41.1或る 女
階子 段 の 上がり口 には 愛子 が 姉 を 呼びに 行こうか 行くまいか と 思案する らしく 立っていた 。 そこを 通り抜けて 自分の 部屋に 来て 見ると 、胸毛を あらわに 襟を ひろげて 、セルの 両袖を 高々 と まくり上げた 倉地が 、あぐらを かいた まま 、電灯の 灯の 下に 熟柿の ように 赤くなって こっちを 向いて 威丈高に なっていた 。 古藤は 軍服の 膝を きちんと 折って まっすぐに 固く すわって 、葉子には 後ろを 向けていた 。 それ を 見る と もう 葉子 の 神経 は びりびり と 逆立って 自分 ながら どうしようもない ほど 荒れすさんで 来て いた 。 「何もかも いやだ 、どうでも 勝手に なる が いい 。」 すると すぐ 頭 が 重く かぶさって 来て 、腹部 の 鈍痛 が 鉛 の 大きな 球 の ように 腰 を しいたげた 。 それは 二重に 葉子を いらいら させた 。 ・・
「あなた 方 は いったい 何 を そんなに いい合って いらっしゃる の 」・・
もう そこ に は 葉子 は タクト を 用いる 余裕 さえ 持って いなかった 。 始終 腹 の 底 に 冷静 さ を 失わ ないで 、あらん 限り の 表情 を 勝手に 操縦 して どんな 難関 でも 、葉子 に 特有な しかた で 切り開いて 行く そんな 余裕 は その 場 に は とても 出て 来なかった 。 ・・
「何 を と いって この 古藤 と いう 青年 は あまり 礼儀 を わきまえん から よ 。 木村 さん の 親友 親友 と 二 言 目 に は 鼻 に かけた ような 事 を い わる る が 、 わし も わし で 木村 さん から 頼ま れ とる ん だ から 、 一人 よ がり の 事 は い うて もらわ ん でも が いい のだ 。 それ を つべこべ ろくろく あなた の 世話 も 見 ず に おき ながら 、いい立て なさる ので 、筋 が 違って いよう と いって 聞か せて 上げた ところ だ 。 古藤 さん 、 あなた 失礼だ が いったい いく つ です 」・・
葉子 に いって 聞か せる でも なくそう いって 、 倉地 は また 古藤 の ほう に 向き直った 。 古藤 は この 侮辱 に 対して 口答え の 言葉 も 出ない よう に 激昂 して 黙って いた 。 ・・
「答える が 恥ずかしければ しいて も 聞く まい 。 が 、いずれ 二十 は 過ぎて いられる のだろう 。 二十 過ぎた 男 が あなた の ように 礼儀 を わきまえ ず に 他人 の 生活 の 内輪 に まで 立ち入って 物 を いう は ばか の 証拠 です よ 。 男 が 物 を いう なら 考えて から いう が いい 」・・
そう いって 倉地 は 言葉 の 激昂 して いる 割合 に 、また 見かけ の いかにも 威丈高 な 割合 に 、充分 の 余裕 を 見せて 、空 うそぶく ように 打ち水 を した 庭 の ほう を 見 ながら 団扇 を つかった 。 ・・
古藤 は しばらく 黙って いて から 後ろ を 振り 仰いで 葉子 を 見 やり つつ 、・・
「葉子 さん ……まあ 、す 、す わって ください 」・・
と 少し どもる ように しいて 穏やかに いった 。 葉子 は その 時 始めて 、われ に も なく それ まで そこ に 突っ立った まま ぼんやり して いた の を 知って 、自分 に かつて ない ような とんきょ な 事 を して いた のに 気 が 付いた 。 そして 自分 ながら このごろ は ほんとうに 変だ と 思い ながら 二 人 の 間 に 、できる だけ 気 を 落ち着けて 座 に ついた 。 古藤 の 顔 を 見る と やや 青ざめて 、こめかみ の 所 に 太い 筋 を 立てて いた 。 葉子 は その 時分 に なって 始めて 少しずつ 自分 を 回復 して いた 。 ・・
