38.2 或る 女
ある 日 葉子 は 思いきって ひそかに 医師 を 訪れた 。 医師 は 手 も なく 、葉子 の すべて の 悩み の 原因 は 子宮 後 屈 症 と 子宮 内膜 炎 と を 併発 して いる から だ と いって 聞かせた 。 葉子 は あまりに わかりきった 事 を 医師 が さも 知ったかぶり に いって 聞かせる ように も 、また その のっぺり した 白い 顔 が 、恐ろしい 運命 が 葉子 に 対して 装うた 仮面 で 、葉子 は その 言葉 に よって まっ暗 な 行く手 を 明らかに 示さ れた ように も 思った 。 そして 怒り と 失望 と を いだきながら その 家 を 出た 。 帰途 葉子 は 本屋 に 立ち寄って 婦人病 に 関する 大部 な 医書 を 買い求めた 。 それは 自分 の 病症 に 関する 徹底的 な 知識 を 得よう ため だった 。 家に 帰ると 自分 の 部屋 に 閉じこもって すぐ 大体 を 読んで 見た 。 後屈症 は 外科手術 を 施して 位置矯正 を する 事に よって 、内膜炎 は 内膜炎 を 抉掻 する 事に よって 、それが 器械的 の 発病 である 限り 全治 の 見込み は ある が 、位置矯正 の 場合 などに 施術者 の 不注意 から 子宮底 に 穿孔 を 生じた 時 などに は 、往々にして 激烈な 腹膜炎 を 結果する 危険 が 伴わないでも ない などと 書いてあった 。 葉子 は 倉地 に 事情 を 打ち明けて 手術 を 受けようか とも 思った 。 ふだんならば 常識 が すぐ それを 葉子に させた に 違いない 。 しかし 今は もう 葉子の 神経 は 極度に 脆弱に なって 、あらぬ 方向に ばかり われにもなく 鋭く 働く ように なって いた 。 倉地 は 疑い も なく 自分 の 病気 に 愛想 を 尽かす だろう 。 た と い そんな 事 は ない と して も 入院 の 期間 に 倉地 の 肉 の 要求 が 倉地 を 思わぬ ほう に 連れて 行か ない と は だれ が 保証 できよう 。 それは 葉子 の 僻見 である かも しれない 、しかし もし 愛子 が 倉地 の 注意 を ひいて いる と すれば 、自分 の 留守 の 間 に 倉地 が 彼女 に 近づく の は ただ 一歩 の 事 だ 。 愛子 が あの 年 で あの 無 経験 で 、 倉地 の ような 野性 と 暴力 と に 興味 を 持た ぬ の は もちろん 、 一種 の 厭 悪 を さえ 感じて いる の は 察せられない で は ない 。 愛子 は きっと 倉地 を 退ける だろう 。 しかし 倉地 に は 恐ろしい 無恥 が ある 。 そして 一 度 倉地 が 女 を おのれ の 力 の 下 に 取り ひ しい だ ら 、 いかなる 女 も 二度と 倉地 から のがれる 事 の できない ような 奇怪 の 麻酔 の 力 を 持って いる 。 思想 とか 礼儀 とか に わずらわさ れない 、無尽蔵に 強烈で 征服的 な 生 の まま な 男性 の 力 は いか な 女 を も その 本能 に 立ち 帰ら せる 魔術 を 持って いる 。 しかも あの 柔順 らしく 見える 愛子 は 葉子 に 対して 生まれる と から の 敵意 を 挟んで いる のだ 。 どんな 可能で も 描いて 見る 事 が できる 。 そう 思う と 葉子 は わが身 で わが身 を 焼く ような 未練 と 嫉妬 の ため に 前後 も 忘れて しまった 。 なんとか して 倉地 を 縛り上げる まで は 葉子 は 甘んじて 今 の 苦痛 に 堪え忍ぼう と した 。 ・・
そのころ から あの 正井 と いう 男 が 倉地 の 留守 を うかがって は 葉子 に 会い に 来る ように なった 。 ・・
「あいつ は 犬 だった 。 危うく 手 を かま せる 所 だった 。 どんな 事 が あって も 寄せ付ける で は ない ぞ 」・・
と 倉地 が 葉子 に いい聞かせて から 一 週間 も たたない 後 に 、 ひょっこり 正井 が 顔 を 見せた 。 なかなか の しゃれ者 で 、 寸分 の すき もない 身なり を して いた 男 が 、 どこ か に 貧 窮 を に おわす よう に なって いた 。 カラー に はうっすり 汗 じみ が できて 、 ズボン の 膝 に は 焼けこげ の 小さな 孔 が 明いたり して いた 。 葉子が 上げる 上げない も いわない うちに 、懇意ずく らしく どんどん 玄関から 上がりこんで 座敷に 通った 。 そして 高価らしい 西洋菓子の 美しい 箱を 葉子の 目の前に 風呂敷から 取り出した 。 ・・
「 せっかく おい で くださ いました のに 倉地 さん は 留守 です から 、 は ばかり です が 出直して お 遊び に いら しって ください まし 。 これ は それ まで お 預かり おき を 願います わ 」・・
