39.2 或る 女
急に 周囲 に は 騒がしい 下宿 屋 らしい 雑音 が 聞こえ 出した 。 葉子 を うるさがら した その 黒い 影 は 見る見る 小さく 遠ざかって 、 電 燈 の 周囲 を きり きり と 舞い 始めた 。 よく 見る と それ は 大きな 黒い 夜 蛾 だった 。 葉子 は 神がかり が 離れた ように きょとんと なって 、不思議そうに 居ずまい を 正して みた 。 ・・
どこ まで が 真実で 、どこ まで が 夢 なんだろう ……。 ・・
自分 の 家 を 出た 、それに 間違い は ない 。 途中 から 取って返して 風呂 を つかった 、……なんの ために ? そんな ばかな 事 を する はず が ない 。 でも 妹 たち の 手ぬぐい が 二 筋 ぬれて 手ぬぐい かけ の 竹 竿 に かかって いた 、(葉子 は そう 思い ながら 自分 の 顔 を なでたり 、手の甲 を 調べて 見たり した 。 そして 確かに 湯に はいった 事を 知った 。 )それなら それで いい 。 それから 双鶴館 の 女将 の あとを つけた のだったが 、……あのへんから 夢に なったのか しらん 。 あす こ に いる 蛾 を もやもや した 黒い 影 の よう に 思ったり して いた 事 から 考えて みる と 、 いまいまし さ から 自分 は 思わず 背たけ の 低い 女 の 幻影 を 見て いた の かも しれない 。 それにしても いる はずの 倉地 が いない と いう 法 は ない が ……葉子 は どうしても 自分 の して 来た 事 に はっきり 連絡 を つけて 考える 事 が でき なかった 。 ・・
葉子 は ……自分 の 頭 で は どう 考えて みよう も なくなって 、ベル を 押して 番頭 に 来て もらった 。 ・・
「あの う 、あとで この 蛾 を 追い出して おいてください な ……それから ね 、さっき ……といった ところが どれほど 前だか わたしにも はっきりしませんが ね 、ここに 三十 格好 の 丸髷 を 結った 女の人が 見えましたか 」・・
「こちら 様に は どなたも お見えに は なりません が ……」・・
番頭は 怪訝な 顔を して こう 答えた 。 ・・
「こちら 様 だろう が な んだろう が 、そんな 事 を 聞く んじゃ ない の 。 この 下宿 屋 から そんな 女 の 人 が 出て 行きました か 」・・
「さよう ……へ 、一 時間 ばかり 前 なら お 一 人 お 帰り に なりました 」・・
「双 鶴 館 の お 内 儀 さん でしょう 」・・
図星 を さされたろう と いわんばかり に 葉子 は わざと 鷹 揚 な 態度 を 見せて こう 聞いて みた 。 ・・
「 い ゝ え そうじゃ ございませ ん 」・・
番頭 は 案外に も そう きっぱり と いい切って しまった 。 ・・
「 それ じゃ だれ 」・・
「 とにかく 他の お 部屋 に おい で なさった お 客 様 で 、 手前 ども の 商売 上 お 名前 まで は 申し上げ 兼ねます が 」・・
葉子 も この上 の 問答 の 無益な の を 知って そのまま 番頭 を 返して しまった 。 ・・
葉子 は もう 何者 も 信用 する 事 が でき なかった 。 ほんとうに 双 鶴 館 の 女将 が 来た ので は ない らしく も あり 、 番頭 まで が 倉地 とぐ る に なって いて しらじらしい 虚 言 を ついた よう に も あった 。 ・・
何事 も 当て には なら ない 。 何事 も うそ から 出た 誠 だ 。 ……葉子 は ほんとうに 生きて いる 事 が いやに なった 。 ・・
