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太宰治『人間失格』(No Longer Human by Osamu Dazai), 第二の手記 (3)

第 二 の 手記 (3)

自分 は 、やがて 画 塾 で 、或る 画 学生 から 、酒 と 煙草 と 淫売婦 いんばいふ と 質屋 と 左翼 思想 と を 知らされました 。 妙な 取合せ でした が 、しかし 、それ は 事実 でした 。

その 画 学生 は 、堀木 正雄 と いって 、東京 の 下町 に 生れ 、自分 より 六 つ 年 長者 で 、私立 の 美術 学校 を 卒業 して 、家 に アトリエ が 無い ので 、この 画塾 に 通い 、洋画 の 勉強 を つづけて いる のだ そうです 。

「五 円 、貸して くれない か 」

お互い ただ 顔 を 見 知っている だけ で 、それ まで 一言 も 話 合った 事 が 無かった のです 。 自分 は 、へ ど もどして 五 円 差し出しました 。

「よし 、飲もう 。 おれ が 、お前 に おごる んだ 。 よか チゴ じゃ のう 」

自分 は 拒否し切れず 、その 画 塾 の 近く の 、蓬莱 ほうらい 町 の カフエ に 引っぱって行かれた の が 、彼 と の 交友 の はじまり でした 。

「前 から 、お前 に 眼 を つけて いた んだ 。 それ それ 、その はにかむ ような 微笑 、それ が 見込み の ある 芸術家 特有の 表情 な んだ 。 お 近づき の しるし に 、乾杯 ! キヌ さん 、こいつ は 美男 子 だろう ? 惚れちゃ いけない ぜ 。 こいつ が 塾 へ 来た おかげ で 、残念 ながら おれ は 、第 二 番 の 美男子 と いう 事 に なった 」

堀木 は 、色 が 浅黒く 端正な 顔 を していて 、画 学生 に は 珍らしく 、ちゃんと した 脊広 せびろ を 着て 、ネクタイ の 好み も 地味で 、そうして 頭髪 も ポマード を つけて まん中 から ぺったり と わけていました 。

自分 は 馴れぬ 場所 でも あり 、ただ もう おそろしく 、腕 を 組んだり ほどいたり して 、それ こそ 、はにかむ ような 微笑 ばかり していました が 、ビイル を 二 、三 杯 飲んでいるうちに 、妙に 解放せられた ような 軽さ を 感じて来た の です 。

「僕 は 、美術 学校 に はいろう と 思って いた んです けど 、……」

「いや 、つまらん 。 あんな ところ は 、つまらん 。 学校 は 、つまらん 。 われら の 教師 は 、自然 の 中 に あり ! 自然 に 対する パアトス !

しかし 、自分 は 、彼 の 言う 事 に 一向に 敬意 を 感じません でした 。 馬鹿な ひと だ 、絵 も 下手 に ちがいない 、しかし 、遊ぶ のに は 、いい 相手 かも 知れない と 考えました 。 つまり 、自分 は その 時 、生れて はじめて 、ほんもの の 都会 の 与太者 を 見た のでした 。 それ は 、自分 と 形 は 違って いても 、やはり 、この世 の 人間 の 営み から 完全に 遊離 して しまって 、戸 迷い している 点 に 於いて だけ は 、たしかに 同類 な のでした 。 そうして 、彼 は その お 道化 を 意識 せ ず に 行い 、しかも 、その お 道化 の 悲惨 に 全く 気 が ついて いない の が 、自分 と 本質的に 異色 の ところ でした 。

ただ 遊ぶ だけ だ 、遊び の 相手 と して 附 合っている だけ だ 、と つねに 彼 を 軽蔑 けいべつ し 、時に は 彼 と の 交友 を 恥ずかしく さえ 思いながら 、彼 と 連れ立って 歩いている うちに 、結局 、自分 は 、この 男 に さえ 打ち破られました 。

しかし 、はじめ は 、この 男 を 好 人物 、まれに 見る 好 人物 と ばかり 思い込み 、さすが 人間 恐怖 の 自分 も 全く 油断 を して 、東京 の よい 案内者 が 出来た 、くらい に 思って いました 。 自分 は 、 実は 、 ひと り で は 、 電車 に 乗る と 車掌 が おそろしく 、 歌舞伎 座 へ はいり たくて も 、 あの 正面 玄関 の 緋 ひ の 絨緞 じゅうたん が 敷かれて ある 階段 の 両側 に 並んで 立って いる 案内 嬢 たち が おそろしく 、 レストラン へ は いる と 、 自分 の 背後 に ひっそり 立って 、 皿 の あく の を 待って いる 給仕 の ボーイ が おそろしく 、 殊に も 勘定 を 払う 時 、 ああ 、 ぎ ご ちない 自分 の 手つき 、 自分 は 買い物 を して お 金 を 手渡す 時 に は 、 吝嗇 り ん しょく ゆえ で なく 、 あまり の 緊張 、 あまり の 恥ずかし さ 、 あまり の 不安 、 恐怖 に 、 くらく ら 目 まい して 、 世界 が 真 暗 に なり 、 ほとんど 半 狂乱 の 気持 に なって しまって 、 値切る どころ か 、 お 釣 を 受け取る の を 忘れる ばかりで なく 、 買った 品物 を 持ち帰る の を 忘れた 事 さえ 、 しばしば あった ほど な ので 、 とても 、 ひと り で 東京 の まち を 歩け ず 、 それ で 仕方なく 、 一 日 一 ぱい 家 の 中 で 、 ごろごろ して いた と いう 内情 も あった のでした 。

