44.2 或る 女
葉子 は 自分 で 貞 世 の 食事 を 作って やる ため に 宿直 室 の そば に ある 小さな 庖厨 に 行って 、 洋食 店 から 届けて 来た ソップ を 温めて 塩 で 味 を つけて いる 間 も 、 だんだん 起き 出て 来る 看護 婦 たち に 貞 世 の 昨夜 の 経過 を 誇り が に 話して 聞か せた 。 病室 に 帰って 見る と 、 愛子 が すでに 目ざめた 貞 世に 朝 じまい を させて いた 。 熱 が 下がった ので きげん の よ かる べき 貞 世 は いっそう ふきげんに なって 見えた 。 愛子 の する 事 一つ一つ に 故障 を いい立てて 、なかなか いう 事 を 聞こう と は しなかった 。 熱 の 下がった のに 連れて 始めて 貞世 の 意志 が 人間らしく 働き出した のだ と 葉子 は 気がついて 、それも 許さなければならない 事 だ と 、自分 の 事 のように 心で 弁疏した 。 ようやく 洗面 が 済んで 、それから 寝台 の 周囲 を 整頓する と もう 全く 朝に なっていた 。 けさ こそは 貞世 が きっと 賞美しながら 食事を 取る だろう と 葉子 は いそいそと たけの高い 食卓を 寝台の 所に 持って行った 。 ・・
その 時 思いがけなく も 朝がけに 倉地が 見舞いに 来た 。 倉地も 涼しげな 単衣に 絽の 羽織を 羽織った まま だった 。 その 強健な 、 物 を 物 と も しない 姿 は 夏 の 朝 の 気分 と しっくり そぐって 見えた ばかりで なく 、 その 日 に 限って 葉子 は 絵 島 丸 の 中 で語り合った 倉地 を 見いだした よう に 思って 、 その 寛 濶 な 様子 が なつかしく のみ ながめられた 。 倉地 も つとめて 葉子 の 立ち直った 気分 に 同じ て いる らしかった 。 それ が 葉子 を いっそう 快活に した 。 葉子 は 久しぶりで その 銀 の 鈴 の ような 澄み とおった 声 で 高 調子 に 物 を いい ながら 二 言 目 に は 涼しく 笑った 。 ・・
「さ 、貞ちゃん 、ねえさんが 上手に 味を つけて 来て 上げた から ソップを 召し上がれ 。 けさは きっと おいしく 食べられます よ 。 今まで は 熱で 味も 何も なかった わね 、かわいそうに 」・・
そう いって 貞世の 身ぢかに 椅子を 占めながら 、糊の 強い ナフキンを 枕から 喉に かけて あてがって やると 、貞世の 顔は 愛子の いう ように ひどく 青味がかって 見えた 。 小さな 不安が 葉子の 頭を つきぬけた 。 葉子は 清潔な 銀の 匙に 少しばかり ソップを しゃくい 上げて 貞世の 口もとに あてがった 。 ・・
「まずい 」・・
貞 世 は ちらっと 姉 を にらむ ように 盗み見て 、口 に ある だけ の ソップ を しいて 飲みこんだ 。 ・・
「おや どうして 」・・
「甘った らしくって 」・・
「そんな はず は ない が ねえ 。 どれ それ じゃ も 少し 塩 を 入れて あげます わ 」・・
葉子 は 塩 を たして みた 。 けれども 貞世 は うまい と は いわ なかった 。 また 一口 飲み込む と もう いやだ と いった 。 ・・
「そう いわず とも 少し 召し上がれ 、ね 、せっかく ねえさん が 加減 した んだ から 。 第一 食べないで いて は 弱って しまいます よ 」・・
そう 促して みても 貞世は 金輪際 あとを 食べようと はしなかった 。 ・・
突然 自分でも 思いもよらない 憤怒が 葉子に 襲いかかった 。 自分が これほど 骨を折って してやった のに 、義理にも もう少しは 食べてよさそうな ものだ 。 なんという わがままな 子 だろう (葉子 は 貞世 が 味覚 を 回復 して いて 、 流動 食 では 満足 しなく なった の を 少しも 考え に 入れ なかった )。 ・・
