077.うろこ雲 -宮澤 賢治
うろこ雲 -宮澤 賢治
そら いちめん に 青白い うろこ雲 が 浮かび 月 は その 一切れ に 入って 鈍い 虹 を 掲げる 。
町 の 曲り角 の 屋敷 に ある 木 は 脊高 の 梨 の 木 で 高く その 柔らかな 葉 を 動かして ゐる のだ 。
雲 の きれ 間 に せはしく 青く またたく やつ は それ も 何だか わからない 。
今夜 は ほんたうに どうした かな 。 八 時 頃 から どこ でも みんな 戸 を 閉めて 通り を 一人 も 歩かない 。
お 城 の 下 の 麥 を 干した らしい 空く ひ の 列 に 沿って 小さな 犬 が 馳 け て 來 る 。 重く 流れる 月光 の 底 を その 小さな 犬 が 尾 を ふって 來 る 。
夜 の 赤 砂利 、 陰影 だけ で 出 來 あがった 赤 砂利 の 層 。 櫻 の 梢 は 立派な 寄木 を 遠い 南 の 空 に 組み上げ 私 は たばこ より も 寂しく 煙る 地平線 に かすかな 泪 を ながす 。
町 は まことに 諒 闇 の 龍 宮城 また 東京 の 王子 の 夜 で あります 。 北上 岸 の 製 板 所 の 立て 並べられた 板 の 前 を 小さな 男の子 が ふいと 歩く 。 それ から 鐵 橋 の 石 で 疊んだ 橋臺 が 白く ほのびかりして ならび 私 の 心 は どこ かず うっと 遠く の 方 を 慕って ゐる 。 もう 爪 草 の 花 が 咲いた 。 さ う だ 。 一面の 爪 草 の 花 、青白い ともしび を 點じ 微かな 悦び を くゆらし それから 月光 を 吸ふ つめ くさの 原 。
小さな 甲 蟲 が まっすぐに 飛んで 來 て 私 の 額 に 突き 當 り ヒョロヒョロ 危 く 墮 ち よう と して 途方 もない 方 へ 飛び 戻る 。
原 の むかふ に 小さな 男 が 立って ゐる 。 銀 の 小人 が 立って ゐる 。 よこめ で こっち を 見 ながら 立って ゐる 。 に やに や わらって ゐる 。 に やに や 笑って うたって ゐる 。 銀 の 小人 。
「なんばん 鐵 の かぶと むし .
月 の あかり も つめくさ の .
ともす あかり も 眼 に 入らず .
草 の に ほひ を とび 截って .
ひと の ひた ひに 突きあたり .
あわてて よろよろ .
落ちる を やっと ふみ とまり .
いそ んで か ぢ を 立て な ほし .
月 の あかり も つめくさ の .
ともす あかり も 眼 に 入ら ず .
途方 も ない 方 に 飛んで 行く 。」
原 の むかふ に 銀 の 小人 が 消えて 行く 。 よこめ で こっち を 見 ながら 腕 を 組んだ まま 消えて 行く 。
アカシヤ の 梢 に 綿雲 が 一杯に かかる 。
その はらわた の 鈍い 月光 の 虹 、 それ から 小 學 校 の 窓 ガラス が さびしく 光り 、 ひるま 算 術 に 立た された 子供 の 小さな 執念 が 、 可愛い 黒い 幽靈 に なって じっと 窓 から 外 を 眺めて ゐる 。
空 が はれて 、その みがかれた 天 河 石 の 板 の 上 を 貴族風 の 月 と 紅い 火星 と が 少し の 軋り の 聲 も なく 滑って 行く 。 めぐって 行く 。