20.1或る 女
船 の 着いた その 晩 、田川 夫妻 は 見舞い の 言葉 も 別れ の 言葉 も 残さず に 、おおぜい の 出迎え 人 に 囲まれて 堂々と 威儀 を 整えて 上陸して しまった 。 その 余 の 人々 の 中 に は わざわざ 葉子 の 部屋 を 訪れて 来た もの が 数人 は あった けれども 、葉子 は いかにも 親しみ を こめた 別れ の 言葉 を 与え は した が 、あと まで 心 に 残る 人 とて は 一人 も いなかった 。 その 晩 事務 長 が 来て 、狭っこい boudoir の ような 船室 で おそく まで しめじ め と 打ち 語った 間 に 、葉子 は ふと 二 度 ほど 岡 の 事 を 思って いた 。 あんなに 自分 を 慕って い は した が 岡 も 上陸 して しまえば 、詮方 なく ボストン の ほう に 旅立つ 用意 を する だろう 。 そして やがて 自分 の 事 も いつ とはなし に 忘れて しまう だろう 。 それにしても なんという 上品な 美しい 青年 だったろう 。 こんな 事 を ふと 思った の も しかし 束の間 で 、その 追憶 は 心 の 戸 を たたいた と 思う と はかなく も どこ か に 消えて しまった 。 今 は ただ 木村 と いう 邪魔な 考え が 、もやもや と 胸 の 中 に 立ち 迷う ばかりで 、その 奥 に は 事務長 の 打ち勝ちがたい 暗い 力 が 、魔王 の ように 小動ぎ も せず うずくまっている のみ だった 。 ・・
荷 役 の 目まぐるしい 騒ぎ が 二 日 続いた あと の 絵島丸 は 、泣き わめく 遺族 に 取り囲まれた うつろな 死骸 の ように 、がらんと 静まり返って 、騒々しい 桟橋 の 雑鬧 の 間 に さびしく 横たわっている 。 ・・
水夫 が 、輪切り に した 椰子 の 実 で よごれた 甲板 を 単調に ごし /\ごし /\と こする 音 が 、時 という もの を ゆるゆる すり減らす やすり の ように 日 が な 日 ね も す 聞こえて いた 。 ・・
葉子 は 早く 早く ここ を 切り上げて 日本 に 帰りたい と いう 子供 じみた 考え の ほか に は 、おかしい ほど そのほか の 興味 を 失って しまって 、他郷 の 風景 に 一瞥 を 与える 事 も いとわしく 、自分 の 部屋 の 中 に こもりきって 、ひたすら 発船 の 日 を 待ちわびた 。 もっとも 木村 が 毎日 米国 という 香い を 鼻 を つく ばかり 身の回り に 漂わせて 、葉子 を 訪れて 来る ので 、葉子 は うっかり 寝床 を 離れる 事 も できなかった 。 ・・
木村 は 来る たびごとに ぜひ 米国 の 医者 に 健康 診断 を 頼んで 、大事 なければ 思いきって 検疫官 の 検疫 を 受けて 、ともかくも 上陸 する ように と 勧めて みた が 、葉子 は どこまでも いや を いい と おす ので 、二人 の 間 に は 時々 危険な 沈黙 が 続く 事 も 珍しく なかった 。 葉子 は しかし 、いつでも 手ぎわ よく その 場合 場合 を あやつって 、それから 甘い 歓語 を 引き出す だけの 機才 を 持ち合わして いた ので 、この 一 か月 ほど 見知らぬ 人 の 間 に 立ちまじって 、貧乏 の 屈辱 を 存分に なめ尽くした 木村 は 、見る見る 温柔 な 葉子 の 言葉 や 表情 に 酔いしれる のだった 。 カリフォルニヤ から 来る 水々しい 葡萄 や バナナ を 器用な 経木 の 小籃 に 盛ったり 、美しい 花束 を 携えたり して 、葉子 の 朝 化粧 が しまった か と 思う ころ に は 木村 が 欠かさず 尋ねて 来た 。 そして 毎日 くどくど と 興録 に 葉子 の 容態 を 聞き ただした 。 興録 は いいかげんな 事 を いって 一日 延ばし に 延ばしている ので たまらなく なって 木村 が 事務長 に 相談する と 、事務長 は 興録 よりも さらに 要領 を 得ない 受け答え を した 、しかたなしに 木村 は 途方に暮れて 、また 葉子 に 帰って来て 泣きつく ように 上陸を 迫る のであった 。 その 毎日 の いきさつ を 夜 に なる と 葉子 は 事務長 と 話しあって 笑い の 種 に した 。 ・・
