世界 から 猫 が 消えた なら :世界 から 電話 が 消えた なら :3
僕 と 彼女 は 行き と 同じ 時間 を かけて 、ブエノスアイレス から 日本 に 帰ってきた 。
二十六 時間 。
その 帰り道 、僕ら は 一言 も 話さなかった 。
ブエノスアイレス で 語りすぎた のだろう か 。
いや きっと 違う 。 その とき 僕ら は 、語る べき こと を 見つける こと が できなかった 。 話さなかった ので は なく 、話せなかった のだ 。
こんなに 近く に いる のに 、想い を 伝える こと が できない 。
話す こと が できない 。
苦しかった 。
それでも 言葉 を 発する こと が できなかった 。
一言 も 語る こと なく 、二十六 時間 かけて 僕ら は 終わり の 予感 を 共有して いった 。
不思議な もの だ 。
始まり の 予感 が ふたり の なか で 共有 されていた の と 同じ ように 、終わり の 予感 も 僕ら は 同時に 共有 していた 。
長すぎる 無言 の 時間 に 耐えきれず 、飛行機 の 中 で 僕 は ガイドブック の ページ を めくった 。
雄大な 山脈 の 写真 が 現れる 。 アコンカグア 山 。 アルゼンチン と チリ との 国境 に そびえる 南米 最高峰 の 山 だ 。 さらに ページ を めくる 。 すると 、切り立った 山 の 上 に そびえ立つ キリスト像 が 姿 を 現す 。 トム さん は 、この キリスト 像 を 見る こと が できた のだろう か 。 それとも 見る 前 に 死んだ のだろう か 。
僕 は 想像 する 。
トム さん が バス を 降り 、山頂 から 広がる 広大な 大地 を 見ている 。
振り返る と 、背後 に 大きな 十字 の 影 が 落ちている 。 トム さん が 見上げる と 、大きな キリスト 像 が 両手 を 広げ 立って いる 。 太陽 を 背負い 、美しく 光る その 姿 を 、トム さん は 眩しそうに 見る 。
涙 が こみ上げてきた 。
僕 は 堪えられなく なって 、飛行機 の 窓 から 外 を 見る 。
窓 の 外 に は 、氷 に 覆われた 海 が 無限に 広がっていた 。
夕日 に 照らされて 紫色 に 染まる その 凍った 海 は 、残酷な ほど 美しかった 。
二十六 時間 かけて 僕ら は モノポリー の ような 町 に 戻って きた 。
「じゃあ 、また 明日 」
彼女 は 、いつも の ように 僕 に 声 を かけて 駅 から の 坂道 を 下りて いった 。
僕 は その まっすぐに 背筋 が 伸びた 後ろ姿 を 、ただ 見送った 。
翌週 、僕ら は 別れた 。
電話 で 五分 だけ 話して 別れた 。 まるで 役所 の 手続き の ように 、事務的な 会話 だけ で 僕ら は 終わった 。 僕 と 彼女 は 千 時間 以上 、電話 で 話して きた 。 千 時間 の 電話 で 積み上げて きた 関係 を 、僕ら は たった 五分 の 電話 で 終わらせて しまった 。
僕ら は 、電話 が できる こと で 、すぐ つながる 便利さ を 手に入れた が 、それと 引き換えに 相手 の こと を 考えたり 想像したり する 時間 を 失っていった 。
電話 が 僕ら から 、想い を ためる 時間 を 奪い 、蒸発 させて いった のだ 。
僕 の 手元 に 毎月 届く 携帯電話 の 請求書 。
通話 時間 二十 時間 。 請求 料金 一万二千 円 。
その 価値 相応 の 会話 を 、僕ら は して いた の だろうか 。
その ひと言 は いくら な の か 。
何 時間 でも 話 を 続ける こと が できた 電話 。
その 電話 で すら 、もう 僕ら を つなぐ こと が できなかった 。 そして モノポリー から 外 の 世界 に 出た とき に 、その 関係 を 支えて いた のが この モノポリー の ルール であった こと に 、僕ら は 気付いて しまった のだ 。
もう 僕ら の あいだ で は 、とっくに 恋 は 終わって いた 。
ただ 決まった ルール の なか で 、ゲーム を 続けて いた だけ だった 。 そして ブエノスアイレス で の あの 数日間 が 、その ルール に 意味 が ない こと を 一瞬 で 気付かせて しまった のだ 。
ただ 僕 の なか で 、小さな 痛み が 残って いた 。
あの とき 。
いま でも 僕 は 思う 。
あの とき 、飛行機 の なか で 、僕ら が 電話 を 持って いれば 。
そしたら 、僕ら は 別れる こと は なかった の かもしれない 。
モノポリー を 捨てて 、新しい ゲーム を 始める こと が できた の かもしれない 。
僕 は 想像 する 。飛行機 の なか 。 二十六 時間 。僕ら に 神様 が 電話 を 貸して くれる 。 僕 は 電話 する 。
彼女 に 。
隣 の 席 に 座る 彼女 に 。
いま 何 を 考えてる ?
あなた は 何 を 考えてる ?
