28.2 或る 女
たくさんの 中 から は 古藤 の も 出て 来た 。 あて名 は 倉地 だった けれども 、 その 中 から は 木村 から 葉子 に 送ら れた 分厚 な 手紙 だけ が 封じられて いた 。 それ と 同時 な 木村 の 手紙 が あと から 二 本 まで 現われ 出た 。 葉子 は 倉地 の 見て いる 前 で 、 その すべて を 読ま ない うち に ずたずたに 引き裂いて しまった 。 ・・
「 ばかな 事 を する じゃ ない 。 読んで 見る と おもしろかった に 」・・
葉子 を 占領 しきった 自信 を 誇り が な 微笑 に 見せ ながら 倉地 は こういった 。 ・・
「 読む と せっかく の 昼 御飯 が おいしく なく なります もの 」・・
そう いって 葉子 は 胸 くそ の 悪い ような 顔つき を して 見せた 。 二 人 は また たわいなく 笑った 。 ・・
報 正 新報 社 から の も あった 。 それ を 見る と 倉地 は 、 一 時 は もみ消し を しよう と 思って わたり を つけたり した ので こんな もの が 来て いる のだ が もう 用 は なくなった ので 見る に は 及ば ない と いって 、 今度 は 倉地 が 封 の まま に 引き裂いて しまった 。 葉子 は ふと 自分 が 木村 の 手紙 を 裂いた 心持ち を 倉地 の それ に あてはめて みたり した 。 しかし その 疑問 も すぐ 過ぎ去って しまった 。 ・・
やがて 郵船 会社 から あてられた 江戸川 紙 の 大きな 封書 が 現われ 出た 。 倉地 は ちょっと 眉 に 皺 を よせて 少し 躊躇 した ふうだった が 、 それ を 葉子 の 手 に 渡して 葉子 に 開封 さ せよう と した 。 何の 気 なし に それ を 受け取った 葉子 は 魔 が さした ように はっと 思った 。 とうとう 倉地 は 自分 の ため に …… 葉子 は 少し 顔色 を 変え ながら 封 を 切って 中 から 卒業 証書 の ような 紙 を 二 枚 と 、 書記 が 丁寧に 書いた らしい 書簡 一 封 と を 探り 出した 。 ・・
はたして それ は 免職 と 、 退職 慰労 と の 会社 の 辞令 だった 。 手紙 に は 退職 慰労 金 の 受け取り 方 に 関する 注意 が 事 々 しい 行書 で 書いて ある のだった 。 葉子 は なんと いって いい か わから なかった 。 こんな 恋 の 戯れ の 中 から か ほど な 打撃 を 受けよう と は 夢にも 思って は い なかった のだ 。 倉地 が ここ に 着いた 翌日 葉子 に いって 聞か せた 言葉 は ほんとうの 事 だった の か 。 これほど まで に 倉地 は 真 身 に なって くれて いた の か 。 葉子 は 辞令 を 膝 の 上 に 置いた まま 下 を 向いて 黙って しまった 。 目 が しら の 所 が 非常に 熱い 感じ を 得た と 思った 、 鼻 の 奥 が 暖かく ふさがって 来た 。 泣いて いる 場合 で は ない と 思い ながら も 、 葉子 は 泣か ず に は いられ ない の を 知り 抜いて いた 。 ・・
「 ほんとうに 私 が わるう ございました …… 許して ください まし ……( そういう うち に 葉子 は もう 泣き 始めて いた )…… 私 は もう 日陰 の 妾 と して でも 囲い 者 と して でも それ で 充分に 満足 します 。 え ゝ 、 それ で ほんとうに ようご ざん す 。 わたし は うれしい ……」・・
倉地 は 今さら 何 を いう と いう ような 平気な 顔 で 葉子 の 泣く の を 見守って いた が 、・・
「 妾 も 囲い 者 も ある か な 、 おれ に は 女 は お前 一 人 より ない んだ から な 。 離縁 状 は 横浜 の 土 を 踏む と 一緒に 嬶 に 向けて ぶっ飛ばして ある んだ 」・・
と いって あぐら の 膝 で 貧乏 ゆすり を し 始めた 。 さすが の 葉子 も 息 気 を つめて 、 泣きやんで 、 あきれて 倉地 の 顔 を 見た 。 ・・
