21.1或る 女
絵 島 丸 は シヤトル に 着いて から 十二 日 目 に 纜 を 解いて 帰航 する はず に なって いた 。 その 出発 が あと 三 日 に なった 十月 十五日 に 、木村 は 、船医 の 興録 から 、葉子 は どうしても ひとまず 帰国 させる ほうが 安全だ と いう 最後 の 宣告 を 下されてしまった 。 木村 は その 時 に は もう 大体 覚悟 を 決めて いた 。 帰ろう と 思って いる 葉子 の 下心 を おぼろげ ながら 見て取って 、それ を 翻す 事 は できない と あきらめて いた 。 運命 に 従順な 羊 の ように 、しかし 執念 く 将来 の 希望 を 命 に して 、現在 の 不満に 服従 しよう と していた 。 ・・
緯度 の 高い シヤトル に 冬 の 襲いかかって 来る さま は すさまじい もの だった 。 海岸線 に 沿う て はるか 遠く まで 連続して 見渡される ロッキー の 山々 は もう たっぷりと 雪 が かかって 、穏やかな 夕空 に 現われ 慣れた 雲 の 峰 も 、古綿 の ように 形の くずれた 色の 寒い 霰雲 に 変わって 、人を おびやかす 白い ものが 、今にも 地を 払って 降りおろして 来る かと 思われた 。 海ぞい に 生えそろった アメリカ 松 の 翠 ばかり が 毒々しい ほど 黒ずんで 、目 に 立つ ばかりで 、濶葉樹 の 類 は 、いつのまにか 、葉 を 払い落とした 枝先 を 針 の ように 鋭く 空 に 向けていた 。 シヤトル の 町並み が ある と 思われる あたり から は ――船 の つながれている 所 から 市街 は 見えなかった ――急に 煤煙 が 立ち増さって 、せわしく 冬 じたく を 整えながら 、やがて 北 半球 を 包んで 攻め寄せて来る まっ白 な 寒気 に 対して おぼつかない 抵抗 を 用意する ように 見えた 。 ポッケット に 両手 を さし入れて 、 頭 を 縮め 気味に 、 波止場 の 石畳 を 歩き回る人々 の 姿 に も 、 不安 と 焦 躁 と の うかがわ れる せわしい 自然の 移り変わり の 中 に 、 絵 島 丸 は あわただしい 発 航 の 準備 を し 始めた 。 絞盤 の 歯車 の きしむ 音 が 船首 と 船尾 と から やかましく 冴え 返って 聞こえ 始めた 。 ・・
木村 は その 日 も 朝 から 葉子 を 訪れて 来た 。 ことに 青白く 見える 顔つき は 、何 か わくわく と 胸 の 中 に 煮え返る 想い を まざまざと 裏切って 、見る 人 の あわれ を 誘う ほど だった 。 背水 の 陣 と 自分 でも いって いる ように 、亡父 の 財産 を ありったけ 金 に 代えて 、手っ払い に 日本 の 雑貨 を 買い入れて 、こちら から 通知 書 一 つ 出せば 、いつでも 日本 から 送って よこす ばかりに してある ものの 、手 もと に は いささか の 銭 も 残って はい なかった 。 葉子 が 来た ならば と 金 の 上 に も 心 の 上 に も あて に して いた の が みごとに はずれて しまって 、葉子 が 帰る に つけて は 、なけなし の 所 から またまた なんとか しなければ ならない はめ に 立った 木村 は 、二三日 の うち に 、ぬか喜び も 一時 の 間 で 、孤独 と 冬 と に 囲まれ なければ ならなかった のだ 。 ・・
葉子 は 木村 が 結局 事務長 に すがり 寄って 来る ほか に 道 の ない 事 を 察して いた 。 ・・
木村 は はたして 事務長 を 葉子 の 部屋 に 呼び寄せて もらった 。 事務長 は すぐ やって 来た が 、服 など も 仕事着 の まま で 何か よほど せわしそうに 見えた 。 木村 は まあ と いって 倉地 に 椅子 を 与えて 、きょう は いつも の すげない 態度 に 似ず 、折り入って いろいろ と 葉子 の 身の上 を 頼んだ 。 事務長 は 始め の 忙しそうだった 様子 に 引きかえて 、どっしり と 腰 を 据えて 正面 から 例 の 大きく 木村 を 見やりながら 、親身に 耳 を 傾けた 。 木村 の 様子 の ほう が かえって そわそわ しく ながめられた 。 ・・
