46.2 或る 女
憤怒に 伴って さしこんで 来る 痛みを 憤怒と 共に ぐっと 押えつけながら 葉子は わざと 声を 和らげた 。 そうして 愛子の 挙動を 爪の 先ほども 見のがす まいと した 。 愛子は 黙って しまった 。 この 沈黙 は 愛子 の 隠れ家 だった 。 そう なる と さすが の 葉子 も この 妹 を どう 取り扱う 術 も なかった 。 岡 なり 古藤 なり が 告白 を して いる の なら 、葉子 が この 次に いい出す 言葉 で 様子 は 知れる 。 この 場合 うっかり 葉子 の 口車 に は 乗ら れ ない と 愛子 は 思って 沈黙 を 守って いる の かも しれない 。 岡 なり 古藤 なり から 何 か 聞いて いる のなら 、葉子 は それを 十倍 も 二十倍 も の 強さ に して 使いこなす 術 を 知っている のだ けれども 、あいにく その 備え は して いなかった 。 愛子 は 確かに 自分 を あなどり 出して いる と 葉子 は 思わないで はいられなかった 。 寄ってたかって 大きな 詐偽 の 網 を 造って 、その 中に 自分 を 押しこめて 、周囲 から ながめながら おもしろ そうに 笑って いる 。 岡 だろう が 古藤 だろう が 何 が あて に なる もの か 。 ……葉子 は 手 傷 を 負った 猪 の ように 一直線 に 荒れて 行く より しかたがなく なった 。 ・・
「さあ お 言い 愛さ ん 、お前 さん が 黙って しまう の は 悪い 癖 です よ 。 ねえさん を 甘く お 見 で ない よ 。 ……お前 さん ほんとうに 黙って る つもり かい ……そう じゃ ない でしょう 、あれば ある なければ ないで 、はっきり わかる ように 話 を して くれる んだろう ね ……愛さ ん ……あなた は 心から わたし を 見くびって かかる んだ ね 」・・
「そう じゃ ありません 」・・ あまり 葉子 の 言葉 が 激し て 来る ので 、愛子 は 少し おそれ を 感じた らしく あわてて こう いって 言葉 で ささえよう と した 。 ・・
「もっと こっちに おいで 」・・
愛子 は 動かなかった 。 葉子 の 愛子に 対する 憎悪 は 極点に 達した 。 葉子 は 腹部の 痛みも 忘れて 、寝床から 跳り上がった 。 そうして いきなり 愛子 の たぶさ を つかもう と した 。 ・・
愛子 は ふだん の 冷静に 似ず 、葉子 の 発作 を 見て取る と 、敏捷に 葉子 の 手もと を すり抜けて 身を かわした 。 葉子 は ふらふらと よろけて 一方の 手を 障子紙に 突っ込みながら 、それでも 倒れる はずみに 愛子 の 袖先 を つかんだ 。 葉子 は 倒れ ながら それ を たぐり寄せた 。 醜い 姉妹 の 争闘 が 、泣き 、わめき 、叫び 立てる 声 の 中 に 演ぜられた 。 愛子 は 顔 や 手 に 掻き傷 を 受け 、髪 を おどろに 乱し ながらも 、ようやく 葉子 の 手 を 振り放して 廊下 に 飛び出した 。 葉子 は よろよろと した 足取り で その あと を 追った が 、とても 愛子 の 敏捷さ には かなわなかった 。 そして 階子 段 の 降り 口 の 所 で つや に 食い止められて しまった 。 葉子 は つや の 肩 に 身 を 投げかけ ながら おいおい と 声 を 立てて 子供 の ように 泣き沈んで しまった 。 ・・
幾時間 か の 人事不省 の 後 に 意識 が はっきり して みる と 、葉子 は 愛子 と の いきさつ を ただ 悪夢 の ように 思い出す ばかりだった 。 しかも それは 事実に 違いない 。 枕 もとの 障子に は 葉子の 手の さし込まれた 孔が 、大きく 破れた まま 残って いる 。 入院の その 日から 、葉子の 名は 口さがない 婦人 患者の 口の 端に うるさく のぼって いる に 違いない 。 それを 思うと 一時でも そこに じっと して いる のが 、堪えられない 事だった 。 葉子 は すぐ ほかの 病院 に 移ろう と 思って つや に いいつけた 。 しかし つや は どうしても それを 承知しなかった 。 自分 が 身に 引き受けて 看護する から 、ぜひとも この 病院で 手術を 受けて もらいたい と つや は いい張った 。 葉子 から 暇を 出されながら 、妙に 葉子に 心を 引きつけられている らしい 姿を 見ると 、この 場合 葉子は つやに しみじみとした 愛を 感じた 。 清潔な 血が 細い しなやかな 血管を 滞りなく 流れ 回って いる ような 、すべすべと 健康らしい 、浅黒い つやの 皮膚は 何よりも 葉子には 愛らしかった 。 始終 吹き出物でも しそうな 、膿っぽい 女を 葉子は 何よりも 呪わしい ものに 思っていた 。 葉子 は つや の まめ や かな 心 と 言葉 に 引か されて そこ に い残る 事 に した 。 ・・
