第 三 の 手記 二 (3)
東京 に 大雪 の 降った 夜 でした 。 自分 は 酔って 銀座 裏 を 、 ここ は お国 を 何 百 里 、 ここ は お国 を 何 百 里 、 と 小声 で 繰り返し 繰り返し 呟く よう に 歌い ながら 、 なおも 降りつもる 雪 を 靴 先 で 蹴 散 けちらして 歩いて 、 突然 、 吐きました 。 それ は 自分 の 最初の 喀血 かっけ つ でした 。 雪 の 上 に 、大きい 日の丸 の 旗 が 出来ました 。 自分 は 、 しばらく しゃがんで 、 それ から 、 よごれて いない 個所 の 雪 を 両手 で 掬 すくい取って 、 顔 を 洗い ながら 泣きました 。
こうこ は 、どう この 細道 じゃ ?
こうこ は 、どう この 細道 じゃ ?
哀れな 童女 の 歌声 が 、幻聴 の ように 、かすかに 遠く から 聞えます 。 不幸 。 この世 に は 、さまざまの 不幸な 人 が 、いや 、不幸な 人 ばかり 、と 言っても 過言 で は ない でしょう が 、しかし 、その 人たち の 不幸 は 、所謂 世間 に 対して 堂々と 抗議 が 出来 、また 「世間 」も その 人たち の 抗議 を 容易に 理解 し 同情 します 。 しかし 、 自分 の 不幸 は 、 すべて 自分 の 罪悪 から な ので 、 誰 に も 抗議 の 仕様が無い し 、 また 口ごもり ながら 一言 でも 抗議 めいた 事 を 言い かける と 、 ヒラメ なら ず と も 世間 の人 たち 全部 、 よくも まあ そんな 口 が きけた もの だ と 呆 あきれかえる に 違いない し 、 自分 は いったい 俗に いう 「 わがまま もの 」 な の か 、 または その 反対 に 、 気 が 弱 すぎる の か 、 自分 でも わけ が わからない けれども 、 とにかく 罪悪 の かたまり らしい ので 、 どこまでも 自 おのずから どんどん 不幸に なる ばかりで 、 防ぎ 止める 具体 策 など 無い の です 。
自分 は 立って 、取り敢えず 何 か 適当な 薬 を と思い 、近くの 薬屋 に は いって 、そこ の 奥さん と 顔 を 見合せ 、瞬間 、奥さん は 、フラッシュ を 浴びた みたいに 首 を あげ 眼 を 見はり 、棒立ち に なりました 。 しかし 、その 見はった 眼 に は 、驚愕 の 色 も 嫌悪 の 色 も 無く 、ほとんど 救い を 求める ような 、慕う ような 色 が あらわれている のでした 。 ああ 、 この ひと も 、 きっと 不幸な人 な のだ 、 不幸な人 は 、 ひと の 不幸に も 敏感な もの な のだ から 、 と 思った 時 、 ふと 、 その 奥さん が 松葉杖 まつばづえ を ついて 危 か しく 立って いる のに 気 が つきました 。 駈 け 寄りたい 思い を 抑えて 、 なおも その 奥さん と 顔 を 見合せて いる うち に 涙 が 出て 来ました 。 すると 、奥さん の 大きい 眼 から も 、涙 が ぽろぽろ と あふれて 出ました 。
それっきり 、一言 も 口 を きかずに 、自分 は その 薬屋 から 出て 、よろめいて アパート に 帰り 、ヨシ子 に 塩水 を 作らせて 飲み 、黙って 寝て 、翌る日 も 、風邪気味だ と 嘘 を ついて 一日一ぱい 寝て 、夜 、自分の 秘密の 喀血 が どうにも 不安で たまらず 、起きて 、あの 薬屋 に 行き 、こんど は 笑い ながら 、奥さん に 、実に 素直に 今迄の からだ具合 いを 告白し 、相談 しました 。
「お 酒 を お よし に なら なければ 」
自分 たち は 、肉 身 の ようでした 。
「アル 中 に なっている かも 知れない んです 。 いま でも 飲みたい 」