そう なる と もう 葉子 は 自分 を 統御 する 力 を 失って しまって いた 。 血管 の 中 の 血 が 一 時 に かっと 燃え 立って 、それ が 心臓 に 、そして 心臓 から 頭 に 衝 き 進んで 、頭蓋 骨 は ばりばり と 音 を 立てて 破れ そうだった 。 日ごろ あれほど かわいがって やって いる のに 、……憎さ は 一倍 だった 。 貞世 を 見つめて いる うちに 、その やせきった 細首 に 鍬形 に した 両手 を かけて 、一思いに しめつけて 、苦しみ もがく 様子 を 見て 、「そら 見る が いい 」と いい捨てて やりたい 衝動 が むずむずと わいて 来た 。 その 頭 の まわりに あてがわる べき 両手 の 指 は 思わず 知らず 熊手 の ように 折れ曲がって 、はげしい 力 の ために 細かく 震えた 。 葉子 は 凶器 に 変わった ような その 手 を 人に 見られる のが 恐ろしかった ので 、茶わん と 匙 と を 食卓 に かえして 、前だれ の 下に 隠して しまった 。 上 まぶた の 一 文字 に なった 目 を きりっと 据えて はたと 貞 世 を にらみつけた 。 葉子 の 目 に は 貞 世 の ほか に その 部屋 の もの は 倉地 から 愛子 に 至る まで すっかり 見え なく なって しまって いた 。 ・・
「食べ ない かい 」・・
「食べ ない かい 。 食べ なければ 云々 」と 小言 を いって 貞世 を 責める はずだった が 、初 句 を 出した だけ で 、自分 の 声 の あまりに 激しい 震えよう に 言葉 を 切って しまった 。 ・・
「食べ ない ……食べ ない ……御飯 で なくって は いや あだ あ 」・・
葉子 の 声 の 下 から すぐ こうした わがままな 貞世 の すね に すねた 声 が 聞こえた と 葉子 は 思った 。 まっ黒 な 血潮 が どっと 心臓 を 破って 脳天 に 衝 き 進んだ と 思った 。 目の前 で 貞世 の 顔 が 三つ に も 四つ に も なって 泳いだ 。 その あと に は 色 も 声 も しびれ 果てて しまった ような 暗黒 の 忘我 が 来た 。 ・・
「 おね え 様 …… おね え 様 ひどい …… いや あ ……」・・
「 葉 ちゃん …… あぶない ……」・・
貞 世 と 倉地 の 声 と が もつれ 合って 、 遠い 所 から の よう に 聞こえて 来る の を 、 葉子 は だれ か が 何 か 貞 世に 乱暴 を して いる のだ な と 思ったり 、 この 勢い で 行か なければ 貞 世 は 殺せ や しない と 思ったり して いた 。 いつのまにか 葉子 は ただ 一筋 に 貞世 を 殺そう と ばかり あせって いた のだ 。 葉子 は 闇黒 の 中 で 何 か 自分 に 逆らう 力 と 根限り あらそい ながら 、物すごい ほど の 力 を ふりしぼって たたかって いる らしかった 。 何 が なんだか わから なかった 。 その 混乱 の 中 に 、 あるいは 今 自分 は 倉地 の 喉 笛 に 針 の よう に なった 自分 の 十 本 の 爪 を 立てて 、 ねじり もがき ながら 争って いる ので は ない か と も 思った 。 それも やがて 夢の ようだった 。 遠ざかり ながら 人の 声と も 獣の 声と も 知れぬ 音響が かすかに 耳に 残って 、胸の 所に さし込んで 来る 痛みを 吐き気の ように 感じた 次の 瞬間には 、葉子は 昏々と して 熱も 光も 声も ない 物 すさまじい 暗黒の 中に まっさかさまに 浸って 行った 。 ・・
ふと 葉子は 擽むる ような ものを 耳の 所に 感じた 。 それ が 音響 だ と わかる まで に は どの くらい の 時間 が 経過 した か しれ ない 。 とにかく 葉子 は がやがや と いう 声 を だんだん と はっきり 聞く ように なった 。 そして ぽっかり 視力 を 回復 した 。 見る と 葉子 は 依然と して 貞 世 の 病室 に いる のだった 。 愛子 が 後ろ向き に なって 寝台 の 上 に いる 貞世 を 介抱 して いた 。 自分 は ……自分 は と 葉子 は 始めて 自分 を 見回そう と した が 、からだ は 自由 を 失って いた 。 そこ に は 倉地 が いて 葉子 の 首根っこ に 腕 を 回して 、膝 の 上 に 一方 の 足 を 乗せて 、しっかり と 抱きすくめて いた 。 その 足 の 重さ が 痛い ほど 感じられ 出した 。 やっぱり 自分 は 倉地 を 死に 神 の もと へ 追いこ くろう と して いた のだ な と 思った 。 そこ に は 白衣 を 着た 医者 も 看護婦 も 見え 出した 。 ・・
