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或る女 - 有島武郎(アクセス), 9.2 或る女

9.2 或る 女

葉子 は 階子 の 上がり 口 まで 行って 二 人 に 傘 を かざして やって 、 一 段 一 段 遠ざかって 行く 二 人 の 姿 を 見送った 。 東京 で 別れ を 告げた 愛子 や 貞 世 の 姿 が 、 雨 に ぬれた 傘 の へん を 幻影 と なって 見えたり 隠れたり した ように 思った 。 葉子 は 不思議な 心 の 執着 から 定子 に は とうとう 会わ ないで しまった 。 愛子 と 貞 世 と は ぜひ 見送り が したい と いう の を 、 葉子 は しかりつける ように いって とめて しまった 。 葉子 が 人力車 で 家 を 出よう と する と 、 なんの 気 なし に 愛子 が 前髪 から 抜いて 鬢 を か こう と した 櫛 が 、 もろくも ぽき り と 折れた 。 それ を 見る と 愛子 は 堪え 堪えて いた 涙 の 堰 を 切って 声 を 立てて 泣き出した 。 貞 世 は 初め から 腹 でも 立てた ように 、 燃える ような 目 から とめど なく 涙 を 流して 、 じっと 葉子 を 見つめて ばかり いた 。 そんな 痛々しい 様子 が その 時 まざまざ と 葉子 の 目の前 に ちらついた のだ 。 一 人 ぽっち で 遠い 旅 に 鹿島 立って 行く 自分 と いう もの が あじ き なく も 思いやら れた 。 そんな 心持ち に なる と 忙しい 間 に も 葉子 は ふと 田川 の ほう を 振り向いて 見た 。 中学校 の 制服 を 着た 二 人 の 少年 と 、 髪 を お下げ に して 、 帯 を お はさみ にしめた 少女 と が 、 田川 と 夫人 と の 間 に からまって ちょうど 告別 を して いる ところ だった 。 付き添い の 守り の 女 が 少女 を 抱き上げて 、 田川 夫人 の 口 び る を その 額 に 受け さ して いた 。 葉子 は そんな 場面 を 見せつけられる と 、 他人事 ながら 自分 が 皮肉で むちうた れる ように 思った 。 竜 を も 化して 牝豚 に する の は 母 と なる 事 だ 。 今 の 今 まで 焼く ように 定子 の 事 を 思って いた 葉子 は 、 田川 夫人 に 対して すっかり 反対の 事 を 考えた 。 葉子 は その いまいましい 光景 から 目 を 移して 舷梯 の ほう を 見た 。 しかし そこ に は もう 乳母 の 姿 も 古藤 の 影 も なかった 。 ・・

たちまち 船首 の ほう から けたたましい 銅 鑼 の 音 が 響き 始めた 。 船 の 上下 は 最後 の どよめき に 揺らぐ ように 見えた 。 長い 綱 を 引きずって 行く 水夫 が 帽子 の 落ち そうに なる の を 右 の 手 で ささえ ながら 、 あたり の 空気 に 激しい 動揺 を 起こす ほど の 勢い で 急いで 葉子 の かたわら を 通りぬけた 。 見送り 人 は 一斉に 帽子 を 脱いで 舷梯 の ほう に 集まって 行った 。 その 際 に なって 五十川 女史 は はたと 葉子 の 事 を 思い出した らしく 、 田川 夫人 に 何 か いって おいて 葉子 の いる 所 に やって 来た 。 ・・

「 いよいよ お 別れ に なった が 、 いつぞや お 話し した 田川 の 奥さん に お ひきあわせ しよう から ちょっと 」・・

葉子 は 五十川 女史 の 親切 ぶり の 犠牲 に なる の を 承知 し つつ 、 一種 の 好奇心 に ひか されて 、 その あと に ついて行こう と した 。 葉子 に 初めて 物 を いう 田川 の 態度 も 見て やり たかった 。 その 時 、・・

「 葉子 さん 」・・

と 突然 いって 、 葉子 の 肩 に 手 を かけた もの が あった 。 振り返る と ビール の 酔い の に おい が むせかえる ように 葉子 の 鼻 を 打って 、 目 の 心 まで 紅 く なった 知ら ない 若者 の 顔 が 、 近々 と 鼻先 に あらわれて いた 。 はっと 身 を 引く 暇 も なく 、 葉子 の 肩 は び しょ ぬれ に なった 酔い どれ の 腕 で がっしり と 巻かれて いた 。 ・・