そう いって 葉子 は 顔 に は いかにも 懇意 を 見せ ながら 、 言葉 に は 二 の 句 が つげない ほど の 冷淡 さ と 強 さ と を 示して やった 。 しかし 正井 はしゃ あし ゃあ と して 平気な もの だった 。 ゆっくり 内 衣 嚢 から 巻 煙草 入れ を 取り出して 、金 口 を 一 本 つまみ 取る と 、炭 の 上 に たまった 灰 を 静かに かき のける ように して 火 を つけて 、のどかに 香り の いい 煙 を 座敷 に 漂わした 。 ・・
「お 留守 です か ……それは かえって 好都合でした ……もう 夏 らしく なって 来ました ね 、隣 の 薔薇 も 咲き 出す でしょう ……遠い ようだ が まだ 去年 の 事 です ねえ 、お互い様に 太平洋 を 往ったり 来たり した の は ……あの ころ が おもしろい 盛り でした よ 。 わたし たち の 仕事 も まだ にらま れ ず に いたんで した から …… 時に 奥さん 」・・
そう いって 折り入って 相談 でも する ように 正井 は 煙草盆 を 押しのけて 膝 を 乗り出す のだった 。 人を 侮って かかって 来る と 思う と 葉子 は ぐっと 癪に さわった 。 しかし 以前 のような 葉子 は そこ には いなかった 。 もし それ が 以前 であったら 、 自分 の 才気 と 力量 と 美貌 と に 充分 の 自信 を 持つ 葉子 であったら 、 毛 の 末 ほど も 自分 を 失う 事 なく 、 優 婉 に 円滑に 男 を 自分 の かけた 陥 穽 の 中 に おとしいれて 、 自 縄 自 縛 の 苦い 目 に あわせて いる に 違いない 。 しかし 現在 の 葉子 は たわい も なく 敵 を 手もと まで もぐりこませて しまって ただ いらいら と あせる だけ だった 。 そういう 破目 に なる と 葉子 は 存外 力 の ない 自分 である の を 知らねば ならなかった 。 ・・
正井 は 膝 を 乗り出して から 、 しばらく 黙って 敏捷に 葉子 の 顔色 を うかがって いた が 、 これ なら 大丈夫 と 見きわめ を つけた らしく 、・・
「少し ばかり で いい んです 、一つ 融通 して ください 」・・
と 切り出した 。 ・・
「 そんな 事 を おっしゃったって 、 わたし に どう しよう もない くらい は 御存じ じゃ ありません か 。 そりゃ 余人 じゃ なし 、できる のなら なんとか いたします けれども 、姉妹 三人 が どうか こうか して 倉地 に 養われて いる 今日 のような 境界 で は 、わたしに 何が できましょう 。 正井 さんに も 似合わない 的 違い を おっしゃる のね 。 倉地 なら 御相談 にも なる でしょう から 面と向かって お話し ください まし 。 中に は いる と わたしが 困ります から 」・・
葉子 は 取りつく 島 も ない ように と いや味な 調子で ずけずけと こういった 。 正井 は せせら笑う ように ほほえんで 金口 の 灰 を 静かに 灰吹き に 落とした 。 ・・
「もう 少し ざっくばらんに いって ください よき のうきょう の お 交際 じゃ なし 。 倉地 さん と まずく なった くらい は 御承知 じゃ ありません か 。 ……知ってい らっしって そういう 口 の きき かた は 少し ひど 過ぎます ぜ 、(ここで 仮面を 取った ように 正井 は ふてくされた 態度 に なった 。 しかし 言葉 は どこまでも 穏当だった 。 )きらわれたって わたし は 何も 倉地さん を どう しよう の こう しよう の と 、そんな 薄情な 事 は しない つもりです 。 倉地 さんに けがが あれば わたしだって 同罪 以上 ですから ね 。 ……しかし ……一つ なんとか ならない もん でしょうか 」・・
葉子 の 怒りに 興奮した 神経は 正井 の この 一言に すぐ おびえて しまった 。 何もかも 倉地 の 裏面 を 知り 抜いてる はずの 正井 が 、 捨てばち に なったら 倉地 の 身の上 に どんな 災難 が 降りかから ぬ と も 限ら ぬ 。 そんな 事 を さ せて は 飛んだ 事 に なる だろう 。 そんな 事 を さ せて は 飛んだ 事 に なる 。 葉子 は ますます 弱 身 に なった 自分 を 救い出す 術 に 困 じ 果てて いた 。 ・・
「 それ を 御 承知 で わたし の 所 に いら しったって …… た と いわ たし に 都合 が ついた と した ところ で 、 どう しよう も ありません じゃない の 。 なんぼ わたし だって も 、倉地 と 仲たがえを なさった あなた に 倉地 の 金 を 何 する ……」・・
