は 何物 を も 載せて おら ぬ 。
つくえ||しらき||みっ|たから||おおきく||||ひとえ|かん||||いんき|つぼ||そまつな|ふで|すずり|||||なにもの|||のせて||
装飾 は 道也 先生 に とって 不必要である の か 、 または 必要で も これ に 耽 る 余裕 が ない の か は 疑問 である 。
そうしょく||みちや|せんせい|||ふひつようである||||ひつようで||||たん||よゆう||||||ぎもん|
ただ 道也 先生 が この 一 点 の 温 気 なき 陋室 に 、 晏如 と して 筆 硯 を 呵 す る の 勇気 ある は 、 外部 より 見て 争う べ から ざる 事実 である 。
|みちや|せんせい|||ひと|てん||ぬる|き||ろうしつ||あんじょ|||ふで|すずり||か||||ゆうき|||がいぶ||みて|あらそう||||じじつ|
ことに よる と 先生 は 装飾 以外 の ある もの を 目的 に して 、 生活 して いる の かも 知れ ない 。
|||せんせい||そうしょく|いがい|||||もくてき|||せいかつ|||||しれ|
ただ この 争う べ から ざる 事実 を 確 め れば 、 確かめる ほど 細 君 は 不愉快である 。
||あらそう||||じじつ||かく|||たしかめる||ほそ|きみ||ふゆかいである
女 は 装飾 を もって 生れ 、 装飾 を もって 死ぬ 。
おんな||そうしょく|||うまれ|そうしょく|||しぬ
多数 の 女 は わが 運命 を 支配 する 恋 さえ も 装飾 視 して 憚 から ぬ もの だ 。
たすう||おんな|||うんめい||しはい||こい|||そうしょく|し||はばか||||
恋 が 装飾 ならば 恋 の 本尊 たる 愛人 は 無論 装飾 品 である 。
こい||そうしょく||こい||ほんぞん||あいじん||むろん|そうしょく|しな|
否 、 自己 自身 すら 装飾 品 を もって 甘んずる のみ なら ず 、 装飾 品 を もって 自己 を 目して くれ ぬ 人 を 評して 馬鹿 と 云 う 。
いな|じこ|じしん||そうしょく|しな|||あまんずる||||そうしょく|しな|||じこ||もくして|||じん||ひょうして|ばか||うん|
しかし 多数 の 女 は しかく 人 世 を 観 ずる に も かかわら ず 、 しかく 観 ずる と は けっして 思わ ない 。
|たすう||おんな|||じん|よ||かん|||||||かん|||||おもわ|
ただ 自己 の 周囲 を 纏 綿 する 事物 や 人間 が この 装飾 用 の 目的 に 叶わ ぬ を 発見 する とき 、 何となく 不愉快 を 受ける 。
|じこ||しゅうい||まと|めん||じぶつ||にんげん|||そうしょく|よう||もくてき||かなわ|||はっけん|||なんとなく|ふゆかい||うける
不愉快 を 受ける と 云 うの に 周囲 の 事物 人間 が 依然と して 旧態 を あらため ぬ 時 、 わが 眼 に 映 ずる 不愉快 を 左右 前後 に 反射 して 、 これ でも 改め ぬ か と 云 う 。
ふゆかい||うける||うん|||しゅうい||じぶつ|にんげん||いぜん と||きゅうたい||||じ||がん||うつ||ふゆかい||さゆう|ぜんご||はんしゃ||||あらため||||うん|
ついに は これ でも か 、 これ でも か と 念入り の 不愉快 を 反射 する 。
|||||||||ねんいり||ふゆかい||はんしゃ|
道也 の 細 君 が ここ まで 進歩 して いる か は 疑問 である 。
みちや||ほそ|きみ||||しんぽ|||||ぎもん|