葉子 は なんという 事 なし に 、木村 を 困ら して みたい 、いじめて みたい と いう ような 不思議な 残酷な 心 を 、木村 に 対して 感ずる ように なって 行った 。 事務長 と 木村 と を 目の前 に 置いて 、何も 知らない 木村 を 、事務長 が 一流 の きびきび した 悪辣な 手 で 思う さま 翻弄して 見せる のを ながめて 楽しむ のが 一種 の 痼疾 の ように なった 。 そして 葉子 は 木村 を 通して 自分 の 過去 の すべて に 血 の したたる 復讐 を あえて しよう と する のだった 。 そんな 場合 に 、葉子 は よく どこか で うろ覚え に した クレオパトラ の 插話 を 思い出していた 。 クレオパトラ が 自分 の 運命 の 窮迫 した の を 知って 自殺 を 思い立った 時 、幾人 も 奴隷 を 目の前に 引き出さして 、それ を 毒 蛇 の 餌食 に して 、その 幾人 も の 無辜 の 人々 が もだえ ながら 絶命する のを 、眉 も 動かさず に 見ていた と いう 插話 を 思い出していた 。 葉子 に は 過去 の すべて の 呪詛 が 木村 の 一身 に 集まって いる ように も 思い なされた 。 母 の 虐げ 、 五十川 女史 の 術数 、 近親 の 圧迫 、 社会 の 環視 、 女 に 対する 男 の 覬覦 、 女 の 苟合 など と いう 葉子 の 敵 を 木村 の 一身 に おっかぶせて 、 それ に 女 の 心 が 企み 出す 残虐な 仕打ち の あらん限り を そそぎ かけよう と する のであった 。 ・・
「あなた は 丑 の 刻 参り の 藁 人形 よ 」・・
こんな 事 を どうかした 拍子 に 面 と 向かって 木村 に いって 、木村 が 怪訝 な 顔 で その 意味 を くみかねている の を 見る と 、葉子 は 自分 に も わけ の わからない 涙 を 目 に いっぱい ため ながら ヒステリカル に 笑い出す ような 事 も あった 。 ・・
木村 を 払い 捨てる 事 に よって 、蛇 が 殻 を 抜け出る と 同じに 、自分 の すべて の 過去 を 葬って しまう こと が できる ように も 思い なして みた 。 ・・
葉子 は また 事務 長 に 、どれほど 木村 が 自分 の 思う まま に なって いる か を 見せつけよう と する 誘惑 も 感じて いた 。 事務長 の 目の前 で は ずいぶん 乱暴な 事 を 木村 に いったり させたり した 。 時に は 事務長 の ほうが 見兼ねて 二人 の 間 を なだめに かかる 事 さえ ある くらい だった 。 ・・
ある 時 木村 の 来ている 葉子 の 部屋 に 事務長 が 来合わせた 事 が あった 。 葉子 は 枕 もと の 椅子 に 木村 を 腰かけ させて 、東京 を 発った 時 の 様子 を くわしく 話して 聞かせて いる 所 だった が 、事務長 を 見る と いきなり 様子 を かえて 、さも さも 木村 を 疎んじた ふうで 、・・
「 あなた は 向こう に いら しって ちょうだい 」・・
と 木村 を 向こう の ソファ に 行く ように 目 で さしず して 、事務 長 を その 跡 に すわらせた 。 ・・
「さ 、あなた こちら へ 」・・
と いって 仰向け に 寝た まま 上 目 を つかって 見やり ながら 、・・
「いい お 天気 の ようです こと ね 。 ……あの 時々 ごーっと 雷 の ような 音 の する のは 何 ? ……わたし うるさい 」・・
「トロ です よ 」・・
「そう ……お 客様 が たん と おあり ですって ね 」・・
「さあ 少し は 知っとる もの が ある もん だ で 」・・
「 ゆうべ も その 美しい お 客 が いら しった の ? とうとう お 話 に お見え に ならなかった の ね 」・・
木村 を 前 に 置きながら 、この 無謀 と さえ 見える 言葉 を 遠慮 会釈 も なく いい出す のに は 、さすが の 事務長 も ぎょっと した らしく 、返事 も ろくろく しないで 木村 の ほう に 向いて 、・・
「どう です マッキンレー は 。 驚いた 事 が 持ち上がり おった もん です ね 」・・
と 話題 を 転じよう と した 。 この 船 の 航海 中 シヤトル に 近く なった ある 日 、当時 の 大統領 マッキンレー は 凶徒 の 短銃 に 斃れた ので 、この 事件 は 米国 で の うわさ の 中心 に なって いる のだった 。 木村 は その 当時 の 模様 を くわしく 新聞 紙 や 人 の うわさ で 知り合わせて いた ので 、乗り気に なって その 話 に 身 を 入れよう と する の を 、葉子 は に べ も なく さえぎって 、・・
「なんで すね あなた は 、貴夫人 の 話 の 腰 を 折ったり して 、そんな ごまかし くらい で は だまされて はいま せん よ 。 倉地 さん 、どんな 美しい 方 です 。 アメリカ 生粋 の 人 って どんな な んでしょう ね 。 わたし 、見たい 。 あわして ください ましな 今度 来たら 。 ここ に 連れて 来て くださる んです よ 。 ほか の もの なんぞ なんにも 見 たく は ない けれど 、これ ばかり は ぜひ 見 とう ござんす わ 。 そこ に 行く と ね 、木村 なんぞ は そりゃ あ やぼな もん です こと よ 」・・
と いって 、木村 の いる ほう を はるかに 下 目 で 見やり ながら 、・・
「木村 さん どう ? こっち に いら しって から ちっと は 女 の お 友だち が おでき に なって ? Lady Friend という の が ? 」・・