「 葉子 さん 、 覚えて います か わたし を …… あなた は わたし の 命 な んだ 。 命 な んです 」・・

と いう うち に も 、 その 目 から は ほろほろ と 煮える ような 涙 が 流れて 、 まだ うら若い なめらかな 頬 を 伝った 。 膝 から 下 が ふらつく の を 葉子 に すがって 危うく ささえ ながら 、・・

「 結婚 を なさる んです か …… おめでとう …… おめでとう …… だが あなた が 日本 に い なく なる と 思う と …… いたたまれない ほど 心細い んだ …… わたし は ……」・・

もう 声 さえ 続か なかった 。 そして 深々と 息 気 を ひいて しゃくり上げ ながら 、 葉子 の 肩 に 顔 を 伏せて さめざめ と 男泣き に 泣き出した 。 ・・

この 不意な 出来事 は さすが に 葉子 を 驚か し もし 、 きまり も 悪く さ せた 。 だれ だ と も 、 いつ どこ であった と も 思い出す 由 が ない 。 木部 孤 と 別れて から 、 何という 事 なし に 捨てばち な 心地 に なって 、 だれ かれ の 差別 も なく 近寄って 来る 男 たち に 対して 勝手気まま を 振る舞った その 間 に 、 偶然に 出あって 偶然に 別れた 人 の 中 の 一 人 で も あろう か 。 浅い 心 で もてあそんで 行った 心 の 中 に この 男 の 心 も あった であろう か 。 とにかく 葉子 に は 少しも 思い当たる 節 が なかった 。 葉子 は その 男 から 離れたい 一心に 、 手 に 持った 手 鞄 と 包み 物 と を 甲板 の 上 に ほうりなげて 、 若者 の 手 を やさしく 振り ほどこう と して 見た が 無益だった 。 親類 や 朋輩 たち の 事 あれ が しな 目 が 等しく 葉子 に 注がれて いる の を 葉子 は 痛い ほど 身 に 感じて いた 。 と 同時に 、 男 の 涙 が 薄い 単 衣 の 目 を 透 して 、 葉子 の 膚 に しみこんで 来る の を 感じた 。 乱れた つやつや しい 髪 の におい も つい 鼻 の 先 で 葉子 の 心 を 動かそう と した 。 恥 も 外聞 も 忘れ 果てて 、 大空 の 下 で すすり泣く 男 の 姿 を 見て いる と 、 そこ に は かすかな 誇り の ような 気持ち が わいて 来た 。 不思議な 憎しみ と いとし さ が こんがらかって 葉子 の 心 の 中 で 渦巻いた 。 葉子 は 、・・

「 さ 、 もう 放して ください まし 、 船 が 出ます から 」・・

と きびしく いって 置いて 、 かんで 含める ように 、・・

「 だれ でも 生きて る 間 は 心細く 暮らす んです の よ 」・・

と その 耳 もと に ささやいて 見た 。 若者 は よく わかった と いう ふうに 深々と うなずいた 。 しかし 葉子 を 抱く 手 は きびしく 震え こそ すれ 、 ゆるみ そうな 様子 は 少しも 見え なかった 。 ・・

物々しい 銅 鑼 の 響き は 左舷 から 右舷 に 回って 、 また 船首 の ほう に 聞こえて 行こう と して いた 。 船員 も 乗客 も 申し 合わした ように 葉子 の ほう を 見守って いた 。 先刻 から 手持ちぶさた そうに ただ 立って 成り行き を 見て いた 五十川 女史 は 思いきって 近寄って 来て 、 若者 を 葉子 から 引き離そう と した が 、 若者 は むずかる 子供 の ように 地 だ んだ を 踏んで ますます 葉子 に 寄り添う ばかりだった 。 船首 の ほう に 群がって 仕事 を し ながら 、 この 様子 を 見守って いた 水夫 たち は 一斉に 高く 笑い声 を 立てた 。 そして その 中 の 一 人 は わざと 船 じゅう に 聞こえ 渡る ような くさ め を した 。 抜 錨 の 時刻 は 一 秒 一 秒 に 逼って いた 。 物笑い の 的に なって いる 、 そう 思う と 葉子 の 心 は いとし さ から 激し いい と わし さ に 変わって 行った 。 ・・

「 さ 、 お 放し ください 、 さ 」・・

と きわめて 冷酷に いって 、 葉子 は 助け を 求める ように あたり を 見回した 。 ・・

田川 博士 の そば に いて 何 か 話 を して いた 一 人 の 大 兵 な 船員 が いた が 、 葉子 の 当惑 しきった 様子 を 見る と 、 いきなり 大股 に 近づいて 来て 、・・

