第 二 の 手記 (4)
好き だった から な の です 。 自分 に は 、その 人たち が 、気にいっていた から なのです 。 しかし 、それ は 必ずしも 、マルクス に 依って 結ばれた 親愛感 で は 無かった のです 。
非合法 。 自分 に は 、それ が 幽か に 楽しかった のです 。 むしろ 、居心地 が よかった のです 。 世の中 の 合法 という もの の ほうが 、かえって おそろしく 、(それに は 、底 知れず 強い もの が 予感 せられます )その からくり が 不可解 で 、とても その 窓 の 無い 、底冷え の する 部屋 に は 坐って おられず 、外 は 非合法 の 海 であっても 、それに 飛び込んで 泳いで 、やがて 死に 到る ほうが 、自分 に は 、いっそ 気楽 の ようでした 。
日 蔭者 ひかげ も の 、 と いう 言葉 が あります 。 人間 の 世 に 於いて 、みじめな 、敗者 、悪徳者 を 指差して いう 言葉 の よう です が 、自分 は 、自分 を 生れた 時 から の 日蔭者 の ような 気 が していて 、世間 から 、あれ は 日蔭者 だ と 指差されて いる 程 の ひと と 逢う と 、自分 は 、必ず 、優しい 心 に なる のです 。 そうして 、その 自分 の 「優しい 心 」は 、自身 で うっとり する くらい 優しい 心 でした 。
また 、犯人 意識 、と いう 言葉 も あります 。 自分 は 、 この人間 の 世の中 に 於 いて 、 一生 その 意識 に 苦しめられ ながら も 、 しかし 、 それ は 自分 の 糟 糠 そうこう の 妻 の 如き 好 伴侶 はんりょ で 、 そい つ と 二人きり で 侘 わびしく 遊び たわむれて いる と いう の も 、 自分 の 生きて いる 姿勢 の 一 つ だった かも 知れない し 、 また 、 俗に 、 脛 すね に 傷 持つ 身 、 と いう 言葉 も ある よう です が 、 その 傷 は 、 自分 の 赤ん坊 の 時 から 、 自然に 片方 の 脛 に あらわれて 、 長ずる に 及んで 治癒 する どころ か 、 いよいよ 深く なる ばかりで 、 骨 に まで 達し 、 夜 々 の 痛 苦 は 千変万化 の 地獄 と は 言い ながら 、 しかし 、( これ は 、たいへん 奇妙な 言い 方 です けど ) その 傷 は 、 次第に 自分 の 血肉 より も 親しく なり 、 その 傷 の 痛み は 、 すなわち 傷 の 生きて いる 感情 、 または 愛情 の 囁 ささやき の よう に さえ 思わ れる 、 そんな 男 に とって 、 れいの 地下 運動 の グルウプ の 雰囲気 が 、 へんに 安心で 、 居心地 が よく 、 つまり 、 その 運動 の 本来 の 目的 より も 、 その 運動 の 肌 が 、 自分 に 合った 感じ な のでした 。 堀 木 の 場合 は 、 ただ もう 阿 呆 の ひやかし で 、 いち ど 自分 を 紹介 し に その 会合 へ 行った きり で 、 マルキシスト は 、 生産 面 の 研究 と 同時に 、 消費 面 の 視察 も 必要だ など と 下手な 洒落 しゃれ を 言って 、 その 会合 に は 寄りつか ず 、 とかく 自分 を 、 その 消費 面 の 視察 の ほう に ばかり 誘い た がる のでした 。 思えば 、当時 は 、さまざまの 型 の マルキシスト が いた もの です 。 堀木 の ように 、虚栄 の モダニティ から 、それ を 自称 する 者 も あり 、また 自分 の ように 、ただ 非合法 の 匂い が 気にいって 、そこに 坐り込んでいる 者 も あり 、もしも これら の 実体 が 、マルキシズム の 真 の 信奉者 に 見破られたら 、堀木 も 自分 も 、烈火 の 如く 怒られ 、卑劣なる 裏切者 として 、たちどころに 追い払われた 事 でしょう 。 