しか し 普通 一般 の 女性 である からに は 装飾 気 なき この 空気 の うち に 生息 する 結果 と して 、 自然 この 方向 に 進行 する の が 順当であろう 。
||ふつう|いっぱん||じょせい||||そうしょく|き|||くうき||||せいそく||けっか|||しぜん||ほうこう||しんこう||||じゅんとうであろう
現に 進行 し つつ ある かも 知れ ぬ 。
げんに|しんこう|||||しれ|
道也 先生 は やがて 懐 から 例の 筆記 帳 を 出して 、 原稿 紙 の 上 へ 写し 始めた 。
みちや|せんせい|||ふところ||れいの|ひっき|ちょう||だして|げんこう|かみ||うえ||うつし|はじめた
袴 を 着けた まま である 。
はかま||つけた||
かしこまった まま である 。
袴 を 着けた まま 、 かしこまった まま で 、 中野 輝一 の 恋愛 論 を 筆記 して いる 。
はかま||つけた|||||なかの|きいち||れんあい|ろん||ひっき||
恋 と この 室 、 恋 と この 道也 と は とうてい 調和 し ない 。
こい|||しつ|こい|||みちや||||ちょうわ||
道也 は 何と 思って 浄 書 して いる か しら ん 。
みちや||なんと|おもって|きよし|しょ|||||
人 は 様々である 、 世 も 様々である 。
じん||さまざまである|よ||さまざまである
様々の 世に 、 様々の 人 が 動く の も また 自然の 理 である 。
さまざまの|よに|さまざまの|じん||うごく||||しぜんの|り|
ただ 大きく 動く もの が 勝ち 、 深く 動く もの が 勝た ねば なら ぬ 。
|おおきく|うごく|||かち|ふかく|うごく|||かた|||
道也 は 、 あの 金 縁 の 眼鏡 を 掛けた 恋愛 論 より も 、 小さく かつ 浅い と 自覚 して 、 かく 慎重に 筆記 を 写し 直して いる のであろう か 。
みちや|||きむ|えん||めがね||かけた|れんあい|ろん|||ちいさく||あさい||じかく|||しんちょうに|ひっき||うつし|なおして|||
床 の 後ろ で が 鳴いて いる 。
とこ||うしろ|||ないて|
細 君 が 襖 を すう と 開けた 。
ほそ|きみ||ふすま||||あけた
道也 は 振り向き も し ない 。
みちや||ふりむき|||
「 まあ 」 と 云った なり 細 君 の 顔 は 隠れた 。
||うん った||ほそ|きみ||かお||かくれた
下 女 は 帰った ようである 。
した|おんな||かえった|
煮豆 が 切れた から 、 てっか 味噌 を 買って 来た と 云って いる 。
にまめ||きれた||てっ か|みそ||かって|きた||うん って|
豆腐 が 五 厘 高く なった と 云って いる 。
とうふ||いつ|りん|たかく|||うん って|
裏 の 専念 寺 で 夕 の 御 務め を か あんか あん やって いる 。
うら||せんねん|てら||ゆう||ご|つとめ||||||
細 君 の 顔 が また 襖 の 後ろ から 出た 。
ほそ|きみ||かお|||ふすま||うしろ||でた
「 あなた 」 道也 先生 は 、 いつの間に やら 、 筆記 帳 を 閉じて 、 今度 は また 別の 紙 へ 、 何 か 熱心に 認めて いる 。
|みちや|せんせい||いつのまに||ひっき|ちょう||とじて|こんど|||べつの|かみ||なん||ねっしんに|みとめて|
「 あなた 」 と 妻君 は 二 度 呼んだ 。
||さいくん||ふた|たび|よんだ
