121. 永日小品 声 - 夏目漱石
永 日 小 品 声 -夏目 漱石
豊三郎 が この 下宿 へ 越して 来て から 三 日 に なる 。 始め の 日 は 、薄暗い 夕暮 の 中 に 、一生懸命に 荷物 の 片づけ やら 、書物 の 整理 やら で 、忙しい 影 の ごとく 動いて いた 。 それ から 町 の 湯 に 入って 、帰る や 否や 寝て しまった 。 明る 日 は 、 学校 から 戻る と 、 机 の 前 へ 坐って 、 しばらく 書 見 を して 見た が 、 急に 居所 が 変った せい か 、 全く 気 が 乗らない 。 窓 の 外 で しきりに 鋸 の 音 が する 。 ・・
豊三郎 は 坐った まま 手 を 延して 障子 を 明けた 。 すると 、つい 鼻 の 先 で 植木屋 が せっせと 梧桐 の 枝 を おろしている 。 可 なり 大きく 延びた 奴 を 、惜気 も なく 股 の 根 から 、ごしごし 引いて は 、下 へ 落して 行く 内 に 、切口 の 白い 所 が 目立つ くらい 夥しく なった 。 同時に 空しい 空 が 遠く から 窓 に あつまる ように 広く 見え 出した 。 豊三郎 は 机 に 頬杖 を 突いて 、何気なく 、梧桐 の 上 を 高く 離れた 秋晴 を 眺めて いた 。 ・・
豊三郎 が 眼 を 梧桐 から 空 へ 移した 時 は 、急に 大きな 心 持 が した 。 その 大きな 心 持 が 、しばらく して 落ちついて 来る うちに 、懐かしい 故郷 の 記憶 が 、点 を 打った ように 、その 一角 に あらわれた 。 点 は 遥か の 向 に ある けれども 、机 の 上 に 乗せた ほど 明らかに 見えた 。 ・・
山 の 裾 に 大きな 藁葺 が あって 、村 から 二 町 ほど 上る と 、路 は 自分 の 門 の 前 で 尽きている 。 門 を 這 入る 馬 が ある 。 鞍 の 横 に 一 叢 の 菊 を 結い つけて 、鈴 を 鳴らして 、白壁 の 中 へ 隠れて しまった 。 日 は 高く 屋 の 棟 を 照らして いる 。 後 の 山 を 、こんもり 隠す 松 の 幹 が ことごとく 光って 見える 。 茸 の 時節 である 。 豊三郎 は 机 の 上 で 今 採った ばかりの 茸 の 香 を 嗅いだ 。 そうして 、豊 、豊 という 母 の 声 を 聞いた 。 その 声 が 非常に 遠く に ある 。 それ で 手 に 取る ように 明らかに 聞える 。 ―― 母 は 五 年 前 に 死んで しまった 。 ・・
豊三郎 は ふと 驚いて 、わが 眼 を 動かした 。 すると 先刻 見た 梧桐 の 先 が また 眸 に 映った 。 延びよう と する 枝 が 、一所 で 伐り 詰められている ので 、股 の 根 は 、瘤 で 埋まって 、見悪い ほど 窮屈に 力 が 入っている 。 豊三郎 は また 急に 、机 の 前 に 押しつけられた ような 気 が した 。 梧桐 を 隔てて 、垣根 の 外 を 見下す と 、汚ない 長屋 が 三四 軒 ある 。 綿 の 出た 蒲団 が 遠慮なく 秋 の 日 に 照りつけられている 。 傍 に 五十 余り の 婆さん が 立って 、梧桐 の 先 を 見て いた 。 ・・
ところどころ 縞 の 消えかかった 着物 の 上 に 、細帯 を 一筋 巻いた なり で 、乏しい 髪 を 、大きな 櫛 の まわり に 巻きつけて 、茫然と 、枝 を 透かした 梧桐 の 頂辺 を 見た まま 立っている 。 豊三郎 は 婆さん の 顔 を 見た 。 その 顔 は 蒼く むくんで いる 。 婆さん は 腫れぼったい 瞼 の 奥 から 細い 眼 を 出して 、眩し そうに 豊三郎 を 見上げた 。 豊三郎 は 急に 自分 の 眼 を 机 の 上 に 落した 。 ・・
三 日 目 に 豊三郎 は 花屋 へ 行って 菊 を 買って 来た 。 国 の 庭 に 咲く ような の を と 思って 、探して 見た が 見当らない ので 、やむをえず 花屋 の あてがった の を 、そのまま 三本 ほど 藁 で 括って 貰って 、徳利 のような 花瓶 へ 活けた 。 行李 の 底 から 、帆足 万里 の 書いた 小さい 軸 を 出して 、壁 へ 掛けた 。 これ は 先年 帰省 した 時 、装飾用 の ために わざわざ 持って来た もの である 。 それ から 豊三郎 は 座 蒲団 の 上 へ 坐って 、しばらく 軸 と 花 を 眺めて いた 。 その 時 窓 の 前 の 長屋 の 方 で 、豊々 と 云う 声 が した 。 その 声 が 調子 と 云い 、音色 と いい 、優しい 故郷 の 母 に 少しも 違わ ない 。 豊三郎 は たちまち 窓 の 障子 を がらり と 開けた 。 すると 昨日 見た 蒼 ぶ くれ の 婆さん が 、落ち かかる 秋 の 日 を 額 に 受けて 、十二三 に なる 鼻 垂 小僧 を 手招き していた 。 がらり と 云う 音 が する と 同時に 、婆さん は 例の むくんだ 眼 を 翻えして 下 から 豊三郎 を 見上げた 。