しかし 、自分 も 、また 、堀木 で さえ も 、なかなか 除名 の 処分 に 遭わ ず 、殊に も 自分 は 、その 非合法 の 世界 に 於いて は 、合法 の 紳士たち の 世界 に 於ける より も 、かえって のびのび と 、所謂 「健康 」に 振舞う 事 が 出来ました ので 、見込み のある 「同志 」として 、噴き出したくなる ほど 過度に 秘密めかした 、さまざまの 用事 を たのまれ る ほど に なった のです 。 また 、 事実 、 自分 は 、 そんな 用事 を いち ども 断った こと は 無く 、 平気で なんでも 引受け 、 へんに ぎくしゃく して 、 犬 ( 同志 は 、 ポリス を そう 呼んで いました ) に あやしま れ 不審 訊問 じんもん など を 受けて しくじる ような 事 も 無かった し 、 笑い ながら 、 また 、 ひと を 笑わ せ ながら 、 その あぶない ( その 運動 の 連中 は 、 一大事 の 如く 緊張 し 、 探偵 小説 の 下手な 真似 みたいな 事 まで して 、 極度の 警戒 を 用い 、 そうして 自分 に たのむ 仕事 は 、 まことに 、 あっけにとられる くらい 、 つまらない もの でした が 、 それ でも 、 彼 等 は 、 その 用事 を 、 さかんに 、 あぶな がって 力んで いる のでした ) と 、 彼 等 の 称する 仕事 を 、 とにかく 正確に やって のけて いました 。 自分 の その 当時 の 気持 と して は 、 党員 に なって 捕えられ 、 た と い 終身 、 刑務所 で 暮す よう に なった と して も 、 平気だった の です 。 世の中 の人間 の 「 実 生活 」 と いう もの を 恐怖 し ながら 、 毎夜 の 不眠 の 地獄 で 呻 うめいて いる より は 、 いっそ 牢屋 ろうや の ほう が 、 楽 かも 知れない と さえ 考えて いました 。
父 は 、桜木町 の 別荘 で は 、来客 やら 外出 やら 、同じ 家 に いて も 、三日 も 四日 も 自分 と 顔 を 合せる 事 が 無い ほど でした が 、しかし 、どうにも 、父 が けむったく 、おそろしく 、この 家 を 出て 、どこか 下宿 でも 、と 考え ながら も それ を 言い出せず に いた 矢先 に 、父 が その 家 を 売払う つもり らしい と いう 事 を 別荘 番 の 老爺 ろうや から 聞きました 。
父 の 議員 の 任期 も そろそろ 満期 に 近づき 、 いろいろ 理由 の あった 事 に 違い ありません が 、 もう これ きり 選挙 に 出る 意志 も 無い 様子 で 、 それ に 、 故郷 に 一 棟 、 隠居 所 など 建てたり して 、 東京 に 未練 も 無い らしく 、 たかが 、 高等 学校 の 一 生徒 に 過ぎない 自分 の ため に 、 邸宅 と 召使い を 提供 して 置く の も 、 むだな 事 だ と でも 考えた の か 、( 父 の 心 も また 、 世間 の人 たち の 気持ち と 同様に 、 自分 に は よく わかりません ) とにかく 、 その 家 は 、 間も無く人手 に わたり 、 自分 は 、 本郷 森川 町 の 仙遊 館 と いう 古い 下宿 の 、 薄暗い 部屋 に 引越 して 、 そうして 、 たちまち 金 に 困りました 。