……そこ まで 来て 葉子 は 始めて 自分 が 家 を 出て 来た ほんとうの 目的 が な んである か に 気づいた 。 すべて に つまずいて 、すべて に 見限られて 、すべて を 見限ろう と する 、苦し みぬいた 一 つ の 魂 が 、虚無 の 世界 の 幻 の 中 から 消えて 行く のだ 。 そこ に は 何の 未練 も 執着 も ない 。 うれしかった 事 も 、悲しかった 事 も 、悲しんだ 事 も 、苦しんだ 事 も 、畢竟 は 水 の 上 に 浮いた 泡 が また はじけて 水 に 帰る ような もの だ 。 倉地 が 、死骸 に なった 葉子 を 見て 嘆こう が 嘆く まい が 、その 倉地 さえ 幻 の 影 で は ない か 。 双鶴館 の 女将 だ と 思った 人 が 、他人 であった ように 、他人 だ と 思った その 人 が 、案外 双鶴館 の 女将 である かも しれない ように 、生きる と いう 事 が それ 自身 幻影 で なくって なんであろう 。 葉子 は 覚め きった ような 、眠り ほ うけて いる ような 意識 の 中 で こう 思った 。 しんしんと 底 も 知ら ず 澄み 透った 心 が ただ 一つ ぎりぎり と 死 の ほう に 働いて 行った 。 葉子 の 目 に は 一 しずく の 涙 も 宿って は い なかった 。 妙に さえて 落ち付き 払った ひとみ を 静かに 働か して 、部屋 の 中 を 静かに 見回して いた が 、やがて 夢遊病者 の ように 立ち上がって 、戸棚 の 中 から 倉地 の 寝具 を 引き出して 来て 、それ を 部屋 の まん 中 に 敷いた 。 そうして しばらく の 間 その 上 に 静かに すわって 目 を つぶって みた 。 それから また 立ち上がって 全く 無感情 な 顔つき を し ながら 、もう 一度 戸棚 に 行って 、倉地 が 始終 身近に 備えて いる ピストル を あちこち と 尋ね 求めた 。 しまい に それ が 本箱 の 引き出し の 中 の 幾 通 か の 手紙 と 、 書き そこね の 書類 と 、 四五 枚 の 写真 と が ごっちゃ に し まい込んで ある その 中 から 現われ 出た 。 葉子 は 妙に 無関心な 心持ち で それ を 手 に 取った 。 そして 恐ろしい もの を 取り扱う ように それ を からだ から 離して 右手 に ぶら下げて 寝床 に 帰った 。 そのくせ 葉子 は 露 ほど も その 凶器 に おそれ を いだいて いる わけで は なかった 。 寝床 の まん中 に すわって から ピストル を 膝 の 上 に 置いて 手 を かけた まま しばらく ながめて いた が 、やがて それを 取り上げる と 胸 の 所 に 持って 来て 鶏頭 を 引き上げた 。 ・・
きりっと 歯切れ の いい 音 を 立てて 弾筒 が 少し 回転 した 。 同時に 葉子 の 全身 は 電気 を 感じた ように びりっと おののいた 。 しかし 葉子 の 心 は 水 が 澄んだ ように 揺がなかった 。 葉子 は そうした まま 短銃 を また 膝 の 上 に 置いて じっと ながめていた 。 ・・
ふと 葉子 は ただ 一 つ し 残した 事 の ある のに 気 が 付いた 。 それ が な んである か を 自分 でも はっきり とは 知ら ず に 、いわば 何物 か の 余儀ない 命令 に 服従 する ように 、また 寝床 から 立ち上がって 戸棚 の 中 の 本箱 の 前 に 行って 引き出し を あけた 。 そして そこ に あった 写真 を 丁寧に 一枚ずつ 取り上げて 静かに ながめる のだった 。 葉子 は 心 ひそかに 何 を して いる んだろう と 自分 の 動作 を 怪しんで いた 。 ・・
