8.2 或る 女
こう いって いる うち に 葉子 の 心 に は 火 の ような 回想 の 憤怒 が 燃え上がった 。 葉子 は その 学校 の 寄宿舎 で 一 個 の 中性 動物 と して 取り扱わ れた の を 忘れる 事 が でき ない 。 やさしく 、 愛らしく 、 しおらしく 、 生まれた まま の 美しい 好意 と 欲 念 と の 命ずる まま に 、 おぼろげ ながら 神 と いう もの を 恋し かけた 十二三 歳 ごろ の 葉子 に 、 学校 は 祈祷 と 、 節 欲 と 、 殺 情 と を 強制 的に たたき込もう と した 。 十四 の 夏 が 秋 に 移ろう と した ころ 、 葉子 は ふと 思い立って 、 美しい 四 寸 幅 ほど の 角 帯 の ような もの を 絹糸 で 編み はじめた 。 藍 の 地 に 白 で 十字架 と 日月 と を あしらった 模様 だった 。 物事 に ふけ り やすい 葉子 は 身 も 魂 も 打ち込んで その 仕事 に 夢中に なった 。 それ を 造り上げた 上 で どうして 神様 の 御手 に 届けよう 、 と いう ような 事 は もとより 考え も せ ず に 、 早く 造り上げて お 喜ば せ 申そう と のみ あせって 、 しまい に は 夜 の 目 も ろくろく 合わさ なく なった 。 二 週間 に 余る 苦心 の 末 に それ は あら かた でき上がった 。 藍 の 地 に 簡単に 白 で 模様 を 抜く だけ なら さしたる 事 で も ない が 、 葉子 は 他人 の まだ し なかった 試み を 加えよう と して 、 模様 の 周囲 に 藍 と 白 と を 組み合わせ に した 小さな 笹 縁 の ような もの を 浮き 上げて 編み込んだり 、 ひどく 伸び 縮み が して 模様 が 歪 形 に なら ない ように 、 目立た ない ように カタン 糸 を 編み込んで 見たり した 。 出来上がり が 近づく と 葉子 は 片時 も 編み 針 を 休めて は いられ なかった 。 ある 時 聖書 の 講義 の 講座 で そっと 机 の 下 で 仕事 を 続けて いる と 、 運 悪く も 教師 に 見つけられた 。 教師 は しきりに その 用途 を 問いただした が 、 恥じ やすい 乙女 心 に どうして この 夢 より も はかない 目論見 を 白状 する 事 が できよう 。 教師 は その 帯 の 色合い から 推して 、 それ は 男 向き の 品物 に 違いない と 決めて しまった 。 そして 葉子 の 心 は 早熟 の 恋 を 追う もの だ と 断定 した 。 そして 恋 と いう もの を 生来 知ら ぬ げ な 四十五六 の 醜い 容貌 の 舎 監 は 、 葉子 を 監禁 同様に して 置いて 、 暇 さえ あれば その 帯 の 持ち主 たる べき 人 の 名 を 迫り 問うた 。 ・・
葉子 は ふと 心 の 目 を 開いた 。 そして その 心 は それ 以来 峰 から 峰 を 飛んだ 。 十五 の 春 に は 葉子 は もう 十 も 年上 な 立派な 恋人 を 持って いた 。 葉子 は その 青年 を 思う さま 翻弄 した 。 青年 は まもなく 自殺 同様な 死に 方 を した 。 一 度 生 血 の 味 を しめた 虎の子 の ような 渇 欲 が 葉子 の 心 を 打ちのめす ように なった の は それ から の 事 である 。 ・・
「 古藤 さん 愛 と 貞 と は あなた に 願います わ 。 だれ が どんな 事 を いおう と 、 赤坂 学院 に は 入れ ないで ください まし 。 私 きのう 田島 さん の 塾 に 行って 、 田島 さん に お 会い 申して よく お 頼み して 来ました から 、 少し 片付いたら は ばかり さま です が あなた 御 自身 で 二 人 を 連れて い らしって ください 。 愛 さん も 貞 ちゃん も わかりましたろう 。 田島 さん の 塾 に は いる と ね 、 ねえさん と 一緒に いた 時 の ような わけに は 行きません よ ……」・・
「 ねえさん てば …… 自分 で ばかり 物 を おっしゃって 」・・
と いきなり 恨めし そうに 、 貞 世 は 姉 の 膝 を ゆすり ながら その 言葉 を さえぎった 。 ・・
「 さっき から なんど 書いた か わから ない の に 平気で ほんとに ひどい わ 」・・
