9.1 或る 女
底光り の する 雲母 色 の 雨雲 が 縫い目 なし に どんより と 重く 空 いっぱい に はだかって 、 本牧 の 沖合 いま で 東京 湾 の 海 は 物 すごい ような 草 色 に 、 小さく 波 の 立ち 騒ぐ 九 月 二十五 日 の 午後 であった 。 きのう の 風 が 凪いで から 、 気温 は 急に 夏 らしい 蒸し暑 さ に 返って 、 横浜 の 市街 は 、 疫病 に かかって 弱りきった 労働 者 が 、 そぼ ふる 雨 の 中 に ぐったり と あえいで いる ように 見えた 。 ・・
靴 の 先 で 甲板 を こつこつと たたいて 、 うつむいて それ を ながめ ながら 、 帯 の 間 に 手 を さし込んで 、 木村 へ の 伝言 を 古藤 は ひとり言 の ように 葉子 に いった 。 葉子 は それ に 耳 を 傾ける ような 様子 は して いた けれども 、 ほんとう は さして 注意 も せ ず に 、 ちょうど 自分 の 目の前 に 、 たくさんの 見送り 人 に 囲まれて 、 応接 に 暇 も なげ な 田川 法学 博士 の 目じり の 下がった 顔 と 、 その 夫人 の やせぎす な 肩 と の 描く 微細な 感情 の 表現 を 、 批評 家 の ような 心 で 鋭く ながめ やって いた 。 かなり 広い プロメネード ・ デッキ は 田川 家 の 家族 と 見送り 人 と で 縁日 の ように にぎわって いた 。 葉子 の 見送り に 来た はずの 五十川 女史 は 先刻 から 田川 夫人 の そば に 付き きって 、 世話好きな 、 人 の よい 叔母さん と いう ような 態度 で 、 見送り 人 の 半分 が た を 自身 で 引き受けて 挨拶 して いた 。 葉子 の ほう へ は 見向こう と する 模様 も なかった 。 葉子 の 叔母 は 葉子 から 二三 間 離れた 所 に 、 蜘蛛 の ような 白 痴 の 子 を 小 婢 に 背負わ して 、 自分 は 葉子 から 預かった 手 鞄 と 袱紗 包み と を 取り 落とさ ん ばかりに ぶら下げた まま 、 花々しい 田川 家 の 家族 や 見送り 人 の 群れ を 見て あっけ に 取られて いた 。 葉子 の 乳母 は 、 どんな 大きな 船 でも 船 は 船 だ と いう ように ひどく 臆病 そうな 青い 顔つき を して 、 サルン の 入り口 の 戸 の 陰 に たたずみ ながら 、 四角に たたんだ 手ぬぐい を まっ赤 に なった 目 の 所 に 絶えず 押しあてて は 、 ぬすみ 見る ように 葉子 を 見 やって いた 。 その他 の 人々 は じみな 一団 に なって 、 田川 家 の 威光 に 圧せられた ように すみ の ほう に かたまって いた 。 ・・
葉子 は かねて 五十川 女史 から 、 田川 夫婦 が 同船 する から 船 の 中 で 紹介 して やる と いい聞かせられて いた 。 田川 と いえば 、 法曹 界 で は かなり 名 の 聞こえた 割合 に 、 どこ と いって 取りとめた 特色 も ない 政 客 で は ある が 、 その 人 の 名 は むしろ 夫人 の うわさ の ため に 世 人 の 記憶 に あざやかであった 。 感 受 力 の 鋭敏な そして なんらか の 意味 で 自分 の 敵 に 回さ なければ なら ない 人 に 対して こと に 注意深い 葉子 の 頭 に は 、 その 夫人 の 面影 は 長い 事 宿題 と して 考えられて いた 。 葉子 の 頭 に 描か れた 夫人 は 我 の 強い 、 情 の 恣 まま な 、 野心 の 深い 割合 に 手練 の 露骨な 、 良 人 を 軽く 見て やや ともすると 笠 に かかり ながら 、 それでいて 良 人 から 独立 する 事 の 到底 でき ない 、 いわば 心 の 弱い 強 がり 家 で は ない か しら ん と いう のだった 。 葉子 は 今 後ろ向き に なった 田川 夫人 の 肩 の 様子 を 一目 見た ばかりで 、 辞書 で も 繰り 当てた ように 、 自分 の 想像 の 裏書き を さ れた の を 胸 の 中 で ほほえま ず に は いられ なかった 。 ・・
