鼻 |芥川龍之介 (2)
――もう 一 度 、これ を 茹でれば ようご ざる 。
と 云った 。
内 供 は やはり 、八 の 字 を よせた まま 不服 らしい 顔 を して 、弟子 の 僧 の 云う なり になっていた 。
さて 二 度目 に 茹でた 鼻 を 出して 見る と 、成程 、いつになく 短く なって いる 。 これ で は あたりまえ の 鍵 鼻 と 大した 変り は ない 。 内 供 は その 短く なった 鼻 を 撫 な で ながら 、 弟子 の 僧 の 出して くれる 鏡 を 、 極 り が 悪 る そうに おずおず 覗いて 見た 。
鼻 は ―― あの 顋 の 下 まで 下って いた 鼻 は 、 ほとんど 嘘 の よう に 萎縮 して 、 今 は 僅 に 上 唇 の 上 で 意気地 なく 残 喘 を 保って いる 。 所々 まだらに 赤く なって いる の は 、恐らく 踏まれた 時 の 痕 あと であろう 。 こう なれば 、もう 誰 も 哂わらう もの は ない に ちがいない 。 ――鏡 の 中 に ある 内供 の 顔 は 、鏡 の 外 に ある 内供 の 顔 を 見て 、満足 そうに 眼 を しばたたいた 。
しかし 、その 日 は まだ 一日 、鼻 が また 長く なり は し ない か と 云う 不安 が あった 。 そこ で 内 供 は 誦経 ず ぎょう する 時 に も 、食事 を する 時 に も 、暇 さえ あれば 手 を 出して 、そっと 鼻 の 先 に さわって 見た 。 が 、 鼻 は 行儀 ぎょうぎ よく 唇 の 上 に 納まって いる だけ で 、 格別 それ より 下 へ ぶら 下って 来る 景色 もない 。 それ から 一晩 寝て あくる 日 早く 眼 が さめる と 内供 は まず 、第 一 に 、自分 の 鼻 を 撫でて 見た 。 鼻 は 依然と して 短い 。 内 供 は そこ で 、幾 年 に も なく 、法華経 書写 の 功 を 積んだ 時 の ような 、のびのび した 気分 に なった 。
所 が 二三 日 たつ 中 に 、内 供 は 意外な 事実 を 発見 した 。 それ は 折から 、 用事 が あって 、 池 の 尾 の 寺 を 訪れた 侍 さむらい が 、 前 より も 一層 可 笑 おかし そうな 顔 を して 、 話 も 碌々 ろくろく せず に 、 じろじろ 内 供 の 鼻 ばかり 眺めて いた 事 である 。 それ のみ なら ず 、 かつて 、 内 供 の 鼻 を 粥 かゆ の 中 へ 落した 事 の ある 中 童 子 ちゅう どうじ なぞ は 、 講堂 の 外 で 内 供 と 行きちがった 時 に 、 始め は 、 下 を 向いて 可 笑 おかし さ を こらえて いた が 、 とうとう こらえ 兼ねた と 見えて 、 一度に ふっと 吹き出して しまった 。 用 を 云 い つかった 下 法師 しも ほうし たち が 、 面 と 向って いる 間 だけ は 、 慎 つつしんで 聞いて いて も 、 内 供 が 後 うしろ さえ 向けば 、 すぐ に くすくす 笑い 出した の は 、 一 度 や 二 度 の 事 で は ない 。
内 供 は はじめ 、これ を 自分 の 顔 が わり が した せい だ と 解釈 した 。 しかし どうも この 解釈 だけ で は 十分に 説明 が つかない ようである 。 ――勿論 、中 童子 や 下 法師 が 哂わらう 原因 は 、そこ に ある のに ちがいない 。 けれども 同じ 哂 うに して も 、 鼻 の 長かった 昔 と は 、 哂 う の に どことなく 容子 ようす が ちがう 。 見 慣れた 長い 鼻 より 、 見 慣れない 短い 鼻 の 方 が 滑稽 こっけい に 見える と 云 えば 、 それ まで である 。 が 、そこ に は まだ 何か ある らしい 。
――前 に は あの ように つけ つけ と は 哂 わ なんだ て 。
内 供 は 、 誦 ずし かけた 経文 を やめて 、 禿 はげ 頭 を 傾け ながら 、 時々 こう 呟 つぶやく 事 が あった 。 愛す べき 内 供 は 、 そう 云 う 時 に なる と 、 必ず ぼんやり 、 傍 かたわら に かけた 普賢 ふげん の 画像 を 眺め ながら 、 鼻 の 長かった 四五 日 前 の 事 を 憶 おもい出して 、「 今 は むげに いやしく なり さ が れる人 の 、 さかえ たる 昔 を しのぶ が ごとく 」 ふさぎ こんで しまう のである 。 ―― 内 供 に は 、 遺憾 いかん ながら この 問 に 答 を 与える 明 が 欠けて いた 。
