第 三 の 手記 二 (4 )
けれども 、自分 は それ から すぐに 、あの はにかむ ような 微笑 を する 若い 医師 に 案内せられ 、或る 病棟 に いれられて 、ガチャン と 鍵 かぎ を おろさ れました 。 脳 病院 でした 。
女 の いない ところ へ 行く と いう 、あの ジアール を 飲んだ 時 の 自分 の 愚かな うわごと が 、まことに 奇妙に 実現 せられた わけでした 。 その 病棟 に は 、男 の 狂人 ばかり で 、看護人 も 男 でした し 、女 は ひとり も いませんでした 。
いま は もう 自分 は 、罪人 どころ で は なく 、狂人 でした 。 いいえ 、断じて 自分 は 狂って など いなかった のです 。 一瞬間 と いえ ども 、狂った 事 は 無い んです 。 けれども 、ああ 、狂人 は 、たいてい 自分 の 事 を そう 言う もの だ そうです 。 つまり 、この 病院 に いれられた 者 は 気 違い 、いれられなかった 者 は 、ノーマル と いう 事 に なる ようです 。
神 に 問う 。 無抵抗 は 罪な りや ?
堀木 の あの 不思議な 美しい 微笑 に 自分 は 泣き 、判断 も 抵抗 も 忘れて 自動車 に 乗り 、そうして ここ に 連れて 来られて 、狂人 という 事 に なりました 。 いまに 、 ここ から 出て も 、 自分 は やっぱり 狂人 、 いや 、 癈人 はいじん と いう 刻印 を 額 に 打た れる 事 でしょう 。
人間 、失格 。
もはや 、自分 は 、完全に 、人間 で 無くなりました 。
ここ へ 来た の は 初夏 の 頃 で 、 鉄 の 格子 の 窓 から 病院 の 庭 の 小さい 池 に 紅 あかい 睡蓮 の 花 が 咲いて いる の が 見えました が 、 それ から 三 つき 経ち 、 庭 に コスモス が 咲き はじめ 、 思いがけなく 故郷 の 長兄 が 、 ヒラメ を 連れて 自分 を 引き取り に やって 来て 、 父 が 先月 末 に 胃 潰瘍 いか い ようで なく なった こと 、 自分 たち は もう お前 の 過去 は 問わ ぬ 、 生活 の 心配 も かけない つもり 、 何も し なくて いい 、 その代り 、 いろいろ 未練 も ある だろう が すぐに 東京 から 離れて 、 田舎 で 療養 生活 を はじめて くれ 、 お前 が 東京 で しでかした 事 の 後 仕末 は 、 だいたい 渋田 が やって くれた 筈 だ から 、 それ は 気 に し ないで いい 、 と れい の 生真面目な 緊張 した ような 口調 で 言う のでした 。
故郷 の 山河 が 眼前 に 見える ような 気 が して 来て 、自分 は 幽か に うなずきました 。
まさに 癈人 。
父 が 死んだ 事 を 知って から 、 自分 は いよいよ 腑抜 ふ ぬけた よう に なりました 。 父 が 、 もう いない 、 自分 の 胸中 から 一刻 も 離れ なかった あの 懐 しく おそろしい 存在 が 、 もう いない 、 自分 の 苦悩 の 壺 が からっぽに なった ような 気 が しました 。 自分 の 苦悩 の 壺 が やけに 重かった の も 、あの 父 の せい だった ので は なかろうか と さえ 思われました 。 まるで 、張合い が 抜けました 。 苦悩 する 能力 を さえ 失いました 。
長兄 は 自分 に 対する 約束 を 正確に 実行して くれました 。 自分 の 生れて 育った 町 から 汽車 で 四 、五 時間 、南下 した ところ に 、東北 に は 珍らしい ほど 暖かい 海辺 の 温泉地 が あって 、その 村 はずれ の 、間数 は 五つ も ある のです が 、かなり 古い 家 らしく 壁 は 剥はげ 落ち 、柱 は 虫 に 食わ れ 、ほとんど 修理 の 仕様 も 無い ほど の 茅屋 ぼう おく を 買いとって 自分 に 与え 、六十 に 近い ひどい 赤毛 の 醜い 女中 を ひとり 附けて くれました 。
それ から 三 年 と 少し 経ち 、 自分 は その 間 に その テツ と いう 老女 中 に 数 度 へんな 犯さ れ 方 を して 、 時たま 夫婦 喧嘩 げんか みたいな 事 を はじめ 、 胸 の 病気 の ほう は 一進一退 、 痩せたり ふとったり 、 血 痰 けった ん が 出たり 、 きのう 、 テツ に カルモチン を 買って おいで 、 と 言って 、 村 の 薬屋 に お 使い に やったら 、 いつも の 箱 と 違う 形 の 箱 の カルモチン を 買って 来て 、 べつに 自分 も 気 に とめ ず 、 寝る 前 に 十 錠 の ん でも 一向に 眠く ならない ので 、 おかしい な と 思って いる うち に 、 おなか の 具合 が へんに なり 急いで 便所 へ 行ったら 猛烈な 下痢 で 、 しかも 、 それ から 引続き 三 度 も 便所 に かよった のでした 。 不審 に 堪えず 、薬 の 箱 を よく 見る と 、それ は ヘノモチン と いう 下剤 でした 。
自分 は 仰向け に 寝て 、おなか に 湯たんぽ を 載せ ながら 、テツ に こごと を 言って やろう と 思いました 。
「これ は 、お前 、カルモチン じゃ ない 。 ヘノモチン 、と いう 」
と 言い かけて 、う ふふふ と 笑って しまいました 。 「癈人 」は 、どうやら これ は 、喜劇 名詞 の ようです 。 眠ろう と して 下剤 を 飲み 、しかも 、その 下剤 の 名前 は 、ヘノモチン 。
いま は 自分 に は 、幸福 も 不幸 も ありません 。
ただ 、一さい は 過ぎて 行きます 。
自分 が いま まで 阿鼻叫喚 で 生きて 来た 所謂 「人間 」の 世界 に 於いて 、たった 一つ 、真理 らしく 思われた のは 、それ だけ でした 。
ただ 、一さい は 過ぎて 行きます 。
自分 は ことし 、二十七 に なります 。 白髪 が めっきり ふえた ので 、たいてい の 人 から 、四十 以上 に 見られます 。
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