それ が 、堀木 に 財布 を 渡して 一緒に 歩く と 、堀木 は 大いに 値切って 、しかも 遊び上手 という の か 、わずかな お金 で 最大 の 効果 の ある ような 支払い 振り を 発揮し 、また 、高い 円 タク は 敬遠して 、電車 、バス 、ポンポン 蒸気 など 、それぞれ 利用し 分けて 、最短 時間 で 目的地 へ 着く という 手腕 を も 示し 、淫売婦 の ところ から 朝 帰る 途中 に は 、何々 という 料亭 に 立ち寄って 朝風呂 へ はいり 、湯豆腐 で 軽く お酒 を 飲む の が 、安い 割に 、ぜいたくな 気分 に なれる もの だ と 実地教育 を してくれたり 、その他 、屋台 の 牛めし 焼とり の 安価 に して 滋養 に 富む もの たる 事 を 説き 、酔い の 早く 発する の は 、電気 ブラン の 右 に 出る もの は ない と 保証し 、とにかく その 勘定 に 就いて は 自分 に 、一つ も 不安 、恐怖 を 覚えさせた 事 が ありませんでした 。

さらに また 、堀木 と 附合って 救われる の は 、堀木 が 聞き手 の 思惑 など を てんで 無視して 、その 所謂 情熱 パトス の 噴出する が ままに 、(或いは 、情熱 と は 、相手 の 立場 を 無視する 事 かも 知れません が )四六時中 、くだらない おしゃべり を 続け 、あの 、二人 で 歩いて 疲れ 、気まずい 沈黙 に おちいる 危懼 きく が 、全く 無い という 事 でした 。 人 に 接し 、あの おそろしい 沈黙 が その 場 に あらわれる 事 を 警戒して 、もともと 口 の 重い 自分 が 、ここ を 先途 せんど と 必死の お道化 を 言って来た もの です が 、いま この 堀木 の 馬鹿 が 、意識せず に 、その お道化 役 を みずから すすんで やってくれている ので 、自分 は 、返事 も ろくに せず に 、ただ 聞き流し 、時折 、まさか 、など と 言って 笑って おれば 、いい のでした 。

酒 、煙草 、淫売婦 、それ は 皆 、人間 恐怖 を 、たとい 一時 でも 、まぎらす 事 の 出来る ずいぶん よい 手段 である 事 が 、やがて 自分 に も わかって 来ました 。 それら の 手段 を 求める ため に は 、自分 の 持ち物 全部 を 売却して も 悔いない 気持 さえ 、抱く ように なりました 。

自分 に は 、淫売婦 という もの が 、人間 でも 、女性 でも ない 、白痴 か 狂人 の ように 見え 、その ふところ の 中 で 、自分 は かえって 全く 安心 して 、ぐっすり 眠る 事 が 出来ました 。 みんな 、哀しい くらい 、実に みじんも 慾 と いう もの が 無い のでした 。 そうして 、自分 に 、同類 の 親和感 と でも いった ような もの を 覚える の か 、自分 は 、いつも 、その 淫売婦 たち から 、窮屈でない 程度 の 自然 の 好意 を 示されました 。 何の 打算 も 無い 好意 、押し売り で は 無い 好意 、二度と 来ない かも 知れぬ ひと への 好意 、自分 に は 、その 白痴 か 狂人 の 淫売婦 たち に 、マリヤ の 円光 を 現実 に 見た 夜 も あった のです 。

しかし 、 自分 は 、 人間 へ の 恐怖 から のがれ 、 幽 かな 一夜 の 休養 を 求める ため に 、 そこ へ 行き 、 それ こそ 自分 と 「 同類 」 の 淫売 婦 たち と 遊んで いる うち に 、 いつのまに やら 無意識 の 、 或る いまわしい 雰囲気 を 身辺 に いつも ただよわ せる よう に なった 様子 で 、 これ は 自分 に も 全く 思い 設け なかった 所 謂 「 おまけ の 附録 」 でした が 、 次第に その 「 附録 」 が 、 鮮明に 表面 に 浮き 上って 来て 、 堀 木 に それ を 指摘 せられ 、 愕然 がくぜんと して 、 そうして 、 いやな 気 が 致しました 。 はた から 見て 、俗な 言い方 を すれば 、自分 は 、淫売婦 に 依って 女 の 修行 を して 、しかも 、最近 めっきり 腕 を あげ 、女 の 修行 は 、淫売婦 に 依る の が 一ばん 厳しく 、また それだけに 効果 の あがる もの だ そうで 、既に 自分 には 、あの 、「女達者 」という 匂い が つきまとい 、女性 は 、(淫売婦 に 限らず )本能 に 依って それ を 嗅ぎ当て 寄り添って 来る 、そのような 、卑猥 ひわい で 不名誉な 雰囲気 を 、「おまけ の 附録 」として もらって 、そうして その ほうが 、自分 の 休養 など よりも 、ひどく 目立ってしまっている らしい のでした 。

