藤田 嗣治 (54 )
こんにちは 。人 から 分かる 3 分 美術 史 。
今日 は 藤田 嗣治 に ついて 勉強 して いき ましょう 。
藤田 嗣治 。1886 年 生まれ 。
パリ で 活躍 し 、戦後 日本 の 画壇 から 追放 さ れた 悲劇 の 画家 として 知られます 。
藤田 は 明治 19 年 に 医者 の 息子 として 生まれました 。
14 歳 で 画家 に なる 決心 を し 、19 歳 で 東京 美術 学校 に 入学 。
教師 に は 黒田 清輝 や 和田 英作 、同級生 に は 田辺 至 や 岡本 一平 ら が いました 。
この頃 の 代表 作 である 「 自画 像 」 は 、
黒田 ら の 影響 を 受けた 外光派 風 の 画風 と なって い ます 。
27 歳 の おり 、藤田 は かねてより 憧れて いた フランス パリ に 渡ります 。
翌年 に は ピカソ の アトリエ を 訪問 。
ピカソ と 彼 が 所蔵 して いた ルソー の 作品 に 影響 を 受け ました 。
また パリ で 藤田 は モディリアーニ や スーティン ら と 交流 。
それ ら を 通じて 藤田 は 独自の 画風 を 見出して いきます 。
その頃 の 作品 が 「 私 の 部屋 、 目覚まし時計 の ある 静物 」 です 。
藤田 独自 の 乳白色 の 下地 を 用いた 初期 の 作品 であり 、
壁 に 飾られた 食器 の 精緻な 描写 など 、これ 以後 続く 藤田 の 画風 を 象徴する 作品 で も あります 。
こうして パリ の 画壇 で 頭角 を 現して いった 藤田 は 、
当時 同じく 諸 外国 から パリ に 集まった 画家 たち である 、
「エコール ・ド ・パリ 」の 潮流 の 代表的な 一人 と して 知られ る ように なり ます 。
1929 年 、43 歳 の 藤田 は 17 年 ぶり に 帰国 。
名実 ともに 大 作家 の 一人 と なった 藤田 は 、その後 南米 など を 旅行 し 精力的に 活動 して いきます 。
しかし 戦争 の 機運 が 高まって くる と 、1938 年 に 帰国 。
宮本 三郎 、小磯 良平 ら と ともに 、従軍 画家 の 一 人 として 活動 し ます 。
その頃 の 代表作 が 「アッツ 島 玉砕 」です 。
画面 を 埋め尽くす 死体 の 間 に は 小さな 花 々 を 描き 、
凄 惨 ながら も 象徴的 な 画面 と なって い ます 。
戦後 に なる と 戦争 責任 の 追及 が 始まり 、
藤田 は 日本 の 画壇 から 半ば 追放 さ れました
その後 、藤田 は パリ に 移住 し ます 。
藤田 の 作品 を 見て いきましょう 。
「礼拝 」。藤田 は 晩年 キリスト教 に 帰依 し 、数多く の 宗教画 を 残し ました 。
藤田 は 1968 年 に 81 歳 で 亡くなり ます 。その後 国内 で の 再評価 が はじまり 、
今では 時代 を 代表 する 画家 の 一人 と して 知られて います 。
以上