横山 大観 (31)
こんにちは 。人 から 分かる 3 分 美術 史 。今日 は 横山 大観 に ついて 勉強 して いき ましょう 。
横山大観 。1868 年 生まれ 。明治 から 昭和 に かけて の 近代 日本画 の 巨匠 として 知られます 。
大観 は 明治 元年 に 現在 の 茨城 県 水戸 市 に 生まれ ました 。10 歳 で 上京 。17 歳 の 頃 より 鉛筆画 を 学びます 。
岡倉 天心 に よる 東京 美術 学校 の 創設 に あたり 親 の 反対 を 押し切って 入学 。第 一回生 と なり ました 。
東京 美術 学校 で 大観 は 狩野 派 の 橋本 雅 邦 に 学びます 。
卒業 制作 である 「村 童 観 猿 翁 」は 大観 の 同級生 と 雅邦 を 童 と 猿回し に 見立て 、狩野 派 流 に 描か れて います 。
1893年 の 卒業 後 、大観 は 東京 美術 学校 の 教員 と なり ます 。
しかし 1898 年 に は 東京 美術 学校長 辞職 騒 により 、天心 に 従って 同僚 の 雅邦 や 下村 観山 、菱田 春草 ら と ともに 東京 美術 学校 を 辞職 し ました 。
そこ で 彼ら は 在野 の 美術 団体 である 「日本 美術院 」を 創設 し ます 。
その頃 の 代表作 が 「菜の葉 」です 。その 画風 は 「朦朧体 」と 呼ばれ 、画壇 から は 批判 されました 。
その後 も 大観 ら は 研究 を 続けます が 、画壇 から は 全く 評価 されず 困窮 の 日々 が 続き 、日本 美術院 は 崩壊 。
そんな 中 、親友 ・春草 、師 ・天心 が 亡くなる と 、大観 は 在野 に おける 日本画 の リーダー と 目さ れる ように なり ます 。
1914年 に は 安田 靫彦 、今村 紫紅 ら が 加わり 日本 美術 院 を 再興 。
この頃 の 作品 である 「群青 富士 」は 琳派 の 影響 を 受けた 装飾的な 画風 と なって い ます 。
また 大観 は この 時期 、皇室 から の 制作 依頼 を 積極的に 受ける など 、日本 美術院 の 権威付け を 試み 、
一 作家 と して だけ でなく 、指導者 として の 政治的 行動 が 見られる ように なり ました 。
1923年 に は 大観 の 代表作 として 知られる 「生々流転 」を 発表 。全長 40メートル を 超す 水墨画 の 超大作 です 。
その後 の 大観 は 、画壇 で の 評価 も 高まり 人気 作家 として の 地位 を 確立 。
1958年 に 89歳 で 亡くなる まで 、画壇 の 長老 として 存在感 を 発揮 し 続けた のでした 。
以上