「 なんだか 話 が 混雑 した ようだ けれども 、 それ だけ いって 置いて ください 」・・
ふと 葉子 は 幻想 から 破れて 、 古藤 の いう これ だけ の 言葉 を 捕えた 。 そして 今 まで 古藤 の 口 から 出た 伝言 の 文句 はたいてい 聞きもらして いた くせ に 、 空々し げ に も なく しんみり と した 様子 で 、・・
「 確かに …… けれども あなた あと から 手紙 で でも 詳しく 書いて やって ください まし ね 。 間違い でも して いる とたいへんです から 」・・
と 古藤 を のぞき込む ように して いった 。 古藤 は 思わず 笑い を もらし ながら 、「 間違う とたいへんです から 」 と いう 言葉 を 、 時おり 葉子 の 口 から 聞く チャーム に 満ちた 子供 らしい 言葉 の 一 つ と でも 思って いる らしかった 。 そして 、・・
「 何 、 間違ったって 大事 は ない けれども …… だが 手紙 は 書いて 、 あなた の 寝床 の 枕 の 下 に 置 い と きました から 、 部屋 に 行ったら どこ に でも しまって おいて ください 。 それ から 、 それ と 一緒に もう 一 つ ……」・・
と いい かけた が 、・・
「 何しろ 忘れ ず に 枕 の 下 を 見て ください 」・・
この 時 突然 「 田川 法学 博士 万 歳 」 と いう 大きな 声 が 、 桟橋 から デッキ まで ど よみ 渡って 聞こえて 来た 。 葉子 と 古藤 と は 話 の 腰 を 折られて 互いに 不快な 顔 を し ながら 、 手 欄 から 下 の ほう を のぞいて 見る と 、 すぐ 目 の 下 に 、 その ころ 人 の 少し 集まる 所 に は どこ に でも 顔 を 出す 轟 と いう 剣 舞 の 師匠 だ か 撃 剣 の 師匠 だ か する 頑丈な 男 が 、 大きな 五 つ 紋 の 黒 羽織 に 白っぽい 鰹 魚 縞 の 袴 を はいて 、 桟橋 の 板 を 朴 の 木 下駄 で 踏み鳴らし ながら 、 ここ を 先 途 と わめいて いた 。 その 声 に 応じて 、 デッキ まで は のぼって 来 ない 壮 士 体 の 政 客 や 某 私立 政治 学校 の 生徒 が 一斉に 万 歳 を 繰り返した 。 デッキ の 上 の 外国 船客 は 物珍し さ に いち早く 、 葉子 が よりかかって いる 手 欄 の ほう に 押し寄せて 来た ので 、 葉子 は 古藤 を 促して 、 急いで 手 欄 の 折れ曲がった かどに 身 を 引いた 。 田川 夫婦 も ほほえみ ながら 、 サルン から 挨拶 の ため に 近づいて 来た 。 葉子 は それ を 見る と 、 古藤 の そば に 寄り添った まま 、 左手 を やさしく 上げて 、 鬢 の ほつれ を かき上げ ながら 、 頭 を 心持ち 左 に かしげて じっと 田川 の 目 を 見 やった 。 田川 は 桟橋 の ほう に 気 を 取られて 急ぎ足 で 手 欄 の ほう に 歩いて いた が 、 突然 見え ぬ 力 に ぐっと 引きつけられた ように 、 葉子 の ほう に 振り向いた 。 ・・
