19.1或る 女
しばらく の 間 食堂 で 事務 長 と 通り一ぺんの 話 でも して いる らしい 木村 が 、 ころ を 見計らって 再度 葉子 の 部屋 の 戸 を たたいた 時 に も 、 葉子 は まだ 枕 に 顔 を 伏せて 、 不思議な 感情 の 渦巻き の 中 に 心 を 浸して いた が 、 木村 が 一人 で は いって 来た の に 気づく と 、 始めて 弱々しく 横向き に 寝 な おって 、 二の腕 まで 袖口 の まくれた まっ白 な 手 を さし 延べて 、 黙った まま 木村 と 握手 した 。 木村 は 葉子 の 激しく 泣いた の を 見て から 、こらえ こらえて いた 感情 が さらに 嵩じた もの か 、涙 を あふれん ばかり 目 が しら に ためて 、厚ぼったい 口びる を 震わせ ながら 、痛々しげに 葉子 の 顔つき を 見入って 突っ立った 。 ・・
葉子 は 、今 まで 続けて いた 沈黙 の 惰性 で 第一口 を きく の が 物懶かった し 、木村 は なんと いい出した ものか 迷う 様子 で 、二人 の 間 に は 握手 の まま 意味深げ な 沈黙 が 取りかわさ れた 。 その 沈黙 は しかし 感傷的 と いう 程度 である に は あまりに 長く 続き過ぎた ので 、外界 の 刺激 に 応じて 過敏な までに 満干の できる 葉子 の 感情 は 今まで 浸っていた 痛烈な 動乱 から 一皮一皮 平調に 還って 、果ては その 底に 、こう 嵩じてはい と わし い と 自分 で すら が 思う ような 冷ややかな 皮肉 が 、そろそろ 頭を 持ち上げる のを 感じた 。 握り合わせた む ず かゆい ような 手 を 引っ込めて 、目もと まで ふとん を かぶって 、そこ から 自分 の 前 に 立つ 若い 男 の 心 の 乱れ を 嘲笑って みたい ような 心 に すら なって いた 。 長く 続く 沈黙 が 当然 ひき起こす 一種 の 圧迫 を 木村 も 感じて うろたえた らしく 、なんとか して 二人 の 間 の 気まずさ を 引き裂く ような 、心 の 切なさ を 表わす 適当 の 言葉 を 案じ 求めて いる らしかった が 、とうとう 涙 に 潤った 低い 声 で 、もう 一度 、・・
「葉子 さん 」・・
と 愛する もの の 名 を 呼んだ 。 それ は 先ほど 呼ばれた 時 の それ に 比べる と 、聞き違える ほど 美しい 声 だった 。 葉子 は 、今 まで 、これほど 切な 情 を こめて 自分 の 名 を 呼ばれた 事 は ない ように さえ 思った 。 「葉子 」という 名 に きわ立って 伝奇的な 色彩 が 添えられた ように も 聞こえた 。 で 、葉子 は わざと 木村 と 握り合わせた 手 に 力 を こめて 、さらに なんとか 言葉 を つがせて みたく なった 。 その 目 も 木村 の 口 びる に 励まし を 与えて いた 。 木村 は 急に 弁力 を 回復 して 、・・
「一日 千秋 の 思い と は この 事 です 」・・
と すら すら と なめらかに いって のけた 。 それ を 聞く と 葉子 は みごと 期待 に 背負投げ を くわされて 、その 場 の 滑稽 に 思わず ふき出そう と した が 、いかに 事務長 に 対する 恋 に おぼれきった 女心 の 残虐さ から も 、さすがに 木村 の 他意 ない 誠実 を 笑いきる 事 は 得しないで 、葉子 は ただ 心 の 中 で 失望した ように 「あれ だ から いやに なっちまう 」と くさくさし ながら 喞った 。 ・・
