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或る女 - 有島武郎(アクセス), 47.1 或る女

47.1 或る 女

その 夜 六 時 すぎ 、 つや が 来て 障子 を 開いて だんだん 満ちて 行こう と する 月 が 瓦屋根 の 重なり の 上 に ぽっかり のぼった の を のぞかせて くれて いる 時 、 見知らぬ 看護 婦 が 美しい 花束 と 大きな 西洋 封筒 に 入れた 手紙 と を 持って は いって 来 てつや に 渡した 。 つや は それ を 葉子 の 枕 もと に 持って 来た 。 葉子 は もう 花 も 何も 見る 気 に は なれ なかった 。 電気 も まだ 来て いない ので つや に その 手紙 を 読ま せて みた 。 つや は 薄 明り に すかし すかし 読み にく そうに 文字 を 拾った 。 ・・

「 あなた が 手術 の ため に 入院 なさった 事 を 岡 君 から 聞か されて 驚きました 。 で 、 きょう が 外出 日 である の を 幸いに お 見舞い します 。 ・・

「 僕 は あなた に お目にかかる 気 に は なりません 。 僕 は それほど 偏狭に 出来上がった 人間 です 。 けれども 僕 は ほんとうに あなた を お 気の毒に 思います 。 倉地 と いう 人間 が 日本 の 軍事 上 の 秘密 を 外国 に もらす 商売 に 関係 した 事 が 知れる と ともに 、 姿 を 隠した と いう 報道 を 新聞 で 見た 時 、 僕 は そんなに 驚きません でした 。 しかし 倉地 に は 二 人 ほど の 外 妾 が ある と 付け加えて 書いて ある の を 見て 、 ほんとうに あなた を お 気の毒に 思いました 。 この 手紙 を 皮肉に 取ら ないで ください 。 僕 に は 皮肉 は いえません 。 ・・

「 僕 は あなた が 失望 なさら ない ように 祈ります 。 僕 は 来週 の 月曜日 から 習志野 の ほう に 演習 に 行きます 。 木村 から の たより で は 、 彼 は 窮迫 の 絶頂 に いる ようです 。 けれども 木村 は そこ を 突き抜ける でしょう 。 ・・

「 花 を 持って 来て みました 。 お 大事に 。 ・・

古藤 生 」・・

つや は つかえ つかえ それ だけ を 読み 終わった 。 始終 古藤 を はるか 年下 な 子供 の ように 思って いる 葉子 は 、 一種 侮 蔑 する ような 無 感情 を もって それ を 聞いた 。 倉地 が 外 妾 を 二 人 持って る と いう うわさ は 初耳 で は ある けれども 、 それ は 新聞 の 記事 で あって みれば あて に は なら ない 。 その 外 妾 二 人 と いう の が 、 美人 屋敷 と 評判 の あった そこ に 住む 自分 と 愛子 ぐらい の 事 を 想像 して 、 記者 ならば いい そうな 事 だ 。 ただ そう 軽く ばかり 思って しまった 。 ・・

つや が その 花束 を ガラス びん に いけて 、 なんにも 飾って ない 床 の 上 に 置いて 行った あと 、 葉子 は 前 同様に ハンケチ を 顔 に あてて 、 機械 的に 働く 心 の 影 と 戦おう と して いた 。 ・・

その 時 突然 死 が ―― 死 の 問題 で は なく ―― 死 が はっきり と 葉子 の 心 に 立ち 現われた 。 もし 手術 の 結果 、 子宮 底 に 穿 孔 が できる ように なって 腹膜炎 を 起こしたら 、 命 の 助かる べき 見込み は ない のだ 。 そんな 事 を ふと 思い起こした 。 部屋 の 姿 も 自分 の 心 も どこ と いって 特別に 変わった わけで は なかった けれども 、 どことなく 葉子 の 周囲 に は 確かに 死 の 影 が さまよって いる の を しっかり と 感じ ないで はいら れ なく なった 。 それ は 葉子 が 生まれて から 夢にも 経験 し ない 事 だった 。 これ まで 葉子 が 死 の 問題 を 考えた 時 に は 、 どうして 死 を 招き 寄せよう か と いう 事 ばかり だった 。 しかし 今 は 死 の ほう が そろそろ と 近寄って 来て いる のだ 。 ・・