「 どれ 、 わたし が 下 まで お 連れ しましょう 」・・ と いう や 否 や 、 葉子 の 返事 も 待た ず に 若者 を 事 も なく 抱きすくめた 。 若者 は この 乱暴に かっと なって 怒り狂った が 、 その 船員 は 小さな 荷物 でも 扱う ように 、 若者 の 胴 の あたり を 右 わき に かいこんで 、 やすやす と 舷梯 を 降りて 行った 。 五十川 女史 は あたふた と 葉子 に 挨拶 も せ ず に その あと に 続いた 。 しばらく する と 若者 は 桟橋 の 群 集 の 間 に 船員 の 手 から おろさ れた 。 ・・

けたたましい 汽笛 が 突然 鳴り はためいた 。 田川 夫妻 の 見送り 人 たち は この 声 で 活 を 入れられた ように なって 、 どよめき 渡り ながら 、 田川 夫妻 の 万 歳 を もう 一 度 繰り返した 。 若者 を 桟橋 に 連れて 行った 、 か の 巨大な 船員 は 、 大きな 体 躯 を 猿 の ように 軽く もて あつかって 、 音 も 立て ず に 桟橋 から ずし ずし と 離れて 行く 船 の 上 に ただ 一 条 の 綱 を 伝って 上がって 来た 。 人々 は また その 早業 に 驚いて 目 を 見張った 。 ・・

葉子 の 目 は 怒 気 を 含んで 手 欄 から しばらく の 間 か の 若者 を 見据えて いた 。 若者 は 狂気 の ように 両手 を 広げて 船 に 駆け寄ろう と する の を 、 近所 に 居合わせた 三四 人 の 人 が あわてて 引き留める 、 それ を また すり抜けよう と して 組み 伏せられて しまった 。 若者 は 組み 伏せられた まま 左 の 腕 を 口 に あてがって 思いきり かみ しばり ながら 泣き 沈んだ 。 その 牛 の うめき声 の ような 泣き声 が 気 疎く 船 の 上 まで 聞こえて 来た 。 見送り 人 は 思わず 鳴り を 静めて この 狂暴な 若者 に 目 を 注いだ 。 葉子 も 葉子 で 、 姿 も 隠さ ず 手 欄 に 片手 を かけた まま 突っ立って 、 同じく この 若者 を 見据えて いた 。 と いって 葉子 は その 若者 の 上 ばかり を 思って いる ので は なかった 。 自分 でも 不思議だ と 思う ような 、 うつろな 余裕 が そこ に は あった 。 古藤 が 若者 の ほう に は 目 も くれ ず に じっと 足 もと を 見つめて いる の に も 気 が 付いて いた 。 死んだ 姉 の 晴れ着 を 借り 着して いい 心地 に なって いる ような 叔母 の 姿 も 目 に 映って いた 。 船 の ほう に 後ろ を 向けて ( おそらく それ は 悲しみ から ばかり で は なかったろう 。 その 若者 の 挙動 が 老いた 心 を ひ しい だ に 違いない ) 手ぬぐい を しっかり と 両眼 に あてて いる 乳母 も 見のがして は い なかった 。 ・・

いつのまに 動いた と も なく 船 は 桟橋 から 遠ざかって いた 。 人 の 群れ が 黒 蟻 の ように 集まった そこ の 光景 は 、 葉子 の 目の前 に ひらけて 行く 大きな 港 の 景色 の 中 景 に なる まで に 小さく なって 行った 。 葉子 の 目 は 葉子 自身 に も 疑わ れる ような 事 を して いた 。 その 目 は 小さく なった 人影 の 中 から 乳母 の 姿 を 探り 出そう と せ ず 、 一種 の なつかし み を 持つ 横浜 の 市街 を 見納め に ながめよう と せ ず 、 凝 然 と して 小さく うずくまる 若者 の の らしい 黒点 を 見つめて いた 。 若者 の 叫ぶ 声 が 、 桟橋 の 上 で 打ち 振る ハンケチ の 時々 ぎらぎら と 光る ごと に 、 葉子 の 頭 の 上 に 張り 渡さ れた 雨 よけ の 帆 布 の 端 から 余 滴 が ぽつりぽつり と 葉子 の 顔 を 打つ たび に 、 断続 して 聞こえて 来る ように 思わ れた 。 ・・