堀木 は それ を 半分 は お世辞 で 言った のでしょう が 、しかし 、自分 に も 、重苦しく 思い当る 事 が あり 、たとえば 、喫茶店 の 女 から 稚拙な 手紙 を もらった 覚え も ある し 、桜木町 の 家 の 隣り の 将軍 の はたち くらい の 娘 が 、毎朝 、自分 の 登校 の 時刻 に は 、用 も 無さそう な のに 、ご自分 の 家 の 門 を 薄化粧 して 出たり はいったり していた し 、牛肉 を 食い に 行く と 、自分 が 黙って いても 、そこ の 女中 が 、……また 、いつも 買いつけ の 煙草屋 の 娘 から 手渡された 煙草 の 箱 の 中 に 、……また 、歌舞伎 を 見に 行って 隣り の 席 の ひと に 、……また 、深夜 の 市電 で 自分 が 酔って 眠っていて 、……また 、思いがけなく 故郷 の 親戚 の 娘 から 、思いつめた ような 手紙 が 来て 、……また 、誰か わからぬ 娘 が 、自分 の 留守中 に お手製 らしい 人形 を 、……自分 が 極度に 消極的 な ので 、いずれも 、それっきり の 話 で 、ただ 断片 、それ 以上 の 進展 は 一つ も ありませんでした が 、何か 女 に 夢 を 見させる 雰囲気 が 、自分 の どこか に つきまとっている 事 は 、それ は 、のろけ だの 何だの と いう いい加減な 冗談 で なく 、否定できない の で ありました 。 自分 は 、それ を 堀木 ごとき 者 に 指摘せられ 、屈辱 に 似た 苦にがさ を 感ずる と 共に 、淫売婦 と 遊ぶ 事 に も 、にわかに 興 が 覚めました 。

堀木 は 、また 、その 見栄坊 みえぼう の モダニティ から 、(堀木 の 場合 、それ 以外 の 理由 は 、自分 に は 今もって 考えられません の です が )或る 日 、自分 を 共産主義 の 読書会 とか いう (R ・S とか いっていた か 、記憶 が はっきり 致しません )そんな 、秘密 の 研究会 に 連れて行きました 。 堀木 など と いう 人物 に とっては 、共産主義 の 秘密 会合 も 、れいの 「東京 案内 」の 一つ くらい の もの だった の かも 知れません 。 自分 は 所謂 「同志 」に 紹介 せられ 、パンフレット を 一部 買わさ れ 、そうして 上座 の ひどい 醜い 顔 の 青年 から 、マルクス 経済学 の 講義 を 受けました 。 しかし 、自分 に は 、それ は わかり切っている 事 の ように 思われました 。 それ は 、そう に 違いない だろう けれども 、人間 の 心 に は 、もっと わけ の わからない 、おそろしい もの が ある 。 慾 、と 言って も 、 言い たりない 、ヴァニティ 、と 言って も 、 言い たりない 、色 と 慾 、と こう 二 つ 並べて も 、 言い たりない 、何だか 自分 に も わから ぬ が 、人間 の 世 の 底 に 、経済 だけ でない 、へんに 怪談 じみた もの が ある ような 気 が して 、その 怪談 に おびえ 切っている 自分 に は 、所 謂 唯 物 論 を 、水 の 低き に 流れる ように 自然に 肯定 し ながら も 、しかし 、それ に 依って 、人間 に 対する 恐怖 から 解放 せられ 、青葉 に 向って 眼 を ひらき 、希望 の よろこび を 感ずる など と いう 事 は 出来ない のでした 。 けれども 、自分 は 、いち ども 欠席せず に 、その R・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。 この 、単純 そうな 人たち は 、自分 の 事 を 、やはり この 人たち と 同じ 様に 単純で 、そうして 、楽天的な おどけ者の 「同志 」くらい に 考えていた かも 知れません が 、もし 、そう だったら 、自分 は 、この 人たち を 一 から 十 まで 、あざむいていた わけです 。 自分 は 、同志 で は 無かった んです 。 けれども 、その 会合 に 、いつも 欠かさず 出席 して 、皆 に お道化 の サーヴィス を して 来ました 。

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