月 は だんだん 光 を 増して 行って 、 電灯 に 灯 も ともって いた 。 目 の 先 に 見える 屋根 の 間 から は 、 炊 煙 だ か 、 蚊 遣 り 火 だ か が うっすら と 水 の ように 澄みわたった 空 に 消えて 行く 。 履き物 、 車馬 の 類 、 汽笛 の 音 、 うるさい ほど の 人々 の 話し声 、 そういう もの は 葉子 の 部屋 を いつも の とおり 取り巻き ながら 、 そして 部屋 の 中 は とにかく 整頓 して 灯 が ともって いて 、 少し の 不思議 も ない のに 、 どこ と も 知れ ず そこ に は 死 が はい 寄って 来て いた 。 ・・

葉子 は ぎょっと して 、 血 の 代わり に 心臓 の 中 に 氷 の 水 を 瀉 ぎ こま れた ように 思った 。 死のう と する 時 は とうとう 葉子 に は 来 ないで 、 思い も かけ ず 死ぬ 時 が 来た んだ 。 今 まで とめど なく 流して いた 涙 は 、 近づく あらし の 前 の そよ風 の ように どこ と も なく 姿 を ひそめて しまって いた 。 葉子 は あわてふためいて 、 大きく 目 を 見開き 、 鋭く 耳 を そ び や かして 、 そこ に ある 物 、 そこ に ある 響き を 捕えて 、 それ に すがり付きたい と 思った が 、 目 に も 耳 に も 何 か 感ぜられ ながら 、 何 が 何やら 少しも わから なかった 。 ただ 感ぜられる の は 、 心 の 中 が わけ も なく ただ わくわく と して 、 すがりつく もの が あれば 何 に でも すがりつきたい と 無性に あせって いる 、 その 目まぐるしい 欲求 だけ だった 。 葉子 は 震える 手 で 枕 を なで 回したり 、 シーツ を つまみ 上げて じっと 握り締めて みたり した 。 冷たい 油 汗 が 手のひら に にじみ出る ばかりで 、 握った もの は 何の 力 に も なら ない 事 を 知った 。 その 失望 は 形容 の でき ない ほど 大きな もの だった 。 葉子 は 一 つ の 努力 ごと に がっかり して 、 また 懸命に たより に なる もの 、 根 の ある ような もの を 追い求めて みた 。 しかし どこ を さがして みて も すべて の 努力 が 全く むだな の を 心 で は 本能 的に 知っていた 。 ・・

周囲 の 世界 は 少し の こだわり も なく ずるずる と 平気で 日常 の 営み を して いた 。 看護 婦 が 草履 で 廊下 を 歩いて 行く 、 その 音 一 つ を 考えて みて も 、 そこ に は 明らかに 生命 が 見いださ れた 。 その 足 は 確かに 廊下 を 踏み 、 廊下 は 礎 に 続き 、 礎 は 大地 に 据えられて いた 。 患者 と 看護 婦 と の 間 に 取りかわさ れる 言葉 一 つ に も 、 それ を 与える 人 と 受ける 人 と が ちゃんと 大地 の 上 に 存在 して いた 。 しかし それ ら は 奇妙に も 葉子 と は 全く 無関係で 没 交渉 だった 。 葉子 の いる 所 に は どこ に も 底 が ない 事 を 知ら ねば なら なかった 。 深い 谷 に 誤って 落ち込んだ 人 が 落ちた 瞬間 に 感ずる あの 焦 躁 …… それ が 連続 して やむ 時 なく 葉子 を 襲う のだった 。 深 さ の わから ない ような 暗い 闇 が 、 葉子 を ただ 一 人 まん 中 に 据えて おいて 、 果てしなく その まわり を 包もう と 静かに 静かに 近づき つつ ある 。 葉子 は 少しも そんな 事 を 欲し ない のに 、 葉子 の 心持ち に は 頓着 なく 、 休む 事 なく とどまる 事 なく 、 悠々 閑々 と して 近づいて 来る 。 葉子 は 恐ろし さ に おびえて 声 も 得 上げ なかった 。 そして ただ そこ から のがれ 出たい 一心に 心ばかり が あせり に あせった 。 ・・

