35.1 或る 女
葉子 と 倉地 と は 竹 柴 館 以来 たびたび 家 を 明けて 小さな 恋 の 冒険 を 楽しみ 合う ように なった 。 そういう 時 に 倉地 の 家 に 出入り する 外国 人 や 正井 など が 同伴 する 事 も あった 。 外国 人 は おもに 米国 の 人だった が 、 葉子 は 倉地 が そういう 人 たち を 同 座 さ せる 意味 を 知って 、 その なめらかな 英語 と 、 だれ でも ―― ことに 顔 や 手 の 表情 に 本能 的な 興味 を 持つ 外国 人 を ―― 蠱惑 し ない で は 置か ない はなやかな 応接 ぶり と で 、 彼ら を とりこ に する 事 に 成功 した 。 それ は 倉地 の 仕事 を 少なからず 助けた に 違いなかった 。 倉地 の 金 まわり は ますます 潤沢に なって 行く らしかった 。 葉子 一家 は 倉地 と 木村 と から 貢が れる 金 で 中流 階級 に は あり 得 ない ほど 余裕 の ある 生活 が できた のみ なら ず 、 葉子 は 充分 の 仕送り を 定子 に して 、 なお 余る 金 を 女らしく 毎月 銀行 に 預け入れる まで に なった 。 ・・
しかし それ と ともに 倉地 は ますます すさんで 行った 。 目 の 光 に さえ もと の ように 大海 に のみ 見る 寛 濶 な 無頓着な そして 恐ろしく 力強い 表情 は なくなって 、 いらいら と あて も なく 燃えさかる 石炭 の 火 の ような 熱 と 不安 と が 見られる ように なった 。 やや ともすると 倉地 は 突然 わけ も ない 事 に きびしく 腹 を 立てた 。 正井 など は 木っ葉 みじん に しかり 飛ばさ れたり した 。 そういう 時 の 倉地 は あらし の ような 狂暴な 威力 を 示した 。 ・・
葉子 も 自分 の 健康 が だんだん 悪い ほう に 向いて 行く の を 意識 し ない で は いられ なく なった 。 倉地 の 心 が すさめば すさむ ほど 葉子 に 対して 要求 する もの は 燃え ただれる 情熱 の 肉体 だった が 、 葉子 も また 知らず知らず 自分 を それ に 適応 さ せ 、 かつ は 自分 が 倉地 から 同様な 狂暴な 愛 撫 を 受けたい 欲 念 から 、 先 の 事 も あと の 事 も 考え ず に 、 現在 の 可能 の すべて を 尽くして 倉地 の 要求 に 応じて 行った 。 脳 も 心臓 も 振り回して 、 ゆすぶって 、 たたきつけて 、 一気に 猛火 で あぶり 立てる ような 激情 、 魂 ばかり に なった ような 、 肉 ばかり に なった ような 極端な 神経 の 混乱 、 そして その あと に 続く 死滅 と 同然の 倦怠 疲労 。 人間 が 有する 生命 力 を どん底 から ためし 試みる そういう 虐待 が 日 に 二 度 も 三 度 も 繰り返さ れた 。 そうして その あと で は 倉地 の 心 は きっと 野獣 の ように さらに すさんで いた 。 葉子 は 不快 きわまる 病理 的 の 憂鬱に 襲わ れた 。 静かに 鈍く 生命 を 脅かす 腰部 の 痛み 、 二 匹 の 小 魔 が 肉 と 骨 と の 間 に はいり込んで 、 肉 を 肩 に あてて 骨 を 踏んばって 、 うんと 力任せに 反り 上がる か と 思わ れる ほど の 肩 の 凝り 、 だんだん 鼓動 を 低めて 行って 、 呼吸 を 苦しく して 、 今 働き を 止める か と あやぶむ と 、 一 時 に 耳 に まで 音 が 聞こえる くらい 激しく 動き出す 不規則な 心臓 の 動作 、 もやもや と 火 の 霧 で 包ま れたり 、 透明な 氷 の 水 で 満たさ れる ような 頭脳 の 狂い 、…… こういう 現象 は 日一日 と 生命 に 対する 、 そして 人生 に 対する 葉子 の 猜疑 を 激しく した 。 ・・