「古藤 さん 、倉地 さん は 少し お酒 を 召し上がった 所 だ から こんな 時 むずかしい お話 を なさる の は よく ありません でした わ 。 なん です か 知りません けれども 今夜 は もう その お話 は きれいに やめましょう 。 いかが ? …… また ゆっくり ね …… あ 、 愛さ ん 、 あなた お 二 階 に 行って 縫い かけ を 大急ぎで 仕上げて 置いて ちょうだい 、 ねえさん が あら かた して しまって ある けれども ……」・・
そう いって 先刻から 逐一 二人の 争論を きいていた らしい 愛子を 階上に 追い上げた 。 しばらく して 古藤は ようやく 落ち着いて 自分の 言葉を 見いだした ように 、・・
「倉地 さん に 物 を いった の は 僕 が 間違って いた かも しれません 。 じゃ 倉地 さん を 前 に 置いて あなた に いわ して ください 。 お世辞 でも なんでもなく 、僕 は 始め から あなた に は 倉地 さん なんか に は ない 誠実な 所 が 、どこか に 隠れて いる ように 思って いた んです 。 僕 の いう 事 を その 誠実な 所 で 判断 して ください 」・・
「 まあ きょう は もう いい じゃ ありません か 、 ね 。 わたし 、あなた の おっしゃろう と する 事 は よっく わかって います わ 。 わたし 決して 仇 や おろそかに は 思って いません ほんとうに 。 わたし だって 考えて は います わ 。 その うち とっくり わたし の ほう から 伺って いただきたい と 思って いた くらい です から それ まで ……」・・
「きょう 聞いて ください 。 軍隊 生活 を して いる と 三 人 で こうして お話し する 機会 は そう あり そうに は ありません 。 もう 帰 営 の 時間 が 逼って います から 、 長く お 話 は できない けれども …… それ だ から 我慢 して 聞いて ください 」・・
それなら なんでも 勝手に いってみる がいい 、仕儀に よっては 黙って はいない から と いう 腹を 、かすかに 皮肉に 開いた 口びるに 見せて 葉子は 古藤に 耳を かす 態度を 見せた 。 倉地は 知らんふりを して 庭の ほうを 見続けて いた 。 古藤は 倉地を 全く 度外視した ように 葉子の ほうに 向き直って 、葉子の 目に 自分の 目を 定めた 。 卒 直 な 明 ら さま な その 目 に は その 場合 に すら 子供 じみ た 羞恥 の 色 を たたえて いた 。 例の ごとく 古藤 は 胸の 金 ぼたん を はめたり はずしたり しながら 、・・
「僕 は 今まで 自分 の 因循 から あなたに 対しても 木村に 対しても ほんとうに 友情 らしい 友情 を 現わさ なかった のを 恥ずかしく 思います 。 僕 は とうに もっと どうかしなければ いけなかった んです けれども ……木村 、木村って 木村の 事 ばかり いう ようです けれども 、木村の 事を いう のは あなたの 事を いう のも 同じだ と 僕 は 思う んです が 、あなたは 今でも 木村と 結婚する 気が 確かに ある んです か ない んです か 、倉地 さん の 前で それを はっきり 僕に 聞かせて ください 。 何事 も そこから 出発して 行かなければ この 話は 畢寛 まわり ばかり 回る 事に なります から 。 僕 は あなた が 木村 と 結婚 する 気 は ない と いわれて も 決して それ を どう と いう んじゃ ありません 。 木村 は 気の毒です 。 あの 男 は 表面 は あんなに 楽天 的に 見えて いて 、意志 が 強そうだ けれども 、ずいぶん 涙っぽい ほう だ から 、その 失望 は 思いやら れます 。 けれども それ だって しかたがない 。 第 一 始め から 無理だった から …… あなた の お 話 の よう なら ……。 しかし 事情 が 事情 だった と は いえ 、あなた は なぜ いやな らい や と ……そんな 過去 を いった ところ が 始まら ない から やめましょう 。 ……葉子 さん 、あなた は ほんとうに 自分 を 考えて みて 、どこか 間違って いる と 思った 事 は ありませんか 。 誤解 して は 困ります よ 、僕 は あなた が 間違って いる と いう つもりじゃ ない んです から 。 他人 の 事 を 他人 が 判断 する 事 なんか は でき ない 事 だ けれども 、僕 は あなた が どこか 不自然に 見えて いけ ない んです 。 よく 世の中 で は 人生 の 事 は そう 単純に 行く もん じゃ ない と いいます が 、そうして あなた の 生活 なんぞ を 見て いる と 、それは ごく 外面的に 見て いる から そう 見える の かも しれない けれども 、実際 ずいぶん 複雑 らしく 思われます が 、そう あるべき 事 な んでしょうか 。 もっと もっと clear に sun - clear に 自分 の 力 だけ の 事 、 徳 だけ の 事 を して 暮らせ そうな もの だ と 僕 自身 は 思う ん です が ね …… 僕 に も そう で なく なる 時代 が 来る かも しらない けれども 、 今 の 僕 と して は そう より 考えられない ん です 。 一 時 は 混雑 も 来 、不和 も 来 、けんか も 来る か は 知れ ない が 、結局 は そう する より しかたがない と 思います よ 。 あなた の 事 に ついて も 僕 は 前 から そういうふうに はっきり 片づけて しまいたい と 思って いた んです けれど 、姑息な 心から それ まで に 行か ず とも いい 結果 が 生まれて 来 は し ない か と 思ったり して きょう まで どっちつかずで 過ごして 来た んです 。 しかし もう この 以上 僕 に は 我慢 が でき なく なりました 。 ・・
倉地 さん と あなた と 結婚 なさる なら なさる で 木村 も あきらめる より ほか に 道 は ありません 。 木村 に 取って は 苦しい 事 だろう が 、僕 から 考える と どっちつかずで 煩悶 して いる の より どれ だけ いい か わかりません 。 だから 倉地 さん に 意向 を 伺おう と すれば 、倉地 さん は 頭から 僕 を ばかに して 話 を 真 身 に 受けて は くださら ない んです 」・・
「ばかに される ほう が 悪い の よ 」・・
倉地 は 庭 の ほう から 顔 を 返して 、「どこ まで ばかに 出来上がった 男 だろう 」と いう ように 苦笑い を し ながら 古藤 を 見 やって 、また 知ら ぬ 顔 に 庭 の ほう を 向いて しまった 。 ・・
「 そりゃ そうだ 。 ばかに される 僕 は ばかだろう 。 しかし あなた に は …… あなた に は 僕ら が 持ってる 良心 と いう もの が ない ん だ 。 それ だけ は ばか でも 僕 に は わかる 。 あなた が ばか と いわれる の と 、僕 が 自分 を ばか と 思って いる それ と は 、意味 が 違います よ 」・・
「その とおり 、あなた は ばかだ と 思い ながら 、どこか 心 の すみ で 『何 ばかな もの か 』と 思い よる し 、わたし は あなた を 嘘 本 なし に ばか と いう だけ の 相違 が ある よ 」・・
「あなた は 気の毒な 人 です 」・・
古藤 の 目 に は 怒り と いう より も 、 ある 激しい 感情 の 涙 が 薄く 宿って いた 。 古藤 の 心 の 中 の いちばん 奥深い 所 が 汚さ れない まま で 、 ふと 目 から のぞき 出した か と 思わ れる ほど 、 その 涙 を ためた 目 は 一種 の 力 と 清 さ と を 持って いた 。 さすが の 倉地 も その 一言 に は 言葉 を 返す 事 なく 、 不思議 そうに 古藤 の 顔 を 見た 。 葉子 も 思わず 一種 改まった 気分 に なった 。 そこ に は これまで 見慣れていた 古藤 は いなくなって 、その 代わりに ごまかし の きかない 強い 力 を 持った 一人の 純潔な 青年が ひょっこり 現われ出た ように 見えた 。 