葉子 は それ だけ の 事 を 見る と 急に 気 の ゆるむ の を 覚えた 。 そして 涙 が ぼろぼろ と 出て しかたがなく なった 。 おかしな ……どうして こう 涙 が 出る のだろう と 怪しむ うちに 、やる 瀬 ない 悲哀 が どっと こみ上げて 来た 。 底 の ない ような さびしい 悲哀 ……その うちに 葉子 は 悲哀 とも 睡 さ とも 区別 の でき ない 重い 力 に 圧せられて また 知覚 から 物 の ない 世界 に 落ち込んで 行った 。 ・・
ほんとうに 葉子が 目を さました 時に は 、まっさおに 晴天の 後の 夕暮れが 催して いる ころ だった 。 葉子は 部屋の すみの 三畳に 蚊帳の 中に 横に なって 寝て いた のだった 。 そこに は 愛子の ほかに 岡も 来合わせて 貞世の 世話を して いた 。 倉地は もう いなかった 。 ・・
愛子 の いう 所 に よる と 、 葉子 は 貞 世に ソップ を 飲ま そう と して いろいろに いった が 、 熱 が 下がって 急に 食欲 の ついた 貞 世 は 飯 で なければ どうしても 食べない と いって きか なかった の を 、 葉子 は 涙 を 流さ ん ばかりに なって 執念 く ソップ を 飲ま せよう と した 結果 、 貞 世 は そこ に あった ソップ 皿 を 臥 てい ながら ひっくり返して しまった のだった 。 そう する と 葉子 は いきなり 立ち上がって 貞 世 の 胸 もと を つかむ なり 寝 台 から 引きずり おろして こづき 回した 。 幸いに い 合わした 倉地 が 大事に ならない うち に 葉子 から 貞 世 を 取り 放し は した が 、 今度 は 葉子 は 倉地 に 死に物狂い に 食ってかかって 、 その うち に 激しい 癪 を 起こして しまった のだ と の 事 だった 。 ・・
葉子 の 心 は むなしく 痛んだ 。 どこ に とて 取りつく もの もない ような むなし さ が 心 に は 残って いる ばかりだった 。 貞 世 の 熱 は すっかり 元通りに のぼって しまって 、 ひどく おびえる らしい 囈言 を 絶え間 なし に 口走った 。 節々 は ひどく 痛み を 覚え ながら 、発作 の 過ぎ去った 葉子 は 、ふだん どおり に なって 起き上がる 事 も できる のだった 。 しかし 葉子 は 愛子 や 岡 へ の 手前 すぐ 起き上がる の も 変だった ので その 日 は そのまま 寝 続けた 。 ・・
貞世 は 今度 こそ は 死ぬ 。 とうとう 自分の 末路 も 来てしまった 。 そう 思うと 葉子は やるかたなく 悲しかった 。 た とい 貞 世 と 自分 と が 幸いに 生き残った と して も 、 貞 世 は きっと 永 劫 自分 を 命 の 敵 と 怨 むに 違いない 。 ・・
「死ぬ に 限る 」・・
葉子 は 窓 を 通して 青から 藍に 変わって 行きつつある 初夏 の 夜 の 景色 を ながめた 。 神秘的 な 穏やか さ と 深 さ と は 脳 心 に しみ 通る ようだった 。 貞 世 の 枕 もと に は 若い 岡 と 愛子 と が むつまじ げ に 居たり 立ったり して 貞 世 の 看護 に 余念 なく 見えた 。 その 時 の 葉子 に は それ は 美しく さえ 見えた 。 親切な 岡 、柔順な 愛子 ……二 人 が 愛し合う のは 当然で いい 事 らしい 。 ・・
「どうせ すべて は 過ぎ去る のだ 」・・
葉子 は 美しい 不思議な 幻影 でも 見る ように 、電気 灯 の 緑 の 光 の 中 に 立つ 二 人 の 姿 を 、無常 を 見ぬいた 隠者 の ような 心 に なって 打ち ながめた 。