木村 は 大きな 紙 入れ を 取り出して 、五十 ドル の 切手 を 葉子 に 手渡し した 。 ・・
「何もかも 御 承知 だ から 倉地 さん の 前 で いう ほうが 世話 なし だ と 思います が 、なんといっても これ だけ しか できない んです 。 こ 、これ です 」・・
と いって さびしく 笑い ながら 、両手 を 出して 広げて 見せて から 、チョッキ を たたいた 。 胸 に かかって いた 重そうな 金鎖 も 、四つ まで はめられていた 指輪 の 三つ まで も なくなっていて 、たった 、一つ 婚約 の 指輪 だけ が 貧乏臭く 左 の 指 にはまっている ばかりだった 。 葉子 は さすが に 「 まあ 」 と いった 。 ・・
「葉子 さん 、わたし は どうにでも します 。 男 一 匹 なりゃ どこ に ころがり込んだ からって 、――そんな 経験 も おもしろい くらい の もの です が 、これ んばかり じゃ あなた が 足りなかろう と 思う と 、面目 も ない んです 。 倉地 さん 、あなた に は これ まで で さえ いいかげん 世話 を して いただいて なんとも すみません です が 、わたし ども 二人 は お打ち明け 申した ところ 、こういう ていたらく な んです 。 横浜 へ さえ お とどけ くだされば その 先 は また どうにでも します から 、もし 旅費 に でも 不足 します ようでしたら 、御 迷惑 ついでに なんとか して やって いただく 事 は でき ない でしょうか 」・・
事務長 は 腕組み を した まま まじまじ と 木村 の 顔 を 見やり ながら 聞いていた が 、・・
「あなた は ちっとも 持っと らん のです か 」・・
と 聞いた 。 木村 は わざと 快活に しいて 声 高く 笑い ながら 、・・
「きれい な もん です 」・・
と また チョッキ を たたく と 、・・
「そりゃ いかん 。 何 、 船賃 なん ぞい ります もの か 。 東京 で 本店 に お払い に なれば いい んじゃ し 、横浜 の 支店 長 も 万事 心得 とら れる んだ で 、御心配 いりません わ 。 そりゃ あなた お 持ち に なる が いい 。 外国 に いて 文なし で は 心細い もん です よ 」・・
と 例の 塩辛 声 で やや ふきげん らしく いった 。 その 言葉 に は 不思議に 重々しい 力 が こもって いて 、木村 は しばらく かれこれ と 押し問答 を していた が 、結局 事務長 の 親切 を 無にする 事 の 気の毒さ に 、直 な 心から なお いろいろ と 旅中 の 世話 を 頼み ながら 、また 大きな 紙入れ を 取り出して 切手 を たたみ込んで しまった 。 ・・
「よし よし それ で 何も いう 事 は なし 。 早月 さん は わし が 引き受けた 」・・
と 不敵な 微笑 を 浮かべ ながら 、事務長 は 始めて 葉子 の ほう を 見返った 。 ・・
葉子 は 二人 を 目の前 に 置いて 、いつも の ように 見比べ ながら 二人 の 会話 を 聞いて いた 。 あたりまえ なら 、葉子 はたいてい の 場合 、弱い もの の 味方 を して 見る のが 常だった 。 どんな 時 でも 、強い もの が その 強 味 を 振りかざして 弱い 者 を 圧迫 する の を 見る と 、葉子 は かっと なって 、理 が 非 で も 弱い もの を 勝た して やりたかった 。 今 の 場合 木村 は 単に 弱者 である ばかり でなく 、その 境遇 も みじめな ほど たよりない 苦しい もの である 事 は 存分に 知り 抜いて いながら 、木村 に 対して の 同情 は 不思議に も わいて 来なかった 。 齢 の 若さ 、姿 の しなやかさ 、境遇 の ゆたかさ 、才能 の はなやかさ と いう ような もの を たよりにする 男たち の 蠱惑 の 力 は 、事務長 の 前 で は 吹けば 飛ぶ 塵 の ごとく 対照された 。 この 男 の 前 に は 、弱い もの の 哀れ より も 醜さ が さらけ出さ れた 。 ・・