「だから 倉地さん の もの を おねだりは しません さ 。 木村 さん から も たんまり 来て いる はずじゃ ありません か 。 その 中 から ……たん と た あい いま せん から 、窮境 を 助ける と 思って どうか 」・・
正井 は 葉子 を 男 たらし と 見くびった 態度 で 、情夫 を 持って る 妾 に でも 逼る ような ずうずうしい 顔色 を 見せた 。 こんな 押し問答 の 結果 葉子 は とうとう 正井 に 三百 円 ほど の 金 を むざむざと せびり 取られて しまった 。 葉子 は その 晩 倉地 が 帰って 来た 時 も それを いい出す 気力 は なかった 。 貯金 は 全部 定子 の ほう に 送って しまって 、葉子 の 手もとに は いくらも 残って は いなかった 。 ・・
それから という もの 正井 は 一週間 と おかず に 葉子 の 所 に 来て は 金 を せびった 。 正井 は その おりおり に 、 絵 島 丸 の サルン の 一隅 に 陣取って 酒 と 煙草 と に ひたり ながら 、 何か知ら ん ひそひそ 話 を して いた 数人 の人 たち ―― 人 を 見ぬく 目 の 鋭い 葉子 に も どうしても その人 たち の 職業 を 推察 し 得 なかった 数人 の人 たち の 仲間 に 倉地 が はいって 始め 出した 秘密な 仕事 の 巨細 を もらした 。 正井 が 葉子 を 脅かす ために 、その 話 には 誇張 が 加えられて いる 、そう 思って 聞いて みても 、葉子 の 胸 を ひやっと させる 事 ばかり だった 。 倉地 が 日清戦争 にも 参加した 事務長 で 、海軍 の 人たち にも 航海業者 にも 割合に 広い 交際 が ある 所から 、材料 の 蒐集者 として その 仲間 の 牛耳 を 取る ように なり 、露国 や 米国 に 向かって もらした 祖国 の 軍事上の 秘密 は なかなか 容易ならざる もの らしかった 。 倉地 の 気分 が すさんで 行く のも もっともだ と 思われる ような 事柄 を 数々 葉子 は 聞かされた 。 葉子 は しまい に は 自分 自身 を 護 る ため に も 正井 の きげん を 取りはずして は ならない と 思う よう に なった 。 そして 正井 の 言葉 が 一語一語 思い出されて 、夜 なぞに なると 眠らせぬ ほどに 葉子 を 苦しめた 。 葉子 は また 一 つ の 重い 秘密 を 背負わ なければ なら ぬ 自分 を 見いだした 。 この つらい 意識 は すぐに また 倉地 に 響く ようだった 。 倉地 は ともすると 敵 の 間諜 では ない か と 疑う ような 険しい 目 で 葉子 を にらむ ように なった 。 そして 二 人 の 間 に は また 一 つ の 溝 が ふえた 。 ・・
それ ばかり で は なかった 。 正井 に 秘密な 金 を 融通 する ため に は 倉地 から の あてがい だけ で は とても 足りなかった 。 葉子 は あり も し ない 事 を 誠 しや かに 書き連ねて 木村 の ほう から 送金 さ せ ねば なら なかった 。 倉地 の ため なら とにもかくにも 、倉地 と 自分 の 妹 たち と が 豊かな 生活 を 導く ため に なら とにもかくにも 、葉子 に 一種 の 獰悪 な 誇り を もって それ を して 、男 の ため に なら 何事 でも と いう 捨てばち な 満足 を 買い 得 ない で は なかった が 、その 金 が たいてい 正井 の ふところ に 吸収 されて しまう のだ と 思う と 、いくら 間接 に は 倉地 の ため だ と は いえ 葉子 の 胸 は 痛かった 。 木村 から は 送金 の たび ごと に 相変わらず 長い 消息 が 添えられて 来た 。 木村 の 葉子 に 対する 愛着 は 日 を 追う て まさる と も 衰える 様子 は 見え なかった 。 仕事 の ほう に も 手違い や 誤算 が あって 始め の 見込み どおり に は 成功 とは いえない が 、葉子 の ほう に 送る くらい の 金 は どうして でも 都合 が つく くらい の 信用 は 得て いる から 構わず いって よこせ とも 書いて あった 。 こんな 信実 な 愛情 と 熱意 を 絶えず 示さ れる このごろ は 葉子 も さすが に 自分 の して いる 事 が 苦しく なって 、思いきって 木村 に すべて を 打ちあけて 、関係 を 絶とう か と 思い悩む ような 事 が 時々 あった 。 その 矢先 なので 、葉子 は 胸 に ことさら 痛み を 覚えた 。 それ が ますます 葉子 の 神経 を いらだた せて 、その 病気 に も 影響 した 。 そして 花 の 五月 が 過ぎて 、青葉 の 六月 に なろう と する ころ に は 、葉子 は 痛ましく やせ細った 、目 ばかり どぎつい 純然たる ヒステリー 症 の 女 に なって いた 。