42.2 或る 女
倉地 は 陰 鬱 な 雨脚 で 灰色 に なった ガラス 窓 を 背景 に して 突っ立ち ながら 、 黙った まま 不安 らしく 首 を かしげた 。 岡 は 日ごろ の めったに 泣か ない 性質 に 似 ず 、 倉地 の 後ろ に そっと 引き そって 涙ぐんで いた 。 葉子 に は 後ろ を 振り向いて 見ない でも それ が 目 に 見る よう に はっきり わかった 。 貞 世 の 事 は 自分 一人 で 背負って 立つ 。 よけいな あわれみ は かけて もらい たくない 。 そんな いらい らしい 反抗的 な 心持ち さえ その 場合 起こら ず に は い なかった 。 過 ぐ る 十 日 と いう もの 一 度 も 見舞う 事 を せず に いて 、 今さら その 由々し げ な 顔つき は な ん だ 。 そう 倉地 に でも 岡 に でも いって やりたい ほど 葉子 の 心 は とげとげしく なって いた 。 で 、葉子 は 後ろ を 振り向き も せず に 、箸 の 先 に つけた 脱脂綿 を 氷 水 の 中 に 浸して は 、貞世 の 口 を ぬぐって いた 。 ・・
こう やって ものの やや 二十 分 が 過ぎた 。 飾り け も 何も ない 板張り の 病室 には だんだん 夕暮れ の 色 が 催して 来た 。 五月雨 は じめじめと 小休み なく 戸外 では 降りつづいて いた 。 「 おね え 様 なおして ちょうだい よう 」 と か 「 苦しい …… 苦しい から お 薬 を ください 」 と か 「 もう 熱 を 計る の は いや 」 と か 時々 囈言 の よう に 言って は 、 葉子 の 手 に かじりつく 貞 世 の 姿 は いつ 息 気 を 引き取る かも しれない と 葉子 に 思わ せた 。 ・・
「では もう 帰りましょう か 」・・
倉地 が 岡 を 促す ように こういった 。 岡 は 倉地 に 対し 葉子 に 対して 少し の 間 返事 を あえて する の を はばかって いる 様子 だった が 、とうとう 思いきって 、 倉地 に 向かって 言って いながら 少し 葉子 に 対して 嘆願 する ような 調子 で 、・・
「わたし 、 きょう は なんにも 用 が ありません から 、 こちら に 残ら して いただいて 、 葉子 さん の お 手伝い を したい と 思います から 、 お 先 に お 帰り ください 」・・
と いった 。 岡 は ひどく 意志 が 弱 そうに 見え ながら 一度 思い 入って いい出した 事 は 、とうとう 仕畢 せず には おかない 事 を 、葉子 も 倉地 も 今まで の 経験 から 知っていた 。 葉子 は 結局 それを 許す ほかは ない と 思った 。 ・・
「じゃ わし は お先 する が お葉さん ちょっと ……」・・
といって 倉地 は 入り口 の ほう に しざって 行った 。 おりから 貞世 は すやすや と 昏睡 に 陥って いた ので 、葉子 は そっと 自分 の 袖 を 捕えて いる 貞世 の 手 を ほどいて 、倉地 の あと から 病室 を 出た 。 病室 を 出る と すぐ 葉子 は もう 貞世 を 看護 して いる 葉子 で は なかった 。 ・・
葉子 は すぐに 倉地 に 引き 添って 肩 を ならべ ながら 廊下 を 応接 室 の ほう に 伝って 行った 。 ・・
「 お前 は ずいぶん と 疲れ とる よ 。 用心 せんと いかん ぜ 」・・
「大丈夫 ……こっちは 大丈夫です 。 それにしても あなたは ……お忙しかった んでしょうね 」・・
たとえば 自分の 言葉は 稜針で 、それを 倉地の 心臓に 揉み込む と いう ような 鋭い 語気に なって そういった 。 ・・
「 全く 忙しかった 。 あれから わしは お前の 家には 一度も よう 行かずに いるんだ 」・・
そういった 倉地の 返事に は いかにも わだかまりが なかった 。 葉子 の 鋭い 言葉 に も 少しも 引け め を 感じて いる ふう は 見え なかった 。 葉子 で さえ が 危うく それ を 信じよう と する ほど だった 。 しかし その 瞬間 に 葉子 は 燕 返し に 自分 に 帰った 。 何 を いいかげんな …… それ は 白々し さ が 少し 過ぎて いる 。 この 十 日 の 間 に 、倉地 にとって は この上 も ない 機会 の 与えられた 十 日 の 間 に 、杉森 の 中 の さびしい 家 に その 足跡 の 印 され なかった わけ が ある ものか 。 ……さら ぬ だに 、病み 果て 疲れ果てた 頭脳 に 、極度 の 緊張 を 加えた 葉子 は 、ぐらぐら と よろけた 足もと が 廊下 の 板 に 着いて いない ような 憤怒 に 襲われた 。 ・・
