105. 水仙の幻想 - 薄田泣菫
水仙 の 幻想 -薄田 泣 菫
すべて の 草木 が 冬枯れ はてた 後 園 の 片隅 に 、水仙 が 五 つ 六 つ 花 を つけて ゐる 。 ・・
その ある もの は 、肥り 肉 の 球根 が むつちり と した 白い 肌 も あらはに 、寒々 と 乾いた 土 の 上 に 寝転んだ まま 、牙 彫り の 彫物 の やう な 円み と 厚ぽつたさ とを もつて 、曲り なりに 高々 と 花 茎 と 葉 とを 持ち上げて ゐる 。 ・・
白み を 帯びた 緑 の 、女 の 指 の やう に しなやかに 躍つて ゐる 葉 の むらがり と 、爪さき で 軽く 弾いたら 、冴え切つた 金属性 の 響 でも 立てさうな 、金 と 銀 と の 花 の 盞 。 ・・
その 葉 の 面 に 、盞 の 底 に 、寒さ に 顫へる 真冬 の 日かげ と 粉雪 の かすかな 溜息 と が 、溜つて は 消え 、溜つて は 消え して ゐる 。 ・・
水仙 は 低く 息づいて ゐる 。 金 と 銀 と の 花 の 盞 から 静かに こぼれ落ちる 金 と 銀 と の 花 の 芬香 は 、大気 の 動き に つれて 、音 も なく あたり に 浸み透り 、また 揺曳 する 。 ぼろぼろ に 乾いた そこら の 土 は 、土塊 は 、その 香気 の ため に 絶えず 焚き 籠められ 、いぶし 浄められて いる 。 水仙 は 多く の 美しい 生命 を もつ もの と 同じ やうに 、荒つぽい 、かたくなな 土 の 中 から 生れ いで ながら 、その 母 なる 土 を 浄め ない で は おかない のだ 。 ・・
すべて の 香気 は 、人 の 心 に 思慕 と 幻想 と を 孕ま せる 。 私 は 水仙 の 冷え冷え と した 高い 芬香 に 、行ひ 澄ました 若い 尼僧 の 清らかな 生涯 を 感じる 。 ・・
蝋石 の やうに つめたく 、滑らかな 肌 を した この 後園 の 尼僧 は 、生れつき 環境 の 騒々しさ を 好まない ところ から 、わざと すべての 草木 は 枯れ 落ち 、太陽 の 光 さへ も 涙ぐむ この頃 の 時季 を 選び 、孤寒 と 静寂 との 草庵 の なかに 、独自の 生涯 を 営み 始める 。 ひとり ぽつち と いふ もの は 、自分 の 生活 を もつて ゐる 者 に とつて は 、必ずしも 悪い 境遇 で は ない 。 草木 の 多く は 太陽 に 酔ひ 、また 碧空 に 酔ふ が 、時季 が 時季 の こと とて 、今 は 太陽 の 盞 も 水 つぽ つく なり 、大空 の 藍 碧 も 煤けき つて ゐる 。 清浄 身 の 持主 である この 尼僧 は 、そんな もの に は 見向き も しないで 、その 眼 は ひたすら 純白な 自ら の 姿 を 見つめ 、そして われ と わが 清浄 心 の むせる やう な 芬香 に 酔つゐ いる 。 この 清浄 心 の 芬香 こそ は 、持前 の 大きな 球根 の 髄 から 盛り上げて くる 水仙 の 生命 そのもの な のである 。 ・・
どうかする と 粉雪 の ちらつかう と する 頃 だけに 、恋 の 媒介者 である 小蜂 など 、気まぐれに も ここ に 訪れて こよう とは しない 。 むかし 、 孟 蜀 に すぐれた 術 士 が あつ た 。 この 男 は 、 画 の 道 に かけて も かなり 評判 が 高 かつ た ので 、 ある 時 領主 が 召し 出し 、 御殿 の 前庭 の 東 隅 で 一 つ が ひ の 野 鵲 の 画 を 描か せた こと が あつ た 。 すると 、どこ から ともなく 色々の 小鳥 が その 近く へ 飛んで きて 、べちやくちや と 口喧しく 騒ぎ立てた 。 それ に 驚いた 領主 は 、 さらに また その 頃 花鳥 画家 と して 声 名 の 高 か つた 黄 筌 を 召し 出し 、 庭 の 西 隅 で 同じ や うに 一 つ が ひ の 野 鵲 を 描か せた が 、 今度 は 別に 何の 不思議 も 起こら なか つた 。 領主 は その 理由 を 筌 に 訊ねた 。 ・・
「おそれ ながら 私 の 画 は 藝 で ございます が 、あの 男 の は 術 の 力 で できあがって を ります ので ……」・・ かう いつ て 答 へた 黄 筌 の 面 に は 、そんな 小 供 騙し の から 騒ぎ など に は 頓着 しない 、真 の 藝 術 家 に のみ 見られる 物静かな 誇り が かがやいて ゐた と いふ こと だが 、私 は 今 水仙 の 純白な 花びら に 、小 蜂 の 騒音 など を 少しも 悦ばない 、高い 超越 と 潔癖 と を 見る こと が できる 。 ・・
それ だ から と いふ で は ない が 、水仙 の 子房 は 一 粒 の 実 を も 結ばない 。 ちや うど 尼僧 が 子 を 孕ま ない の と 同じ やうに ……