グスタフ ・クリムト(92)
こんにちは 。 人 から 分かる 3 分 美術 史 。 今日 は グスタフ ・ クリムト に ついて 勉強 して いき ましょう 。
グスタフ ・ クリムト 。1862 年 生まれ 。
オーストリア の 画家 であり 、19 世紀 末 の ウィーン を 代表 する 人物 と して 知ら れ ます 。
クリムト は オーストリア 帝国 の ウィーン 郊外 に 、 銅版画 職人 の 息子 と して 生まれ ました 。
クリムト は 14 歳 の 折 に オーストリア 美術 館 付属 の 工芸 美術 学校 に 入学 。
装飾 画家 の フェルディナント ・ ラウフベルガー に 学び ます 。
間も無く クリムト は 、 友人 の フランツ ・ マッチュ 、 弟 の エルンスト ・ クリムト と ともに 、
ラウフベルガー の 仕事 や 、 画家 の 王 と 評さ れた ハンス ・ マカルト の 仕事 を 手伝う ように なり ました 。
そこ で 存在 感 を 発揮 した クリムト ら は 、1882 年 に 「 キュンストラー ・ カンパニー 」 を 結成 。
ラウフベルガー 、 マカルト が 相次いで 亡くなる と 、 彼ら の 後継 者 と して 仕事 を 引き継ぐ こと と なり ます 。
その頃 の 作品 が 「 ギリシア 古代 」。 1890 年 、 クリムト 28 歳 頃 の 作品 であり 、
マカルト ら の アカデミック な 画風 を 引き継ぎ つつ も 、 衣服 など に 装飾 的 象徴 主義 的な 傾向 が 現れ はじめて い ます 。
当時 ウィーン の 画壇 は パリ の 影響 も ほとんど 受け ず 、 美術 家 組合 を 中心 と した 保守 的な 傾向 を 保って い ました 。
そんな なか クリムト は 、 ラファエル 前 派 や 印象 派 など 諸 外国 の 動向 に 刺激 を 受け 、1897 年 に 「 ウィーン 分離 派 」 を 結成 。
クリムト を リーダー と して オットー ・ ワーグナー 、 ヨーゼフ ・ ホフマン ら が 参加 し 、
アカデミズム から の 分離 を 標榜 。 独自の 展覧 会 を 企画 して いき ました 。
クリムト ら ウィーン 分離 派 の 行動 は 衝撃 を 持って 受け入れ られ 、 そんな なか クリムト は 、
オーストリア の 前衛 芸術 の 代表 的 作家 と して 、 また 、 指導 者 の 一 人 と して 存在 感 を 高めて いき ます 。
クリムト の 作品 を 見て いき ましょう 。
「 接吻 」。 クリムト 48 歳 頃 の 作品 であり その 代表 作 と して 知ら れ ます 。
クリムト が 金箔 を 多用 した 時期 は 「 金 の 時代 」 と 呼ば れ 、 日本 の 琳派 の 影響 が ある と 言わ れ ます 。
クリムト は その後 、 ウィーン を 代表 する 画家 と して 存在 感 を 発揮 し 続け 、
また 、 エゴン ・ シーレ ら 弟子 たち を 育て ました 。
1918 年 に 55 歳 で 亡くなり ます が 、20 世紀 の 美術 に 大きな 影響 を 与えた のでした 。
以上