何 を いう か 、 また いつも の ような ありきたりの 道徳 論 を 振り回す と 思い ながら 、 一種 の 軽侮 を もって 黙って 聞いて いた 葉子 は 、 この 一言 で 、 いわば 古藤 を 壁 ぎ わ に 思い 存分 押し付けて いた 倉地 が 手 も なく は じき 返された の を 見た 。 言葉の 上や 仕打ちの 上やで いかに 高圧的に 出てみても 、どうする 事も できない ような 真実さが 古藤から あふれ出ていた 。 それ に 歯 向かう に は 真実で 歯 向かう ほか は ない 。 倉地 は それ を 持ち 合わして いる か どうか 葉子 には 想像 が つかなかった 。 その 場合 倉地 は しばらく 古藤 の 顔 を 不思議 そうに 見 やった 後 、平気な 顔 を して 膳 から 杯 を 取り上げて 、飲み 残して 冷えた 酒 を てれかくし の ように あおり つけた 。 葉子 は この 時 古藤 と こんな 調子 で 向かい合って いる のが 恐ろしくって ならなく なった 。 古藤 の 目の前 で ひょっとすると 今まで 築いて 来た 生活 が くずれて しまい そうな 危惧 を さえ 感じた 。 で 、そのまま 黙って 倉地 の まね を する ようだ が 、平気 を 装い つつ 煙管 を 取り上げた 。 その 場 の 仕打ち と して は 拙 いや りかた である の を 歯がゆく は 思い ながら 。 ・・
古藤 は しばらく 言葉 を 途切らして いた が 、また 改まって 葉子 の ほう に 話しかけた 。 ・・
「そう 改まら ないでください 。 その代わり 思った だけの 事を いいかげんに しておかずに 話し合わせて みてください 。 いいですか 。 あなた と 倉地 さん と の これ まで の 生活 は 、僕 みたいな 無経験 な もの に も 、疑問 と して 片づけて おく 事 の でき ない ような 事実 を 感じ させる んです 。 それ に 対する あなた の 弁解 は 詭弁 と より 僕 に は 響か なく なりました 。 僕 の 鈍い 直覚 で すら が そう 考える のです 。 だから この際 あなた と 倉地 さん と の 関係 を 明らかに して 、あなた から 木村 に 偽り の ない 告白 を して いただきたい んです 。 木村 が 一人 で 生活 に 苦しみ ながら たとえよう のない 疑惑 の 中 に もがいて いる の を 少し でも 想像 して みたら …… 今 の あなた に は それ を 要求 する の は 無理 かも しれない けれども ……。 第一 こんな 不安定な 状態から あなたは 愛子さん や 貞世さん を 救う 義務が あると 思いますよ 僕は 。 あなただけに 限られずに 、四方八方の 人の 心に 響くと いうのは 恐ろしい 事だと は ほんとうに あなたには 思えませんか ねえ 。 僕には そばで 見ている だけでも 恐ろしい が なあ 。 人 に は いつか 総勘定 を しなければならない 時 が 来る んだ 。 いくら 借り になって いても びくともしない と いう 自信 も なくって 、ずるずる べったりに 無反省に 借りばかり 作って いる のは 考えて みると 不安 じゃない でしょうか 。 葉子 さん 、あなた に は 美しい 誠実 が ある んだ 。 僕 は それ を 知っています 。 木村 に だけ は どうした わけか 別だ けれども 、あなたは びた一文 でも 借り を して いる と 思う と 寝心地 が 悪い と いう ような 気象 を 持って いる じゃありませんか 。 それに 心の 借金 なら いくら 借金 を して いて も 平気で いられる わけは ない と 思いますよ 。 なぜ あなたは 好んで それを 踏みにじろう と ばかり して いる んです 。 そんな 情けない 事 ばかり して いて は だめ じゃありませんか 。 …… 僕 は はっきり 思う とおり を いい 現わし 得ない けれども …… いおう と して いる 事 は わかって くださる でしょう 」