それ まで 、 父 から 月々 、 きまった 額 の 小遣い を 手渡さ れ 、 それ は もう 、 二 、 三 日 で 無くなって も 、 しかし 、 煙草 も 、 酒 も 、 チイズ も 、 くだもの も 、 いつでも 家 に あった し 、 本 や 文房具 や その他 、 服装 に 関する もの など 一切 、 いつでも 、 近所 の 店 から 所 謂 「 ツケ 」 で 求められた し 、 堀 木 に お そば か 天丼 など を ごちそう して も 、 父 の ひいき の 町 内 の 店 だったら 、 自分 は 黙って その 店 を 出て も かまわ なかった のでした 。
それ が 急に 、下宿 の ひとり 住い に なり 、何もかも 、月々 の 定額 の 送金 で 間に合わせ なければ ならなく なって 、自分 は 、まごつきました 。 送金 は 、 やはり 、 二 、 三 日 で 消えて しまい 、 自分 は 慄然 りつぜんと し 、 心細 さ の ため に 狂う よう に なり 、 父 、 兄 、 姉 など へ 交互に お 金 を 頼む 電報 と 、 イサイフミ の 手紙 ( その 手紙 に 於 いて 訴えて いる 事情 は 、 ことごとく 、 お 道化 の 虚構 でした 。 人 に もの を 頼む のに 、 まず 、 その人 を 笑わ せる の が 上 策 と 考えて いた の です ) を 連発 する 一方 、 また 、 堀 木 に 教えられ 、 せっせと 質屋 が よい を はじめ 、 それ でも 、 いつも お 金 に 不自由 を して いました 。
所詮 、自分 に は 、何の 縁故 も 無い 下宿 に 、ひとり で 「生活 」して 行く 能力 が 無かった のです 。 自分 は 、 下宿 の その 部屋 に 、 ひと り で じっと して いる の が 、 おそろしく 、 いまにも 誰 か に 襲わ れ 、 一撃 せられる ような 気 が して 来て 、 街 に 飛び出して は 、 れいの 運動 の 手伝い を したり 、 或いは 堀 木 と 一緒に 安い 酒 を 飲み 廻ったり して 、 ほとんど 学業 も 、 また 画 の 勉強 も 放棄 し 、 高等 学校 へ 入学 して 、 二 年 目 の 十一 月 、 自分 より 年上 の 有 夫 の 婦人 と 情 死 事件 など を 起し 、 自分 の 身の上 は 、 一変 しました 。
学校 は 欠席 する し 、学科 の 勉強 も 、すこしも しなかった のに 、それでも 、妙に 試験 の 答案 に 要領 の いい ところ が ある ようで 、どうやら それまで は 、故郷 の 肉親 を あざむき 通して 来た のです が 、しかし 、もう そろそろ 、出席 日数 の 不足 など 、学校 の ほう から 内密に 故郷 の 父 へ 報告 が 行っている らしく 、父 の 代理 として 長兄 が 、いかめしい 文章 の 長い 手紙 を 、自分 に 寄こす ように なっていた のでした 。 けれども 、それ より も 、自分 の 直接 の 苦痛 は 、金 の 無い 事 と 、それから 、れいの 運動 の 用事 が 、とても 遊び半分 の 気持 で は 出来ない くらい 、はげしく 、いそがしく なって 来た 事 でした 。 中央 地区 と 言った か 、何 地区 と 言った か 、とにかく 本郷 、小石川 、下谷 、神田 、あの 辺 の 学校 全部 の 、マルクス 学生 の 行動隊 々長 と いう もの に 、自分 は なって いた のでした 。 武装 蜂起 ほうき 、 と 聞き 、 小さい ナイフ を 買い ( いま 思えば 、 それ は 鉛筆 を けずる に も 足りない 、 きゃしゃな ナイフ でした ) それ を 、 レンコオト の ポケット に いれ 、 あちこち 飛び 廻って 、 所 謂 いわゆる 「 聯絡 れんらく 」 を つける のでした 。 お酒 を 飲んで 、ぐっすり 眠りたい 、しかし 、お金 が ありません 。 