「 何 だい 」 「 御飯 です 」 「 そう か 、 今 行く よ 」 道也 先生 は ちょっと 細 君 と 顔 を 合せ たぎり 、 すぐ 机 へ 向った 。
なん||ごはん||||いま|いく||みちや|せんせい|||ほそ|きみ||かお||あわせ|||つくえ||む った
細 君 の 顔 も すぐ 消えた 。
ほそ|きみ||かお|||きえた
台所 の 方 で くすくす 笑う 声 が する 。
だいどころ||かた|||わらう|こえ||
道也 先生 は この 一節 を かき 終る まで は 飯 も 食い たく ない のだろう 。
みちや|せんせい|||いっせつ|||おわる|||めし||くい|||
やがて 句切り の よい 所 へ 来た と 見えて 、 ちょっと 筆 を 擱 いて 、 傍 へ 積んだ 草稿 を はぐって 見て 「 二百三十一 頁 ( ページ )」 と 独 語 した 。
|くぎり|||しょ||きた||みえて||ふで||かく||そば||つんだ|そうこう||はぐ って|みて|にひゃくさんじゅういち|ぺーじ|ぺーじ||どく|ご|
著述 でも して いる と 見える 。
ちょじゅつ|||||みえる
立って 次の 間 へ 這 入る 。
たって|つぎの|あいだ||は|はいる
小さな 長火鉢 に 平 鍋 が かかって 、 白い 豆腐 が 煙り を 吐いて 、 ぷる ぷる 顫 えて いる 。
ちいさな|ながひばち||ひら|なべ|||しろい|とうふ||けむり||はいて|||せん||
「 湯豆腐 かい 」 「 は あ 、 何にも なくて 、 御 気の毒です が ……」 「 何 、 なんでも いい 。
ゆどうふ||||なんにも||ご|きのどくです||なん||
食って さえ いれば 何でも 構わ ない 」 と 、 膳 に して 重箱 を かね たる ごとき 四角な もの の 前 へ 坐って 箸 を 執る 。
くって|||なんでも|かまわ|||ぜん|||じゅうばこ|||||しかくな|||ぜん||すわって|はし||とる
「 あら 、 まだ 袴 を 御 脱ぎ なさら ない の 、 随分 ね 」 と 細 君 は 飯 を 盛った 茶碗 を 出す 。
||はかま||ご|ぬぎ||||ずいぶん|||ほそ|きみ||めし||もった|ちゃわん||だす
「 忙 が しい もの だ から 、 つい 忘れた 」 「 求めて 、 忙 が しい 思 を して いらっしゃる のだ から 、……」 と 云った ぎり 、 細 君 は 、 湯豆腐 の 鍋 と 鉄瓶 と を 懸け 換える 。
ぼう|||||||わすれた|もとめて|ぼう|||おも|||||||うん った||ほそ|きみ||ゆどうふ||なべ||てつびん|||かけ|かえる
「 そう 見える かい 」 と 道也 先生 は 存外 平気である 。
|みえる|||みちや|せんせい||ぞんがい|へいきである
「 だって 、 楽で 御 金 の 取れる 口 は 断って おしまい な すって 、 忙 が しくって 、 一 文 に も なら ない 事 ばかり なさる んです もの 、 誰 だって 酔 興 と 思います わ 」 「 思われて も しようがない 。
|らくで|ご|きむ||とれる|くち||たって||||ぼう||しく って|ひと|ぶん|||||こと|||||だれ||よ|きょう||おもい ます||おもわ れて||
これ が おれ の 主義 な んだ から 」 「 あなた は 主義 だ から それ で いい でしょう さ 。
||||しゅぎ||||||しゅぎ|||||||
I'm not going to say, "This is my principle," but "You are my principle, and that's all right.
