蜘蛛 の 糸 (1918)
蜘蛛 の 糸
ある 日 の 事 で ございます 。 御 釈迦 様 は 極楽 の 蓮池 の ふち を 、独り で ぶらぶら 御 歩き に なって いらっしゃいました 。 池 の 中 に 咲いている 蓮 の 花 は 、みんな 玉 の ように まっ白 で 、その まん中 に ある 金色 の 蕊 から は 、何とも 云えない 好い 匂 が 、絶間なく あたり へ 溢れて 居ります 。 極楽 は 丁度 朝 な ので ございましょう 。 ・・
やがて 御 釈迦様 は その 池 の ふち に 御佇み に なって 、水 の 面 を 蔽っている 蓮 の 葉 の 間 から 、ふと 下 の 容子 を 御覧 に なりました 。 この 極楽 の 蓮池 の 下 は 、丁度 地獄 の 底 に 当って 居ります から 、水晶 の ような 水 を 透き 徹して 、三途 の 河 や 針 の 山 の 景色 が 、丁度 覗き 眼鏡 を 見る ように 、はっきり と 見える ので ございます 。 ・・
する と その 地獄 の 底 に 、 犍陀 多 と 云 う 男 が 一人 、 ほか の 罪人 と 一しょに 蠢いて いる 姿 が 、 御 眼 に 止まりました 。 この 犍陀 多 と 云う 男 は 、人 を 殺したり 家 に 火 を つけたり 、いろいろ 悪事 を 働いた 大 泥坊 で ございます が 、それ でも たった 一 つ 、善い 事 を 致した 覚え が ございます 。 と 申します の は 、ある 時 この 男 が 深い 林 の 中 を 通ります と 、小さな 蜘蛛 が 一匹 、路ばた を 這って 行く のが 見えました 。 そこ で 犍陀 多 は 早速 足 を 挙げて 、踏み 殺そう と 致しました が 、「いや 、いや 、これ も 小さい ながら 、命 の ある もの に 違いない 。 その 命 を 無暗に とる と 云う 事 は 、いくら 何でも 可哀そうだ 。」 と 、こう 急に 思い返して 、とうとう その 蜘蛛 を 殺さ ずに 助けて やった から で ございます 。 ・・
御 釈迦 様 は 地獄 の 容子 を 御覧 に なり ながら 、この 犍陀多 に は 蜘蛛 を 助けた 事 が ある の を 御 思い出し に なりました 。 そうして それ だけ の 善い 事 を した 報 に は 、出来る なら 、この 男 を 地獄 から 救い出して やろう と 御考え に なりました 。 幸い 、側 を 見ます と 、翡翠 の ような 色 を した 蓮 の 葉 の 上 に 、極楽 の 蜘蛛 が 一匹 、美しい 銀色 の 糸 を かけて 居ります 。 御 釈迦 様 は その 蜘蛛 の 糸 を そっと 御手 に 御取り に なって 、玉 の ような 白 蓮 の 間 から 、遥か 下 に ある 地獄 の 底 へ 、まっすぐに それ を 御下し なさいました 。 ・・
二 -- こちら は 地獄 の 底 の 血 の 池 で 、ほか の 罪人 と 一しょに 、浮いたり 沈んだり していた 犍陀 多 でございます 。 何しろ どちら を 見て も 、まっ暗 で 、たまに その くら 暗 から ぼんやり 浮き上って いる もの が ある と 思います と 、それ は 恐し い 針 の 山 の 針 が 光る ので ございます から 、その 心細 さ と 云ったら ございません 。 その 上 あたり は 墓 の 中 の ように しんと 静まり返って 、たまに 聞える もの と 云って は 、ただ 罪人 が つく 微 な 嘆息 ばかり でございます 。 これ は ここ へ 落ちて 来る ほど の 人間 は 、もう さまざまな 地獄 の 責苦 に 疲れはてて 、泣声 を 出す 力 さえ なくなっている ので ございましょう 。 です から さすが 大 泥 坊 の 犍陀 多 も 、やはり 血 の 池 の 血 に 咽び ながら 、まるで 死に かかった 蛙 の ように 、ただ もがいて ばかり 居りました 。 ・・
ところ が ある 時 の 事 でございます 。 何気なく 犍陀 多 が 頭 を 挙げて 、血 の 池 の 空 を 眺めます と 、その ひっそり と した 暗 の 中 を 、遠い 遠い 天上 から 、銀色 の 蜘蛛 の 糸 が 、まるで 人目 に かかる の を 恐れる ように 、一すじ 細く 光り ながら 、するする と 自分 の 上 へ 垂れて 参る ので は ございませ ん か 。 犍陀 多 は これ を 見る と 、思わず 手 を 拍って 喜びました 。 この 糸 に 縋りついて 、どこまでも のぼって 行けば 、きっと 地獄 から ぬけ出せる のに 相違 ございませ ん 。 いや 、うまく 行く と 、極楽 へ は いる 事 さえ も 出来ましょう 。 そう すれば 、もう 針 の 山 へ 追い上げられる 事 も なくなれば 、血 の 池 に 沈められる 事 も ある 筈 は ございませ ん 。 ・・