「 葉子 さん 、 あなた は 私 を 見殺し に する んです か …… 見殺し に する ん ……」

9.2 或る 女 ある|おんな 9.2 Eine Frau 9.2 A Woman 9.2 Una mujer 9.2 Bir kadın

葉子 は 階子 の 上がり 口 まで 行って 二 人 に 傘 を かざして やって 、 一 段 一 段 遠ざかって 行く 二 人 の 姿 を 見送った 。 ようこ||はしご||あがり|くち||おこなって|ふた|じん||かさ||||ひと|だん|ひと|だん|とおざかって|いく|ふた|じん||すがた||みおくった 東京 で 別れ を 告げた 愛子 や 貞 世 の 姿 が 、 雨 に ぬれた 傘 の へん を 幻影 と なって 見えたり 隠れたり した ように 思った 。 とうきょう||わかれ||つげた|あいこ||さだ|よ||すがた||あめ|||かさ||||げんえい|||みえたり|かくれたり|||おもった 葉子 は 不思議な 心 の 執着 から 定子 に は とうとう 会わ ないで しまった 。 ようこ||ふしぎな|こころ||しゅうちゃく||さだこ||||あわ|| 愛子 と 貞 世 と は ぜひ 見送り が したい と いう の を 、 葉子 は しかりつける ように いって とめて しまった 。 あいこ||さだ|よ||||みおくり||し たい|||||ようこ|||||| 葉子 が 人力車 で 家 を 出よう と する と 、 なんの 気 なし に 愛子 が 前髪 から 抜いて 鬢 を か こう と した 櫛 が 、 もろくも ぽき り と 折れた 。 ようこ||じんりきしゃ||いえ||でよう|||||き|||あいこ||まえがみ||ぬいて|びん||||||くし||||||おれた それ を 見る と 愛子 は 堪え 堪えて いた 涙 の 堰 を 切って 声 を 立てて 泣き出した 。 ||みる||あいこ||こらえ|こらえて||なみだ||せき||きって|こえ||たてて|なきだした 貞 世 は 初め から 腹 でも 立てた ように 、 燃える ような 目 から とめど なく 涙 を 流して 、 じっと 葉子 を 見つめて ばかり いた 。 さだ|よ||はじめ||はら||たてた||もえる||め||||なみだ||ながして||ようこ||みつめて|| そんな 痛々しい 様子 が その 時 まざまざ と 葉子 の 目の前 に ちらついた のだ 。 |いたいたしい|ようす|||じ|||ようこ||めのまえ||| 一 人 ぽっち で 遠い 旅 に 鹿島 立って 行く 自分 と いう もの が あじ き なく も 思いやら れた 。 ひと|じん|ぽっ ち||とおい|たび||かじま|たって|いく|じぶん|||||||||おもいやら| そんな 心持ち に なる と 忙しい 間 に も 葉子 は ふと 田川 の ほう を 振り向いて 見た 。 |こころもち||||いそがしい|あいだ|||ようこ|||たがわ||||ふりむいて|みた 中学校 の 制服 を 着た 二 人 の 少年 と 、 髪 を お下げ に して 、 帯 を お はさみ にしめた 少女 と が 、 田川 と 夫人 と の 間 に からまって ちょうど 告別 を して いる ところ だった 。 ちゅうがっこう||せいふく||きた|ふた|じん||しょうねん||かみ||おさげ|||おび|||||しょうじょ|||たがわ||ふじん|||あいだ||||こくべつ||||| 付き添い の 守り の 女 が 少女 を 抱き上げて 、 田川 夫人 の 口 び る を その 額 に 受け さ して いた 。 つきそい||まもり||おんな||しょうじょ||だきあげて|たがわ|ふじん||くち|||||がく||うけ||| 葉子 は そんな 場面 を 見せつけられる と 、 他人事 ながら 自分 が 皮肉で むちうた れる ように 思った 。 ようこ|||ばめん||みせつけ られる||ひとごと||じぶん||ひにくで||||おもった 竜 を も 化して 牝豚 に する の は 母 と なる 事 だ 。 りゅう|||かして|めすぶた|||||はは|||こと| To turn a dragon into a sow is to become a mother. 今 の 今 まで 焼く ように 定子 の 事 を 思って いた 葉子 は 、 田川 夫人 に 対して すっかり 反対の 事 を 考えた 。 いま||いま||やく||さだこ||こと||おもって||ようこ||たがわ|ふじん||たいして||はんたいの|こと||かんがえた 葉子 は その いまいましい 光景 から 目 を 移して 舷梯 の ほう を 見た 。 ようこ||||こうけい||め||うつして|げんてい||||みた しかし そこ に は もう 乳母 の 姿 も 古藤 の 影 も なかった 。 |||||うば||すがた||ことう||かげ|| ・・