一座 の 人々 から 妙な 子 だ と いう ふうに ながめられて いる の に も 頓着 なく 、 貞 世 は 姉 の ほう に 向いて 膝 の 上 に し なだれ かかり ながら 、 姉 の 左手 を 長い 袖 の 下 に 入れて 、 その 手のひら に 食指 で 仮名 を 一 字 ずつ 書いて 手のひら で 拭き 消す ように した 。 葉子 は 黙って 、 書いて は 消し 書いて は 消し する 字 を たどって 見る と 、・・
「 ネーサマハイイコダカラ 『 アメリカ 』 ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ 」・・
と 読ま れた 。 葉子 の 胸 は われ知らず 熱く なった が 、 しいて 笑い に まぎらし ながら 、・・
「 まあ 聞きわけ の ない 子 だ こと 、 しかたがない 。 今に なって そんな 事 を いったって しかたがない じゃ ない の 」・・
と たしなめ 諭す ように いう と 、・・
「 しかた が ある わ 」・・
と 貞 世 は 大きな 目 で 姉 を 見上げ ながら 、・・
「 お 嫁 に 行か なければ よろしい じゃ ない の 」・・
と いって 、 くるり と 首 を 回して 一同 を 見渡した 。 貞 世 の かわいい 目 は 「 そう でしょう 」 と 訴えて いる ように 見えた 。 それ を 見る と 一同 は ただ なんという 事 も なく 思いやり の ない 笑い かた を した 。 叔父 は ことに 大きな と ん きょ な 声 で 高々 と 笑った 。 先刻 から 黙った まま で うつむいて さびしく すわって いた 愛子 は 、 沈んだ 恨めし そうな 目 で じっと 叔父 を にらめ た と 思う と 、 たちまち わく ように 涙 を ほろほろ と 流して 、 それ を 両 袖 で ぬぐい も やら ず 立ち上がって その 部屋 を かけ出した 。 階子 段 の 所 で ちょうど 下 から 上がって 来た 叔母 と 行きあった けはい が して 、 二 人 が 何 か いい争う らしい 声 が 聞こえて 来た 。 ・・
一座 は また 白け 渡った 。 ・・
「 叔父さん に も 申し上げて おきます 」・・
と 沈黙 を 破った 葉子 の 声 が 妙に 殺気 を 帯びて 響いた 。 ・・
「 これ まで 何かと お 世話 様 に なって ありがとう こ ざいました けれども 、 この 家 も たたんで しまう 事 に なれば 、 妹 たち も 今 申した とおり 塾 に 入れて しまいます し 、 この後 は これ と いって 大して 御 厄介 は かけ ない つもりで ございます 。 赤 の 他人 の 古藤 さん に こんな 事 を 願って は ほんとうに すみません けれども 、 木村 の 親友 で いらっしゃる のです から 、 近い 他人 です わ ね 。 古藤 さん 、 あなた 貧乏 籤 を 背負い込んだ と 思し召し て 、 どう か 二 人 を 見て やって ください ましな 。 いい でしょう 。 こう 親類 の 前 で はっきり 申して おきます から 、 ちっとも 御 遠慮 なさら ず に 、 いい と お 思い に なった ように なさって ください まし 。 あちら へ 着いたら わたし また きっと どう と も いたします から 。 きっと そんなに 長い 間 御 迷惑 は かけません から 。 いかが 、 引き受けて ください まして ? 」・・
古藤 は 少し 躊躇 する ふうで 五十川 女史 を 見 やり ながら 、・・
「 あなた は さっき から 赤坂 学院 の ほう が いい と おっしゃる ように 伺って います が 、 葉子 さん の いわ れる とおり に して さしつかえ ない のです か 。 念のため に 伺って おきたい のです が 」・・ と 尋ねた 。 葉子 は また あんな よけいな 事 を いう と 思い ながら いらいら した 。 五十川 女史 は 日ごろ の 円滑な 人 ずれ のした 調子 に 似 ず 、 何 か ひどく 激昂 した 様子 で 、・・
「 わたし は 亡くなった 親 佐 さん の お 考え は こう も あろう か と 思った 所 を 申した まで です から 、 それ を 葉子 さん が 悪い と おっしゃる なら 、 その 上 とやかく 言い と も ない のです が 、 親 佐 さん は 堅い 昔風な 信仰 を 持った 方 です から 、 田島 さん の 塾 は 前 から きらいで ね …… よろしゅう ございましょう 、 そう なされば 。 わたし は とにかく 赤坂 学院 が 一 番 だ と どこまでも 思っと る だけ です 」・・