「 いけません 。 私 の 主人 も 、テーベ の くせに 、菌 を 酒 で 殺す んだ なんて 言って 、酒 びたり に なって 、自分 から 寿命 を ちぢめました 」
「不安 で いけ ない んです 。 こわくて 、とても 、だめな んです 」
「お 薬 を 差し上げます 。 お 酒 だけ は 、お よし なさい 」
奥さん ( 未亡人 で 、 男の子 が ひと り 、 それ は 千葉 だ か どこ だ か の 医大 に は いって 、 間もなく 父 と 同じ 病 い に かかり 、 休学 入院 中 で 、 家 に は 中 風 の 舅 しゅうと が 寝て いて 、 奥さん 自身 は 五 歳 の 折 、 小児 痲痺 まひ で 片方 の 脚 が 全然 だめな のでした ) は 、 松葉杖 を コトコト と 突き ながら 、 自分 の ため に あっち の 棚 、 こっち の 引出し 、 いろいろ と 薬品 を 取 そろえて くれる のでした 。
これ は 、造血剤 。
これ は 、ヴィタミン の 注射 液 。 注射器 は 、これ 。
これ は 、カルシウム の 錠剤 。 胃腸 を こわさ ない ように 、ジアスターゼ 。
これ は 、何 。 これ は 、何 、と 五 、六 種 の 薬品 の 説明 を 愛情 こめて して くれた のです が 、しかし 、この 不幸な 奥さん の 愛情 も また 、自分 に とって 深 すぎました 。 最後 に 奥さん が 、これ は 、どうしても 、なんと しても お酒 を 飲みたくて 、たまらなく なった 時 の お薬 、と 言って 素早く 紙 に 包んだ 小箱 。
モルヒネ の 注射 液 でした 。
酒 より は 、 害 に なら ぬ と 奥さん も 言い 、 自分 も それ を 信じて 、 また 一つには 、 酒 の 酔い も さすが に 不潔に 感ぜられて 来た 矢先 でも あった し 、 久し振りに アルコール と いう サタン から のがれる 事 の 出来る 喜び も あり 、 何の 躊躇 ちゅうちょ も 無く 、 自分 は 自分 の 腕 に 、 その モルヒネ を 注射 しました 。 不安 も 、 焦燥 しょうそう も 、 はにかみ も 、 綺麗 きれい に 除去 せられ 、 自分 は 甚だ 陽気な 能 弁 家 に なる のでした 。 そうして 、その 注射 を する と 自分 は 、からだ の 衰弱 も 忘れて 、漫画 の 仕事 に 精 が 出て 、自分 で 画き ながら 噴き出して しまう ほど 珍妙な 趣向 が 生れる のでした 。
一日 一本 の つもり が 、二本 に なり 、四本 に なった 頃 には 、自分 は もう それ が 無ければ 、仕事 が 出来ない ように なっていました 。
「いけません よ 、中毒 に なったら 、そりゃ もう 、たいへんです 」
薬屋 の 奥さん に そう 言わ れ る と 、自分 は もう 可成り の 中毒 患者 に なって しまった ような 気 が して 来て 、(自分 は 、ひと の 暗示 に 実に もろく ひっかかる たち な のです 。 この お金 は 使っちゃ いけない よ 、と 言って も 、お前 の 事 だ もの なあ 、なんて 言われる と 、何だか 使わない と 悪い ような 、期待 に そむく ような 、へんな 錯覚 が 起って 、必ず すぐに その お金 を 使って しまう のでした )その 中毒 の 不安 の ため 、かえって 薬品 を たくさん 求める ように なった のでした 。
「 たのむ ! もう 一 箱 。 勘定 は 月 末 に きっと 払います から 」
「勘定 なんて 、いつでも かまいません けど 、警察 の ほう が 、うるさい ので ねえ 」