「 葉子 、 おれ が 木村 以上 に お前 に 深 惚れ して いる と いつか 船 の 中 で いって 聞か せた 事 が あった な 。 おれ は これ で いざ と なる と 心 に も ない 事 は いわ ない つもりだ よ 。 双 鶴 館 に いる 間 も おれ は 幾 日 も 浜 に は 行き は しなんだ のだ 。 たいてい は 家内 の 親類 たち と の 談判 で 頭 を 悩ま せられて いた んだ 。 だがたいてい けり が ついた から 、 おれ は 少し ばかり 手回り の 荷物 だけ 持って 一 足先 に ここ に 越して 来た のだ 。 …… もう これ で ええ や 。 気 が すっぱ り した わ 。 これ に は 双 鶴 館 の お 内 儀 も 驚き くさる だろう て ……」・・
会社 の 辞令 で すっかり 倉地 の 心持ち を どん底 から 感じ 得た 葉子 は 、 この上 倉地 の 妻 の 事 を 疑う べき 力 は 消え 果てて いた 。 葉子 の 顔 は 涙 に ぬれ ひたり ながら それ を ふき取り も せ ず 、 倉地 に すり寄って 、 その 両 肩 に 手 を かけて 、 ぴったり と 横顔 を 胸 に あてた 。 夜 と なく 昼 と なく 思い 悩みぬいた 事 が すでに 解決 さ れた ので 、 葉子 は 喜んで も 喜んで も 喜び 足り ない ように 思った 。 自分 も 倉地 と 同様に 胸 の 中 が すっきり す べき はずだった 。 けれども そう は 行か なかった 。 葉子 は いつのまにか 去ら れた 倉地 の 妻 その 人 の ような さびしい 悲しい 自分 に なって いる の を 発見 した 。 ・・
倉地 は いとしくって なら ぬ ように エボニー 色 の 雲 の ように まっ黒 に ふっく り と 乱れた 葉子 の 髪 の 毛 を やさしく な で 回した 。 そして いつも に 似 ず しんみり した 調子 に なって 、・・
「 とうとう おれ も 埋れ 木 に なって しまった 。 これ から 地面 の 下 で 湿気 を 食い ながら 生きて 行く より ほか に は ない 。 ―― おれ は 負け惜しみ を いう は きらいだ 。 こうして いる 今 でも おれ は 家内 や 娘 たち の 事 を 思う と 不憫に 思う さ 。 それ が ない 事 なら おれ は 人間 じゃ ない から な 。 …… だが おれ は これ で いい 。 満足 この上 なし だ 。 …… 自分 ながら おれ は ばかに なり 腐ったら しいて 」・・
そう いって 葉子 の 首 を 固く かき いだいた 。 葉子 は 倉地 の 言葉 を 酒 の ように 酔い 心地 に のみ込み ながら 「 あなた だけ にそう は さ せて おきません よ 。 わたし だって 定子 を みごとに 捨てて 見せます から ね 」 と 心 の 中 で 頭 を 下げ つつ 幾 度 も わびる ように 繰り返して いた 。 それ が また 自分 で 自分 を 泣か せる 暗示 と なった 。 倉地 の 胸 に 横たえられた 葉子 の 顔 は 、 綿入れ と 襦袢 と を 通して 倉地 の 胸 を 暖かく 侵す ほど 熱して いた 。 倉地 の 目 も 珍しく 曇って いた 。 そうして 泣き 入る 葉子 を 大事 そうに かかえた まま 、 倉地 は 上体 を 前後 に 揺すぶって 、 赤子 でも 寝かし つける ように した 。 戸外 で は また 東京 の 初冬 に 特有な 風 が 吹き 出た らしく 、 杉森 が ごうご う と 鳴り を 立てて 、 枯れ葉 が 明るい 障子 に 飛鳥 の ような 影 を 見せ ながら 、 から から と 音 を 立てて かわいた 紙 に ぶつかった 。 それ は 埃 立った 、 寒い 東京 の 街路 を 思わ せた 。 けれども 部屋 の 中 は 暖かだった 。 葉子 は 部屋 の 中 が 暖かな の か 寒い の か さえ わから なかった 。 ただ 自分 の 心 が 幸福に さびし さ に 燃え ただれて いる の を 知っていた 。 ただ このまま で 永遠 は 過ぎよ かし 。 ただ このまま で 眠り の ような 死 の 淵 に 陥れよ かし 。 とうとう 倉地 の 心 と 全く 融 け 合った 自分 の 心 を 見いだした 時 、 葉子 の 魂 の 願い は 生きよう と いう 事 より も 死のう と いう 事 だった 。 葉子 は その 悲しい 願い の 中 に 勇み 甘んじて おぼれて 行った 。