37.2 或る 女
倉地 は どんどん 歩いて 二 人 の 話し声 が 耳に 入らぬ くらい 遠ざかった 。 葉子 は 木部 の 口から 例の 感傷的な 言葉が 今 出るか 今 出るか と 思って 待っていた けれども 、木部には いささかも そんな ふうは なかった 。 笑い ばかりでなく 、すべてに うつろな 感じが する ほど 無感情に 見えた 。 ・・
「 あなた は ほんとうに 今 何 を なさって いらっしゃいます の 」・・
と 葉子 は 少し 木部 に 近よって 尋ねた 。 木部 は 近寄ら れた だけ 葉子 から 遠のいて また うつろに 笑った 。 ・・
「 何 を する もん です か 。 人間 に 何 が できる もん です か 。 …… もう 春 も 末 に なりました ね 」・・
途轍もない 言葉を しいて くっ付けて 木部 は その よく 光る 目で 葉子を 見た 。 そして すぐ その 目を 返して 、遠ざかった 倉地を こめて 遠く 海と 空と の 境目に ながめ入った 。 ・・
「わたし あなたと ゆっくり お話が してみたい と 思います が ……」・・
こう 葉子 は しんみり ぬすむ ように いって みた 。 木部 は 少しも それに 心を 動かされ ない ように 見えた 。 ・・
「そう ……それも おもしろい かな 。 ……わたし は これ でも 時おり は あなた の 幸福 を 祈ったり して います よ 、おかしな もん です ね 、ハヽヽヽ (葉子 が その 言葉 に つけ入って 何か いおう と する の を 木部 は 悠々と おっかぶせて )あれ が 、あすこ に 見える の が 大島 です 。 ぽつんと 一つ 雲 か 何か の よう に 見える でしょう 空 に 浮いて ……大島って 伊豆 の 先 の 離れ島 です 、あれ が わたし の 釣り を する 所 から 正面 に 見える んです 。 あれ で いて 、日 に よって 色 が さまざまに 変わります 。 どうかする と 噴煙 が ぽーっと 見える 事 も あります よ 」・・
また 言葉 が ぽつんと 切れて 沈黙 が 続いた 。 下駄 の 音 の ほか に 波 の 音 も だんだん と 近く 聞こえ 出した 。 葉子 は ただただ 胸 が 切なく なる の を 覚えた 。 もう 一度 どうしても ゆっくり 木部 に あいたい 気 に なって いた 。 ・・
「木部 さん ……あなた さぞ わたしを 恨んで いらっしゃいましょう ね 。 …… けれども わたし あなた に どうしても 申し上げて おきたい 事 が あります の 。 なんとかして 一度 わたしに 会って くださいません ? その うちに 。 わたし の 番地 は …… 」 ・・
「 お 会い しましょう 『 その うち に 』…… その うち に は いい 言葉 です ね …… その うち に ……。 話 が ある から と 女 に いわれた 時 に は 、 話 を 期待 し ないで 抱擁 か 虚無 か を 覚悟 しろって 名言 が あります ぜ 、 ハヽヽヽヽ 」・・
「それは あんまりな おっしゃりかた ですわ 」・・
葉子は きわめて 冗談の ように また きわめて まじめの ように こう いって みた 。 ・・
「あんまりか あんまりでないか ……とにかく 名言には 相違 ありますまい 、ハヽヽヽヽ 」・・
木部 は また うつろに 笑った が 、また 痛い 所 に でも 触れた ように 突然 笑い やんだ 。 ・・
倉地 は 波打ちぎわ 近く まで 来て も 渡れ そう も ない ので 遠く から こっち を 振り向いて 、むずかしい 顔 を して 立って いた 。 ・・
「どれ お 二 人 に 橋渡し を して 上げましょう かな 」・・
そう いって 木部 は 川 べ の 葦 を 分けて しばらく 姿 を 隠して いた が 、やがて 小さな 田 舟 に 乗って 竿 を さして 現われて 来た 。 その 時 葉子 は 木部 が 釣り 道具 を 持って いない のに 気 が ついた 。 ・・
「あなた 釣り竿 は 」・・
「釣り竿 ですか ……釣り竿 は 水 の 上 に 浮いてる でしょう 。 いまに ここまで 流れて 来る か ……来ない か ……」・・
そう 応えて 案外 上手に 舟 を 漕いだ 。 倉地 は 行き過ぎた だけ を 忙い で 取って返して 来た 。 そして 三人 は あぶなかしく 立ったまま 舟に 乗った 。 倉地 は 木部 の 前も 構わず わきの 下に 手を 入れて 葉子を かかえた 。 木部 は 冷然と して 竿を 取った 。 三 突き ほど で たわいなく 舟 は 向こう岸 に 着いた 。 倉地 が いちはやく 岸 に 飛び上がって 、手 を 延ばして 葉子 を 助けよう と した 時 、木部 が 葉子 に 手 を 貸して いた ので 、葉子 は すぐに それ を つかんだ 。 思いきり 力 を こめた ため か 、 木部 の 手 が 舟 を 漕いだ ため だった か 、 とにかく 二人 の 手 は 握り合わ された まま 小刻みに はげしく 震えた 。 ・・