もう だめだ 、 力 が 尽き 切った と 、 観念 しよう と した 時 、 しかし 、 その 奇怪な 死 は 、 すうっと 朝霧 が 晴れる ように 、 葉子 の 周囲 から 消えうせて しまった 。 見た 所 、 そこ に は 何一つ 変わった 事 も なければ 変わった 物 も ない 。 ただ 夏 の 夕 が 涼しく 夜 に つながろう と して いる ばかりだった 。 葉子 は きょとんと して 庇 の 下 に 水 々 しく 漂う 月 を 見 やった 。 ・・

ただ 不思議な 変化 の 起こった の は 心ばかり だった 。 荒 磯 に 波 また 波 が 千変万化 して 追い かぶさって 来て は 激しく 打ち くだけて 、 まっ白 な 飛 沫 を 空 高く 突き上げる ように 、 これ と いって 取り留め の ない 執着 や 、 憤り や 、 悲しみ や 、 恨み や が 蛛手 に よれ 合って 、 それ が 自分 の 周囲 の 人 たち と 結び付いて 、 わけ も なく 葉子 の 心 を かきむしって いた のに 、 その 夕方 の 不思議な 経験 の あと で は 、 一筋 の 透明な さびし さ だけ が 秋 の 水 の ように 果てし も なく 流れて いる ばかりだった 。 不思議な 事 に は 寝入って も 忘れ きれ ない ほど な 頭脳 の 激痛 も 痕 なくなって いた 。


47.1 或る 女 ある|おんな 47.1 Una mujer

その 夜 六 時 すぎ 、 つや が 来て 障子 を 開いて だんだん 満ちて 行こう と する 月 が 瓦屋根 の 重なり の 上 に ぽっかり のぼった の を のぞかせて くれて いる 時 、 見知らぬ 看護 婦 が 美しい 花束 と 大きな 西洋 封筒 に 入れた 手紙 と を 持って は いって 来 てつや に 渡した 。 |よ|むっ|じ||||きて|しょうじ||あいて||みちて|いこう|||つき||かわらやね||かさなり||うえ|||||||||じ|みしらぬ|かんご|ふ||うつくしい|はなたば||おおきな|せいよう|ふうとう||いれた|てがみ|||もって|||らい|||わたした つや は それ を 葉子 の 枕 もと に 持って 来た 。 ||||ようこ||まくら|||もって|きた 葉子 は もう 花 も 何も 見る 気 に は なれ なかった 。 ようこ|||か||なにも|みる|き|||| 電気 も まだ 来て いない ので つや に その 手紙 を 読ま せて みた 。 でんき|||きて||||||てがみ||よま|| つや は 薄 明り に すかし すかし 読み にく そうに 文字 を 拾った 。 ||うす|あかり||||よみ||そう に|もじ||ひろった ・・

「 あなた が 手術 の ため に 入院 なさった 事 を 岡 君 から 聞か されて 驚きました 。 ||しゅじゅつ||||にゅういん||こと||おか|きみ||きか|さ れて|おどろき ました で 、 きょう が 外出 日 である の を 幸いに お 見舞い します 。 |||がいしゅつ|ひ||||さいわいに||みまい|し ます ・・