しかし 私 は ……」 「 御前 は 主義 が 嫌だ と 云 う の か ね 」 「 嫌 も 好 も ない んです けれども 、 せめて ―― 人並に は ―― なんぼ 私 だって ……」 「 食え さえ すれば いい じゃ ない か 、 贅沢 を 云 や 誰 だって 際限 は ない 」 「 どうせ 、 そう でしょう 。
|わたくし||おまえ||しゅぎ||いやだ||うん|||||いや||よしみ||||||ひとなみに|||わたくし||くえ|||||||ぜいたく||うん||だれ||さいげん|||||
私 なん ざ どんなに なって も 御構い な すっちゃ 下さら ない のでしょう 」 「 この てっか 味噌 は 非常に 辛い な 。
わたくし||||||おかまい|||くださら||||てっ か|みそ||ひじょうに|からい|
どこ で 買って 来た のだ 」 「 どこ です か 」 道也 先生 は 頭 を あげて 向 の 壁 を 見た 。
||かって|きた|||||みちや|せんせい||あたま|||むかい||かべ||みた
鼠色 の 寒い 色 の 上 に 大きな 細 君 の 影 が 写って いる 。
ねずみいろ||さむい|いろ||うえ||おおきな|ほそ|きみ||かげ||うつって|
その 影 と 妻君 と は 同じ ように 無 意義 に 道也 の 眼 に 映 じた 。
|かげ||さいくん|||おなじ||む|いぎ||みちや||がん||うつ|
影 の 隣り に 糸 織 か と も 思わ れる 、 女 の 晴 衣 が 衣 紋 竹 に つるして かけて ある 。
かげ||となり||いと|お||||おもわ||おんな||はれ|ころも||ころも|もん|たけ||||
細 君 の もの に して は 少し 派出 過ぎる が 、 これ は 多少 景気 の いい 時 、 田舎 で 買って やった もの だ と 今 だに 記憶 して いる 。
ほそ|きみ||||||すこし|はしゅつ|すぎる||||たしょう|けいき|||じ|いなか||かって|||||いま||きおく||
あの 時分 は 今 と は だいぶ 考え も 違って いた 。
|じぶん||いま||||かんがえ||ちがって|
己 れ と 同じ ような 思想 やら 、 感情 やら 持って いる もの は 珍 らしく ある まい と 信じて いた 。
おのれ|||おなじ||しそう||かんじょう||もって||||ちん|||||しんじて|
したがって 文筆 の 力 で 自分 から 卒 先 して 世間 を 警醒 しよう と 云 う 気 に も なら なかった 。
|ぶんぴつ||ちから||じぶん||そつ|さき||せけん||けいせい|||うん||き||||
今 は まるで 反対だ 。
いま|||はんたいだ
世 は 名門 を 謳歌 する 、 世 は 富豪 を 謳歌 する 、 世 は 博士 、 学士 まで を も 謳歌 する 。
よ||めいもん||おうか||よ||ふごう||おうか||よ||はかせ|がくし||||おうか|
しかし 公正な 人格 に 逢う て 、 位 地 を 無にし 、 金銭 を 無にし 、 もしくは その 学力 、 才 芸 を 無にして 、 人格 そのもの を 尊敬 する 事 を 解して おら ん 。
|こうせいな|じんかく||あう||くらい|ち||むにし|きんせん||むにし|||がくりょく|さい|げい||むにして|じんかく|その もの||そんけい||こと||かいして||
人間 の 根本 義 たる 人格 に 批判 の 標準 を 置か ず して 、 その 上皮 たる 附属 物 を もって すべて を 律しよう と する 。
にんげん||こんぽん|ただし||じんかく||ひはん||ひょうじゅん||おか||||じょうひ||ふぞく|ぶつ|||||りっしよう||
この 附属 物 と 、 公正なる 人格 と 戦う とき 世間 は 必ず 、 この 附属 物 に 雷 同 して 他の 人格 を 蹂躙 せ ん と 試みる 。
|ふぞく|ぶつ||こうせいなる|じんかく||たたかう||せけん||かならず||ふぞく|ぶつ||かみなり|どう||たの|じんかく||じゅうりん||||こころみる
天下一 人 の 公正なる 人格 を 失う とき 、 天下一 段 の 光明 を 失う 。
てんかいち|じん||こうせいなる|じんかく||うしなう||てんかいち|だん||こうみょう||うしなう
公正なる 人格 は 百 の 華族 、 百 の 紳商 、 百 の 博士 を もって する も 償い がたき ほど 貴き もの である 。