と いい ながら 、 見下げる ように 葉子 の 胸 の あたり を まじまじ と ながめた 。 葉子 は 貞 世 を 抱いた まま しゃんと 胸 を そらして 目の前 の 壁 の ほう に 顔 を 向けて いた 、 たとえば ばらばら と 投げられる つぶ て を 避けよう と も せ ず に 突っ立つ 人 の ように 。 ・・
古藤 は 何 か 自分 一 人 で 合点 した と 思う と 、 堅く 腕組み を して これ も 自分 の 前 の 目 八 分 の 所 を じっと 見つめた 。 ・・
一座 の 気分 は ほとほと 動き が 取れ なく なった 。 その 間 で いちばん 早く きげん を 直して 相好 を 変えた の は 五十川 女史 だった 。 子供 を 相手 に して 腹 を 立てた 、 それ を 年 が いない と でも 思った ように 、 気 を 変えて きさくに 立ち じたく を し ながら 、・・
「 皆さん いかが 、 もう お 暇に いたしましたら …… お 別れ する 前 に もう 一 度 お 祈り を して 」・・
「 お 祈り を わたし の ような もの の ため に なさって くださる の は 御 無用に 願います 」・・
葉子 は 和らぎ かけた 人々 の 気分 に は さらに 頓着 なく 、 壁 に 向けて いた 目 を 貞 世に 落として 、 いつのまにか 寝入った その 人 の 艶 々 しい 顔 を なで さ すり ながら きっぱり と いい放った 。 ・・
人々 は 思い思い な 別れ を 告げて 帰って 行った 。 葉子 は 貞 世 が いつのまにか 膝 の 上 に 寝て しまった の を 口実 に して 人々 を 見送り に は 立た なかった 。 ・・
最後 の 客 が 帰って 行った あと でも 、 叔父 叔母 は 二 階 を 片づけ に は 上がって こ なかった 。 挨拶 一 つ しよう と も し なかった 。 葉子 は 窓 の ほう に 頭 を 向けて 、 煉瓦 の 通り の 上 に ぼうっと 立つ 灯 の 照り返し を 見 やり ながら 、 夜風 に ほてった 顔 を 冷やさ せて 、 貞 世 を 抱いた まま 黙って すわり 続けて いた 。 間 遠 に 日本橋 を 渡る 鉄道 馬車 の 音 が 聞こえる ばかりで 、 釘 店 の 人通り は 寂しい ほど まばらに なって いた 。 ・・
姿 は 見せ ず に 、 どこ か の すみ で 愛子 が まだ 泣き 続けて 鼻 を かんだり する 音 が 聞こえて いた 。 ・・
「 愛さ ん …… 貞 ちゃん が 寝ました から ね 、 ちょっと お 床 を 敷いて やって ちょうだいな 」・・
われながら 驚く ほど やさしく 愛子 に 口 を きく 自分 を 葉子 は 見いだした 。 性 が 合わ ない と いう の か 、 気 が 合わ ない と いう の か 、 ふだん 愛子 の 顔 さえ 見れば 葉子 の 気分 は くずされて しまう のだった 。 愛子 が 何事 に つけて も 猫 の ように 従順で 少しも 情 と いう もの を 見せ ない の が ことさら 憎かった 。 しかし その 夜 だけ は 不思議に も やさしい 口 を きいた 。 葉子 は それ を 意外に 思った 。 愛子 が いつも の ように 素直に 立ち上がって 、 洟 を すすり ながら 黙って 床 を 取って いる 間 に 、 葉子 は おりおり 往来 の ほう から 振り返って 、 愛子 の しとやかな 足音 や 、 綿 を 薄く 入れた 夏 ぶとん の 畳 に 触れる ささやかな 音 を 見入り でも する ように そのほう に 目 を 定めた 。 そう か と 思う と また 今さら の ように 、 食い荒らさ れた 食物 や 、 敷いた まま に なって いる 座ぶとん の きたな らしく 散らかった 客間 を まじまじ と 見渡した 。 父 の 書棚 の あった 部分 の 壁 だけ が 四角に 濃い 色 を して いた 。 その すぐ そば に 西洋 暦 が 昔 の まま に かけて あった 。 七 月 十六 日 から 先 は はがさ れ ず に 残って いた 。 ・・
「 ねえ さま 敷けました 」・・
しばらく して から 、 愛子 が こう かすかに 隣 で いった 。 葉子 は 、・・
「 そう 御苦労さま よ 」・・
と また しとやかに 応え ながら 、 貞 世 を 抱きかかえて 立ち上がろう と する と 、 また 頭 が ぐらぐら ッ と して 、 おびただしい 鼻血 が 貞 世 の 胸 の 合わせ 目 に 流れ 落ちた 。