たちまち 船首 の ほう から けたたましい 銅 鑼 の 音 が 響き 始めた 。 |せんしゅ|||||どう|どら||おと||ひびき|はじめた 船 の 上下 は 最後 の どよめき に 揺らぐ ように 見えた 。 せん||じょうげ||さいご||||ゆらぐ||みえた 長い 綱 を 引きずって 行く 水夫 が 帽子 の 落ち そうに なる の を 右 の 手 で ささえ ながら 、 あたり の 空気 に 激しい 動揺 を 起こす ほど の 勢い で 急いで 葉子 の かたわら を 通りぬけた 。 ながい|つな||ひきずって|いく|すいふ||ぼうし||おち|そう に||||みぎ||て||さ さえ||||くうき||はげしい|どうよう||おこす|||いきおい||いそいで|ようこ||||とおりぬけた 見送り 人 は 一斉に 帽子 を 脱いで 舷梯 の ほう に 集まって 行った 。 みおくり|じん||いっせいに|ぼうし||ぬいで|げんてい||||あつまって|おこなった その 際 に なって 五十川 女史 は はたと 葉子 の 事 を 思い出した らしく 、 田川 夫人 に 何 か いって おいて 葉子 の いる 所 に やって 来た 。 |さい|||いそがわ|じょし|||ようこ||こと||おもいだした||たがわ|ふじん||なん||||ようこ|||しょ|||きた ・・

「 いよいよ お 別れ に なった が 、 いつぞや お 話し した 田川 の 奥さん に お ひきあわせ しよう から ちょっと 」・・ ||わかれ||||||はなし||たがわ||おくさん||||||

葉子 は 五十川 女史 の 親切 ぶり の 犠牲 に なる の を 承知 し つつ 、 一種 の 好奇心 に ひか されて 、 その あと に ついて行こう と した 。 ようこ||いそがわ|じょし||しんせつ|||ぎせい|||||しょうち|||いっしゅ||こうきしん|||さ れて||||ついていこう|| 葉子 に 初めて 物 を いう 田川 の 態度 も 見て やり たかった 。 ようこ||はじめて|ぶつ|||たがわ||たいど||みて|| その 時 、・・ |じ

「 葉子 さん 」・・ ようこ|

と 突然 いって 、 葉子 の 肩 に 手 を かけた もの が あった 。 |とつぜん||ようこ||かた||て||||| 振り返る と ビール の 酔い の に おい が むせかえる ように 葉子 の 鼻 を 打って 、 目 の 心 まで 紅 く なった 知ら ない 若者 の 顔 が 、 近々 と 鼻先 に あらわれて いた 。 ふりかえる||びーる||よい|||||||ようこ||はな||うって|め||こころ||くれない|||しら||わかもの||かお||ちかぢか||はなさき||| はっと 身 を 引く 暇 も なく 、 葉子 の 肩 は び しょ ぬれ に なった 酔い どれ の 腕 で がっしり と 巻かれて いた 。 |み||ひく|いとま|||ようこ||かた|||||||よい|||うで||||まか れて| ・・

「 葉子 さん 、 覚えて います か わたし を …… あなた は わたし の 命 な んだ 。 ようこ||おぼえて|い ます||||||||いのち|| 命 な んです 」・・ いのち||

と いう うち に も 、 その 目 から は ほろほろ と 煮える ような 涙 が 流れて 、 まだ うら若い なめらかな 頬 を 伝った 。 ||||||め|||||にえる||なみだ||ながれて||うらわかい||ほお||つたった 膝 から 下 が ふらつく の を 葉子 に すがって 危うく ささえ ながら 、・・ ひざ||した|||||ようこ|||あやうく|さ さえ|

「 結婚 を なさる んです か …… おめでとう …… おめでとう …… だが あなた が 日本 に い なく なる と 思う と …… いたたまれない ほど 心細い んだ …… わたし は ……」・・ けっこん||||||||||にっぽん||||||おもう||||こころぼそい|||

もう 声 さえ 続か なかった 。 |こえ||つづか| そして 深々と 息 気 を ひいて しゃくり上げ ながら 、 葉子 の 肩 に 顔 を 伏せて さめざめ と 男泣き に 泣き出した 。 |しんしんと|いき|き|||しゃくりあげ||ようこ||かた||かお||ふせて|||おとこなき||なきだした ・・