「 僕 は あなた に お目にかかる 気 に は なりません 。 ぼく||||おめにかかる|き|||なり ませ ん 僕 は それほど 偏狭に 出来上がった 人間 です 。 ぼく|||へんきょうに|できあがった|にんげん| けれども 僕 は ほんとうに あなた を お 気の毒に 思います 。 |ぼく||||||きのどくに|おもい ます 倉地 と いう 人間 が 日本 の 軍事 上 の 秘密 を 外国 に もらす 商売 に 関係 した 事 が 知れる と ともに 、 姿 を 隠した と いう 報道 を 新聞 で 見た 時 、 僕 は そんなに 驚きません でした 。 くらち|||にんげん||にっぽん||ぐんじ|うえ||ひみつ||がいこく|||しょうばい||かんけい||こと||しれる|||すがた||かくした|||ほうどう||しんぶん||みた|じ|ぼく|||おどろき ませ ん| When it became known that Kurachi was involved in the business of exposing Japan's military secrets to foreign countries, I was not so surprised when I saw a newspaper report that he went into hiding. しかし 倉地 に は 二 人 ほど の 外 妾 が ある と 付け加えて 書いて ある の を 見て 、 ほんとうに あなた を お 気の毒に 思いました 。 |くらち|||ふた|じん|||がい|めかけ||||つけくわえて|かいて||||みて|||||きのどくに|おもい ました この 手紙 を 皮肉に 取ら ないで ください 。 |てがみ||ひにくに|とら|| 僕 に は 皮肉 は いえません 。 ぼく|||ひにく||いえ ませ ん ・・

「 僕 は あなた が 失望 なさら ない ように 祈ります 。 ぼく||||しつぼう||||いのり ます 僕 は 来週 の 月曜日 から 習志野 の ほう に 演習 に 行きます 。 ぼく||らいしゅう||げつようび||ならしの||||えんしゅう||いき ます 木村 から の たより で は 、 彼 は 窮迫 の 絶頂 に いる ようです 。 きむら||||||かれ||きゅうはく||ぜっちょう||| けれども 木村 は そこ を 突き抜ける でしょう 。 |きむら||||つきぬける| ・・

「 花 を 持って 来て みました 。 か||もって|きて|み ました お 大事に 。 |だいじに ・・

古藤 生 」・・ ことう|せい

つや は つかえ つかえ それ だけ を 読み 終わった 。 |||||||よみ|おわった 始終 古藤 を はるか 年下 な 子供 の ように 思って いる 葉子 は 、 一種 侮 蔑 する ような 無 感情 を もって それ を 聞いた 。 しじゅう|ことう|||としした||こども|||おもって||ようこ||いっしゅ|あなど|さげす|||む|かんじょう|||||きいた 倉地 が 外 妾 を 二 人 持って る と いう うわさ は 初耳 で は ある けれども 、 それ は 新聞 の 記事 で あって みれば あて に は なら ない 。 くらち||がい|めかけ||ふた|じん|もって||||||はつみみ|||||||しんぶん||きじ|||||||| その 外 妾 二 人 と いう の が 、 美人 屋敷 と 評判 の あった そこ に 住む 自分 と 愛子 ぐらい の 事 を 想像 して 、 記者 ならば いい そうな 事 だ 。 |がい|めかけ|ふた|じん|||||びじん|やしき||ひょうばん|||||すむ|じぶん||あいこ|||こと||そうぞう||きしゃ|||そう な|こと| ただ そう 軽く ばかり 思って しまった 。 ||かるく||おもって| ・・

つや が その 花束 を ガラス びん に いけて 、 なんにも 飾って ない 床 の 上 に 置いて 行った あと 、 葉子 は 前 同様に ハンケチ を 顔 に あてて 、 機械 的に 働く 心 の 影 と 戦おう と して いた 。 |||はなたば||がらす|||||かざって||とこ||うえ||おいて|おこなった||ようこ||ぜん|どうように|||かお|||きかい|てきに|はたらく|こころ||かげ||たたかおう||| ・・