こうせいなる|じんかく||ひゃく||かぞく|ひゃく||しんしょう|ひゃく||はかせ|||||つぐない|||とうとき||
われ は この 人格 を 維持 せ ん が ため に 生れ たる の ほか 、 人 世に おいて 何ら の 意義 を も 認め 得 ぬ 。
|||じんかく||いじ||||||うまれ||||じん|よに||なんら||いぎ|||みとめ|とく|
寒 に 衣 し 、 餓 に 食する は この 人格 を 維持 する の 一 便法 に 過ぎ ぬ 。
さむ||ころも||が||しょくする|||じんかく||いじ|||ひと|べんぽう||すぎ|
筆 を 呵 し 硯 を 磨 する の も また この 人格 を 他の 面 上 に 貫徹 する の 方策 に 過ぎ ぬ 。
ふで||か||すずり||みがく||||||じんかく||たの|おもて|うえ||かんてつ|||ほうさく||すぎ|
―― これ が 今 の 道也 の 信念 である 。
||いま||みちや||しんねん|
この 信念 を 抱いて 世に 処する 道也 は 細 君 の 御機嫌 ばかり 取って は おれ ぬ 。
|しんねん||いだいて|よに|しょする|みちや||ほそ|きみ||ごきげん||とって|||
壁 に 掛けて あった 小 袖 を 眺めて いた 道也 は しばらく して 、 夕飯 を 済まし ながら 、 「 どこ ぞ へ 行った の かい 」 と 聞く 。
かべ||かけて||しょう|そで||ながめて||みちや||||ゆうはん||すまし|||||おこなった||||きく
「 ええ 」 と 細 君 は 二 字 の 返事 を 与えた 。
||ほそ|きみ||ふた|あざ||へんじ||あたえた
道也 は 黙って 、 茶 を 飲んで いる 。
みちや||だまって|ちゃ||のんで|
末 枯 る る 秋 の 時節 だけ に すこぶる 閑静な 問答 である 。
すえ|こ|||あき||じせつ||||かんせいな|もんどう|
「 そう 、 べん べん と 真田 の 方 を 引っ張っと く 訳 に も 行き ませ ず 、 家主 の 方 も どうかしなければ なら ず 、 今月 の 末 に なる と 米 薪 の 払 で また 心配 し なくっちゃ なりません から 、 算段 に 出掛けた んです 」 と 今度 は 細 君 の 方 から 切り出した 。
||||さなだ||かた||ひっぱ っと||やく|||いき|||やぬし||かた||どうかし なければ|||こんげつ||すえ||||べい|まき||はら|||しんぱい|||なり ませ ん||さんだん||でかけた|||こんど||ほそ|きみ||かた||きりだした
「 そう か 、 質屋 へ でも 行った の かい 」 「 質 に 入れる ような もの は 、 もう ありゃ しません わ 」 と 細 君 は 恨めし そうに 夫 の 顔 を 見る 。
||しちや|||おこなった|||しち||いれる||||||し ませ ん|||ほそ|きみ||うらめし|そう に|おっと||かお||みる
「 じゃ 、 どこ へ 行った ん だい 」 「 どこって 、 別に 行く 所 も ありません から 、 御 兄さん の 所 へ 行きました 」 「 兄 の 所 ?
|||おこなった|||どこ って|べつに|いく|しょ||あり ませ ん||ご|にいさん||しょ||いき ました|あに||しょ
駄目だ よ 。
だめだ|
兄 の 所 な ん ぞ へ 行ったって 、 何 に なる もの か 」 「 そう 、 あなた は 、 何でも 始 から 、 けなして おしま い なさる から 、 よく ない んです 。
あに||しょ|||||おこなった って|なん||||||||なんでも|はじめ|||||||||
いくら 教育 が 違う からって 、 気性 が 合わ ない からって 、 血 を 分けた 兄弟 じゃ ありません か 」 「 兄弟 は 兄弟 さ 。
|きょういく||ちがう|から って|きしょう||あわ||から って|ち||わけた|きょうだい||あり ませ ん||きょうだい||きょうだい|
兄弟 で ない と は 云 わん 」 「 だ から さ 、 膝 と も 談合 と 云 う じゃ ありません か 。
きょうだい|||||うん|||||ひざ|||だんごう||うん|||あり ませ ん|
こんな 時 に は 、 ちっと 相談 に いらっしゃる が いい じゃ ありません か 」 「 おれ は 、 行か ん よ 」 「 それ が 痩我慢 です よ 。