こう 思いました から 犍陀 多 は 、早速 その 蜘蛛 の 糸 を 両手 で しっかり と つかみ ながら 、一生懸命に 上 へ 上 へ と たぐり のぼり 始めました 。 元 より 大 泥坊 の 事 でございます から 、こう 云う 事 に は 昔 から 、慣れ切っている のでございます 。 ・・
しかし 地獄 と 極楽 と の 間 は 、何 万里 と なく ございます から 、いくら 焦って 見た 所 で 、容易に 上 へ は 出られません 。 やや しばらく のぼる 中 に 、とうとう 犍陀多 も くたびれて 、もう 一 たぐり も 上の方 へ は のぼれなく なって しまいました 。 そこ で 仕方 が ございませ ん から 、まず 一休み 休む つもり で 、糸 の 中途 に ぶら下り ながら 、遥かに 目 の 下 を 見下しました 。 ・・
する と 、一生懸命に のぼった 甲斐 が あって 、さっき まで 自分 が いた 血 の 池 は 、今では もう 暗 の 底 に いつの間にか かくれて 居ります 。 それ から あの ぼんやり 光って いる 恐 し い 針 の 山 も 、 足 の 下 に なって しまいました 。 この 分 で のぼって 行けば 、地獄 から ぬけ出す の も 、存外 わけ が ない かも 知れません 。 犍陀多 は 両手 を 蜘蛛 の 糸 に からみ ながら 、ここ へ 来て から 何 年 に も 出した 事 の ない 声 で 、「しめた 。 しめた 。」 と 笑いました 。 ところが ふと 気 が つきます と 、蜘蛛 の 糸 の 下 の 方 に は 、数 限 も ない 罪人 たち が 、自分 の のぼった 後 を つけて 、まるで 蟻 の 行列 の ように 、やはり 上 へ 上 へ 一心に よじのぼって 来る で は ございませ ん か 。 犍陀多 は これ を 見る と 、驚いた の と 恐し い の と で 、しばらく は ただ 、莫迦 の ように 大きな 口 を 開いた まま 、眼 ばかり 動かして 居りました 。 自分 一 人 で さえ 断れ そうな 、この 細い 蜘蛛 の 糸 が 、どうして あれ だけ の 人数 の 重み に 堪える 事 が 出来ましょう 。 もし 万一 途中 で 断れた と 致しましたら 、折角 ここ へ まで のぼって 来た この 肝腎 な 自分 まで も 、元 の 地獄 へ 逆落し に 落ちて しまわなければ なりません 。 そんな 事 が あったら 、大変で ございます 。 が 、そう 云う 中 に も 、罪人 たち は 何百 と なく 何千 と なく 、まっ暗 な 血 の 池 の 底 から 、うようよ と 這い上って 、細く 光っている 蜘蛛 の 糸 を 、一列 に なりながら 、せっせと のぼって 参ります 。 今 の 中 に どうかしなければ 、糸 は まん 中 から 二 つ に 断れて 、落ちて しまう のに 違い ありません 。 ・・
そこ で 犍陀 多 は 大きな 声 を 出して 、「こら 、罪人 ども 。 この 蜘蛛 の 糸 は 己 の もの だ ぞ 。 お前たち は 一体 誰 に 尋いて 、のぼって 来た 。 下りろ 。 下りろ 。」 と 喚きました 。 ・・
その 途端 で ございます 。 今 まで 何とも なかった 蜘蛛 の 糸 が 、 急に 犍陀 多 の ぶら 下って いる 所 から 、 ぷつり と 音 を 立てて 断れました 。 ですから 犍陀 多 も たまりません 。 あっと 云う 間もなく 風 を 切って 、独楽 の ように くるくる まわり ながら 、見る見る 中 に 暗 の 底 へ 、まっさかさまに 落ちて しまいました 。 ・・
後 に は ただ 極楽 の 蜘蛛 の 糸 が 、きらきら と 細く 光り ながら 、月 も 星 も ない 空 の 中途 に 、短く 垂れて いる ばかりで ございます 。 ・・
三 -- 御 釈迦 様 は 極楽 の 蓮池 の ふち に 立って 、この 一部始終 を じっと 見て いらっしゃいました が 、やがて 犍陀多 が 血 の 池 の 底 へ 石 の ように 沈んで しまいます と 、悲しそうな 御顔 を なさりながら 、また ぶらぶら 御歩き に なり始めました 。 自分 ばかり 地獄 から ぬけ出そう と する 、犍陀 多 の 無慈悲な 心 が 、そうして その 心 相当な 罰 を うけて 、元 の 地獄 へ 落ちて しまった のが 、御 釈迦 様 の 御 目 から 見る と 、浅間しく 思召さ れた ので ございましょう 。 ・・
しかし 極楽 の 蓮池 の 蓮 は 、少しも そんな 事 に は 頓着 致しません 。 その 玉 の ような 白い 花 は 、御釈迦様 の 御足 の まわり に 、ゆらゆら 萼 を 動かして 、その まん中 に ある 金色 の 蕊 から は 、何とも 云え ない 好い 匂 が 、絶間なく あたり へ 溢れて 居ります 。 極楽 も もう 午 に 近く なった ので ございましょう 。 ・・
(大正 七 年 四 月 十六 日 )