しかし この 場合 、木村 と 同様 、葉子 も 格好な 空気 を 部屋 の 中 に 作る 事 に 当惑 せ ずに は いられなかった 。 事務長 と 別れて 自分 の 部屋 に 閉じこもって から 、心 静かに 考えて 置こう と した 木村 に 対する 善後策 も 、思いよらぬ 感情 の 狂い から そのままに なって しまって 、今に なって みると 、葉子 は どう 木村 を もてあつかって いいのか 、はっきり した 目論見 は できていなかった 。 しかし 考えて みる と 、木部 孤 と 別れた 時 でも 、葉子 に は 格別 これという 謀略 が あった わけで は なく 、ただ その 時々 に わがまま を 振る舞った に 過ぎなかった のだ けれども 、その 結果 は 葉子 が 何か 恐ろしく 深い 企み と 手練 を 示した かのように 人 に 取られていた 事 も 思った 。 なんとか して 漕ぎ 抜けられ ない 事 は ある まい 。 そう 思って 、まず 落ち付き 払って 木村 に 椅子 を すすめた 。 木村 が 手近に ある 畳み 椅子 を 取り上げて 寝台 の そば に 来て すわる と 、葉子 は また しなやかな 手 を 木村 の 膝 の 上 に おいて 、男 の 顔 を しげしげ と 見やり ながら 、・・
「ほんとうに しばらく でした わ ね 。 少し お やつれ に なった ようです わ 」・・
と いって みた 。 木村 は 自分 の 感情 に 打ち 負かされて 身 を 震わして いた 。 そして わくわく と 流れ出る 涙 が 見る見る 目 から あふれて 、顔 を 伝って 幾 筋 と なく 流れ 落ちた 。 葉子 は 、その 涙 の 一 しずく が 気まぐれに も 、うつむいた 男 の 鼻 の 先 に 宿って 、落ち そうで 落ちない のを 見やっていた 。 ・・
「ずいぶん いろいろ と 苦労な すったろう と 思って 、気 が 気で は なかった んです けれども 、わたし の ほう も 御承知 の とおり でしょう 。 今度 こっち に 来る に つけて も 、それ は 困って 、ありったけ の もの を 払ったり して 、ようやく 間に合わせた くらい だった もんですから …… 」・・
なお いおう と する の を 木村 は 忙しく 打ち消す ように さえぎって 、・・
「それ は 充分 わかって います 」・・
と 顔 を 上げた 拍子 に 涙 の しずく が ぽたり と 鼻 の 先 から ズボン の 上 に 落ちた のを 見た 。 葉子 は 、泣いた ために 妙に 脹れぼったく 赤く なって 、てらてら と 光る 木村 の 鼻 の 先 が 急に 気に なり出して 、悪い とは 知り ながら も 、ともすると そこ へ ばかり 目 が 行った 。 ・・
木村 は 何 から どう 話し出して いい か わからない 様子 だった 。 ・・
「わたし の 電報 を ビクトリヤ で 受け取った でしょう ね 」・・
など と も てれ隠し の ように いった 。 葉子 は 受け取った 覚え も ない くせに いいかげんに 、・・
「 え ゝ 、 ありがとう ございました 」・・
と 答えて おいた 。 そして 一 時 も 早く こんな 息 気づ まる ように 圧迫 して 来る 二人 の 間 の 心 の もつれ から のがれる 術 は ない か と 思案 して いた 。 ・・
「今 始めて 事務 長 から 聞いた んです が 、あなた が 病気 だった と いってました が 、いったい どこ が 悪かった んです 。 さぞ 困った でしょう ね 。 そんな 事 と は ちっとも 知ら ずに 、今 が 今まで 、祝福 さ れた 、輝く ような あなた を 迎えられる と ばかり 思っていた んです 。 あなた は ほんとうに 試練 の 受け つづけ と いう もん です ね 。 どこ でした 悪い の は 」・・
葉子 は 、不用意に も 女 を 捕えて じか づけ に 病気 の 種類 を 聞き ただす 男 の 心 の 粗雑さ を 忌み ながら 、当たらず さわらず 、前 から あった 胃病 が 、船 の 中 で 食物 と 気候 との 変わった ため に 、だんだん 嵩じて 来て 起きられなく なった ように いい 繕った 。 木村 は 痛まし そうに 眉 を 寄せ ながら 聞いて いた 。 ・・
葉子 は もう こんな 程々な 会話 に は 堪え きれ なく なって 来た 。 木村 の 顔 を 見る に つけて 思い出さ れ る 仙台 時代 や 、母 の 死 と いう ような 事 に も かなり 悩ま さ れ る の を つらく 思った 。 で 、話 の 調子 を 変える ために しいて いくらか 快活 を 装って 、・・
「それ は そう と こちら の 御 事業 は いかが 」・・