|じ|||ち っと|そうだん||||||あり ませ ん||||いか|||||やせがまん||
あなた は それ が 癖 な んです よ 。
||||くせ|||
損じゃ あ 、 ありません か 、 好んで 人 に 嫌われて ……」 道也 先生 は 空 然 と して 壁 に 動く 細 君 の 影 を 見て いる 。
そんじゃ||あり ませ ん||このんで|じん||きらわ れて|みちや|せんせい||から|ぜん|||かべ||うごく|ほそ|きみ||かげ||みて|
「 それ で 才覚 が 出来た の かい 」 「 あなた は 何でも 一足 飛 ね 」 「 なに が 」 「 だって 、 才覚 が 出来る 前 に は それぞれ 魂胆 も あれば 工面 も ある じゃ ありません か 」 「 そう か 、 それ じゃ 最初 から 聞き 直そう 。
||さいかく||できた|||||なんでも|ひとあし|と|||||さいかく||できる|ぜん||||こんたん|||くめん||||あり ませ ん||||||さいしょ||きき|なおそう
で 、 御前 が 兄 の うち へ 行った んだ ね 。
|おまえ||あに||||おこなった||
おれ に 内 所 で 」 「 内 所 だって 、 あなた の ため じゃ ありません か 」 「 いい よ 、 ため で いい よ 。
||うち|しょ||うち|しょ||||||あり ませ ん|||||||
それ から 」 「 で 御 兄さん に 、 御 目 に 懸って いろいろ 今 まで の 御無沙汰 の 御 詫 やら 、 何やら して 、 それ から 一部始終 の 御 話 を した んです 」 「 それ から 」 「 する と 御 兄さん が 、 そりゃ 御前 に は 大変 気の毒だって 大変 私 に 同情 して 下さって ……」 「 御前 に 同情 した 。
|||ご|にいさん||ご|め||かかって||いま|||ごぶさた||ご|た||なにやら||||いちぶしじゅう||ご|はなし||||||||ご|にいさん|||おまえ|||たいへん|きのどく だって|たいへん|わたくし||どうじょう||くださって|おまえ||どうじょう|
ふうん 。
―― ちょっと その 炭 取 を 取れ 。
||すみ|と||とれ
炭 を つが ない と 火種 が 切れる 」 「 で 、 そりゃ 早く 整理 し なくっちゃ 駄目だ 。
すみ|||||ひだね||きれる|||はやく|せいり|||だめだ
全体 なぜ 今 まで 抛って 置いた ん だって おっしゃる んです 」 「 旨 い 事 を 云 わ あ 」 「 まだ 、 あなた は 御 兄さん を 疑って いらっしゃる の ね 。
ぜんたい||いま||なげうって|おいた|||||むね||こと||うん||||||ご|にいさん||うたがって|||
罰 が あたります よ 」 「 それ で 、 金 でも 貸した の かい 」 「 ほら また 一足飛び を なさる 」 道也 先生 は 少々 おかしく なった と 見えて 、 に やり と 下 を 向き ながら 、 黒く 積んだ 炭 を 吹き出した 。
ばち||あたり ます||||きむ||かした|||||いっそくとび|||みちや|せんせい||しょうしょう||||みえて||||した||むき||くろく|つんだ|すみ||ふきだした
「 まあ どの くらい あれば 、 これ まで の 穴 が 奇麗に 埋る の か と 御 聞き に なる から 、―― よっぽど 言い悪かった んです けれども ―― とうとう 思い切って ね ……」 で ちょっと 留めた 。
|||||||あな||きれいに|うずまる||||ご|きき|||||いいにくかった||||おもいきって||||とどめた
道也 は しきりに 吹いて いる 。
みちや|||ふいて|
「 ねえ 、 あなた 。
とうとう 思い切って ね ―― あなた 。
|おもいきって||
聞いて いらっしゃら ない の 」 「 聞いて る よ 」 と 赫気 で 赤く なった 顔 を あげた 。
きいて||||きいて||||せきき||あかく||かお||
「 思い切って 百 円 ばかり と 云った の 」 「 そう か 。
おもいきって|ひゃく|えん|||うん った|||
I said, "I'm going to go out on a limb and ask for a hundred yen or so.
