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Aozora Bunko Readings (4-5mins), 022. 女体 - 芥川 龍之介

022 .女体 -芥川 龍之介

女体 -芥川 龍之介

楊某 と 云う 支那 人 が 、ある 夏 の 夜 、あまり 蒸暑い のに 眼 が さめて 、頬杖 を つき ながら 腹んばい に なって 、とりとめ の ない 妄想 に 耽って いる と 、ふと 一匹 の 虱 が 寝床 の 縁 を 這って いる のに 気 が ついた 。 部屋 の 中 に ともした 、うす暗い 灯 の 光 で 、虱 は 小さな 背中 を 銀 の 粉 の ように 光らせ ながら 、隣 に 寝て いる 細君 の 肩 を 目がけて 、もずもず 這って 行く らしい 。 細君 は 、裸 の まま 、さっき から 楊 の 方 へ 顔 を 向けて 、安らかな 寝息 を 立てて いる のである 。

楊 は 、その 虱 の のろくさい 歩み を 眺め ながら 、こんな 虫 の 世界 は どんな だろう と 思った 。 自分 が 二 足 か 三 足 で 行ける 所 も 、虱 に は 一 時間 も かから なければ 、歩け ない 。 しかも その 歩きまわる 所 が 、せいぜい 寝床 の 上 だけ である 。 自分 も 虱 に 生れたら 、さぞ 退屈だった 事 であろう 。 ……

そんな 事 を 漫然と 考えて いる 中 に 、楊 の 意識 は 次第に 朧げに なって 来た 。 勿論 夢 で は ない 。 そう か と 云って また 、現 で も ない 。 ただ 、妙に 恍惚 たる 心もち の 底 へ 、沈む と も なく 沈んで 行く のである 。 それ が やがて 、はっと 眼 が さめた ような 気 に 帰った と 思う と 、いつか 楊 の 魂 は あの 虱 の 体 へ は いって 、汗 臭い 寝床 の 上 を 、蠕々 然と して 歩いて いる 。 楊 は 余りに 事 が 意外な ので 、思わず 茫然と 立ちすくんだ 。 が 、彼 を 驚か した のは 、独り それ ばかりで は ない 。 ――

彼 の 行く手 には 、一座 の 高い 山 が あった 。 それが また 自ら な 円み を 暖く 抱いて 、眼 の とどか ない 上 の 方 から 、眼 の 先 の 寝床 の 上 まで 、大きな 鍾乳石 の ように 垂れ 下って いる 。 その 寝床 に ついて いる 部分 は 、中 に 火気 を 蔵 して いる か と 思う ほど 、うす 赤い 柘榴 の 実 の 形 を 造って いる が 、そこ を 除いて は 、山一 円 、どこ を 見て も 白く ない 所 は ない 。 その 白 さ が また 、凝脂 の ような 柔らか み の ある 、滑 な 色 の 白 さ で 、山腹 の なだらかな くぼみ で さえ 、丁度 雪 に さす 月 の 光 の ような 、かすかに 青い 影 を 湛えて いる だけ である 。 まして 光 を うけて いる 部分 は 、融ける ような 鼈甲 色 の 光沢 を 帯びて 、どこ の 山脈 に も 見られ ない 、美しい 弓なり の 曲線 を 、遥 な 天 際 に 描いて いる 。 ……

楊 は 驚嘆 の 眼 を 見開いて 、 この 美しい 山 の 姿 を 眺めた 。 が 、 その 山 が 彼 の 細 君 の 乳 の 一 つ だ と 云 う 事 を 知った 時 に 、 彼 の 驚き は 果して どれ くらい だった 事 であろう 。 彼 は 、 愛 も 憎み も 、 乃至 また 性欲 も 忘れて 、 この 象牙 の 山 の ような 、 巨大な 乳房 を 見守った 。 そうして 、 驚嘆 の 余り 、 寝床 の 汗 臭い 匂 も 忘れた の か 、 いつまでも 凝固 まった よう に 動か なかった 。 ―― 楊 は 、 虱 に なって 始めて 、 細 君 の 肉体 の 美し さ を 、 如実に 観 ずる 事 が 出来た のである 。

しかし 、 芸術 の 士 に とって 、 虱 の 如く 見る 可 きもの は 、 独り 女 体 の 美し さ ばかり で は ない 。

(大正 六年 九月 )

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