葉子 は やがて 一 人 の 女 の 写真 を 見つめて いる 自分 を 見いだした 。 長く 長く 見つめて いた 。 ……その うち に 、白痴 が どうかして だんだん 真人間 に かえる 時 は そう も あろう か と 思われる ように 、葉子 の 心 は 静かに 静かに 自分 で 働く ように なって 行った 。 女 の 写真 を 見て どう する のだろう と 思った 。 早く 死ななければ いけない のだが と 思った 。 いったい その 女 は だれ だろう と 思った 。 ……それは 倉地 の 妻 の 写真 だった 。 そうだ 倉地 の 妻 の 若い 時 の 写真 だ 。 なるほど 美しい 女 だ 。 倉地 は 今でも この 女 に 未練 を 持って いる だろうか 。 この 妻 には 三人 の かわいい 娘 が ある のだ 。 「今でも 時々 思い出す 」そう 倉地 の いった 事 が ある 。 こんな 写真 が いったい この 部屋 な んぞ に あって は なら ない のだ が 。 それ は ほんとうに なら ない のだ 。 倉地 は まだ こんな もの を 大事に して いる 。 この 女 は いつまでも 倉地 に 帰って 来よう と 待ち構えて いる のだ 。 そして まだ この 女 は 生きて いる のだ 。 それ が 幻 な もの か 。 生きて いる のだ 、生きて いる のだ 。 ……死な れる か 、それで 死な れる か 。 何が 幻だ 、何が 虚無だ 。 この とおり この 女は 生きている ではないか ……危うく ……危うく 自分は 倉地を 安堵させる 所だった 。 そして この 女を ……この まだ 生のある この 女を 喜ばせる ところだった 。 ・・
葉子 は 一 刹那 の 違い で 死 の 界 から 救い出さ れた 人 の ように 、驚喜 に 近い 表情 を 顔 いちめん に みなぎら して 裂ける ほど 目 を 見張って 、写真 を 持った まま 飛び上がら ん ばかりに 突っ立った が 、急に 襲いかかる やるせない 嫉妬 の 情 と 憤怒 と に おそろしい 形相 に なって 、歯 が み を し ながら 、写真 の 一端 を くわえて 、「い ゝ ……」と いい ながら 、総身 の 力 を こめて まっ二 つ に 裂く と 、いきなり 寝床 の 上 に どう と 倒れて 、物 すごい 叫び声 を 立て ながら 、涙 も 流さ ず に 叫び に 叫んだ 。 ・・
店 の もの が あわてて 部屋 に は いって 来た 時 に は 、葉子 は しおらしい 様子 を して 、短銃 を 床 の 下 に 隠して しまって 、しくしく と ほんとうに 泣いて いた 。 ・・
番頭 は やむを得ず 、てれ隠しに 、・・
「夢でも 御覧になりましたか 、たいそうな お声 だった ものですから 、つい 御案内も いたさず 飛び込んで しまいまして 」・・
といった 。 葉子は 、・・
「え ゝ 夢 を 見ました 。 あの 黒い 蛾 が 悪い んです 。 早く 追い出して ください 」・・
そんな わけ の わから ない 事 を いって 、ようやく 涙 を 押しぬぐった 。 ・・
こういう 発作 を 繰り返す たび ごと に 、 葉子 の 顔 は 暗く ばかり なって 行った 。 葉子 に は 、 今 まで 自分 が 考えて いた 生活 の ほか に 、 もう 一 つ 不可思議な 世界 が ある よう に 思われて 来た 。 そうして やや ともすれば その 両方 の 世界 に 出たり は いったり する 自分 を 見いだす のだった 。 二人 の 妹 たち は ただ はらはら して 姉 の 狂暴な 振る舞い を 見守る ほか は なかった 。 倉地 は 愛子 に 刃物 などに 注意 しろ と いったり した 。 ・・
岡 の 来た 時 だけは 、葉子 の きげんは 沈む ような 事は あっても 狂暴に なる 事は 絶えて なかった ので 、岡は 妹 たちの 言葉 に さして 重きを 置いて いない ように 見えた 。