応接室 まで 来て 上っ張り を 脱ぐ と 、看護婦 が 噴霧器 を 持って 来て 倉地 の 身のまわり に 消毒薬 を 振りかけた 。 その かすかな におい が ようやく 葉子 を はっきり した 意識 に 返らした 。 葉子 の 健康 が 一日一日 と いわず 、一時間 ごとに も どんどん 弱って 行く の が 身に しみて 知れる に つけて 、倉地 の どこ にも 批点 の ない ような 頑丈な 五体 にも 心 にも 、葉子 は やりどころ の ない ひがみ と 憎しみ を 感じた 。 倉地 に とって は 葉子 は だんだん と 用 の ない もの に なって 行き つつ ある 。 絶えず 何か 目新しい 冒険 を 求めて いる ような 倉地 に とって は 、葉子 は もう 散りぎわ の 花 に 過ぎない 。 ・・
看護婦 が その 室 を 出る と 、倉地 は 窓 の 所 に 寄って 行って 、衣嚢 の 中 から 大きな 鰐皮 の ポケットブック を 取り出して 、拾円札 の かなりの 束 を 引き出した 。 葉子 は その ポケットブック に も いろいろの 記憶 を 持って いた 。 竹 柴 館 で 一夜 を 過ごした その 朝 に も 、 その後 の たびたび の あ いびき の あと の 支払い に も 、 葉子 は 倉地 から その ポケット ブック を 受け取って 、 ぜいたくな 支払い を 心持ち よくした のだった 。 そして そんな 記憶 は もう 二度と は 繰り返せ そうも なく 、なんとなく 葉子 には 思えた 。 そんな 事 を さ せて なる ものか と 思いながらも 、葉子 の 心 は 妙に 弱く なって いた 。 ・・
「 また 足ら なく なったら いつでも いって よこす が いい から …… おれ の ほう の 仕事 は どうも おもしろく なく なって 来 おった 。 正井 の やつ 何 か 容易 なら ぬ 悪戯 を し おった 様子 も ある し 、 油断 が なら ん 。 たびたび おれ が ここ に 来る の も 考え物 だて 」・・
紙幣 を 渡し ながら こう いって 倉地 は 応接 室 を 出た 。 かなり ぬれて いる らしい 靴 を はいて 、 雨水 で 重 そうに なった 洋 傘 を ば さば さ いわ せ ながら 開いて 、 倉地 は 軽い 挨拶 を 残した まま 夕闇 の 中 に 消えて 行こう と した 。 間を 置いて 道わきに ともされた 電灯の 灯が 、ぬれた 青葉を すべり落ちて ぬかるみの 中に 燐の ような 光を 漂わして いた 。 その 中を だんだん 南門の ほうに 遠ざかって 行く 倉地を 見送って いると 葉子は とても そのまま そこに 居残って は いられなく なった 。 ・・
だれの 履き物と も 知らず そこに あった 吾妻下駄を つっかけて 葉子は 雨の 中を 玄関から 走り 出て 倉地の あとを 追った 。 そこ に ある 広場 には 欅 や 桜 の 木 が まばらに 立って いて 、大規模な 増築 の ため の 材料 が 、煉瓦 や 石 や 、ところどころに 積み上げて あった 。 東京 の 中央 に こんな 所 が ある かと 思われる ほど 物さびしく 静かで 、街灯 の 光 の 届く 所 だけに 白く 光って 斜めに 雨 の そそぐ のが ほのかに 見える ばかりだった 。 寒い とも 暑い とも さらに 感じ なく 過ごして 来た 葉子 は 、雨 が 襟 脚 に 落ちた ので 初めて 寒い と 思った 。 関東 に 時々 襲って 来る 時ならぬ 冷え 日 で その 日 も あった らしい 。 葉子 は 軽く 身ぶるい しながら 、いちずに 倉地 の あとを 追った 。 やや 十四五 間 も 先に いた 倉地 は 足音 を 聞きつけた と 見えて 立ちどまって 振り返った 。 葉子 が 追いついた 時 には 、肩 は いいかげん ぬれて 、雨 の しずく が 前髪 を 伝って 額 に 流れ かかる までに なっていた 。 葉子 は かすかな 光 に すかして 、倉地 が 迷惑 そうな 顔つき で 立って いる のを 知った 。 葉子 は われ に も なく 倉地 が 傘 を 持つ ため に 水平に 曲げた その 腕 に すがり付いた 。 ・・
「さっき の お金 は お返し します 。 義理 ずく で 他人 から して いただく んで は 胸 が つかえます から ……」・・