有頂天の 溺楽 の あと に 襲って 来る さびしい と も 、 悲しい と も 、 はかない と も 形容 の でき ない その 空虚 さ は 何より も 葉子 に つらかった 。 た とい その場で 命 を 絶って も その 空虚 さ は 永遠に 葉子 を 襲う もの の ように も 思わ れた 。 ただ これ から のがれる ただ 一 つ の 道 は 捨てばち に なって 、 一時的 の もの だ と は 知り 抜き ながら 、 そして その あと に は さらに 苦しい 空虚 さ が 待ち伏せ して いる と は 覚悟 し ながら 、 次の 溺楽 を 逐 う ほか は なかった 。 気分 の すさんだ 倉地 も 同じ 葉子 と 同じ 心 で 同じ 事 を 求めて いた 。 こうして 二 人 は 底 止 する 所 の ない いずこ か へ 手 を つないで 迷い 込んで 行った 。 ・・
ある 朝 葉子 は 朝 湯 を 使って から 、 例の 六 畳 で 鏡台 に 向かった が 一 日一日 に 変わって 行く ような 自分 の 顔 に は ただ 驚く ばかりだった 。 少し 縦 に 長く 見える 鏡 で は ある けれども 、 そこ に 映る 姿 は あまりに 細って いた 。 その代わり 目 は 前 に も 増して 大きく 鈴 を 張って 、 化粧 焼け と も 思わ れ ぬ 薄い 紫色 の 色素 が その まわり に 現われて 来て いた 。 それ が 葉子 の 目 に たとえば 森林 に 囲ま れた 澄んだ 湖 の ような 深み と 神秘 と を 添える ように も 見えた 。 鼻筋 は やせ細って 精神 的な 敏感 さ を きわ立た して いた 。 頬 の 傷 々 しく こけた ため に 、 葉子 の 顔 に いう べ から ざる 暖か み を 与える 笑くぼ を 失おう と して は いた が 、 その 代わり に そこ に は 悩ましく 物 思わしい 張り を 加えて いた 。 ただ 葉子 が どうしても 弁護 の でき ない の は ますます 目立って 来た 固い 下顎 の 輪郭 だった 。 しかし とにもかくにも 肉 情 の 興奮 の 結果 が 顔 に 妖凄 な 精神 美 を 付け加えて いる の は 不思議だった 。 葉子 は これ まで の 化粧 法 を 全然 改める 必要 を その 朝 に なって しみじみ と 感じた 。 そして 今 まで 着て いた 衣類 まで が 残ら ず 気 に 食わ なく なった 。 そう なる と 葉子 は 矢 も たて も たまらなかった 。 ・・
葉子 は 紅 の まじった 紅 粉 を ほとんど 使わ ず に 化粧 を した 。 顎 の 両側 と 目 の まわり と の 紅 粉 を わざと 薄く ふき取った 。 枕 を 入れ ず に 前髪 を 取って 、 束 髪 の 髷 を 思いきり 下げて 結って みた 。 鬢 だけ を 少し ふくらました ので 顎 の 張った の も 目立た ず 、 顔 の 細く なった の も いくらか 調節 されて 、 そこ に は 葉子 自身 が 期待 も し なかった ような 廃 頽的 な 同時に 神経質 的な すごく も 美しい 一 つ の 顔面 が 創造 されて いた 。 有り合わせ の もの の 中 から できる だけ 地味な 一 そろい を 選んで それ を 着る と 葉子 は すぐ 越後屋 に 車 を 走ら せた 。 ・・
昼 すぎ まで 葉子 は 越後屋 に いて 注文 や 買い物 に 時 を 過ごした 。 衣服 や 身 の まわり の もの の 見立て に ついて は 葉子 は 天才 と いって よかった 。 自分 でも その 才能 に は 自信 を 持って いた 。 従って 思い 存分の 金 を ふところ に 入れて いて 買い物 を する くらい 興 の 多い もの は 葉子 に 取って は 他 に なかった 。 越後屋 を 出る 時 に は 、 感 興 と 興奮 と に 自分 を 傷め ちぎった 芸術 家 の ように へとへとに 疲れきって いた 。 ・・