―― 人間 の 心 に は 互 に 矛盾 むじゅん した 二 つ の 感情 が ある 。 勿論 、誰 でも 他人 の 不幸 に 同情 しない 者 は ない 。 所 が その 人 が その 不幸 を 、どうにか して 切りぬける 事 が 出来る と 、今度 は こっち で 何となく 物足りない ような 心もち が する 。 少し 誇張 して 云えば 、もう 一 度 その 人 を 、同じ 不幸 に 陥おとしいれて 見たい ような 気 に さえ なる 。 そうして いつの間にか 、 消極 的 で は ある が 、 ある 敵意 を その人 に 対して 抱く ような 事 に なる 。 ――内 供 が 、理由 を 知ら ない ながら も 、何となく 不快に 思った の は 、池 の 尾 の 僧俗 の 態度 に 、この 傍観者 の 利己主義 を それ と なく 感づいた から に ほかならない 。
そこ で 内 供 は 日 毎 に 機嫌 きげん が 悪く なった 。 二 言 目 に は 、 誰 でも 意地 悪く 叱 しかり つける 。 しまい に は 鼻 の 療治 りょうじ を した あの 弟子 の 僧 で さえ 、「 内 供 は 法 慳貪 ほうけん どん の 罪 を 受けられる ぞ 」 と 陰口 を きく ほど に なった 。 殊に 内 供 を 怒ら せた の は 、 例の 悪戯 いたずらな 中 童 子 である 。 ある 日 、 けたたましく 犬 の 吠 ほえる 声 が する ので 、 内 供 が 何気なく 外 へ 出て 見る と 、 中 童 子 は 、 二 尺 ばかりの 木 の 片 きれ を ふり まわして 、 毛 の 長い 、 痩 やせた 尨犬 むくい ぬ を 逐 おい まわして いる 。 それ も ただ 、 逐 いま わして いる ので は ない 。 「鼻 を 打たれ まい 。 それ 、 鼻 を 打た れ まい 」 と 囃 はやし ながら 、 逐 いま わして いる のである 。 内 供 は 、中 童子 の 手 から その 木 の 片 を ひったくって 、したたか その 顔 を 打った 。 木 の 片 は 以前 の 鼻 持上 は な もたげ の 木 だった のである 。
内 供 は なまじ い に 、 鼻 の 短く なった の が 、 かえって 恨 うらめしく なった 。
すると ある 夜 の 事 である 。 日 が 暮れて から 急に 風 が 出た と 見えて 、 塔 の 風 鐸 ふう たく の 鳴る 音 が 、 うるさい ほど 枕 に 通 か よって 来た 。 その 上 、寒さ も めっきり 加わった ので 、老年 の 内供 は 寝つこう としても 寝つかれない 。 そこ で 床 の 中 で まじまじ して いる と 、 ふと 鼻 が いつ に なく 、 む ず 痒 かゆい のに 気 が ついた 。 手 を あてて 見る と 少し 水気 す いき が 来た よう に むくんで いる 。 どうやら そこ だけ 、熱 さえ も ある らしい 。
――無理に 短う した で 、病 が 起った の かも 知れ ぬ 。
内 供 は 、 仏 前 に 香 花 こう げ を 供 そなえる ような 恭 うやうやしい 手つき で 、 鼻 を 抑え ながら 、 こう 呟いた 。
翌朝 、 内 供 が いつも の よう に 早く 眼 を さまして 見る と 、 寺 内 の 銀杏 いちょう や 橡 とち が 一晩 の 中 に 葉 を 落した ので 、 庭 は 黄金 きん を 敷いた よう に 明るい 。 塔 の 屋根 に は 霜 が 下りている せい であろう 。 まだ うすい 朝日 に 、 九 輪 く りん が まばゆく 光って いる 。 禅 智 内 供 は 、 蔀 し とみ を 上げた 縁 に 立って 、 深く 息 を す いこん だ 。
ほとんど 、忘れよう と して いた ある 感覚 が 、再び 内 供 に 帰って来た のは この 時 である 。
内 供 は 慌てて 鼻 へ 手 を やった 。 手 に さわる もの は 、 昨夜 ゆうべ の 短い 鼻 で は ない 。 上 唇 の 上 から 顋 あご の 下 まで 、 五六 寸 あまり も ぶら 下って いる 、 昔 の 長い 鼻 である 。 内 供 は 鼻 が 一夜 の 中 に 、また 元 の 通り 長く なった のを 知った 。 そうして それ と 同時に 、鼻 が 短く なった 時 と 同じ ような 、はればれ した 心もち が 、どこ から ともなく 帰って来る の を 感じた 。
――こう なれば 、もう 誰 も 哂わらう もの は ない に ちがいない 。
内 供 は 心 の 中 で こう 自分 に 囁 ささやいた 。 長い 鼻 を あけ 方 の 秋風 に ぶらつかせ ながら 。