兄 は 驚 ろ いたろう 」 「 そう したら ね 。
あに||おどろ|||||
ふうん て 考えて 、 百 円 と 云 う 金 は 、 なかなか 容易に 都合 が つく 訳 の もの じゃ ない ……」 「 兄 の 云 い そうな 事 だ 」 「 まあ 聞いて いらっしゃい 。
||かんがえて|ひゃく|えん||うん||きむ|||よういに|つごう|||やく|||||あに||うん||そう な|こと|||きいて|
The first thing you need to do is to find a good place to put your money.
まだ 、 あと が 有る んです 。
|||ある|
―― しかし 、 ほか の 事 と は 違う から 、 是非 なければ 困る と 云 う なら おれ が 保証人 に なって 、 人 から 借りて やって も いいって 仰 しゃ る んです 」 「 あやしい もの だ 」 「 まあ さ 、 しまい まで 御 聞き なさい 。
|||こと|||ちがう||ぜひ||こまる||うん|||||ほしょうにん|||じん||かりて|||い いって|あお|||||||||||ご|きき|
―― それ で 、 ともかくも 本人 に 逢って 篤と 了 簡 を 聞いた 上 に しよう と 云 う ところ まで に 漕ぎつけて 来た のです 」 細 君 は 大 功名 を した ように 頬 骨 の 高い 顔 を 持ち上げて 、 夫 を 覗き込んだ 。
|||ほんにん||あって|とくと|さとる|かん||きいた|うえ||||うん|||||こぎつけて|きた||ほそ|きみ||だい|こうみょう||||ほお|こつ||たかい|かお||もちあげて|おっと||のぞきこんだ
細 君 の 眼 つき が 云 う 。
ほそ|きみ||がん|||うん|
The eyes of the little boy said, "I'm not a good person.
夫 は 意気地なし である 。
おっと||いくじなし|
終日 終夜 、 机 と 首っ引 を して 、 兀々 と 出 精 し ながら 、 妻 と 自分 を 安らかに 養う ほど の 働き も ない 。
しゅうじつ|しゅうや|つくえ||くび っ ひ|||こつ々||だ|せい|||つま||じぶん||やすらかに|やしなう|||はたらき||
「 そう か 」 と 道也 は 云った ぎり 、 この 手腕 に 対して 、 別段 に 感謝 の 意 を 表しよう と も せ ぬ 。
|||みちや||うん った|||しゅわん||たいして|べつだん||かんしゃ||い||ひょうしよう||||
「 そう か じゃ 困ります わ 。
|||こまり ます|
私 が ここ まで 拵えた のだ から 、 あと は 、 あなた が 、 どう と も 為さら なくっちゃ あ 。
わたくし||||こしらえた||||||||||なさら||
あなた の 楫 の とり よう で せっかく の 私 の 苦心 も 何の 役 に も 立た なく なります わ 」 「 いい さ 、 そう 心配 する な 。
||しゅう|||||||わたくし||くしん||なんの|やく|||たた||なり ます|||||しんぱい||
もう 一 ヵ 月 も すれば 百 や 弐 百 の 金 は 手 に 這 入る 見 込 が ある から 」 と 道也 先生 は 何の 苦 も なく 云って 退けた 。
|ひと||つき|||ひゃく||に|ひゃく||きむ||て||は|はいる|み|こみ|||||みちや|せんせい||なんの|く|||うん って|しりぞけた
江 湖 雑誌 の 編 輯 で 二十 円 、 英和 字典 の 編纂 で 十五 円 、 これ が 道也 の きまった 収入 である 。
こう|こ|ざっし||へん|しゅう||にじゅう|えん|えいわ|じてん||へんさん||じゅうご|えん|||みちや|||しゅうにゅう|
但し この ほか に 仕事 は いくら でも する 。
ただし||||しごと||||
新聞 に かく 、 雑誌 に かく 。
しんぶん|||ざっし||
かく 事 に おいて は 毎日 毎夜 筆 を 休ま せた 事 は ない くらい である 。