しかも 、 P (党 の 事 を 、そういう 隠語 で 呼んで いた と 記憶 して います が 、或いは 、違って いる かも 知れません )の ほう から は 、次々 と 息 を つく ひま も 無い くらい 、用事 の 依頼 が まいります 。 自分 の 病弱 の からだ で は 、とても 勤まり そう も 無くなりました 。 もともと 、非合法 の 興味 だけ から 、その グルウプ の 手伝い を して いた の ですし 、こんなに 、それこそ 冗談 から 駒 が 出た ように 、いやに いそがしく なって 来る と 、自分 は 、ひそかに P の ひとたち に 、それ は お 門 か どちがい でしょう 、あなたたち の 直系 の ものたち に やらせたら どうですか 、と いう ような いまいましい 感 を 抱く のを 禁ずる 事 が 出来ず 、逃げました 。 逃げて 、さすが に 、いい 気持 は せず 、死ぬ 事 に しました 。
その頃 、自分 に 特別の 好意 を 寄せて いる 女 が 、三 人 いました 。 ひとり は 、自分 の 下宿 している 仙遊館 の 娘 でした 。 この 娘 は 、 自分 が れいの 運動 の 手伝い で へとへとに なって 帰り 、 ごはん も 食べ ず に 寝て しまって から 、 必ず 用 箋 ようせ ん と 万年筆 を 持って 自分 の 部屋 に やって 来て 、
「 ごめんなさい 。 下 で は 、妹 や 弟 が うるさくて 、ゆっくり 手紙 も 書け ない のです 」
と 言って 、何やら 自分 の 机 に 向って 一 時間 以上 も 書いている のです 。
自分 も また 、 知らん振り を して 寝て おれば いい のに 、 いかにも その 娘 が 何 か 自分 に 言って もらい た げ の 様子 な ので 、 れい の 受け身の 奉仕 の 精神 を 発揮 して 、 実に 一言 も 口 を きき たくない 気持 な のだ けれども 、 くたくたに 疲れ 切って いる から だ に 、 ウム と 気合い を かけて 腹這 はらばい に なり 、 煙草 を 吸い 、
「女 から 来た ラヴ ・レター で 、風呂 を わかして は いった 男 が ある そうです よ 」
「あら 、いやだ 。 あなた でしょう ? 」
「ミルク を わかして 飲んだ 事 は ある んです 」
「光栄 だ わ 、飲んで よ 」
早く この ひと 、帰ら ねえ か なあ 、手紙 だ なんて 、見えすいて いる のに 。 へ へ の の も へ じ でも 書いて いる の に 違いない ん です 。
「見せて よ 」
と 死んで も 見 たく ない 思い で そう 言えば 、あら 、いや よ 、あら 、いや よ 、と 言って 、その うれしがる 事 、ひどく みっともなく 、興 が 覚める ばかりな のです 。 そこ で 自分 は 、用事 でも 言いつけて やれ 、と 思う んです 。
「すまない けど ね 、電車 通り の 薬屋 に 行って 、カルモチン を 買って 来て くれない ? あんまり 疲れ すぎて 、顔 が ほてって 、かえって 眠れ ない んだ 。 すまない ね 。 お 金 は 、…… 」
「いい わ よ 、お金 なんか 」
よろこんで 立ちます 。 用 を 言いつける という の は 、決して 女 を しょげ させる 事 で は なく 、かえって 女 は 、男 に 用事 を たのまれ る と 喜ぶ もの だ と いう 事 も 、自分 は ちゃんと 知っている のでした 。
もう ひとり は 、女子 高等 師範 の 文科 生 の 所謂 「同志 」でした 。 この ひと と は 、れいの 運動 の 用事 で 、いやで も 毎日 、顔 を 合せ なければ ならなかった のです 。 打ち合せ が すんで から も 、その 女 は 、いつまでも 自分 に ついて 歩いて 、そうして 、やたらに 自分 に 、もの を 買って くれる のでした 。