この 不意な 出来事 は さすが に 葉子 を 驚か し もし 、 きまり も 悪く さ せた 。 |ふいな|できごと||||ようこ||おどろか|||||わるく|| だれ だ と も 、 いつ どこ であった と も 思い出す 由 が ない 。 |||||||||おもいだす|よし|| 木部 孤 と 別れて から 、 何という 事 なし に 捨てばち な 心地 に なって 、 だれ かれ の 差別 も なく 近寄って 来る 男 たち に 対して 勝手気まま を 振る舞った その 間 に 、 偶然に 出あって 偶然に 別れた 人 の 中 の 一 人 で も あろう か 。 きべ|こ||わかれて||なんという|こと|||すてばち||ここち||||||さべつ|||ちかよって|くる|おとこ|||たいして|かってきまま||ふるまった||あいだ||ぐうぜんに|であって|ぐうぜんに|わかれた|じん||なか||ひと|じん|||| 浅い 心 で もてあそんで 行った 心 の 中 に この 男 の 心 も あった であろう か 。 あさい|こころ|||おこなった|こころ||なか|||おとこ||こころ|||| とにかく 葉子 に は 少しも 思い当たる 節 が なかった 。 |ようこ|||すこしも|おもいあたる|せつ|| 葉子 は その 男 から 離れたい 一心に 、 手 に 持った 手 鞄 と 包み 物 と を 甲板 の 上 に ほうりなげて 、 若者 の 手 を やさしく 振り ほどこう と して 見た が 無益だった 。 ようこ|||おとこ||はなれ たい|いっしんに|て||もった|て|かばん||つつみ|ぶつ|||かんぱん||うえ|||わかもの||て|||ふり||||みた||むえきだった 親類 や 朋輩 たち の 事 あれ が しな 目 が 等しく 葉子 に 注がれて いる の を 葉子 は 痛い ほど 身 に 感じて いた 。 しんるい||ともやから|||こと||||め||ひとしく|ようこ||そそが れて||||ようこ||いたい||み||かんじて| と 同時に 、 男 の 涙 が 薄い 単 衣 の 目 を 透 して 、 葉子 の 膚 に しみこんで 来る の を 感じた 。 |どうじに|おとこ||なみだ||うすい|ひとえ|ころも||め||とおる||ようこ||はだ|||くる|||かんじた 乱れた つやつや しい 髪 の におい も つい 鼻 の 先 で 葉子 の 心 を 動かそう と した 。 みだれた|||かみ|||||はな||さき||ようこ||こころ||うごかそう|| 恥 も 外聞 も 忘れ 果てて 、 大空 の 下 で すすり泣く 男 の 姿 を 見て いる と 、 そこ に は かすかな 誇り の ような 気持ち が わいて 来た 。 はじ||がいぶん||わすれ|はてて|おおぞら||した||すすりなく|おとこ||すがた||みて|||||||ほこり|||きもち|||きた 不思議な 憎しみ と いとし さ が こんがらかって 葉子 の 心 の 中 で 渦巻いた 。 ふしぎな|にくしみ||||||ようこ||こころ||なか||うずまいた 葉子 は 、・・ ようこ|

「 さ 、 もう 放して ください まし 、 船 が 出ます から 」・・ ||はなして|||せん||で ます|

と きびしく いって 置いて 、 かんで 含める ように 、・・ |||おいて||ふくめる|

「 だれ でも 生きて る 間 は 心細く 暮らす んです の よ 」・・ ||いきて||あいだ||こころぼそく|くらす|||

と その 耳 もと に ささやいて 見た 。 ||みみ||||みた 若者 は よく わかった と いう ふうに 深々と うなずいた 。 わかもの|||||||しんしんと| しかし 葉子 を 抱く 手 は きびしく 震え こそ すれ 、 ゆるみ そうな 様子 は 少しも 見え なかった 。 |ようこ||いだく|て|||ふるえ||||そう な|ようす||すこしも|みえ| ・・

物々しい 銅 鑼 の 響き は 左舷 から 右舷 に 回って 、 また 船首 の ほう に 聞こえて 行こう と して いた 。 ものものしい|どう|どら||ひびき||さげん||うげん||まわって||せんしゅ||||きこえて|いこう||| 船員 も 乗客 も 申し 合わした ように 葉子 の ほう を 見守って いた 。 せんいん||じょうきゃく||もうし|あわした||ようこ||||みまもって| 先刻 から 手持ちぶさた そうに ただ 立って 成り行き を 見て いた 五十川 女史 は 思いきって 近寄って 来て 、 若者 を 葉子 から 引き離そう と した が 、 若者 は むずかる 子供 の ように 地 だ んだ を 踏んで ますます 葉子 に 寄り添う ばかりだった 。 せんこく||てもちぶさた|そう に||たって|なりゆき||みて||いそがわ|じょし||おもいきって|ちかよって|きて|わかもの||ようこ||ひきはなそう||||わかもの|||こども|||ち||||ふんで||ようこ||よりそう| 船首 の ほう に 群がって 仕事 を し ながら 、 この 様子 を 見守って いた 水夫 たち は 一斉に 高く 笑い声 を 立てた 。 せんしゅ||||むらがって|しごと|||||ようす||みまもって||すいふ|||いっせいに|たかく|わらいごえ||たてた そして その 中 の 一 人 は わざと 船 じゅう に 聞こえ 渡る ような くさ め を した 。 ||なか||ひと|じん|||せん|||きこえ|わたる||||| 抜 錨 の 時刻 は 一 秒 一 秒 に 逼って いた 。 ぬき|いかり||じこく||ひと|びょう|ひと|びょう||ひつ って| 物笑い の 的に なって いる 、 そう 思う と 葉子 の 心 は いとし さ から 激し いい と わし さ に 変わって 行った 。 ものわらい||てきに||||おもう||ようこ||こころ|||||はげし||||||かわって|おこなった ・・

