006. 最初の 悲哀 - 竹 久 夢 二
街 子 の 父親 は 、 貧しい 町 絵師 で ありました 。 五 月 幟 の 下絵 や 、 稲荷 様 の 行 燈 や 、 ビラ 絵 を 描いて 、 生活 を して いる ので ありました 。 しかし 、 街 子 はたい そう 幸せ でした 。 という のは 、父親は 街子を 、このうえもなく 愛していた し 、街子も また 父親を 世の中で 一番 えらくて 好い 人だと 思っていました 。 母親 が 早く なく なった ので 、 街 子 は 小学校 を 卒業 する と 、 家 に いて 、 父親 の ため 朝 夕 の 食べもの を つくったり 、 洗濯 を したり 、 夜 おそく 父親 が 仕事 を する とき に 、 熱い お茶 を 入れたり しました 。 家の 外を 風が 吹くように 、貧しい ことなどは 、ちっとも 苦労では ありませんでした 。
父親も 街子も 、ほんとに 幸福そうでありました 。
何よりも 好い ことに 、街子 は 父親 の 仕事 を 好きな ばかりでなく 、父親 の 技倆 を 尊敬 さえ していた ことです 。
ところが 街子 に とって 、容易ならぬ 悲みが 一つ 出来た のであります 。 それは 稲荷 様 の 祭 の 日 の ことで ありました 。 毎年 の 習 で 、 ことし も 稲荷 様 の 境内 から 町 内 の 掛 行 燈 の 絵 は 、 みんな 街 子 の 父親 が 描いた の です 。 地口 行燈 と 言って 、おどけた 絵 に 川柳 など 添えて かいて ある もの で 、通る 人 は 一つずつ それを よんで 見て 喜んで いました 。 仕立おろし の セル を すらりと きた 若い 奥様 に 、「どうだ 、愉快だ ね 。 こんな 風な 絵は 国宝 だよ 」そう 言って 見て ゆく 旦那様 も ありました 。
街子 は それを きいて このうえもなく 幸福で 、「それは あたしの 父さんが 描いた んです よ 」そう 言いたい ほど でした 。
ところが 街子 と おんなじ 年 に 小学校 を 出て 、いま は 女学校 へ 上って いる お友達 が 三人 、やはり 地口 行燈 の まえ に 立って いました 。 街子 は なつかしくて 傍 へ よって ゆきました 。 すると その 時 、三人 は どっと 笑い 出しました 。
「なんて 古くさい 絵 でしょう 」
「馬鹿に してる わ 」
「この 眼 は どう でしょう 」
そんな ことを 言い ながら また ころげる ように 笑って いました 。
それを 聞いた 哀れな 街子 は 、人の 影へ かくれる ように しながら 、家の 方へ 駈け出しました 。 それ が 街 子 の 最初の 悲み で ありました 。