Section 020 - Kokoro - Soseki Project
「 私 は 世の中 で 女 と いう もの を たった 一 人 しか 知ら ない 。 妻 以外 の 女 は ほとんど 女 と して 私 に 訴え ない のです 。 妻 の 方 でも 、 私 を 天下 に ただ 一 人 しか ない 男 と 思って くれて います 。 そういう 意味 から いって 、 私 たち は 最も 幸福に 生れた 人間 の 一 対 である べき はずです 」
私 は 今 前後 の 行き掛り を 忘れて しまった から 、 先生 が 何の ため に こんな 自白 を 私 に して 聞か せた の か 、 判然 いう 事 が でき ない 。 けれども 先生 の 態度 の 真面目であった の と 、 調子 の 沈んで いた の と は 、 いまだに 記憶 に 残って いる 。 その 時 ただ 私 の 耳 に 異様に 響いた の は 、「 最も 幸福に 生れた 人間 の 一 対 である べき はずです 」 と いう 最後 の 一 句 であった 。 先生 は なぜ 幸福な 人間 と いい切ら ないで 、 あるべき はずである と 断わった の か 。 私 に は それ だけ が 不審であった 。 ことに そこ へ 一種 の 力 を 入れた 先生 の 語気 が 不審であった 。 先生 は 事実 はたして 幸福な のだろう か 、 また 幸福である べき はずであり ながら 、 それほど 幸福で ない のだろう か 。 私 は 心 の 中 で 疑ら ざる を 得 なかった 。 けれども その 疑い は 一 時 限り どこ か へ 葬られて しまった 。 私 は その うち 先生 の 留守 に 行って 、 奥さん と 二 人 差 向 い で 話 を する 機会 に 出合った 。 先生 は その 日 横浜 を 出帆 する 汽船 に 乗って 外国 へ 行く べき 友人 を 新 橋 へ 送り に 行って 留守 であった 。 横浜 から 船 に 乗る 人 が 、 朝 八 時 半 の 汽車 で 新 橋 を 立つ の は その頃 の 習慣 であった 。 私 は ある 書物 に ついて 先生 に 話して もらう 必要 が あった ので 、 あらかじめ 先生 の 承諾 を 得た 通り 、 約束 の 九 時 に 訪問 した 。 先生 の 新 橋 行き は 前日 わざわざ 告別 に 来た 友人 に 対する 礼 義 と して その 日 突然 起った 出来事 であった 。 先生 は すぐ 帰る から 留守 でも 私 に 待って いる ように と いい残して 行った 。 それ で 私 は 座敷 へ 上がって 、 先生 を 待つ 間 、 奥さん と 話 を した 。