これ だけ 貞世 から 隔たる と 葉子 は 始めて 少し 気 の ゆるむ の を 覚えて 、腹部 の 痛み で 突然 目 を さます ほか に は たわいなく 眠る ような 事 も あった 。 しかし なんといっても いちばん 心 に かかる もの は 貞世 だった 。 ささくれて 、赤く かわいた 口 びる から もれ 出る あの 囈言 ……それ が どうかする と 近々 と 耳 に 聞こえたり 、ぼんやりと 目 を 開いたり する その 顔 が 浮き 出して 見えたり した 。 それ ばかり で は ない 、 葉子 の 五官 は 非常に 敏捷に なって 、 おまけに イリュウジョン や ハルシネーション を 絶えず 見たり 聞いたり する よう に なって しまった 。 倉地 なんぞ は すぐ そば に すわって いる な と 思って 、苦しさ に 目を つぶり ながら 手を 延ばして 畳 の 上 を 探って みる 事 など も あった 。 そんなに はっきり 見えたり 聞こえたり する もの が 、すべて 虚構 である の を 見いだす さびしさ は たとえよう が なかった 。 ・・
愛子 は 葉子 が 入院 の 日 以来 感心に 毎日 訪れて 貞世 の 容体 を 話して 行った 。 もう 始め の 日 の ような 狼藉 は し なかった けれども 、その 顔 を 見た ばかりで 、葉子 は 病気 が 重る ように 思った 。 ことに 貞世 の 病状 が 軽く なって 行く と いう 報告 は 激しく 葉子 を 怒らした 。 自分 が あれほど の 愛着 を こめて 看護 して も よく なら なかった もの が 、愛子 なんぞ の 通り一ぺんの 世話で なおる はず が ない 。 また 愛子 は いいかげんな 気休め に 虚言 を ついて いる のだ 。 貞世 は もう ひょっとすると 死んで いる かも しれない 。 そう 思って 岡 が 尋ねて 来た 時 に 根掘り葉掘り 聞いて みる が 、 二人 の 言葉 が あまりに 符合 する ので 、 貞 世 の だんだん よく なって 行き つつ ある の を 疑う 余地 は なかった 。 葉子 に は 運命 が 狂い 出した ように しか 思われ なかった 。 愛情 と いう もの なし に 病気 が なおせる なら 、 人 の 生命 は 機械 でも 造り上げる 事 が できる わけだ 。 そんな はず は ない 。 それ だ のに 貞 世 は だんだん よく なって 行って いる 。 人 ばかり で は ない 、神 まで が 、自分 を 自然 法 の 他 の 法則 で もてあそぼう と して いる のだ 。 ・・
葉子 は 歯が み を しながら 貞世 が 死ね かし と 祈る ような 瞬間 を 持った 。 ・・
日 は たつ けれども 倉地 から は ほんとうに なんの 消息 も なかった 。 病的に 感覚 の 興奮 した 葉子 は 、時々 肉体的に 倉地 を 慕う 衝動 に 駆り立てられた 。 葉子 の 心 の 目 に は 、倉地 の 肉体 の すべて の 部分 は 触れる 事 が できる と 思う ほど 具体的に 想像 された 。 葉子 は 自分 で 造り出した 不思議な 迷宮 の 中 に あって 、意識 の しびれ きる ような 陶酔 に ひたった 。 しかし その 酔い が さめた あと の 苦痛 は 、 精神 の 疲弊 と 一緒に 働いて 、 葉子 を 半死半生 の 堺 に 打ちのめした 。 葉子 は 自分 の 妄想 に 嘔吐 を 催し ながら 、倉地 と いわず すべて の 男 を 呪い に 呪った 。 ・・
いよいよ 葉子が 手術を 受けるべき 前の 日が 来た 。 葉子は それを さほど 恐ろしい 事と は 思わなかった 。 子宮 後 屈 症 と 診断 された 時 、 買って 帰って 読んだ 浩 澣 な 医 書 に よって 見て も 、 その 手術 は 割合 に 簡単な もの である の を 知り 抜いて いた から 、 その 事 に ついて は 割合 に 安 々 と した 心持ち で いる 事 が できた 。 ただ 名 状 し 難い 焦 躁 と 悲哀 とは どう 片づけよう も なかった 。 毎日 来て いた 愛子 の 足 は 二 日 おき に なり 三 日 おき に なり だんだん 遠ざかった 。 岡 など は 全く 姿 を 見せ なく なって しまった 。 葉子 は 今さら に 自分 の まわり を さびしく 見回して みた 。 出あう かぎり の 男 と 女 と が 何 が なし に ひき 着けられて 、 離れる 事 が でき なく なる 、 そんな 磁力 の ような 力 を 持って いる と いう 自負 に 気負って 、 自分 の 周囲 に は 知る と 知ら ざる と を 問わ ず 、 いつでも 無数の人々 の 心 が 待って いる よう に 思って いた 葉子 は 、 今 は すべて の人 から 忘られ 果てて 、 大事な 定子 から も 倉地 から も 見放し 見放されて 、 荷物 のない 物 置き 部屋 の ような 貧しい 一室 の すみっこ に 、 夜具 に くるまって 暑気 に 蒸さ れ ながら くずれ かけた 五 体 を たよりなく 横たえ ねば なら ぬ のだ 。 それ は 葉子 に 取って は あるべき 事 と は 思わ れ ぬ まで だった 。 しかし それ が 確かな 事実 である のを どう しよう 。 ・・
それでも 葉子は まだ 立ち上がろう とした 。 自分の 病気が 癒えきった その 時を 見ている がいい 。 どうして 倉地を もう 一度 自分の ものに 仕遂せるか 、それを 見ている がいい 。 ・・
葉子 は 脳 心 に たぐり 込ま れる ような 痛 み を 感ずる 両眼 から 熱い 涙 を 流し ながら 、 徒然 な まま に 火 の ような 一 心 を 倉地 の 身の上 に 集めた 。 葉子 の 顔 には いつでも ハンケチ が あてがわれて いた 。 それ が 十分 も たたない うちに 熱く ぬれ 通って 、つやに 新しい の と 代え させ ねば ならなかった 。