|こと||||まいにち|まいよ|ふで||やすま||こと||||
しかし 金 に は なら ない 。
|きむ||||
たま さ か 二 円 、 三 円 の 報酬 が 彼 の 懐 に 落つ る 時 、 彼 は かえって 不思議に 思う のみ である 。
|||ふた|えん|みっ|えん||ほうしゅう||かれ||ふところ||おちつ||じ|かれ|||ふしぎに|おもう||
この 物質 的に 何ら の 功 能 も ない 述作 的 労力 の 裡 に は 彼 の 生命 が ある 。
|ぶっしつ|てきに|なんら||いさお|のう|||じゅつさく|てき|ろうりょく||り|||かれ||せいめい||
彼 の 気 魄 が 滴 々 の 墨汁 と 化して 、 一 字 一 画 に 満 腔 の 精神 が 飛 動 して いる 。
かれ||き|はく||しずく|||ぼくじゅう||かして|ひと|あざ|ひと|が||まん|こう||せいしん||と|どう||
この 断 篇 が 読者 の 眼 に 映 じた 時 、 瞳 裏 に 一 道 の 電流 を 呼び起して 、 全身 の 骨 肉 が 刹那 に 震え かし と 念じて 、 道也 は 筆 を 執る 。
|だん|へん||どくしゃ||がん||うつ||じ|ひとみ|うら||ひと|どう||でんりゅう||よびおこして|ぜんしん||こつ|にく||せつな||ふるえ|||ねんじて|みちや||ふで||とる
吾輩 は 道 を 載 す 。
わがはい||どう||の|
道 を 遮 ぎ る もの は 神 と いえ ども 許さ ず と 誓って 紙 に 向 う 。
どう||さえぎ|||||かみ||||ゆるさ|||ちかって|かみ||むかい|
誠 は 指 頭 より 迸って 、 尖る 毛 穎 の 端に 紙 を 焼く 熱気 ある が ごとき 心地 にて 句 を 綴る 。
まこと||ゆび|あたま||ほとばしって|とがる|け|えい||はしたに|かみ||やく|ねっき||||ここち||く||つづる
白紙 が 人格 と 化して 、 淋漓 と して 飛 騰 する 文章 が ある と すれば 道也 の 文章 は まさに これ である 。
はくし||じんかく||かして|りんり|||と|とう||ぶんしょう|||||みちや||ぶんしょう||||
されど も 世 は 華族 、 紳商 、 博士 、 学士 の 世 である 。
||よ||かぞく|しんしょう|はかせ|がくし||よ|
附属 物 が 本体 を 踏み潰す 世 である 。
ふぞく|ぶつ||ほんたい||ふみつぶす|よ|
道也 の 文章 は 出る たび に 黙殺 せられて いる 。
みちや||ぶんしょう||でる|||もくさつ|せら れて|
妻君 は 金 に なら ぬ 文章 を 道楽 文章 と 云 う 。
さいくん||きむ||||ぶんしょう||どうらく|ぶんしょう||うん|
道楽 文章 を 作る もの を 意気地なし と 云 う 。
どうらく|ぶんしょう||つくる|||いくじなし||うん|
道也 の 言葉 を 聞いた 妻君 は 、 火箸 を 灰 の なか に 刺した まま 、 「 今 でも 、 そんな 御 金 が 這 入る 見 込 が ある んです か 」 と 不思議 そうに 尋ねた 。
みちや||ことば||きいた|さいくん||ひばし||はい||||さした||いま|||ご|きむ||は|はいる|み|こみ||||||ふしぎ|そう に|たずねた
「 今 は 昔 より 下落 した と 云 う の かい 。
いま||むかし||げらく|||うん|||
ハハハハハ 」 と 道也 先生 は 大きな 声 を 出して 笑った 。
||みちや|せんせい||おおきな|こえ||だして|わらった
妻君 は 毒気 を 抜かれて 口 を あける 。
さいくん||どっけ||ぬか れて|くち||
「 ど うりゃ 一 勉強 やろう か 」 と 道也 は 立ち上がる 。
||ひと|べんきょう||||みちや||たちあがる
その 夜 彼 は 彼 の 著述 人格 論 を 二百五十 頁 まで かいた 。
|よ|かれ||かれ||ちょじゅつ|じんかく|ろん||にひゃくごじゅう|ぺーじ||
寝た の は 二 時 過 である 。
ねた|||ふた|じ|か|