25.2或る 女
こんな 目 で 古藤 は 、 明らかな 疑い を 示し つつ 葉子 を 見 ながら 、 さらに語り 続けた 所 に よれば 、 古藤 は 木村 の 手紙 を 読んで から 思案 に 余って 、 その 足 で すぐ 、 まだ 釘 店 の 家 の 留守番 を して いた 葉子 の 叔母 の 所 を 尋ねて その 考え を 尋ねて みよう と した ところ が 、 叔母 は 古藤 の 立場 が どちら に 同情 を 持って いる か 知れない ので 、 うっかり した 事 は いわれない と 思った か 、 何事 も 打ち明け ず に 、 五十川 女史 に 尋ねて もらいたい と 逃げ を 張った らしい 。 古藤 は やむなく また 五十川 女史 を 訪問 した 。 女史 と は 築地 の ある 教会堂 の 執事 の 部屋 で 会った 。 女史 の いう 所 に よると 、十日 ほど 前 に 田川 夫人 の 所 から 船中 における 葉子 の 不埒 を 詳細に 知らして よこした 手紙 が 来て 、自分 としては 葉子 の ひとり 旅 を 保護 し 監督 する 事 は とても 力 に 及ばない から 、船 から 上陸 する 時 も なんの 挨拶 も せず に 別れて しまった 。 なんでも うわさ で 聞く と 病気 だ と いって まだ 船 に 残って いる そうだ が 、万一 そのまま 帰国 する ように でも なったら 、葉子 と 事務長 との 関係 は 自分たち が 想像 する 以上 に 深く なって いる と 断定 しても さしつかえ ない 。 せっかく 依頼 を 受けて その 責め を 果たさ なかった の は 誠に すまない が 、自分たち の 力 で は 手に 余る のだ から 推恕 して いただきたい と 書いて あった 。 で 、五十川 女史 は 田川 夫人 が いいかげんな 捏造 など する 人 で ない の を よく 知っている から 、その 手紙 を 重だった 親類 たち に 示して 相談 した 結果 、もし 葉子 が 絵島丸 で 帰って来たら 、回復 の できない 罪 を 犯した もの として 、木村 に 手紙 を やって 破約 を 断行 させ 、一面に は 葉子 に 対して 親類 一同 は 絶縁 する 申し合わせ を した という 事 を 聞かされた 。 そう 古藤 は 語った 。 ・・
「僕 は こんな 事 を 聞か されて 途方 に 暮れて しまいました 。 あなた は さっき から 倉地 と いう その 事務長 の 事 を 平気で 口 に している が 、こっち で は その 人 が 問題 に なっている んです 。 きょう でも 僕 は あなた に お 会い する の が いい の か 悪い の か さんざん 迷いました 。 しかし 約束 で は ある し 、あなた から 聞いたら もっと 事柄 も はっきり する か と思って 、思いきって 伺う 事 に した んです 。 ……あっち に たった 一人 いて 五十川 さん から 恐ろしい 手紙 を 受け取ら なければ ならない 木村 君 を 僕 は 心から 気の毒に 思う んです 。 もし あなた が 誤解 の 中 に いる ん なら 聞かせて ください 。 僕 は こんな 重大な 事 を 一方 口 で 判断 し たく は ありません から 」・・
と 話 を 結んで 古藤 は 悲しい ような 表情 を して 葉子 を 見つめた 。 小 癪 な 事 を いう もん だ と 葉子 は 心 の 中 で 思った けれども 、指先 で もてあそび ながら 少し 振り仰いだ 顔 は そのまま に 、あわれむ ような 、からかう ような 色 を かすかに 浮かべて 、・・
「 え ゝ 、 それ は お 聞き くだされば どんなに でも お 話 は しましょう と も 。 けれども 天から わたし を 信じて くださら ない ん なら どれほど 口 を すっぱく して お 話 を したって むだ ね 」・・
「お 話 を 伺って から 信じられる もの なら 信じよう と している のです 僕 は 」・・
「それ は あなた 方 の なさる 学問 なら それ で ようご ざんしょう よ 。 けれども 人情 ずく の 事 は そんな もの じゃ ありません わ 。 木村 に 対して やましい こと は いたしません と いったって あなた が わたし を 信じて いて くださら なければ 、それ まで の もの です し 、倉地 さん と は お友だち という だけ です と 誓った 所 が 、あなた が 疑って いらっしゃれば なんの 役 に も 立ち は しません から ね 。 ……そうした もん じゃ なくって ? 」・・
「それ じゃ 五十川 さん の 言葉 だけ で 僕 に あなた を 判断 しろ と おっしゃる んですか 」・・
「そう ね 。 ……それ でも よう ございましょう よ 。 とにかく それ は わたし が 御 相談 を 受ける 事柄 じゃ ありません わ 」・・
