92. 永 日 小 品 - 夏目 漱石
永 日 小 品 - 夏目 漱石
金 劇 烈 な 三 面 記事 を 、 写真 版 に して 引き伸ばした ような 小説 を 、 のべつ に 五六 冊 読んだら 、 全く 厭 に なった 。 飯 を 食って いて も 、 生活 難 が 飯 と いっしょに 胃 の 腑 まで 押し寄せて 来 そうで なら ない 。 腹 が 張れば 、 腹 が せっぱ詰って 、 いかにも 苦しい 。 そこ で 帽子 を 被って 空 谷子 の 所 へ 行った 。 この 空 谷子 と 云 うの は 、 こういう 時 に 、 話し を する の に 都合 よく 出来上った 、 哲学 者 みた ような 占 者 みた ような 、 妙な 男 である 。 無 辺 際 の 空間 に は 、 地球 より 大きな 火事 が ところどころ に あって 、 その 火事 の 報知 が 吾々 の 眼 に 伝わる に は 、 百 年 も かかる んだ から なあ と 云って 、 神田 の 火事 を 馬鹿に した 男 である 。 もっとも 神田 の 火事 で 空 谷子 の 家 が 焼け なかった の は たしかな 事実 である 。 ・・
空 谷子 は 小さな 角 火鉢 に 倚れて 、 真鍮 の 火箸 で 灰 の 上 へ 、 しきりに 何 か 書いて いた 。 どう だ ね 、 相 変ら ず 考え込んで る じゃ ない か と 云 う と 、 さも 面倒くさ そうな 顔つき を して 、 うん 今金 の 事 を 少し 考えて いる ところ だ と 答えた 。 せっかく 空 谷子 の 所 へ 来て 、 また 金 の 話 なぞ を 聞か されて は たまらない から 、 黙って しまった 。 すると 空 谷子 が 、 さも 大 発見 でも した ように 、 こう 云った 。 ・・
「 金 は 魔物 だ ね 」・・
空 谷子 の 警句 と して は はなはだ 陳腐だ と 思った から 、 そう さ ね 、 と 云った ぎり 相手 に なら ず に いた 。 空 谷子 は 火鉢 の 灰 の 中 に 大きな 丸 を 描いて 、 君 ここに 金 が ある と する ぜ 、 と 丸 の 真中 を 突 ッ ついた 。 ・・
「 これ が 何 に でも 変化 する 。 衣服 に も なれば 、 食物 に も なる 。 電車 に も なれば 宿屋 に も なる 」・・
「 下ら ん な 。 知れ 切って る じゃ ない か 」・・
「 否 、 知れ 切って いない 。 この 丸 が ね 」 と また 大きな 丸 を 描いた 。 ・・
「 この 丸 が 善人 に も なれば 悪人 に も なる 。 極楽 へ も 行く 、 地獄 へ も 行く 。 あまり 融通 が 利き 過ぎる よ 。 まだ 文明 が 進ま ない から 困る 。 もう 少し 人類 が 発達 する と 、 金 の 融通 に 制限 を つける ように なる の は 分 り 切って いる んだ が な 」・・
「 どうして 」・・
「 どうしても 好 い が 、―― 例えば 金 を 五色 に 分けて 、 赤い 金 、 青い 金 、 白い 金 など と して も 好 かろう 」・・
「 そうして 、 どう する んだ 」・・
「 どう するって 。 赤い 金 は 赤い 区域 内 だけ で 通用 する ように する 。 白い 金 は 白い 区域 内 だけ で 使う 事 に する 。 もし 領分 外 へ 出る と 、 瓦 の 破片 同様 まるで 幅 が 利か ない ように して 、 融通 の 制限 を つける の さ 」・・
もし 空 谷子 が 初対面 の 人 で 、 初対面 の 最 先 から こんな 話 を しかけたら 、 自分 は 空 谷子 を もって 、 あるいは 脳 の 組織 に 異状 の ある 論客 と 認めた かも 知れ ない 。 しかし 空 谷子 は 地球 より 大きな 火事 を 想像 する 男 だ から 、 安心 して その 訳 を 聞いて 見た 。 空 谷子 の 答 は こう であった 。 ・・
「 金 は ある 部分 から 見る と 、 労力 の 記号 だろう 。 ところが その 労力 が けっして 同 種類 の もの じゃ ない から 、 同じ 金 で 代表 さして 、 彼 是 相 通ずる と 、 大変な 間違 に なる 。 例えば 僕 が ここ で 一万 噸 の 石炭 を 掘った と する ぜ 。 その 労力 は 器械 的 の 労力 に 過ぎ ない んだ から 、 これ を 金 に 代えた に した ところ が 、 その 金 は 同 種類 の 器械 的 の 労力 と 交換 する 資格 が ある だけ じゃ ない か 。 しかる に 一 度 この 器械 的 の 労力 が 金 に 変形 する や 否 や 、 急に 大 自在の 神通力 を 得て 、 道徳 的 の 労力 と どんどん 引き換え に なる 。 そうして 、 勝手 次第に 精神 界 が 攪乱 されて しまう 。 不都合 極 まる 魔物 じゃ ない か 。 だから 色 分 に して 、 少し その分 を 知ら しめ なくっちゃ いか ん よ 」・・
自分 は 色 分 説 に 賛成 した 。 それ から しばらく して 、 空 谷子 に 尋ねて 見た 。 ・・
「 器械 的 の 労力 で 道徳 的 の 労力 を 買収 する の も 悪かろう が 、 買収 さ れる 方 も 好か あ ない んだろう 」・・
「 そう さ な 。 今 の ような 善 知 善 能 の 金 を 見る と 、 神 も 人間 に 降参 する んだ から 仕方 が ない か な 。 現代 の 神 は 野蛮だ から な 」・・
自分 は 空 谷子 と 、 こんな 金 に なら ない 話 を して 帰った 。