「 さ 、 お 放し ください 、 さ 」・・ ||はなし||

と きわめて 冷酷に いって 、 葉子 は 助け を 求める ように あたり を 見回した 。 ||れいこくに||ようこ||たすけ||もとめる||||みまわした ・・

田川 博士 の そば に いて 何 か 話 を して いた 一 人 の 大 兵 な 船員 が いた が 、 葉子 の 当惑 しきった 様子 を 見る と 、 いきなり 大股 に 近づいて 来て 、・・ たがわ|はかせ|||||なん||はなし||||ひと|じん||だい|つわもの||せんいん||||ようこ||とうわく||ようす||みる|||おおまた||ちかづいて|きて

「 どれ 、 わたし が 下 まで お 連れ しましょう 」・・ |||した|||つれ|し ましょう と いう や 否 や 、 葉子 の 返事 も 待た ず に 若者 を 事 も なく 抱きすくめた 。 |||いな||ようこ||へんじ||また|||わかもの||こと|||だきすくめた 若者 は この 乱暴に かっと なって 怒り狂った が 、 その 船員 は 小さな 荷物 でも 扱う ように 、 若者 の 胴 の あたり を 右 わき に かいこんで 、 やすやす と 舷梯 を 降りて 行った 。 わかもの|||らんぼうに|か っと||いかりくるった|||せんいん||ちいさな|にもつ||あつかう||わかもの||どう||||みぎ||||||げんてい||おりて|おこなった 五十川 女史 は あたふた と 葉子 に 挨拶 も せ ず に その あと に 続いた 。 いそがわ|じょし||||ようこ||あいさつ||||||||つづいた しばらく する と 若者 は 桟橋 の 群 集 の 間 に 船員 の 手 から おろさ れた 。 |||わかもの||さんばし||ぐん|しゅう||あいだ||せんいん||て||| ・・

けたたましい 汽笛 が 突然 鳴り はためいた 。 |きてき||とつぜん|なり| 田川 夫妻 の 見送り 人 たち は この 声 で 活 を 入れられた ように なって 、 どよめき 渡り ながら 、 田川 夫妻 の 万 歳 を もう 一 度 繰り返した 。 たがわ|ふさい||みおくり|じん||||こえ||かつ||いれ られた||||わたり||たがわ|ふさい||よろず|さい|||ひと|たび|くりかえした 若者 を 桟橋 に 連れて 行った 、 か の 巨大な 船員 は 、 大きな 体 躯 を 猿 の ように 軽く もて あつかって 、 音 も 立て ず に 桟橋 から ずし ずし と 離れて 行く 船 の 上 に ただ 一 条 の 綱 を 伝って 上がって 来た 。 わかもの||さんばし||つれて|おこなった|||きょだいな|せんいん||おおきな|からだ|く||さる|||かるく|||おと||たて|||さんばし|||||はなれて|いく|せん||うえ|||ひと|じょう||つな||つたって|あがって|きた 人々 は また その 早業 に 驚いて 目 を 見張った 。 ひとびと||||はやわざ||おどろいて|め||みはった ・・

