4. 走れ メロス - 太 宰 治
眼 が 覚めた の は 翌 る 日 の 薄 明 の 頃 である 。 メロス は 跳ね 起き 、 南 無 三 、 寝 過 した か 、 いや 、 まだまだ 大丈夫 、 これ から すぐに 出発 すれば 、 約束 の 刻限 まで に は 十分 間に合う 。 きょう は 是非 と も 、 あの 王 に 、 人 の 信 実 の 存 する ところ を 見せて やろう 。 そうして 笑って 磔 の 台 に 上って やる 。 メロス は 、 悠々と 身仕度 を はじめた 。 雨 も 、 いくぶん 小 降り に なって いる 様子 である 。 身仕度 は 出来た 。 さて 、 メロス は 、 ぶる ん と 両腕 を 大きく 振って 、 雨 中 、 矢 の 如く 走り 出た 。
私 は 、 今 宵 、 殺さ れる 。 殺さ れる 為 に 走る のだ 。 身代り の 友 を 救う 為 に 走る のだ 。 王 の 奸佞 邪 智 を 打ち破る 為 に 走る のだ 。 走ら なければ なら ぬ 。 そうして 、 私 は 殺さ れる 。 若い 時 から 名誉 を 守れ 。 さらば 、 ふるさと 。 若い メロス は 、 つらかった 。 幾 度 か 、 立ちどまり そうに なった 。 えい 、 えい と 大声 挙げて 自身 を 叱り ながら 走った 。 村 を 出て 、 野 を 横切り 、 森 を くぐり抜け 、 隣村 に 着いた 頃 に は 、 雨 も 止み 、 日 は 高く 昇って 、 そろそろ 暑く なって 来た 。 メロス は 額 の 汗 を こぶし で 払い 、 ここ まで 来れば 大丈夫 、 もはや 故郷 へ の 未練 は 無い 。 妹 たち は 、 きっと 佳 い 夫婦 に なる だろう 。 私 に は 、 いま 、 なんの 気がかり も 無い 筈 だ 。 まっすぐに 王 城 に 行き着けば 、 それ で よい のだ 。 そんなに 急ぐ 必要 も 無い 。 ゆっくり 歩こう 、 と 持ち まえ の 呑気 さ を 取り返し 、 好きな 小 歌 を いい 声 で 歌い 出した 。 ぶらぶら 歩いて 二 里 行き 三 里 行き 、 そろそろ 全 里 程 の 半ば に 到達 した 頃 、 降って湧いた 災難 、 メロス の 足 は 、 はたと 、 とまった 。 見よ 、 前方 の 川 を 。 きのう の 豪雨 で 山 の 水源 地 は 氾濫 し 、 濁流 滔々と 下流 に 集 り 、 猛 勢 一挙に 橋 を 破壊 し 、 どうどうと 響き を あげる 激流 が 、 木 葉 微塵 に 橋桁 を 跳ね飛ばして いた 。 彼 は 茫然と 、 立ちすくんだ 。 あちこち と 眺め まわし 、 また 、 声 を 限り に 呼び たてて みた が 、 繋 舟 は 残ら ず 浪 に 浚 われて 影 なく 、 渡 守り の 姿 も 見え ない 。 流れ は いよいよ 、 ふくれ 上り 、 海 の ように なって いる 。 メロス は 川岸 に うずくまり 、 男泣き に 泣き ながら ゼウス に 手 を 挙げて 哀願 した 。 「 ああ 、 鎮めた まえ 、 荒れ狂う 流れ を ! 時 は 刻々 に 過ぎて 行きます 。 太陽 も 既に 真 昼時 です 。 あれ が 沈んで しまわ ぬ うち に 、 王 城 に 行き着く こと が 出来 なかったら 、 あの 佳 い 友達 が 、 私 の ため に 死ぬ のです 。」
濁流 は 、 メロス の 叫び を せ せら 笑う 如く 、 ますます 激しく 躍り 狂う 。 浪 は 浪 を 呑 み 、 捲 き 、 煽り 立て 、 そうして 時 は 、 刻一刻 と 消えて 行く 。 今 は メロス も 覚悟 した 。 泳ぎ 切る より 他 に 無い 。 ああ 、 神々 も 照 覧 あれ ! 濁流 に も 負け ぬ 愛 と 誠 の 偉大な 力 を 、 いま こそ 発揮 して 見せる 。 メロス は 、 ざんぶ と 流れ に 飛び込み 、 百 匹 の 大 蛇 の ように のた打ち 荒れ狂う 浪 を 相手 に 、 必死の 闘争 を 開始 した 。 満身 の 力 を 腕 に こめて 、 押し寄せ 渦巻き 引きずる 流れ を 、 なん の これ しき と 掻きわけ 掻きわけ 、 めくら めっぽう 獅子 奮 迅 の 人 の 子 の 姿 に は 、 神 も 哀れ と 思った か 、 ついに 憐愍 を 垂れて くれた 。 押し流さ れ つつ も 、 見事 、 対岸 の 樹木 の 幹 に 、 すがりつく 事 が 出来た のである 。 ありがたい 。