なんという 不幸な 青年 だろう 。 若い 時 に 父親 に 死に 別れて から 、万事 思いのまま だった 生活 から いきなり 不自由な 浮世 の どん底 に ほうり出され ながら 、めげもせずに せっせと 働いて 、後ろ指 を さされ ない だけの 世渡り を して 、だれからも 働きのある 行く末 たのもしい 人 と思われ ながら 、それでも 心の中の さびしさ を 打ち消す ために 思い入った 恋人 は 仇 し 男 に そむいて しまっている 。 それ を また そう と も 知ら ず に 、その 男 の 情け に すがって 、消える に 決まった 約束 を のがす まい と している 。 ……葉子 は しいて 自分 を 説服する ように こう 考えて みた が 、少しも 身に しみた 感じ は 起こって 来ないで 、ややもすると 笑い出したい ような 気 に すら なって いた 。 ・・
「よし よし それ で 何も いう 事 は なし 。 早月 さん は わし が 引き受けた 」・・
と いう 声 と 不敵な 微笑 と が ど やす ように 葉子 の 心 の 戸 を 打った 時 、葉子 も 思わず 微笑 を 浮かべて それに 応じよう と した 。 が 、その 瞬間 、目ざとく 木村 の 見ている のに 気 が ついて 、顔 に は 笑い の 影 は みじんも 現わさ なかった 。 ・・
「わし へ の 用 は それ だけ でしょう 。 じゃ 忙しい で 行きます よ 」・・
と ぶっきらぼうに いって 事務長 が 部屋 を 出て 行って しまう と 、残った 二人 は 妙に てれて 、しばらく は 互いに 顔 を 見合わす の も はばかって 黙った まま で いた 。 ・・
事務 長 が 行って しまう と 葉子 は 急に 力 が 落ちた ように 思った 。 今 まで の 事 が まるで 芝居 でも 見て 楽しんで いた ようだった 。 木村 の やる 瀬 ない 心 の 中 が 急に 葉子 に 逼って 来た 。 葉子 の 目 に は 木村 を あわれむ と も 自分 を あわれむ と も 知れない 涙 が いつのまにか 宿っていた 。 ・・
木村 は 痛まし げ に 黙った まま で しばらく 葉子 を 見 やって いた が 、・・
「葉子 さん 今に なって そう 泣いて もらっちゃ わたし が たまりません よ 。 きげん を 直して ください 。 また いい 日 も 回って 来る でしょう から 。 神 を 信ずる もの ――そういう 信仰 が 今 あなた に ある か どう か 知ら ない が ――おかあさん が ああいう 堅い 信者 で ありなさった し 、あなた も 仙台 時分 に は 確かに 信仰 を 持って いられた と 思います が 、こんな 場合 に は なおさら 同じ 神様 から 来る 信仰 と 希望 と を 持って 進んで 行きたい もの だ と 思います よ 。 何事 も 神様 は 知っていられる ……そこ に わたし は たゆまない 希望 を つないで 行きます 」・・
決心 した 所 が ある らしく 力強い 言葉 で こういった 。 何の 希望 ! 葉子 は 木村 の 事 に ついて は 、木村 の いわゆる 神様 以上 に 木村 の 未来 を 知り ぬいて いる のだ 。 木村 の 希望 と いう の は やがて 失望 に そうして 絶望 に 終わる だけ の もの だ 。 何の 信仰 ! 何の 希望 ! 木村 は 葉子 が 据えた 道 を ――行きどまり の 袋小路 を ――天使 の 昇り降り する 雲 の 梯 の ように 思っている 。 あ ゝ 何の 信仰 ! ・・
葉子 は ふと 同じ 目 を 自分 に 向けて 見た 。 木村 を 勝手気ままに こづき 回す 威力 を 備えた 自分 は また だれ に 何者 に 勝手に さ れる のだろう 。 どこ か で 大きな 手 が 情け も なく 容赦 も なく 冷然 と 自分 の 運命 を あやつって いる 。 木村 の 希望 が はかなく 断ち切れる 前 、自分 の 希望 が いち早く 断たれて しまわ ない と どうして 保障 する 事 が できよう 。 木村 は 善人 だ 。 自分 は 悪人 だ 。 葉子 は いつのまにか 純 な 感情 に 捕えられて いた 。 ・・