その 時 突然 死 が ―― 死 の 問題 で は なく ―― 死 が はっきり と 葉子 の 心 に 立ち 現われた 。 |じ|とつぜん|し||し||もんだい||||し||||ようこ||こころ||たち|あらわれた もし 手術 の 結果 、 子宮 底 に 穿 孔 が できる ように なって 腹膜炎 を 起こしたら 、 命 の 助かる べき 見込み は ない のだ 。 |しゅじゅつ||けっか|しきゅう|そこ||うが|あな|||||ふくまくえん||おこしたら|いのち||たすかる||みこみ||| そんな 事 を ふと 思い起こした 。 |こと|||おもいおこした 部屋 の 姿 も 自分 の 心 も どこ と いって 特別に 変わった わけで は なかった けれども 、 どことなく 葉子 の 周囲 に は 確かに 死 の 影 が さまよって いる の を しっかり と 感じ ないで はいら れ なく なった 。 へや||すがた||じぶん||こころ|||||とくべつに|かわった||||||ようこ||しゅうい|||たしかに|し||かげ||||||||かんじ||||| Neither the appearance of the room nor her own mind had changed in any particular way, but for some reason she couldn't help but feel the shadow of death wandering around Yoko. . それ は 葉子 が 生まれて から 夢にも 経験 し ない 事 だった 。 ||ようこ||うまれて||ゆめにも|けいけん|||こと| これ まで 葉子 が 死 の 問題 を 考えた 時 に は 、 どうして 死 を 招き 寄せよう か と いう 事 ばかり だった 。 ||ようこ||し||もんだい||かんがえた|じ||||し||まねき|よせよう||||こと|| しかし 今 は 死 の ほう が そろそろ と 近寄って 来て いる のだ 。 |いま||し||||||ちかよって|きて|| ・・

月 は だんだん 光 を 増して 行って 、 電灯 に 灯 も ともって いた 。 つき|||ひかり||まして|おこなって|でんとう||とう||| The moon was getting brighter and brighter, and the lights were on. 目 の 先 に 見える 屋根 の 間 から は 、 炊 煙 だ か 、 蚊 遣 り 火 だ か が うっすら と 水 の ように 澄みわたった 空 に 消えて 行く 。 め||さき||みえる|やね||あいだ|||た|けむり|||か|つか||ひ||||||すい|||すみわたった|から||きえて|いく 履き物 、 車馬 の 類 、 汽笛 の 音 、 うるさい ほど の 人々 の 話し声 、 そういう もの は 葉子 の 部屋 を いつも の とおり 取り巻き ながら 、 そして 部屋 の 中 は とにかく 整頓 して 灯 が ともって いて 、 少し の 不思議 も ない のに 、 どこ と も 知れ ず そこ に は 死 が はい 寄って 来て いた 。 はきもの|しゃば||るい|きてき||おと||||ひとびと||はなしごえ||||ようこ||へや|||||とりまき|||へや||なか|||せいとん||とう||||すこし||ふしぎ|||||||しれ|||||し|||よって|きて| ・・