「それ が でき ん で たまる か 」・・
と 事務 長 は 木村 の 内 行 を 見抜いて 裏書き する ように 大きな 声 で いった 。 ・・
「ところ が できて いたら お 慰み 、そう でしょう ? 倉地 さん まあ こう な の 。 木村 が わたし を もらい に 来た 時 に は ね 。 石 の ように 堅く すわりこんで しまって 、まるで 命 の 取り やり でも しかね ない 談判 の しかた です の よ 。 そのころ 母 は 大病 で 臥せって いました の 。 なんとか 母 に おっしゃって ね 、母 に 。 わたし 、忘れちゃ なら ない 言葉 が ありました わ 。 え ゝ と …… そうそう ( 木村 の 口調 を 上手に まね ながら )『 わたし 、 もし ほか の人 に 心 を 動かす ような 事 が ありましたら 神様 の 前 に 罪人 です 』 で すって …… そういう 調子 です もの 」・・
木村 は 少し 怒気 を ほのめかす 顔つき を して 、遠く から 葉子 を 見つめた まま 口 も きかないで いた 。 事務長 は からから と 笑い ながら 、・・
「それ じゃ 木村 さん 今ごろ は 神様 の 前 に いい くら かげん 罪人 に なっとる でしょう 」・・
と 木村 を 見返した ので 、木村 も やむなく 苦りきった 笑い を 浮かべ ながら 、・・
「おのれ を もって 人 を 計る 筆法 です ね 」・・
と 答え は した が 、葉子 の 言葉 を 皮肉 と 解して 、人前 で たしなめる にしては やや 軽すぎる し 、冗談 と 見て 笑って しまう にしては 確かに 強すぎる ので 、木村 の 顔色 は 妙に ぎこちなく こだわって しまって いつまでも 晴れ なかった 。 葉子 は 口 びる だけ に 軽い 笑い を 浮かべ ながら 、胆汁 の みなぎった ような その 顔 を 下目 で 快げに まじまじと ながめ やった 。 そして 苦い 清涼 剤 でも 飲んだ ように 胸 の つかえ を 透かして いた 。 ・・
やがて 事務 長 が 座 を 立つ と 、葉子 は 、眉 を ひそめて 快から ぬ 顔 を した 木村 を 、しいて また もと の ように 自分 の そば 近く すわらせた 。 ・・
「いやな や つっちゃ ない の 。 あんな 話 でも して いない と 、ほか に なんにも 話の種 の ない 人 です の ……あなた さぞ 御 迷惑 でしたろう ね 」・・
と いい ながら 、事務長 に した ように 上目 に 媚び を 集めて じっと 木村 を 見た 。 しかし 木村 の 感情 は ひどく ほつれて 、容易に 解ける 様子 は なかった 。 葉子 を 故意 に 威圧 しよう と たくらむ わざと な 改まり かた も 見えた 。 葉子 は いたずら 者 らしく 腹 の 中 で くすくす 笑い ながら 、木村 の 顔 を 好意 を こめた 目つき で ながめ 続けた 。 木村 の 心 の 奥 に は 何 か いい出して みたい くせ に 、 なんとなく 腹 の 中 が 見すかさ れ そうで 、 いい出し かねて いる 物 が ある らしかった が 、 途切れ がち ながら 話 が 小 半時 も 進んだ 時 、 とてつもなく 、・・
「事務長 は 、なんですか 、夜 に なって まで あなた の 部屋 に 話し に 来る 事 が あるんですか 」・・
と さりげなく 尋ねよう と する らしかった が 、その 語尾 は われ に も なく 震えて いた 。 葉子 は 陥穽 に かかった 無知な 獣 を 憫み 笑う ような 微笑 を 口びる に 浮かべ ながら 、・・
「そんな 事 が さ れます もの か この 小さな 船 の 中 で 。 考えて も ごらん なさい まし 。 さきほど わたし が いった の は 、このごろ は 毎晩 夜 に なる と 暇な ので 、あの 人たち が 食堂 に 集まって 来て 、酒 を 飲み ながら 大きな 声 で いろんな くだらない 話 を する んです の 。 それ が よく ここ まで 聞こえる んです 。 それ に ゆうべ あの 人 が 来なかった から からかって やった だけ なんです の よ 。 このごろ は 質 の 悪い 女 まで が 隊 を 組む ように して どっさり 船 に 来て 、それ は 騒々しい んです の 。 …… ほ ゝ ゝ ゝ あなた の 苦労 性ったらない 」・・
木村 は 取りつく 島 を 見失って 、二 の 句 が つげ ないで いた 。 それ を 葉子 は かわいい 目 を 上げて 、無邪気な 顔 を して 見やり ながら 笑っていた 。 そして 事務 長 が はいって 来た 時 途 切らした 話 の 糸口 を みごとに 忘れ ずに 拾い上げて 、東京 を 発った 時 の 模様 を また 仔細に 話し つづけた 。 ・・
こうした ふう で 葛藤 は 葉子 の 手 一 つ で 勝手に 紛らさ れたり ほご されたり した 。