ああ 、いつでも 自分 の 周囲 に は 、何やら 、濁って 暗く 、うさん臭い 日蔭者 の 気配 が つきまとう のです 。
「そこ を 何とか 、ごまかして 、たのむ よ 、奥さん 。 キス して あげよう 」
奥さん は 、顔 を 赤らめます 。
自分 は 、いよいよ つけ込み 、
「薬 が 無い と 仕事 が ちっとも 、はかどらない んだ よ 。 僕 に は 、あれ は 強精剤 みたいな もの なんだ 」
「それ じゃ 、いっそ 、ホルモン 注射 が いい でしょう 」
「ばか に しちゃ いけません 。 お酒 か 、そう で なければ 、あの 薬 か 、どっち か で 無ければ 仕事 が 出来ない んだ 」
「お 酒 は 、いけません 」
「そう でしょう ? 僕 は ね 、あの 薬 を 使う ように なって から 、お酒 は 一滴 も 飲まなかった 。 おかげ で 、からだ の 調子 が 、とても いい んだ 。 僕 だって 、いつまでも 、下手くそな 漫画 など を かいて いる つもり は 無い 、これから 、酒 を やめて 、からだ を 直して 、勉強 して 、きっと 偉い 絵画 き になって 見せる 。 いま が 大事な ところ な んだ 。 だから さ 、ね 、お ねがい 。 キス して あげよう か 」
奥さん は 笑い 出し 、
「困る わ ねえ 。 中毒 に なって も 知りません よ 」
コトコト と 松葉杖 の 音 を させて 、その 薬品 を 棚 から 取り出し 、
「一箱 は 、あげられません よ 。 すぐ 使って しまう のだ もの 。 半分 ね 」
「ケチ だ なあ 、まあ 、仕方 が 無い や 」
家 へ 帰って 、すぐに 一 本 、注射 を します 。
「痛く ない んです か ? 」
ヨシ子 は 、おどおど 自分 に たずねます 。
「それ あ 痛い さ 。 でも 、仕事 の 能率 を あげる ために は 、いや で も これ を やら なければ いけない んだ 。 僕 は この頃 、とても 元気 だろう ? さあ 、仕事 だ 。 仕事 、 仕事 」
と はしゃぐ のです 。
深夜 、薬屋 の 戸 を たたいた 事 も ありました 。 寝 巻 姿 で 、コトコト 松葉杖 を ついて 出て 来た 奥さん に 、いきなり 抱きついて キス して 、泣く 真似 を しました 。
奥さん は 、黙って 自分 に 一箱 、手渡しました 。
薬品 も また 、焼酎 同様 、いや 、それ 以上 に 、いまわしく 不潔な もの だ と 、つくづく 思い知った 時 に は 、既に 自分 は 完全な 中毒 患者 に なって いました 。 真に 、 恥知らずの 極 きわみ でした 。 自分 は その 薬品 を 得たい ばかりに 、また も 春 画 の コピイ を はじめ 、そうして 、あの 薬屋 の 不具 の 奥さん と 文字どおり の 醜 関係 を さえ 結びました 。
死にたい 、 いっそ 、 死にたい 、 もう 取返し が つか ない ん だ 、 どんな 事 を して も 、 何 を して も 、 駄目に なる だけ な ん だ 、 恥の上塗り を する だけ な ん だ 、 自転車 で 青葉 の 滝 など 、 自分 に は 望む べく も 無い ん だ 、 ただ けがらわしい 罪 に あさましい 罪 が 重なり 、 苦悩 が 増大 し 強烈に なる だけ な ん だ 、 死にたい 、 死な なければ なら ぬ 、 生きて いる の が 罪 の 種 な のだ 、 など と 思いつめて も 、 やっぱり 、 アパート と 薬屋 の 間 を 半 狂乱 の 姿 で 往復 して いる ばかりな のでした 。
いくら 仕事 を して も 、薬 の 使用量 も したがって ふえている ので 、薬代 の 借り が おそろしい ほど の 額 に のぼり 、奥さん は 、自分 の 顔 を 見る と 涙 を 浮べ 、自分 も 涙 を 流しました 。