葉子 は ぎょっと して 、 血 の 代わり に 心臓 の 中 に 氷 の 水 を 瀉 ぎ こま れた ように 思った 。 ようこ||||ち||かわり||しんぞう||なか||こおり||すい||しゃ|||||おもった 死のう と する 時 は とうとう 葉子 に は 来 ないで 、 思い も かけ ず 死ぬ 時 が 来た んだ 。 しのう|||じ|||ようこ|||らい||おもい||||しぬ|じ||きた| 今 まで とめど なく 流して いた 涙 は 、 近づく あらし の 前 の そよ風 の ように どこ と も なく 姿 を ひそめて しまって いた 。 いま||||ながして||なみだ||ちかづく|||ぜん||そよかぜ|||||||すがた|||| 葉子 は あわてふためいて 、 大きく 目 を 見開き 、 鋭く 耳 を そ び や かして 、 そこ に ある 物 、 そこ に ある 響き を 捕えて 、 それ に すがり付きたい と 思った が 、 目 に も 耳 に も 何 か 感ぜられ ながら 、 何 が 何やら 少しも わから なかった 。 ようこ|||おおきく|め||みひらき|するどく|みみ|||||||||ぶつ||||ひびき||とらえて|||すがりつき たい||おもった||め|||みみ|||なん||かんぜ られ||なん||なにやら|すこしも|| ただ 感ぜられる の は 、 心 の 中 が わけ も なく ただ わくわく と して 、 すがりつく もの が あれば 何 に でも すがりつきたい と 無性に あせって いる 、 その 目まぐるしい 欲求 だけ だった 。 |かんぜ られる|||こころ||なか|||||||||||||なん|||すがりつき たい||ぶしょうに||||めまぐるしい|よっきゅう|| The only thing I could feel was the dizzying desire to cling to anything that could cling to it, with the excitement in my heart for no reason at all. 葉子 は 震える 手 で 枕 を なで 回したり 、 シーツ を つまみ 上げて じっと 握り締めて みたり した 。 ようこ||ふるえる|て||まくら||な で|まわしたり|しーつ|||あげて||にぎりしめて|| 冷たい 油 汗 が 手のひら に にじみ出る ばかりで 、 握った もの は 何の 力 に も なら ない 事 を 知った 。 つめたい|あぶら|あせ||てのひら||にじみでる||にぎった|||なんの|ちから|||||こと||しった その 失望 は 形容 の でき ない ほど 大きな もの だった 。 |しつぼう||けいよう|||||おおきな|| 葉子 は 一 つ の 努力 ごと に がっかり して 、 また 懸命に たより に なる もの 、 根 の ある ような もの を 追い求めて みた 。 ようこ||ひと|||どりょく||||||けんめいに|||||ね||||||おいもとめて| しかし どこ を さがして みて も すべて の 努力 が 全く むだな の を 心 で は 本能 的に 知っていた 。 ||||||||どりょく||まったく||||こころ|||ほんのう|てきに|しっていた ・・

周囲 の 世界 は 少し の こだわり も なく ずるずる と 平気で 日常 の 営み を して いた 。 しゅうい||せかい||すこし|||||||へいきで|にちじょう||いとなみ||| 看護 婦 が 草履 で 廊下 を 歩いて 行く 、 その 音 一 つ を 考えて みて も 、 そこ に は 明らかに 生命 が 見いださ れた 。 かんご|ふ||ぞうり||ろうか||あるいて|いく||おと|ひと|||かんがえて||||||あきらかに|せいめい||みいださ| Even thinking about the sound of a nurse walking down the hallway in her zori, one could clearly see life there. その 足 は 確かに 廊下 を 踏み 、 廊下 は 礎 に 続き 、 礎 は 大地 に 据えられて いた 。 |あし||たしかに|ろうか||ふみ|ろうか||いしずえ||つづき|いしずえ||だいち||すえ られて| 患者 と 看護 婦 と の 間 に 取りかわさ れる 言葉 一 つ に も 、 それ を 与える 人 と 受ける 人 と が ちゃんと 大地 の 上 に 存在 して いた 。 かんじゃ||かんご|ふ|||あいだ||とりかわさ||ことば|ひと||||||あたえる|じん||うける|じん||||だいち||うえ||そんざい|| しかし それ ら は 奇妙に も 葉子 と は 全く 無関係で 没 交渉 だった 。 ||||きみょうに||ようこ|||まったく|むかんけいで|ぼつ|こうしょう| 葉子 の いる 所 に は どこ に も 底 が ない 事 を 知ら ねば なら なかった 。 ようこ|||しょ||||||そこ|||こと||しら||| 深い 谷 に 誤って 落ち込んだ 人 が 落ちた 瞬間 に 感ずる あの 焦 躁 …… それ が 連続 して やむ 時 なく 葉子 を 襲う のだった 。 ふかい|たに||あやまって|おちこんだ|じん||おちた|しゅんかん||かんずる||あせ|そう|||れんぞく|||じ||ようこ||おそう| The impatience that a person who accidentally falls into a deep ravine feels at the moment when he falls... It continued to attack Yoko without ceasing. 深 さ の わから ない ような 暗い 闇 が 、 葉子 を ただ 一 人 まん 中 に 据えて おいて 、 果てしなく その まわり を 包もう と 静かに 静かに 近づき つつ ある 。 ふか||||||くらい|やみ||ようこ|||ひと|じん||なか||すえて||はてしなく||||つつもう||しずかに|しずかに|ちかづき|| 葉子 は 少しも そんな 事 を 欲し ない のに 、 葉子 の 心持ち に は 頓着 なく 、 休む 事 なく とどまる 事 なく 、 悠々 閑々 と して 近づいて 来る 。 ようこ||すこしも||こと||ほし|||ようこ||こころもち|||とんちゃく||やすむ|こと|||こと||ゆうゆう|かんかん|||ちかづいて|くる Even though Yoko doesn't want that in the slightest, he doesn't care about Yoko's feelings, doesn't rest, doesn't rest, and approaches him calmly. 葉子 は 恐ろし さ に おびえて 声 も 得 上げ なかった 。 ようこ||おそろし||||こえ||とく|あげ| そして ただ そこ から のがれ 出たい 一心に 心ばかり が あせり に あせった 。 |||||で たい|いっしんに|こころばかり|||| And all I wanted to do was get out of there, and my heart was in a rush. ・・