帰りついた 玄関 の 靴 脱ぎ 石 の 上 に は 岡 の 細長い 華車 な 半 靴 が 脱ぎ捨てられて いた 。 葉子 は 自分 の 部屋 に 行って 懐中 物 など を しまって 、 湯飲み で なみなみ と 一杯の 白 湯 を 飲む と 、 すぐ 二 階 に 上がって 行った 。 自分 の 新しい 化粧 法 が どんなふうに 岡 の 目 を 刺激 する か 、 葉子 は 子供 らしく それ を 試みて み たかった のだ 。 彼女 は 不意に 岡 の 前 に 現われよう ため に 裏 階子 から そっと 登って 行った 。 そして 襖 を あける と そこ に 岡 と 愛子 だけ が いた 。 貞 世 は 苔 香 園 に でも 行って 遊んで いる の か そこ に は 姿 を 見せ なかった 。 ・・
岡 は 詩集 らしい もの を 開いて 見て いた 。 そこ に は なお 二三 冊 の 書物 が 散らばって いた 。 愛子 は 縁側 に 出て 手 欄 から 庭 を 見おろして いた 。 しかし 葉子 は 不思議な 本能 から 、 階子 段 に 足 を かけた ころ に は 、 二 人 は 決して 今 の ような 位置 に 、 今 の ような 態度 で いた ので は ない と いう 事 を 直 覚 して いた 。 二 人 が 一 人 は 本 を 読み 、 一 人 が 縁 に 出て いる の は 、 いかにも 自然であり ながら 非常に 不自然だった 。 ・・
突然 ―― それ は ほんとうに 突然 どこ から 飛び込んで 来た の か 知れ ない 不快 の 念のため に 葉子 の 胸 は かきむしら れた 。 岡 は 葉子 の 姿 を 見る と 、 わざっと 寛が せて いた ような 姿勢 を 急に 正して 、 読みふけって いた らしく 見せた 詩集 を あまりに 惜し げ も なく 閉じて しまった 。 そして いつも より 少し なれなれしく 挨拶 した 。 愛子 は 縁側 から 静かに こっち を 振り向いて 平生 と 少しも 変わら ない 態度 で 、 柔 順 に 無表情に 縁 板 の 上 に ちょっと 膝 を ついて 挨拶 した 。 しかし その 沈着に も 係わら ず 、 葉子 は 愛子 が 今 まで 涙 を 目 に ためて いた の を つきとめた 。 岡 も 愛子 も 明らかに 葉子 の 顔 や 髪 の 様子 の 変わった の に 気づいて いない くらい 心 に 余裕 の ない の が 明らかだった 。 ・・
「 貞 ちゃん は 」・・
と 葉子 は 立った まま で 尋ねて みた 。 二 人 は 思わず あわてて 答えよう と した が 、 岡 は 愛子 を ぬすみ 見る ように して 控えた 。 ・・
「 隣 の 庭 に 花 を 買い に 行って もらいました の 」・・
そう 愛子 が 少し 下 を 向いて 髷 だけ を 葉子 に 見える ように して 素直に 答えた 。 「 ふ ゝ ん 」 と 葉子 は 腹 の 中 で せ せら 笑った 。 そして 始めて そこ に すわって 、 じっと 岡 の 目 を 見つめ ながら 、・・
「 何 ? 読んで い らしった の は 」・・
と いって 、 そこ に ある 四六 細 型 の 美しい 表装 の 書物 を 取り上げて 見た 。 黒 髪 を 乱した 妖艶 な 女 の 頭 、 矢 で 貫か れた 心臓 、 その 心臓 から ぽたぽた 落ちる 血 の したたり が おのずから 字 に なった ように 図案 さ れた 「 乱れ 髪 」 と いう 標題 ―― 文字 に 親しむ 事 の 大きらいな 葉子 も うわさ で 聞いて いた 有名な 鳳晶 子 [# ルビ の 「 お おとり あきこ 」 は ママ ] の 詩集 だった 。 そこ に は 「 明星 」 と いう 文芸 雑誌 だの 、 春雨 の 「 無花果 」 だの 、 兆 民 居士 の 「 一 年 有 半 」 だの と いう 新刊 の 書物 も 散らばって いた 。 ・・
「 まあ 岡 さん も なかなか の ロマンティスト ね 、 こんな もの を 愛読 なさる の 」・・
と 葉子 は 少し 皮肉な もの を 口 じ り に 見せ ながら 尋ねて みた 。 岡 は 静かな 調子 で 訂正 する ように 、・・