と 仕事 とか 様子 とか いう 代わり に 、わざと 事業 という 言葉 を つかって こう 尋ねた 。 ・・
木村 の 顔つき は 見る見る 変わった 。 そして 胸 の ポッケット に のぞかせて あった 大きな リンネル の ハンケチ を 取り出して 、器用に 片手 で それ を ふわり と 丸めて おいて 、ちん と 鼻 を かんで から 、また 器用に それ を ポケット に 戻す と 、・・
「だめ です 」・・
と いかにも 絶望的な 調子 で いった が 、その 目 は すでに 笑っていた 。 サンフランシスコ の 領事 が 在留 日本人 の 企業 に 対して 全然 冷淡で 盲目である と いう 事 、 日本人間 に 嫉 視 が 激しい ので 、 サンフランシスコ で の 事業 の 目論見 は 予期 以上 の 故障 に あって 大体 失敗 に 終わった 事 、 思いきった 発展 は やはり 想像 どおり の 米国 の 西部 より も 中央 、 ことに シカゴ を 中心 と して 計画 さ れ なければ なら ぬ と いう 事 、 幸いに 、 サンフランシスコ で 自分 の 話 に 乗って くれる ある 手堅い ドイツ人 に 取り次ぎ を 頼んだ と いう 事 、 シヤトル でも 相当 の 店 を 見いだし かけて いる と いう 事 、 シカゴ に 行ったら 、 そこ で 日本 の 名誉 領事 を して いる かなり の 鉄 物 商 の 店 に まず 住み込んで 米国 に おける 取り引き の 手心 を のみ込む と 同時に 、 その人 の 資本 の 一部 を 動かして 、 日本 と の 直 取り引き を 始める 算段 である と いう 事 、 シカゴ の 住まい は もう 決まって 、 借りる べき フラット の 図面 まで 取り寄せて ある と いう 事 、 フラット は 不経済 の ようだ けれども 部屋 の 明いた 部分 を 又貸し を すれば 、たいして 高い もの に も つか ず 、 住まい 便利 は 非常に いい と いう 事 …… そういう 点 に かけて は 、 なかなか 綿密に 行き届いた もの で 、 それ を いかにも 企業 家 らしい 説 服的 な 口調 で 順序 よく 述べて 行った 。 会話 の 流れ が こう 変わって 来る と 、葉子 は 始めて 泥 の 中 から 足 を 抜き上げた ような 気軽な 心持ち に なって 、ずっと 木村 を 見つめ ながら 、聞く ともなしに その 話 に 聞き耳 を 立てて いた 。 木村 の 容貌 は しばらく の 間 に 見違える ほど refine されて 、元 から 白かった その 皮膚 は 何か 特殊な 洗料 で 底光り の する ほど みがき が かけられて 、日本人 とは 思えぬ まで なめらかな のに 、油 で きれいに 分けた 濃い 黒髪 は 、西洋人 の 金髪 に は また 見られぬ ような 趣 のある 対照 を その 白皙 の 皮膚 に 与えて 、カラー と ネクタイ の 関係 に も 人 に 気 の つかぬ 凝りかた を 見せていた 。 ・・
「会い たて から こんな 事 を いう の は 恥ずかしい ですけれども 、実際 今度 という 今度 は 苦闘 しました 。 ここ まで 迎い に 来る に も ろくろく 旅費 が ない 騒ぎ でしょう 」・・
と いって さすが に 苦しげに 笑い に まぎらそう と した 。 そのくせ 木村 の 胸 に は どっしり と 重そうな 金鎖 が かかって 、両手 の 指 に は 四つ まで 宝石入り の 指輪 が きらめいていた 。 葉子 は 木村 の いう 事 を 聞きながら その 指 に 目 を つけていた が 、四つ の 指輪 の 中 に 婚約 の 時 取りかわした 純金 の 指輪 も まじっている のに 気 が つく と 、自分 の 指 に は それ を はめていなかった のを 思い出して 、何 くわぬ 様子 で 木村 の 膝 の 上 から 手 を 引っ込めて 顎 まで ふとん を かぶって しまった 。 木村 は 引っ込められた 手 に 追いすがる ように 椅子 を 乗り出して 、葉子 の 顔 に 近く 自分 の 顔 を さし出した 。 ・・
「葉子 さん 」・・
「 何 ? 」・・