田川 夫人 も 思わず 良 人 の 向く ほう に 頭 を 向けた 。 田川 の 威厳 に 乏しい 目 に も 鋭い 光 が きらめいて は 消え 、 さらに きらめいて 消えた の を 見 すまして 、 葉子 は 始めて 田川 夫人 の 目 を 迎えた 。 額 の 狭い 、 顎 の 固い 夫人 の 顔 は 、 軽蔑 と 猜疑 の 色 を みなぎら して 葉子 に 向かった 。 葉子 は 、 名前 だけ を かねて から 聞き 知って 慕って いた 人 を 、 今 目の前 に 見た ように 、 うやうやし さ と 親しみ と の 交じり 合った 表情 で これ に 応じた 。 そして すぐ その ば から 、 夫人 の 前 に も 頓着 なく 、 誘惑 の ひとみ を 凝らして その 良 人 の 横顔 を じっと 見 やる のだった 。 ・・
「 田川 法学 博士 夫人 万 歳 」「 万歳 」「 万歳 」・・
田川 その 人 に 対して より も さらに 声高な 大 歓呼 が 、 桟橋 に いて 傘 を 振り 帽子 を 動かす 人々 の 群れ から 起こった 。 田川 夫人 は 忙しく 葉子 から 目 を 移して 、 群 集 に 取っと き の 笑顔 を 見せ ながら 、 レース で 笹 縁 を 取った ハンケチ を 振ら ねば なら なかった 。 田川 の すぐ そば に 立って 、 胸 に 何 か 赤い 花 を さして 型 の いい フロック ・ コート を 着て 、 ほほえんで いた 風流な 若 紳士 は 、 桟橋 の 歓呼 を 引き取って 、 田川 夫人 の 面前 で 帽子 を 高く あげて 万 歳 を 叫んだ 。 デッキ の 上 は また 一 しきり どよめき 渡った 。 ・・
やがて 甲板 の 上 は 、 こんな 騒ぎ の ほか に なんとなく 忙しく なって 来た 。 事務 員 や 水夫 たち が 、 物 せわし そうに 人中 を 縫う て あちこち する 間 に 、 手 を 取り合わ ん ばかりに 近よって 別れ を 惜しむ 人々 の 群れ が ここ に も かしこ に も 見え 始めた 。 サルン ・ デッキ から 見る と 、 三 等 客 の 見送り 人 が ボーイ 長 に せき立てられて 、 続々 舷門 から 降り 始めた 。 それ と 入れ 代わり に 、 帽子 、 上着 、 ズボン 、 ネクタイ 、 靴 など の 調和 の 少しも 取れて いない くせ に 、 むやみに 気取った 洋装 を した 非番 の 下級 船員 たち が 、 ぬれた 傘 を 光らし ながら 駆けこんで 来た 。 その 騒ぎ の 間 に 、 一種 生臭い ような 暖かい 蒸気 が 甲板 の 人 を 取り巻いて 、 フォクスル の ほう で 、 今 まで やかましく 荷物 を まき上げて いた 扛重 機 の 音 が 突然 やむ と 、 か ー ん と する ほど 人々 の 耳 は かえって 遠く なった 。 隔たった 所 から 互いに 呼びかわす 水夫 ら の 高い 声 は 、 この 船 に どんな 大 危険で も 起こった か と 思わ せる ような 不安 を まき散らした 。 親しい 間 の 人 たち は 別れ の 切な さ に 心 が わくわく して ろくに 口 も きか ず 、 義理 一ぺん の 見送り 人 は 、 やや ともすると まわり に 気 が 取られて 見送る べき 人 を 見失う 。 そんな あわただしい 抜 錨 の 間ぎわ に なった 。 葉子 の 前 に も 、 急に いろいろな 人 が 寄り集まって 来て 、 思い思い に 別れ の 言葉 を 残して 船 を 降り 始めた 。 