41.2 或る 女
古藤 は 思い 入った ふうで 、油 で よごれた 手 を 幾度 も まっ黒 に 日 に 焼けた 目 が しら の 所 に 持って行った 。 蚊 が ぶんぶん と 攻め かけて 来る の も 忘れた ようだった 。 葉子 は 古藤 の 言葉 を もう それ 以上 は 聞いて いられ なかった 。 せっかく そっと して 置いた 心 の よどみ が かきまわされて 、見まい と して いた きたない もの が ぬらぬらと 目の前 に 浮き出て 来る ようで も あった 。 塗りつぶし 塗りつぶし して いた 心 の 壁 に ひび が 入って 、そこ から 面 も 向けられ ない 白い 光 が ちらと さす ように も 思った 。 もう しかし それは すべて あまり おそい 。 葉子 は そんな 物 を 無視 して かかる ほか に 道 が ない と 思った 。 ごまかしては いけない と 古藤 の いった 言葉 は その 瞬間 に も すぐ 葉子 に きびしく 答えた けれども 、葉子 は 押し切って そんな 言葉 を かなぐり捨て ないで はいら れない と 自分 から あきらめた 。 ・・
「よく わかりました 。 あなたの おっしゃる 事 は いつでも わたし に は よく わかります わ 。 その うち わたし きっと 木村 の ほう に 手紙 を 出す から 安心 して ください まし 。 このごろ は あなた の ほう が 木村 以上 に 神経質に なって いらっしゃる ようだ けれども 、御 親切 は よく わたし に も わかります わ 。 倉地 さん だって あなた の お 心持ち は 通じて いる に 違いない んです けれども 、あなた が ……なんと いったら いい でしょう ねえ ……あなた が あんまり 真 正面 から おっしゃる もん だ から 、つい 向っ腹 を お 立て な すった んでしょう 。 そう でしょう 、ね 、倉地 さん 。 ……こんな いやな お話 は これ だけ にして 妹 たち でも 呼んで おもしろい お話 でも しましょう 」・・ 「 僕 が もっと 偉い と 、 いう 事 が もっと 深く 皆さん の 心 に は いる ん です が 、 僕 の いう 事 は ほんとうの 事 だ と 思う ん だ けれども しかた が ありません 。 それじゃ きっと 木村に 書いて やって ください 。 僕 自身 は 何も 物 数 寄 らしく その 内容 を 知りたい と は 思ってる わけじゃない ん です から ……」・・
古藤 が まだ 何か いおう と して いる 時 に 愛子 が 整頓 風呂敷 の 出来上がった の を 持って 、二階 から 降りて 来た 。 古藤 は 愛子 から それ を 受け取る と 思い出した ように あわてて 時計 を 見た 。 葉子 は それ に は 頓着 し ない ように 、・・
「愛さ ん あれ を 古藤 さん に お 目 に かけよう 。 古藤 さん ちょっと 待って い らしって ね 。 今 おもしろい もの を お目 に かける から 。 貞 ちゃん は 二階 ? いない の ? どこに 行った んだろう ……貞ちゃん ! 」・・
こう いって 葉子が 呼ぶと 台所の ほうから 貞世が 打ち沈んだ 顔を して 泣いた あとの ように 頬を 赤く して は いって 来た 。 やはり 自分の いった 言葉に 従って 一人 ぽっちで 台所に 行って すすぎ 物を して いた のか と 思うと 、葉子は もう 胸が 逼って 目の 中が 熱く なる のだった 。 ・・
「 さあ 二人 で この 間 学校 で 習って 来た ダンス を して 古藤 さん と 倉地 さん と に お 目 に お かけ 。 ちょっと コティロン の [#「 コティロン の 」 は 底 本 で は 「 コテイロン の 」] ようで また 変わって います の 。 さ 」・・