「やっ 、どうも ありがとう 」・・
倉地 は 葉子 の 上陸 を 助けて くれた 木部 に こう 礼 を いった 。 ・・
木部 は 舟 から は 上がら なかった 。 そして 鍔広 の 帽子 を 取って 、・・
「それじゃ これで お別れします 」・・
といった 。 ・・
「暗く なりました から 、お 二 人 とも 足 もとに 気を おつけなさい 。 さようなら 」・・
と 付け加えた 。 ・・
三 人 は 相当 の 挨拶 を 取りかわして 別れた 。 一 町 ほど 来て から 急に 行く手 が 明るく なった ので 、見る と 光明寺 裏 の 山 の 端 に 、夕月 が 濃い 雲 の 切れ目 から 姿 を 見せた のだった 。 葉子 は 後ろ を 振り返って 見た 。 紫色 に 暮れた 砂 の 上 に 木部 が 舟 を 葦間 に 漕ぎ 返して 行く 姿 が 影絵 の ように 黒く ながめられた 。 葉子 は 白 琥珀 の パラソル を ぱっと 開いて 、倉地 には いたずらに 見える ように 振り 動かした 。 ・・
三四 町 来て から 倉地 が 今度 は 後ろ を 振り返った 。 もう そこ には 木部 の 姿 は なかった 。 葉子 は パラソル を 畳もう と して 思わず 涙ぐんで しまって いた 。 ・・
「 あれ は いったい だれ だ 」・・
「 だれ だって いい じゃ ありません か 」・・
暗さ に まぎれて 倉地 に 涙 は 見せ なかった が 、葉子 の 言葉 は 痛ましく 疳走って いた 。 ・・
「ローマンス の たくさん ある 女 は ちがった もの だ な 」・・
「え ゝ 、その とおり ……あんな 乞食 みたいな 見っと も ない 恋人 を 持った 事 が ある の よ 」・・
「さすがは お前だ よ 」・・
「だから 愛想が 尽きた でしょう 」・・
突如と して また いい よう のない さびし さ 、 哀し さ 、 くやし さ が 暴風 の よう に 襲って 来た 。 また 来た と 思っても それは もう おそかった 。 砂 の 上 に 突っ伏して 、今にも 絶え入りそうに 身もだえする 葉子 を 、倉地 は 聞こえぬ 程度 に 舌打ち しながら 介抱 せねばならなかった 。 ・・
その 夜 旅館 に 帰って から も 葉子 は いつまでも 眠ら なかった 。 そこに 来て 働く 女中 たち を 一人一人 突慳貪に きびしく たしなめた 。 しまいには 一人 として 寄りつく ものが なくなって しまう くらい 。 倉地も 始めのうち は しぶしぶ つき合って いたが 、ついに は 勝手に するが いい と いわんばかりに 座敷を 代えて ひとりで 寝て しまった 。 ・・
春の 夜は ただ 、事もなく しめやかに ふけて 行った 。 遠く から 聞こえて 来る 蛙 の 鳴き声 の ほか に は 、日 勝 様 の 森 あたり で なく らしい 梟 の 声 が する ばかりだった 。 葉子 とは なんの 関係 も ない 夜 鳥 で あり ながら 、その 声 には 人 を ばかに しきった ような 、それでいて 聞く に 堪え ない ほど さびしい 響き が 潜んで いた 。 ほう 、ほう ……ほう 、ほうほう と 間 遠に 単調に 同じ 木 の 枝 と 思わしい 所 から 聞こえて いた 。 人々 が 寝しずまって みる と 、憤怒 の 情 は いつか 消え 果てて 、いいよう の ない 寂 寞 が その あとに 残った 。 ・・
葉子 の する 事 いう 事 は 一つ一つ 葉子 を 倉地 から 引き離そう と する ばかりだった 。 今夜 も 倉地 が 葉子 から 待ち望んで いた もの を 葉子 は 明らかに 知っていた 。 しかも 葉子 は わけ の わからない 怒り に 任せて 自分 の 思う まま に 振る舞った 結果 、 倉地 に は 不快 きわまる 失望 を 与えた に 違いない 。 こうした まま で 日 が たつ に 従って 、倉地 は 否応 なし に さらに 新しい 性的 興味 の 対象 を 求める ように なる の は 目前 の 事 だ 。 現に 愛子 は その 候補 者 の 一 人 と して 倉地 の 目 に は 映り 始めて いる ので は ない か 。 葉子 は 倉地 と の 関係 を 始め から 考え たどって みる に つれて 、どうしても 間違った 方向 に 深入り した の を 悔い ないで はいら れ なかった 。 しかし 倉地 を 手なずける ため に は あの 道 を えらぶ より しかたが なかった ように も 思える 。 倉地 の 性格 に 欠点 が ある のだ 。 そう では ない 。 倉地 に 愛 を 求めて 行った 自分 の 性格 に 欠点 が ある のだ 。 ……そこ まで 理屈 らしく 理屈 を たどって 来て みる と 、葉子 は 自分 という もの が 踏みにじって も 飽き足りない ほど いやな 者 に 見えた 。 ・・