悲しい 。
寂しい 。
僕 は 君 の こと を 想って いる 。
私 も あなた の こと を 想って いる 。
これから どう する ?
これから どう しよう ?
早く 帰りたい 。
私 も 。
帰ったら どう する ?
帰ったら どう しよう ?
一緒に 住もう か 。
それ も いい かもしれない わ ね 。
家 で コーヒー を 飲もう 。
私 は ココア を 飲もう かな 。
僕ら は 話す こと が できた 。
電話 さえ あれば 。
たとえ 二十六 時間 でも 、僕ら は 話し続ける こと が できた 。
何でもない 会話 で 良かった 。
ただ 相手 に 気持ち を 伝え 、相手 の 気持ち を 聞く こと が できれば 良かった のだ 。 電話 が ある だけ で 良かった のだ 。 でも そこ に 電話 は なかった 。
「じゃあ 、また 明日 」別れ際 、駅 で 彼女 は 言った 。 いまでも 、最後に 彼女 が そう 言った とき の 小さな 笑み を 、ときどき 思い出す 。
その 笑み が 心 の 右 はじ あたり に 小さな 痛み として 住み着いて 、雨 の 日 に は まるで 古傷 の ように 顔 を 出す 。
でも よく 考えたら 、僕 の 心 に は そんな 小さな 痛み が たくさん ある 。
その 小さな 痛み の こと を 、人 は 後悔 と 呼ぶ のだろう 。
「今日 さ 」
突然 の 彼女 の 声 で 、僕 は 現実 に 引き戻された 。
気付いたら 映画館 の 前 に たどりついて いた 。
「ん ?」
「ごめん ね 、ひどい こと ばかり 言っちゃった 」
「いやいや 、面白かった よ 」
「でも ね 、あれ 約束 だ から 」
「え ?」
また 忘れてる 、と 彼女 は 言う 。
「約束 した じゃ ない 。 別れる とき は 、相手 の 嫌 だった ところ を 全部 伝える って 」
そう だった 。
確かに 僕ら は 約束 して いた 。 もし 別れる とき は 、相手 の 嫌 だった ところ を 全部 伝えよう と 。 これから 先 も 人生 は 続く の だから 、恋人 として 最後 まで その 人生 の 教師 たれ 、みたい な こと を 恥ずかしげ も なく 僕 は 言って いた 。 その たび に 「いま は 別れる なんて 想像できない よ 」と 彼女 は 言った 。 それ は 僕 も 同じ だった 。
「死ぬ 前 に 全部 言って やった 。 あなた の 嫌 だった ところ 」
嬉し そうに 彼女 は 笑った 。
「約束 を 守って もらう の は ありがたい のだ けれど 、死ぬ 間際 に 聞く もん じゃない ね 」
僕 も 笑った 。
恋愛 が 始まった とき に 、彼女 と 終わる 日 が 来る こと なんて 想像 できなかった 。
自分 が 幸せな とき 、彼女 も 同じ ように 幸せな んだ と 思っていた 。 でも いつしか 、そう で は なく なる とき が 来る のだ 。 自分 が 幸せ でも 、相手 が 悲しんで いる とき が 。
恋 に は 必ず 終わり が 来る 。
必ず 終わる もの と 分かって いて 、それでも 人 は 恋 を する 。
それは 生きる こと と 同じ な の かもしれない 。
必ず 終わり が 来る 、そう と 分かって いて も 人 は 生きる 。 恋 が そう である ように 、終わり が ある からこそ 、生きる こと が 輝いて 見える のだろう 。
「あなた 、もう すぐ 死ぬ んでしょ 」
そう 言う と 、彼女 は 映画館 の 重そう な 扉 を 開けた 。
「そんなに 軽く 言う こと か ?」
「最後 に あなた の 好きな 映画 を ここ で かけて あげる 。 一緒に 観よう 」
「ありがとう 」
「じゃあ 、明日 夜 九時 に ここ で 。
営業 が 終わったら 上映 開始 。 好きな 映画 を 持ってきて 」
「分かった 」
「あ 、最後 に 質問 」
「また ?」
「私 が 一番 好き な 場所 は ?」
なんだろう か 。
まったく 思い出せない 。
「やっぱり 覚えて ない 。
じゃあ 、答え は 明日 まで の 宿題 に して おきます 」
そう 言って 彼女 は 扉 を 閉める 。
「また 明日 」と ガラス 越し に 彼女 が 言う 。
「明日 」と ガラス 越し に 僕 は 返す 。
あたり は すっかり 暗く なって いた 。
赤 と 緑 の 電飾 に 照らされる レンガ 造り の その 映画館 を 、しばし 僕 は 見上げて いた 。
不思議な 一日 だった 。
世界 から 電話 が 消えた 。
でも それで 僕 は 何 を 失った のだろう か 。
自分 の 記憶 や 人間関係 を 預けて いた もの が 、急に なくなって しまい 、とても 不安に なった 。
そして 、何 より 不便 だった 。 時計台 の 下 で 、ひとり 待ち つづけた とき の 心細さ は 想像 以上 だった 。