二人は 十畳の 座敷の ほうに 立って 行った 。 倉地は これを きっかけに からっと 快活に なって 、今までの 事は 忘れた ように 、古藤にも 微笑を 与えながら 「それは おもしろかろう 」と いいつつ あとに 続いた 。 愛子の 姿を 見ると 古藤も 釣り込まれる ふうに 見えた 。 葉子は 決して それを 見のがさなかった 。 ・・
可憐な 姿 を した 姉 と 妹 と は 十 畳 の 電燈 の 下 に 向かい合って 立った 。 愛子 は いつでも そう な ように こんな 場合 でも いかにも 冷静だった 。 普通ならば その 年ごろ の 少女 と して は 、 やり 所 も ない 羞恥 を 感ずる はずである のに 、 愛子 は 少し 目 を 伏せて いる ほか に は しらじらと して いた 。 き ゃっき ゃっと うれし がったり 恥ずかし がったり する 貞 世 は その 夜 は どうした もの か ただ 物 憂 げ に そこ に しょんぼり と 立った 。 その 夜 の 二人 は 妙に 無感情な 一対の 美しい 踊り手 だった 。 葉子 が 「一二三 」と 相図 を する と 、二人 は 両手 を 腰骨 の 所 に 置き添えて 静かに 回旋し ながら 舞い始めた 。 兵営 の 中 ばかりに いて 美しい ものを 全く 見なかった らしい 古藤 は 、しばらくは 何事も 忘れた ように 恍惚として 二人の 描く 曲線 の さまざまに 見とれていた 。 ・・
と 突然 貞 世 が 両 袖 を 顔 に あてた と 思う と 、 急に 舞い の 輸 から それて 、 一 散 に 玄関 わき の 六 畳 に 駆け込んだ 。 六 畳 に 達しない うち に 痛ましく すすり泣く 声 が 聞こえ 出した 。 古藤 は はっと あわてて そっち に 行こう と した が 、 愛子 が 一人 に なって も 、 顔色 も 動かさ ず に 踊り 続けて いる の を 見る と そのまま また 立ち止まった 。 愛子 は 自分 の し 遂 す べき 務め を し 遂 せる 事 に 心 を 集める 様子 で 舞い つづけた 。 ・・
「 愛さ ん ちょっと お 待ち 」・・
と いった 葉子 の 声 は 低い ながら 帛 を 裂く よう に 疳癖 らしい 調子 に なって いた 。 別室に 妹の 駆け込んだ のを 見向きも しない 愛子の 不人情さ を 憤る 怒り と 、命ぜられた 事を 中途半端で やめてしまった 貞世を 憤る 怒り と で 葉子は 自制が できない ほど ふるえていた 。 愛子は 静かに そこに 両手を 腰から おろして 立ち止まった 。 ・・
「貞ちゃん なんです その 失礼は 。 出て おいで なさい 」・・
葉子 は 激しく 隣室 に 向かって こう 叫んだ 。 隣室 から 貞世 の すすり泣く 声 が 哀れに も まざまざと 聞こえて 来る だけ だった 。 抱きしめて も 抱きしめて も 飽き足ら ない ほど の 愛着 を そのまま 裏返した ような 憎しみ が 、葉子 の 心 を 火 の ように した 。 葉子 は 愛子 に きびしく いいつけて 貞世 を 六畳 から 呼び返さした 。 ・・
やがて その 六 畳 から 出て 来た 愛子 は 、 さすが に 不安な 面持ち を して いた 。 苦しくって たまらない と いう から 額 に 手 を あてて 見たら 火 の よう に 熱い と いう のだ 。 ・・