また Love -scene か 。 そう 思って 葉子 は うんざり した けれども 、すげなく 顔 を そむける わけに も 行かず 、やや 当惑 している と 、おりよく 事務長 が 型ばかり の ノック を して はいって 来た 。 葉子 は 寝た まま 、目 で いそいそ と 事務 長 を 迎え ながら 、・・
「まあ ようこそ ……先ほど は 失礼 。 なんだか くだらない 事 を 考え 出して いた もん ですから 、つい わがまま を してしまって すみません ……お忙しい でしょう 」・・
と いう と 、事務長 は からかい 半分 の 冗談 を きっかけ に 、・・
「木村 さん の 顔 を 見る と えらい 事 を 忘れて いた のに 気 が ついた で 。 木村 さん から あなた に 電報 が 来 とった の を 、わたしゃ ビクトリヤ の どさくさ で ころり 忘れ とった んだ 。 すま ん 事 でした 。 こんな 皺 に なり くさった 」・・
と いい ながら 、左 の ポッケット から 折り目 に 煙草 の 粉 が はさまって もみくちゃ に なった 電報 紙 を 取り出した 。 木村 は さっき 葉子 が それ を 見た と 確かに いった その 言葉 に 対して 、怪訝 な 顔つき を し ながら 葉子 を 見た 。 些細 な 事 で は ある が 、それ が 事務長 に も 関係 を 持つ 事 だ と 思う と 、葉子 も ちょっと どぎまぎ せず に は いられ なかった 。 しかし それ は ただ 一 瞬間 だった 。 ・・
「倉地 さん 、あなた は きょう 少し どう かな すって いらっしゃる わ 。 それ は その 時 ちゃん と 拝見 した じゃ ありません か 」・・
と いい ながら すばやく 目 くばせ する と 、事務長 は すぐ 何か わけ が ある の を 気取った らしく 、巧みに 葉子 に ばつ を 合わせた 。 ・・
「 何 ? あなた 見た ? …… お ゝ そうそう …… これ は 寝ぼけ 返っと る ぞ 、 は ゝ ゝ ゝ 」・・
そして 互いに 顔 を 見合わせ ながら 二人 は したたか 笑った 。 木村 は しばらく 二人 を かたみ が わりに 見くらべて いた が 、これ も やがて 声 を 立てて 笑い出した 。 木村 の 笑い出す の を 見た 二人 は 無性に おかしく なって もう 一度 新しく 笑いこけた 。 木村 という 大きな 邪魔者 を 目の前 に 据えて おきながら 、互い の 感情 が 水 の ように 苦 も なく 流れ 通う の を 二人 は 子供 らしく 楽しんだ 。 ・・
しかし こんな いたずら めいた 事 の ため に 話 は ちょっと 途切れて しまった 。 くだらない 事 に 二人 から わき出た 少し 仰山 すぎた 笑い は 、かすか ながら 木村 の 感情 を そこねた らしかった 。 葉子 は 、この 場合 、なお 居残ろう と する 事務長 を 遠ざけて 、木村 と さし向かい に なる のが 得策 だ と 思った ので 、程 もなく きまじめな 顔つき に 返って 、枕 の 下 を 探って 、そこ に 入れて 置いた 古藤 の 手紙 を 取り出して 木村 に 渡し ながら 、・・
「これ を あなた に 古藤 さん から 。 古藤 さん に は ずいぶん お世話に なり まして よ 。 でも あの 方 の ぶ まさか げんったら 、それ は じれったい ほど ね 。 愛 や 貞 の 学校 の 事 も お 頼み して 来た んです けれども 心もとない もん よ 。 きっと 今ごろ は けんか 腰 に なって み ん な と 談判 でも して いらっしゃる でしょう よ 。 見える ようです わ ね 」・・
と 水 を 向ける と 、木村 は 始めて 話 の 領分 が 自分 の ほう に 移って 来た ように 、顔色 を なおし ながら 、事務長 を そっちのけ に した 態度 で 、葉子 に 対して は 自分 が 第一 の 発言権 を 持って いる と いわんばかり に 、いろいろ と 話し出した 。 事務長 は しばらく 風向き を 見計らって 立って いた が 突然 部屋 を 出て 行った 。