そう いってる 葉子 の 顔 は 、言葉 に 似合わず どこまでも 優しく 親しげ だった 。 古藤 は さすが に 怜 しく 、こう もつれて 来た 言葉 を どこまでも 追おう と せずに 黙って しまった 。 そして 「何事 も 明らさま に してしまう ほうが ほんとう は いい のだが な 」と いいたげな 目つき で 、格別 虐げよう と する でもなく 、葉子 が 鼻 の 先 で 組んだり ほどいたり する 手先 を 見入った 。 そうした まま で やや しばらく の 時 が 過ぎた 。 ・・
十一 時 近い この へん の 町並み は いちばん 静かだった 。 葉子 は ふと 雨 樋 を 伝う 雨だれ の 音 を 聞いた 。 日本 に 帰って から 始めて 空 は しぐれて いた のだ 。 部屋 の 中 は 盛んな 鉄びん の 湯気 で そう 寒く は ない けれども 、戸外 は 薄ら寒い 日和 に なっている らしかった 。 葉子 はぎ ご ちない 二人 の 間 の 沈黙 を 破りたい ばかりに 、 ひ ょっと 首 を もたげて 腰 窓 の ほう を 見 やり ながら 、・・
「おや いつのまにか 雨 に なりました の ね 」・・
と いって みた 。 古藤 は それ に は 答え も せ ず に 、五 分刈り の 地蔵 頭 を うなだれて 深々と ため息 を した 。 ・・
「僕 は あなた を 信じ きる 事 が できれば どれほど 幸いだ か 知れない と 思う んです 。 五十川 さん なぞ より 僕 は あなた と 話して いる ほう が ずっと 気持ち が いい んです 。 それ は あなた が 同じ 年ごろ で 、――たいへん 美しい と いう ため ばかり じゃない と (その 時 古藤 は おぼこ らしく 顔 を 赤らめて いた )思って います 。 五十川 さん なぞ は なんでも 物 を 僻目 で 見る から 僕 は いやな んです 。 けれども あなた は ……どうして あなた は そんな 気象 で いながら もっと 大胆に 物 を 打ち明けて くださら ない んです 。 僕 は なんといっても あなた を 信ずる 事 が できません 。 こんな 冷淡な 事 を いう の を 許して ください 。 しかし これ に は あなた に も 責め が ある と 僕 は 思います よ 。 ……しかたがない 僕 は 木村 君 に きょう あなた と 会った このまま を いって やります 。 僕 に は どう 判断 の しよう も ありません もの ……しかし お 願いします が ねえ 。 木村 君 が あなた から 離れ なければ ならない もの なら 、一刻 でも 早く それ を 知る ように して やって ください 。 僕 は 木村 君 の 心持ち を 思う と 苦しく なります 」・・
「でも 木村 は 、あなた に 来た お手紙 に よる と わたし を 信じ きって くれて いる ので は ない んですか 」・・
そう 葉子 に いわれて 、古藤 は また 返す 言葉 も なく 黙って しまった 。 葉子 は 見る見る 非常に 興奮 して 来た ようだった 。 抑え 抑えて いる 葉子 の 気持ち が 抑え きれ なく なって 激しく 働き出して 来る と 、それ は いつでも 惻々 として 人 に 迫り 人を 圧した 。 顔色 一 つ 変え ないで 元 の まま に 親しみ を 込めて 相手 を 見 やり ながら 、胸 の 奥底 の 心持ち を 伝えて 来る その 声 は 、不思議な 力 を 電気 の ように 感じて 震えて いた 。 ・・
「それ で 結構 。 五十川 の おばさん は 始め から いやだ いやだ と いう わたし を 無理に 木村 に 添わ せよう と して 置き ながら 、今に なって わたし の 口 から 一言 の 弁解 も 聞か ずに 、木村 に 離縁 を 勧めよう と いう 人 なんです から 、そりゃ わたし 恨み も します 。 腹 も 立てます 。 え ゝ 、わたし は そんな 事 を されて 黙って 引っ込んで いる ような 女 じゃ ない つもりです わ 。 けれども あなた は 初手 から わたし に 疑い を お持ち に なって 、木村 に も いろいろ 御忠告 なさった 方 です もの 、木村 に どんな 事 を いって おやり に なろう と も わたし に は ねっから 不服 は ありません こと よ 。 ……けれども ね 、あなた が 木村 の いちばん 大切な 親友 で いらっしゃる と 思えば こそ 、わたし は 人一倍 あなた を たよりにして きょう も わざわざ こんな 所 まで 御迷惑 を 願ったりして 、……でも おかしい もの ね 、木村 は あなた も 信じ わたし も 信じ 、わたし は 木村 も 信じ あなた も 信じ 、あなた は 木村 は 信ずる けれども わたし を 疑って ……そ 、まあ 待って ……疑って は いらっしゃりません 。 そう です 。 けれども 信ずる 事 が でき ないで いらっしゃる んです わ ね ……こう なる と わたし は 倉地 さん に でも おすがりして 相談 相手 に なって いただく ほか しよう が ありません 。 いくら わたし 娘 の 時 から 周囲 から 責められ 通し に 責められて いて も 、今 だに 女手 一つ で 二人 の 妹 まで 背負って 立つ 事 は できません から ね 。 ……」・・