葉子 は 思わず ぎょっとした 。 生まれ落ちる とから 病気 一つ せずに 育って 来た 貞世 は 前から 発熱 して いた のを 自分 で 知らずに いた に 違いない 。 気むずかしく なって から 一週間 ぐらい に なる から 、何か の 熱病 に かかった と すれば 病気 は かなり 進んで いた はずだ 。 ひょっとすると 貞世 は もう 死ぬ ……それを 葉子 は 直覚した ように 思った 。 目の前で 世界が 急に 暗くなった 。 電灯の 光も 見えない ほどに 頭の中が 暗い 渦巻きで いっぱいに なった 。 え ゝ 、 いっその事 死んで くれ 。 この 血 祭り で 倉地 が 自分 に はっきり つながれて しまわ ない と だれ が いえよう 。 人身 御供 に して しまおう 。 そう 葉子 は 恐怖 の 絶頂 に あり ながら 妙に しんと した 心持ち で 思いめぐらした 。 そして そこ に ぼんやり した まま 突っ立って いた 。 ・・
いつのまに 行った のか 、倉地 と 古藤 とが 六畳 の 間 から 首を 出した 。 ・・
「お葉さん ……ありゃ 泣いた ため ばかり の 熱 じゃ ない 。 早く 来て ごらん 」・・
倉地 の あわてる ような 声 が 聞こえた 。 ・・
それ を 聞く と 葉子 は 始めて 事 の 真相 が わかった ように 、夢 から 目ざめた ように 、急に 頭 が はっきり して 六 畳 の 間 に 走り込んだ 。 貞世 は ひときわ 背たけ が 縮まった ように 小さく 丸まって 、座ぶとん に 顔 を 埋めて いた 。 膝 を ついて そば に よって 後頸 の 所 に さわって みる と 、気味 の 悪い ほど の 熱 が 葉子 の 手 に 伝わって 来た 。 ・・
その 瞬間 に 葉子 の 心 は でんぐり 返し を 打った 。 いとしい 貞 世 に つらく 当たったら 、そして もし 貞 世 が その ため に 命 を 落とす ような 事 でも あったら 、倉地 を 大丈夫 つかむ 事 が できる と 何 が なし に 思い込んで 、しかも それ を 実行 した 迷信 と も 妄想 と も たとえよう の ない 、狂気 じみた 結願 が なんの 苦 も なく ばらばらに くずれて しまって 、その 跡 に は どうかして 貞 世 を 活 かしたい と いう 素直な 涙ぐましい 願い ばかり が しみじみと 働いて いた 。 自分 の 愛する もの が 死ぬ か 活 きる か の 境目 に 来た と 思う と 、 生 へ の 執着 と 死 へ の 恐怖 と が 、 今 まで 想像 も 及ば なかった 強 さ で ひしひし と 感ぜられた 。 自分 を 八つ裂き に して も 貞 世 の 命 は 取りとめ なくては ならぬ 。 もし 貞 世 が 死ねば それ は 自分 が 殺した んだ 。 何も 知ら ない 、神 の ような 少女 を ……葉子 は あらぬ こと まで 勝手に 想像 して 勝手に 苦しむ 自分 を たしなめる つもりで いて も 、それ 以上 に 種々な 予想 が 激しく 頭 の 中 で 働いた 。 ・・
葉子 は 貞世 の 背 を さすり ながら 、嘆願 する ように 哀恕 を 乞う ように 古藤 や 倉地 や 愛子 まで を 見まわした 。 それ らの 人々 は いずれ も 心痛 げ な 顔色 を 見せて いない で は なかった 。 しかし 葉子 から 見る と それ は みんな 贋物 だった 。 ・・
やがて 古藤 は 兵 営 へ の 帰途 医者 を 頼む と いって 帰って 行った 。 葉子 は 、 一人 でも 、 どんな人 でも 貞 世 の 身 ぢか から 離れて 行く の を つらく 思った 。 そんな 人 たち は 多少 でも 貞世 の 生命 を 一緒に 持って行って しまう ように 思われて なら なかった 。 ・・
日 は とっぷり 暮れて しまった けれども どこ の 戸締まり も し ない この 家 に 、古藤 が いって よこした 医者 が やって 来た 。 そして 貞世 は 明らかに 腸 チブス に かかって いる と 診断 されて しまった 。