もう だめだ 、 力 が 尽き 切った と 、 観念 しよう と した 時 、 しかし 、 その 奇怪な 死 は 、 すうっと 朝霧 が 晴れる ように 、 葉子 の 周囲 から 消えうせて しまった 。 ||ちから||つき|きった||かんねん||||じ|||きかいな|し||すう っと|あさぎり||はれる||ようこ||しゅうい||きえうせて| 見た 所 、 そこ に は 何一つ 変わった 事 も なければ 変わった 物 も ない 。 みた|しょ||||なにひとつ|かわった|こと|||かわった|ぶつ|| ただ 夏 の 夕 が 涼しく 夜 に つながろう と して いる ばかりだった 。 |なつ||ゆう||すずしく|よ|||||| The cool summer evening was just about to turn into night. 葉子 は きょとんと して 庇 の 下 に 水 々 しく 漂う 月 を 見 やった 。 ようこ||||ひさし||した||すい|||ただよう|つき||み| ・・

ただ 不思議な 変化 の 起こった の は 心ばかり だった 。 |ふしぎな|へんか||おこった|||こころばかり| 荒 磯 に 波 また 波 が 千変万化 して 追い かぶさって 来て は 激しく 打ち くだけて 、 まっ白 な 飛 沫 を 空 高く 突き上げる ように 、 これ と いって 取り留め の ない 執着 や 、 憤り や 、 悲しみ や 、 恨み や が 蛛手 に よれ 合って 、 それ が 自分 の 周囲 の 人 たち と 結び付いて 、 わけ も なく 葉子 の 心 を かきむしって いた のに 、 その 夕方 の 不思議な 経験 の あと で は 、 一筋 の 透明な さびし さ だけ が 秋 の 水 の ように 果てし も なく 流れて いる ばかりだった 。 あら|いそ||なみ||なみ||せんぺんばんか||おい||きて||はげしく|うち||まっしろ||と|まつ||から|たかく|つきあげる|||||とりとめ|||しゅうちゃく||いきどおり||かなしみ||うらみ|||しゅて|||あって|||じぶん||しゅうい||じん|||むすびついて||||ようこ||こころ||||||ゆうがた||ふしぎな|けいけん|||||ひとすじ||とうめいな|||||あき||すい|||はてし|||ながれて|| On the rough shore, the waves, changing in every way, come crashing down on us and only crashing down violently, pushing up pure white splashes high into the sky. They were twisted together, connected to the people around her, and for some reason they were tearing at Yoko's heart, but after that evening's strange experience, there was a clear ray of loneliness. It was nothing but flowing endlessly like autumn water. 不思議な 事 に は 寝入って も 忘れ きれ ない ほど な 頭脳 の 激痛 も 痕 なくなって いた 。 ふしぎな|こと|||ねいって||わすれ|||||ずのう||げきつう||あと|| Strangely enough, even when I fell asleep, the intense pain in my brain that I couldn't forget had disappeared.