倉地 の 腕 の 所 で 葉子 の すがり付いた 手 は ぶるぶる と 震えた 。 傘 から は したたり が ことさら 繁 く 落ちて 、単 衣 を ぬけて 葉子 の 肌 に にじみ 通った 。 葉子 は 、熱病 患者 が 冷たい もの に 触れた 時 の ような 不快な 悪寒 を 感じた 。 ・・
「お前の 神経は 全く 少し どうかしとる ぜ 。 おれ の 事 を 少し は 思って みて くれて も よかろう が …… 疑う に も ひがむ に も ほど が あって いい はずだ 。 おれは これまでに どんな 不貞腐れを した 。 いえるなら いってみろ 」・・
さすがに 倉地も 気に さえている らしく 見えた 。 ・・
「いえ ない ように 上手に 不貞腐れ を なさる のじゃ 、いおうったって いえ やしません わね 。 なぜ あなた は はっきり 葉子 に は あきた 、 もう 用 が ない と お いい に なれない の 。 男らしく も ない 。 さ 、取って ください まし これ を 」・・
葉子 は 紙幣 の 束 を わなわな する 手先 で 倉地 の 胸 の 所 に 押しつけた 。 ・・
「そして ちゃんと 奥さんを お呼び戻しなさい まし 。 それで 何もかも 元通りに なる んだ から 。 はばかり ながら ……」・・
「 愛子 は 」 と 口 もと まで いい かけて 、 葉子 は 恐ろし さ に 息 気 を 引いて しまった 。 倉地 の 細君 の 事 まで いった のは その 夜 が 始めて だった 。 これほど 露骨な 嫉妬 の 言葉 は 、男 の 心 を 葉子 から 遠ざから す ばかりだ と 知り 抜いて 慎んで いた くせに 、葉子 は われ にも なく 、がみがみ と 妹 の 事 まで いって のけよう と する 自分 に あきれて しまった 。 ・・
葉子 が そこまで 走り 出て 来た のは 、別れる 前 に もう 一度 倉地 の 強い 腕 で その 暖かく 広い 胸 に 抱か れたい ため だった のだ 。 倉地 に 悪 たれ 口 を きいた 瞬間 でも 葉子 の 願い は そこ に あった 。 それにもかかわらず 口 の 上 で は 全く 反対に 、倉地 を 自分 から どんどん 離れ さす ような 事 を いって のけて いる のだ 。 ・・
葉子 の 言葉 が 募る に つれて 、倉地 は 人目 を はばかる ように あたり を 見回した 。 互い 互いに 殺し 合いたい ほど の 執着 を 感じ ながら 、 それ を 言い 現わす 事 も 信ずる 事 も でき ず 、 要 もない 猜疑 と 不満 と に さえぎられて 、 見る見る 路傍 の人 の よう に 遠ざかって 行か ねば なら ぬ 、―― その おそろしい 運命 を 葉子 は ことさら 痛切に 感じた 。 倉地が あたりを 見回した ――それだけの 挙動が 、機を 見計らって いきなり そこを 逃げ出そうと する ものの ように も 思いなされた 。 葉子は 倉地に 対する 憎悪の 心を 切ない までに 募らしながら 、ますます 相手の 腕に 堅く 寄り添った 。 ・・
しばらくの 沈黙の 後 、倉地は いきなり 洋傘を そこに かなぐり捨てて 、葉子の 頭を 右腕で 巻きすくめようと した 。 葉子は 本能的に 激しく それに さからった 。 そして 紙幣の 束を ぬかるみの 中に たたきつけた 。 そして 二人は 野獣のように 争った 。 ・・
「勝手に せい ……ばかっ 」・・
やがて そう 激しく いい捨てる と 思う と 、倉地 は 腕 の 力 を 急に ゆるめて 、洋傘 を 拾い上げる なり 、あと を も 向かず に 南門 の ほう に 向いて ずんずん と 歩き出した 。 憤怒 と 嫉妬 と に 興奮 しきった 葉子 は 躍起 と なって その あと を 追おう と した が 、足 は しびれた ように 動かなかった 。 ただ だんだん 遠ざかって 行く 後ろ姿 に 対して 、熱い 涙 が とめどなく 流れ落ちる ばかりだった 。 ・・
しめやかな 音 を 立てて 雨 は 降りつづけて いた 。 隔離 病室 の ある 限り の 窓 に は かんかんと 灯 が ともって 、白い カーテン が 引いて あった 。 陰惨な 病室に そう 赤々と 灯の ともっている のは かえって あたりを 物すさまじく して 見せた 。 ・・
葉子は 紙幣の 束を 拾い上げる ほか 、術のない のを 知って 、しおしおと それを 拾い上げた 。 貞世の 入院料は なんといっても それで 仕払う より しようがなかった から 。 いいよう の ない くやし 涙 が さらに わき返った 。