地獄 。
この 地獄 から のがれる ため の 最後 の 手段 、 これ が 失敗 したら 、 あと は もう 首 を くくる ばかりだ 、 と いう 神 の 存在 を 賭 かける ほど の 決意 を 以 もって 、 自分 は 、 故郷 の 父 あて に 長い 手紙 を 書いて 、 自分 の 実情 一さい を ( 女 の 事 は 、 さすが に 書けません でした が ) 告白 する 事 に しました 。
しかし 、結果 は 一そう 悪く 、待て ど 暮せ ど 何の 返事 も 無く 、自分 は その 焦燥 と 不安 の ため に 、かえって 薬 の 量 を ふやして しまいました 。
今夜 、十 本 、一気に 注射 し 、そうして 大 川 に 飛び込もう と 、ひそかに 覚悟 を 極めた その 日 の 午後 、ヒラメ が 、悪魔 の 勘 で 嗅かぎつけた みたいに 、堀木 を 連れて あらわれました 。
「お前 は 、喀血 した んだって な 」
堀木 は 、 自分 の 前 に あぐら を かいて そう 言い 、 いま まで 見た 事 も 無い くらい に 優しく 微笑 ほほえみました 。 その 優しい 微笑 が 、ありがたくて 、うれしくて 、自分 は つい 顔 を そむけて 涙 を 流しました 。 そうして 彼 の その 優しい 微笑 一 つ で 、自分 は 完全に 打ち破られ 、葬り去られて しまった のです 。
自分 は 自動車 に 乗せられました 。 とにかく 入院 しなければ ならぬ 、あと は 自分たち に まかせなさい 、と ヒラメ も 、しんみり した 口調 で 、(それ は 慈悲深い と でも 形容 したい ほど 、もの静かな 口調 でした )自分 に すすめ 、自分 は 意志 も 判断 も 何も 無い 者 の 如く 、ただ メソメソ 泣き ながら 唯々 諾々 と 二人 の 言いつけ に 従う のでした 。 ヨシ子 も いれて 四人 、自分たち は 、ずいぶん 永い こと 自動車 に ゆられ 、あたり が 薄暗く なった 頃 、森 の 中 の 大きい 病院 の 、玄関 に 到着しました 。
サナトリアム と ばかり 思って いました 。
自分 は 若い 医師 の いやに 物やわらかな 、 鄭 重 ていちょうな 診察 を 受け 、 それ から 医師 は 、
「まあ 、しばらく ここ で 静養 する んです ね 」
と 、まるで 、はにかむ ように 微笑 して 言い 、ヒラメ と 堀木 と ヨシ子 は 、自分 ひとり を 置いて 帰る こと に なりました が 、ヨシ子 は 着換 の 衣類 を いれて ある 風呂敷 包 を 自分 に 手渡し 、それから 黙って 帯 の 間 から 注射器 と 使い残り の あの 薬品 を 差し出しました 。 やはり 、強 精 剤 だ と ばかり 思って いた のでしょうか 。
「いや 、もう 要らない 」
実に 、珍らしい 事 でした 。 すすめられて 、それ を 拒否 した の は 、自分 の それまでの 生涯 に 於いて 、その時 ただ 一度 、と いっても 過言 でない くらい な のです 。 自分 の 不幸 は 、拒否 の 能力 の 無い 者 の 不幸 でした 。 すすめられて 拒否 する と 、相手 の 心 に も 自分 の 心 に も 、永遠に 修繕 し得ない 白々しい ひび割れ が 出来る ような 恐怖 に おびやかされている のでした 。 けれども 、自分 は その 時 、あれほど 半狂乱 に なって 求めて いた モルヒネ を 、実に 自然に 拒否 しました 。 ヨシ子 の 謂 わ ば 「神 の 如き 無智 」に 撃たれた のでしょう か 。 自分 は 、あの 瞬間 、すでに 中毒 で なく なって いた ので は ない でしょう か 。