「 それ は 愛子 さん のです 。 わたし 今 ちょっと 拝見 した だけ です 」・・
「 これ は 」・・
と いって 葉子 は 今度 は 「 一 年 有 半 」 を 取り上げた 。 ・・
「 それ は 岡 さん が きょう 貸して くださいました の 。 わたし わかり そう も ありません わ 」・・ 愛子 は 姉 の 毒舌 を あらかじめ 防ごう と する ように 。 ・・
「 へえ 、 それ じゃ 岡 さん 、 あなた は またたいした リアリスト ね 」・・
葉子 は 愛子 を 眼中 に も おか ない ふうで こういった 。 去年 の 下半期 の 思想 界 を 震 憾 した ような この 書物 と 続編 と は 倉地 の 貧しい 書架 の 中 に も あった のだ 。 そして 葉子 は おもしろく 思い ながら その 中 を 時々 拾い読み して いた のだった 。 ・・
「 なんだか わたし と は すっかり 違った 世界 を 見る ようで いながら 、 自分 の 心持ち が 残らず いって ある ようで も ある んで …… わたし それ が 好きな んです 。 リアリスト と いう わけ では ありません けれども ……」・・
「 でも この 本 の 皮肉 は 少し やせ我慢 ね 。 あなた の ような 方 に は ちょっと 不似合いです わ 」・・
「 そう でしょう か 」・・
岡 は 何と は なく 今に でも 腫れ物 に さわら れる か の よう に そわそわ して いた 。 会話 は 少しも いつも の ように は はずま なかった 。 葉子 は いらいら し ながら も それ を 顔 に は 見せ ないで 今度 は 愛子 の ほう に 槍 先 を 向けた 。 ・・
「 愛さ ん お前 こんな 本 を いつ お 買い だった の 」・・
と いって みる と 、 愛子 は 少し ためらって いる 様子 だった が 、 すぐに 素直な 落ち着き を 見せて 、・・
「 買った んじゃ ない んです の 。 古藤 さん が 送って くださいました の 」・・
と いった 。 葉子 は さすが に 驚いた 。 古藤 は あの 会食 の 晩 、 中座 したっきり 、 この 家 に は 足踏み も し なかった のに ……。 葉子 は 少し 激しい 言葉 に なった 。 ・・
「 なん だって また こんな 本 を 送って お よこし なさった んだろう 。 あなた お 手紙 でも 上げた の ね 」・・
「 え ゝ 、…… くださ いました から 」・・
「 どんな お 手紙 を 」・・
愛子 は 少し うつむき かげん に 黙って しまった 、 こういう 態度 を 取った 時 の 愛子 の しぶと さ を 葉子 は よく 知っていた 。 葉子 の 神経 は びりびり と 緊張 して 来た 。 ・・
「 持って 来て お 見せ 」・・
そう 厳格に いい ながら 、 葉子 は そこ に 岡 の いる 事 も 意識 の 中 に 加えて いた 。 愛子 は 執拗に 黙った まま すわって いた 。 しかし 葉子 が もう 一 度 催促 の 言葉 を 出そう と する と 、 その 瞬間 に 愛子 は つと 立ち上がって 部屋 を 出て 行った 。 ・・
葉子 は その すきに 岡 の 顔 を 見た 。 それ は また 無垢 童 貞 の 青年 が 不思議な 戦慄 を 胸 の 中 に 感じて 、 反感 を 催す か 、 ひき付けられる か し ない で は いられ ない ような 目 で 岡 を 見た 。 岡 は 少女 の ように 顔 を 赤 め て 、 葉子 の 視線 を 受け きれ ないで ひとみ を たじろが し つつ 目 を 伏せて しまった 。 葉子 は いつまでも その デリケートな 横顔 を 注視 つづけた 。 岡 は 唾 を 飲みこむ の も はばかる ような 様子 を して いた 。 ・・
「 岡 さん 」・・
そう 葉子 に 呼ばれて 、 岡 は やむ を 得 ず おずおず 頭 を 上げた 。 葉子 は 今度 は なじる ように その 若々しい 上品な 岡 を 見つめて いた 。