古藤 は 二重 に 折って いた ような 腰 を 立てて 、少し せきこんで 、・・
「それ は あなた に 不似合い な 言葉 だ と 僕 は 思います よ 。 もし 倉地 と いう 人 の ため に あなた が 誤解 を 受けて いる の なら ……」・・
そう いって まだ 言葉 を 切ら ない うち に 、もうとう に 横浜 に 行った と 思われていた 倉地 が 、和服 の まま で 突然 六 畳 の 間 に は いって 来た 。 これ は 葉子 に も 意外 だった ので 、葉子 は 鋭く 倉地 に 目くばせ した が 、倉地 は 無頓着 だった 。 そして 古藤 の いる の など は 度外視 した 傍若無人 さ で 、火鉢 の 向こう 座 に どっか と あぐら を かいた 。 ・・
古藤 は 倉地 を 一目 見る と すぐ 倉地 と 悟った らしかった 。 いつも の 癖 で 古藤 は すぐ 極度に 固く なった 。 中断 さ れた 話 の 続き を 持ち出し も し ないで 、黙った まま 少し 伏し目 に なって ひかえて いた 。 倉地 は 古藤 から 顔 の 見えない の を いい 事 に 、早く 古藤 を 返して しまえ と いう ような 顔つき を 葉子 に して 見せた 。 葉子 は わけ は わからない まま に その 注意 に 従おう と した 。 で 、古藤 の 黙って しまった の を いい 事 に 、倉地 と 古藤 と を 引き合わせる 事 も せずに 自分 も 黙った まま 静かに 鉄びん の 湯 を 土びん に 移して 、茶 を 二人 に 勧めて 自分 も 悠々と 飲んだり していた 。 ・・
突然 古藤 は 居ずまい を なおして 、・・
「もう 僕 は 帰ります 。 お 話 は 中途 です けれども なんだか 僕 は きょう は これ で おいとま が し たく なりました 。 あと は 必要 が あったら 手紙 を 書きます 」・・
そう いって 葉子 に だけ 挨拶 して 座 を 立った 。 葉子 は 例の 芸者 の ような 姿 の まま で 古藤 を 玄関 まで 送り出した 。 ・・
「失礼 しまして ね 、ほんとうに きょう は 。 もう 一 度 で よう ございます から ぜひ お 会い に なって ください ましな 。 一生 の お 願い です から 、ね 」・・
と 耳打ち する ように ささやいた が 古藤 は なんとも 答え ず 、雨 の 降り出した のに 傘 も 借りず に 出て行った 。 ・・
「あなた ったら まずい じゃ ありません か 、なん だって あんな 幕 に 顔 を お 出し なさる の 」・・
こう なじる ように いって 葉子 が 座 に つく と 、倉地 は 飲み 終わった 茶わん を 猫 板 の 上 に とんと 音 を たてて 伏せ ながら 、・・
「あの 男 は お前 、ばかに して かかっている が 、話 を 聞いている と 妙に 粘り強い 所 が ある ぞ 。 ばか も あの くらい まっすぐに ばかだ と 油断 の できない もの な のだ 。 も 少し 話 を 続けて いて みろ 、お前 の やり繰り で は 間に合わなく なる から 。 いったい なんで お前 は あんな 男 を かまい つける 必要 が ある ん か 、わから ない じゃない か 。 木村 に でも 未練 が あれば 知らない 事 」・・
こう いって 不敵に 笑い ながら 押し付ける ように 葉子 を 見た 。 葉子 は ぎくりと 釘 を 打たれた ように 思った 。 倉地 を しっかり 握る まで は 木村 を 離して は いけない と 思って いる 胸算用 を 倉地 に 偶然に いい当てられた ように 思った から だ 。 しかし 倉地 が ほんとうに 葉子 を 安心 さ せる ため に は 、しなければならない 大事な 事 が 少なくとも 一つ 残っている 。 それ は 倉地 が 葉子 と 表向き 結婚 の できる だけの 始末 を して 見せる 事 だ 。 手っ取り早く いえば その 妻 を 離縁 する 事 だ 。 それ まで は どうしても 木村 を のがして は ならない 。 それ ばかり で は ない 、もし 新聞 の 記事 など が 問題 に なって 、倉地 が 事務長 の 位置 を 失う ような 事 に でも なれば 、少し 気の毒だ けれども 木村 を 自分 の 鎖 から 解き放さずに おく のが 何かにつけて 便宜 で も ある 。 葉子 は しかし 前 の 理由 は おくび に も 出さ ず に あと の 理由 を 巧みに 倉地 に 告げよう と 思った 。 ・・
「きょう は 雨 に なった で 出かける の が 大儀 だ 。 昼 に は 湯豆腐 でも やって 寝て くれよう か 」・・
そう いって 早くも 倉地 が そこ に 横 に なろう と する の を 葉子 は しいて 起き 返ら した 。