葉子 の 目 は 怒 気 を 含んで 手 欄 から しばらく の 間 か の 若者 を 見据えて いた 。 ようこ||め||いか|き||ふくんで|て|らん||||あいだ|||わかもの||みすえて| 若者 は 狂気 の ように 両手 を 広げて 船 に 駆け寄ろう と する の を 、 近所 に 居合わせた 三四 人 の 人 が あわてて 引き留める 、 それ を また すり抜けよう と して 組み 伏せられて しまった 。 わかもの||きょうき|||りょうて||ひろげて|せん||かけよろう|||||きんじょ||いあわせた|さんし|じん||じん|||ひきとめる||||すりぬけよう|||くみ|ふせ られて| 若者 は 組み 伏せられた まま 左 の 腕 を 口 に あてがって 思いきり かみ しばり ながら 泣き 沈んだ 。 わかもの||くみ|ふせ られた||ひだり||うで||くち|||おもいきり||||なき|しずんだ その 牛 の うめき声 の ような 泣き声 が 気 疎く 船 の 上 まで 聞こえて 来た 。 |うし||うめきごえ|||なきごえ||き|うとく|せん||うえ||きこえて|きた 見送り 人 は 思わず 鳴り を 静めて この 狂暴な 若者 に 目 を 注いだ 。 みおくり|じん||おもわず|なり||しずめて||きょうぼうな|わかもの||め||そそいだ 葉子 も 葉子 で 、 姿 も 隠さ ず 手 欄 に 片手 を かけた まま 突っ立って 、 同じく この 若者 を 見据えて いた 。 ようこ||ようこ||すがた||かくさ||て|らん||かたて||||つったって|おなじく||わかもの||みすえて| と いって 葉子 は その 若者 の 上 ばかり を 思って いる ので は なかった 。 ||ようこ|||わかもの||うえ|||おもって|||| 自分 でも 不思議だ と 思う ような 、 うつろな 余裕 が そこ に は あった 。 じぶん||ふしぎだ||おもう|||よゆう||||| 古藤 が 若者 の ほう に は 目 も くれ ず に じっと 足 もと を 見つめて いる の に も 気 が 付いて いた 。 ことう||わかもの|||||め||||||あし|||みつめて|||||き||ついて| 死んだ 姉 の 晴れ着 を 借り 着して いい 心地 に なって いる ような 叔母 の 姿 も 目 に 映って いた 。 しんだ|あね||はれぎ||かり|ちゃくして||ここち|||||おば||すがた||め||うつって| 船 の ほう に 後ろ を 向けて ( おそらく それ は 悲しみ から ばかり で は なかったろう 。 せん||||うしろ||むけて||||かなしみ||||| その 若者 の 挙動 が 老いた 心 を ひ しい だ に 違いない ) 手ぬぐい を しっかり と 両眼 に あてて いる 乳母 も 見のがして は い なかった 。 |わかもの||きょどう||おいゆいた|こころ||||||ちがいない|てぬぐい||||りょうがん||||うば||みのがして||| ・・

いつのまに 動いた と も なく 船 は 桟橋 から 遠ざかって いた 。 |うごいた||||せん||さんばし||とおざかって| 人 の 群れ が 黒 蟻 の ように 集まった そこ の 光景 は 、 葉子 の 目の前 に ひらけて 行く 大きな 港 の 景色 の 中 景 に なる まで に 小さく なって 行った 。 じん||むれ||くろ|あり|||あつまった|||こうけい||ようこ||めのまえ|||いく|おおきな|こう||けしき||なか|けい|||||ちいさく||おこなった 葉子 の 目 は 葉子 自身 に も 疑わ れる ような 事 を して いた 。 ようこ||め||ようこ|じしん|||うたがわ|||こと||| その 目 は 小さく なった 人影 の 中 から 乳母 の 姿 を 探り 出そう と せ ず 、 一種 の なつかし み を 持つ 横浜 の 市街 を 見納め に ながめよう と せ ず 、 凝 然 と して 小さく うずくまる 若者 の の らしい 黒点 を 見つめて いた 。 |め||ちいさく||ひとかげ||なか||うば||すがた||さぐり|だそう||||いっしゅ|||||もつ|よこはま||しがい||みおさめ||||||こ|ぜん|||ちいさく||わかもの||||こくてん||みつめて| 若者 の 叫ぶ 声 が 、 桟橋 の 上 で 打ち 振る ハンケチ の 時々 ぎらぎら と 光る ごと に 、 葉子 の 頭 の 上 に 張り 渡さ れた 雨 よけ の 帆 布 の 端 から 余 滴 が ぽつりぽつり と 葉子 の 顔 を 打つ たび に 、 断続 して 聞こえて 来る ように 思わ れた 。 わかもの||さけぶ|こえ||さんばし||うえ||うち|ふる|||ときどき|||ひかる|||ようこ||あたま||うえ||はり|わたさ||あめ|||ほ|ぬの||はし||よ|しずく||||ようこ||かお||うつ|||だんぞく||きこえて|くる||おもわ| ・・

「 葉子 さん 、 あなた は 私 を 見殺し に する んです か …… 見殺し に する ん ……」 ようこ||||わたくし||みごろし|||||みごろし|||