「木村 さん 。 あなた は きっと 、しまい に は きっと 祝福 を お 受け に なります ……どんな 事 が あっても 失望 なさっちゃ いやです よ 。 あなた の ような 善い 方 が 不幸に ばかり おあいに なる わけ が ありません わ 。 ……わたし は 生まれる とき から 呪われた 女 な んです もの 。 神 、ほんとう は 神様 を 信ずる より ……信ずる より 憎む ほう が 似合っている んです ……ま 、聞いて ……でも 、わたし 卑怯 は いやだ から 信じます ……神様 は わたし みたいな もの を どう なさる か 、しっかり 目 を 明いて 最後 まで 見て います 」・・
と いって いる うち に だれ に とも なく くやしさ が 胸 いっぱい に こみ上げて 来る のだった 。 ・・
「あなた は そんな 信仰 は ない と おっしゃる でしょう けれども ……でも わたし に は これ が 信仰 です 。 立派な 信仰 です もの 」・・
と いって きっぱり 思いきった ように 、火 の ように 熱く 目 に たまった まま で 流れ ずに いる 涙 を 、ハンケチ で ぎゅっと 押し ぬぐい ながら 、黯然 と 頭 を たれた 木村 に 、・・
「もう やめましょう こんな お 話 。 こんな 事 を いって る と 、いえば いう ほど 先 が 暗く なる ばかりです 。 ほんとに 思いきって 不 仕合わせ な 人 は こんな 事 を つべこべ と 口 に なんぞ 出し は しません わ 。 ね 、いや 、あなた は 自分 の ほう から めいって しまって 、わたし の いった 事 ぐらい で なんです ねえ 、男 の くせに 」・・
木村 は 返事 も せ ず に まっさお に なって うつむいて いた 。 ・・
そこ に 「御免なさい 」と いう か と 思う と 、いきなり 戸 を あけて はいって 来た もの が あった 。 木村 も 葉子 も 不意 を 打たれて 気先 を くじかれ ながら 、見る と 、いつぞや 錨 綱 で 足 を けがした 時 、葉子 の 世話に なった 老 水夫 だった 。 彼 は とうとう 跛脚 に なって いた 。 そして 水夫 の ような 仕事 に は とても 役に立たない から 、幸い オークランド に 小農地 を 持って とにかく 暮らし を 立てている 甥 を 尋ねて 厄介に なる 事 に なった ので 、礼 かたがた 暇乞い に 来た と いう のだった 。 葉子 は 紅 くなった 目 を 少し 恥ずかしげ に またたかせ ながら 、いろいろ と 慰めた 。 ・・
・・
「何 ね こう 老 いぼ れちゃ 、こんな 稼業 を やって る が てんで うそ なれど 、事務長 さん と ボンスン (水夫長 )と が かわいそうだ と いって 使って くれる で 、いい気に なった が 罰 あたった んだ ね 」・・
と いって 臆病 に 笑った 。 葉子 が この 老人 を あわれみ いたわる さま は わき目 も いじらしかった 。 日本 に は 伝言 を 頼む ような 近親 さえ ない 身 だ と いう ような 事 を 聞く たびに 、葉子 は 泣き出しそうな 顔 を して 合点 合点 していた が 、しまいに は 木村 の 止める の も 聞かず 寝床 から 起き上がって 、木村 の 持って来た 果物 を ありったけ 籃 に つめて 、・・
「陸 に 上がれば いくらも ある んだろう けれども 、これ を 持って おいで 。 そして その 中 に 果物 で なく は いって いる もの が あったら 、それ も お前さん に 上げた んだ から ね 、人 に 取られたり しちゃ いけません よ 」・・
と いって それ を 渡して やった 。 ・・
老人 が 来て から 葉子 は 夜 が 明けた ように 始めて 晴れやかな ふだん の 気分 に なった 。 そして 例の いたずら らしい にこにこ した 愛嬌 を 顔 いちめん に たたえて 、・・
「なんという 気さくな んでしょう 。 わたし 、あんな おじいさん の お内儀さん に なって みたい ……だ から ね 、いい もの を やっちまった 」・・
きょ とり として まじまじ 木村 の むっつり とした 顔 を 見やる 様子 は 大きな 子供 と より 思え なかった 。 ・・
「あなた から いただいた エンゲージ ・リング ね 、あれ を やり まして よ 。 だって なんにも ない んです もの 」・・
なんとも いえない 媚 び を つつむ おと がい が 二 重 に なって 、 きれいな 歯 並み が 笑い の さざ波 の よう に 口 び る の 汀 に 寄せたり 返したり した 。