葉子 は こんな 混雑 な 間 に も 田川 の ひとみ が 時々 自分 に 向けられる の を 意識 して 、 その ひとみ を 驚か す ような なま めいた ポーズ や 、 たよりな げ な 表情 を 見せる の を 忘れ ないで 、 言葉少なに それ ら の 人 に 挨拶 した 。 叔父 と 叔母 と は 墓 の 穴 まで 無事に 棺 を 運んだ 人 夫 の ように 、 通り一ぺんの 事 を いう と 、 預かり 物 を 葉子 に 渡して 、 手 の 塵 を はたか ん ばかりに すげなく 、 まっ先 に 舷梯 を 降りて 行った 。 葉子 は ちらっと 叔母 の 後ろ姿 を 見送って 驚いた 。 今 の 今 まで どこ とて 似通う 所 の 見え なかった 叔母 も 、 その 姉 なる 葉子 の 母 の 着物 を 帯 まで 借りて 着込んで いる の を 見る と 、 はっと 思う ほど その 姉 に そっくりだった 。 葉子 は なんという 事 なし に いやな 心持ち が した 。 そして こんな 緊張 した 場合 に こんな ちょっと した 事 に まで こだわる 自分 を 妙に 思った 。 そう 思う 間 も あら せ ず 、 今度 は 親類 の 人 たち が 五六 人 ずつ 、 口々に 小 やかましく 何 か いって 、 あわれむ ような 妬む ような 目つき を 投げ 与え ながら 、 幻影 の ように 葉子 の 目 と 記憶 と から 消えて 行った 。 丸 髷 に 結ったり 教師 らしい 地味な 束 髪 に 上げたり して いる 四 人 の 学校 友だち も 、 今 は 葉子 と は かけ 隔たった 境界 の 言葉づかい を して 、 昔 葉子 に 誓った 言葉 など は 忘れて しまった 裏切り者 の 空々しい 涙 を 見せたり して 、 雨 に ぬらす まい と 袂 を 大事に かばい ながら 、 傘 に かくれて これ も 舷梯 を 消えて 行って しまった 。 最後に 物おじ する 様子 の 乳母 が 葉子 の 前 に 来て 腰 を かがめた 。 葉子 は とうとう 行き詰まる 所 まで 来た ような 思い を し ながら 、 振り返って 古藤 を 見る と 、 古藤 は 依然と して 手 欄 に 身 を 寄せた まま 、 気抜け でも した ように 、 目 を 据えて 自分 の 二三 間 先 を ぼんやり ながめて いた 。 ・・
「 義一 さん 、 船 の 出る の も 間 が 無 さ そう です から どう か 此女 …… わたし の 乳母 です の …… の 手 を 引いて おろして やって ください ましな 。 すべり でも する と 怖う ご ざん す から 」・・
と 葉子 に いわれて 古藤 は 始めて われ に 返った 。 そして ひとり言 の ように 、・・
「 この 船 で 僕 も アメリカ に 行って 見たい なあ 」・・
と のんきな 事 を いった 。 ・・
「 どうか 桟橋 まで 見て やって ください まし ね 。 あなた も その うち ぜひ いらっしゃい ましな …… 義一 さん それ で は これ で お 別れ 。 ほんとうに 、 ほんとうに 」・・
と いい ながら 葉子 は なんとなく 親しみ を いちばん 深く この 青年 に 感じて 、 大きな 目 で 古藤 を じっと 見た 。 古藤 も 今さら の ように 葉子 を じっと 見た 。 ・・
「 お 礼 の 申し よう も ありません 。 この上 の お 願い です 。 どうぞ 妹 たち を 見て やって ください まし 。 あんな 人 たち に は どうしたって 頼んで は おけません から 。 …… さようなら 」・・
「 さようなら 」・・
古藤 は 鸚鵡 返し に 没 義道 に これ だけ いって 、 ふい と 手 欄 を 離れて 、 麦 稈帽 子 を 目深に かぶり ながら 、 乳母 に 付き添った 。