電話 そして 携帯 電話 の 発明 に より 、人 は すれ違わ なく なり 、待ち合わせ を する 意味 を 失った 。
でも 、つながらない もどかしさ 、待って いる 時間 の 温かい 気持ち が 、あの 震え が 止まらない ほど の 寒気 と 一緒に 僕 の 中 で 力強く 残っていた 。
「あ 、」
その とき 、ふと 思い出した 。
「ここ だ 」
彼女 の 問い 。
彼女 の いちばん 好きな 場所 。 それ は この 映画館 だ 。
昔 、彼女 は 言って いた 。
この 映画館 が 、私 の ため に いつも 一席 空けて 待って くれて いる ような 気 が する 。
この 場所 は 、私 が その 席 に 座る こと に よって 完成 する 。
そんな こと を いつも 言って いた のだ 。
正解 を 思い出した 。
すぐに 彼女 に 伝えなくて は 。
携帯 電話 、と 僕 は ポケット を 探る 。
ない 。
そう 、ない のだ 。
もどかしかった 。
すぐに 彼女 に 正解 を 伝えたかった 。 僕 は ゆっくり と 足踏み し ながら 、映画館 を 見上げた 。
その とき 僕 は 気付いた 。
この 気持ち が 、学生 時代 に 彼女 から の 電話 を 待って いた とき の 、あの 気持ち と 同じ である こと に 。 すぐに 伝えられない もどかしい 時間 こそ が 、相手 の こと を 想っている 時間 そのもの なのだ 。
かつて 人間 に とって 、手紙 が 相手 に 届き 、相手 から 手紙 が 届く 時間 が 待ち遠しかった ように 。
プレゼント は 、 物 〝 そのもの 〟 に 意味 が ある ので は なく 、 選んで いる とき 、 相手 が 喜ぶ 顔 を 想像 する
〝 その 時間 〟 に 意味 が ある の と 同じ よう に 。
「何か を 得る ために は 、何か を 失わ なくては ね 」
母さん の 言葉 を ふと 思い出す 。
あの 日 。
母さん の くしゃみ と 鼻水 が なくなった 日 。
膝 に 丸まって 眠って いる レタス を 撫で ながら 、母さん は 優しく 、でも 確信 を もって そう 言った 。
僕 は 映画館 を 見上げ ながら 、彼女 の こと を 想う 。
「もう すぐ 死ぬ んでしょ 」
彼女 の 言葉 が 、重く のしかかる 。
突然 、頭 の 右 はじ が ジリッ と 痛み だす 。
胸 が 苦しく なり 、呼吸 が できない 。 ひどい 寒気 が やってきて 、震え が 止まらない 。 歯 が ガチガチ と 音 を 立てる 。
やはり 死ぬ の か 。
いや 死に たくない 。
立って いられなく なって 僕 は 映画館 の 前 に うずくまる 。
「死にたくない よ ー 」
突然 後ろ から 自分 の 声 が 聞こえ 、びっくり して 振り返る 。
アロハ だった 。
「びっくり した ? びっくり した でしょ ! 」
氷点下 の 寒さ の なか 、ひとり アロハシャツ に 短パン 、頭 の 上 に は サングラス だ 。
しかも ヤシ の 木 、アメ 車 だった アロハシャツ が 、イルカ と サーフボード の 柄 に 変わって いる 。
こいつ ……着替えて やがる 。
心底 頭に きた が 、怒る 余裕 も ない 。
「いやー デート 、うらやましい なあ 。
今日 ずっと 見てた んす けど 、楽しそう でした ね ー ほんと 」
「どこ から 見てた んです か …… 」
冷や汗 を 流し ながら 僕 は 尋ねる 。
「あそこ から 」と アロハ は 天 を 指す 。
もう 付き合って は いられない 気分 だ 。
「でも マジメ な 話 、まだまだ 死に たくない っす よね ?
生 へ の 執着 、生まれて きました よね ?」
「……どう なんでしょうか 」
「絶対 そうっす よ ー 、死に たくない よ ー です よ 。
みな さん そうです もん 」
悔しい けれど 認め ざるを得ない 。
正確に は 死に たくない 、と いう こと で は ない の かもしれない 。
ただ 、死 へ と 向かう 恐怖 に 耐えられない だけ なのだ 。
「そんで ね 、次 ! 消す もの 決めた んです よ !」
「え ?」
「これ です !」
そう 言う と 、アロハ は 映画館 を 指さす 。
「次 は ね 、映画 を 消しません ? あなた の 命 と 引き換え に 」
「映画 …… 」
次第に 不明瞭に なる 視界の なかで 、ぼんやりと 映画館を 眺めながら 僕 は つぶやく 。
彼女と 毎日のように 通った 映画館 。
無数の 映画 たち 。
王冠 、馬 、ピエロ 、宇宙船 、シルクハット 、マシンガン 、女の 裸 ……さまざまな 映画の シーンの 断片が 頭の なかを つぎつぎと 通り過ぎる 。
ピエロ が 笑い 、宇宙船 は 踊り 、馬 が しゃべりだす 。
悪夢 。
「助けて 」
僕 は 声 に ならない 声 で 叫び 、そのまま 気 を 失った 。