「 なぜ わたし は 木部 を 捨て 木村 を 苦しめ なければ ならない のだろう 。 なぜ 木部 を 捨てた 時 に わたし は 心 に 望んで いる ような 道 を まっし ぐ ら に 進んで 行く 事 が でき なかった のだろう 。 わたし を 木村 に しいて 押し付けた 五十川 の おばさん は 悪い …… わたし の 恨み は どうして も 消える もの か 。 ……と いって おめおめと その 策略に 乗って しまった わたしは なんという ふがいない 女 だった のだろう 。 倉地に だけは わたしは 失望 したくない と 思った 。 今まで の すべての 失望を あの 人で 全部 取り返して まだ 余りきる ような 喜びを 持とうと した のだった 。 わたしは 倉地とは 離れては いられない 人間だと 確かに 信じていた 。 そして わたし の 持って る すべて を ……醜い もの の すべて を も 倉地 に 与えて 悲しい と も 思わ なかった のだ 。 わたし は 自分 の 命 を 倉地 の 胸 に たたきつけた 。 それ だ のに 今 は 何 が 残って いる …… 何 が 残って いる ……。 今夜 かぎり わたし は 倉地 に 見放さ れる のだ 。 この 部屋 を 出て 行って しまった 時 の 冷淡な 倉地 の 顔 ! ……わたし は 行こう 。 これ から 行って 倉地 に わびよう 、奴隷 の ように 畳 に 頭 を こすり 付けて わびよう ……そうだ 。 ……しかし 倉地 が 冷 刻 な 顔 を して わたし の 心 を 見 も 返ら なかったら ……わたし は 生きてる 間 に そんな 倉地 の 顔 を 見る 勇気 は ない 。 …… 木部 に わびよう か …… 木部 は 居所 さえ 知ら そう と は しない のだ もの ……」・・
葉子 は やせた 肩 を 痛ましく 震わして 、 倉地 から 絶縁 されて しまった もの の よう に 、 さびしく 哀しく 涙 の 枯れる か と 思う まで 泣く のだった 。 静まり きった 夜 の 空気 の 中 に 、 時々 鼻 を かみ ながら すすり 上げ すすり 上げ 泣き伏す 痛ましい 声 だけ が 聞こえた 。 葉子 は 自分 の 声 に つまされて なおさら 悲哀 から 悲哀 の どん底 に 沈んで 行った 。 ・・
やや しばらく して から 葉子 は 決心 する よう に 、 手近に あった 硯箱 と 料 紙 と を 引き寄せた 。 そして 震える 手先 を しいて 繰り ながら 簡単な 手紙 を 乳母 に あてて 書いた 。 それ に は 乳母 と も 定子 と も 断然 縁 を 切る から 以後 他人 と 思って くれ 。 もし 自分 が 死んだら ここ に 同封 する 手紙 を 木部 の 所 に 持って行く が いい 。 木部 は きっと どうしてでも 定子 を 養ってくれる だろう から と いう 意味 だけ を 書いた 。 そして 木部 あて の 手紙 に は 、・・
「定子 は あなた の 子 です 。 その 顔 を 一目 御覧 に なったら すぐ おわかり に なります 。 わたし は 今 まで 意地 から も 定子 は わたし 一 人 の 子 で わたし 一 人 の もの と する つもりで いました 。 けれども わたし が 世に ない もの と なった 今 は 、あなた は もう わたし の 罪 を 許して くださる か と も 思います 。 せめて は 定子 を 受け入れて くださいましょう 。 ・・
葉子 の 死んだ 後 ・・
あわれなる 定子 の ママ より ・・
定子 の お とう 様 へ 」・・
と 書いた 。 涙 は 巻紙 の 上 に とめどなく 落ちて 字 を にじました 。 東京 に 帰ったら ためて 置いた 預金 の 全部 を 引き出して それ を 為替 に して 同封 する ために 封 を 閉じなかった 。 ・・
最後 の 犠牲 ……今まで とつ おいつ 捨て 兼ねていた 最愛 の もの を 最後の 犠牲 に して みたら 、たぶん は 倉地 の 心 が もう 一度 自分 に 戻って 来る かも しれない 。 葉子 は 荒神 に 最愛 の もの を 生 牲 と して 願い を きいて もらおう と する 太古 の人 の ような 必死な 心 に なって いた 。 それは 胸 を 張り裂く ような 犠牲 だった 。 葉子 は 自分 の 目 から も 英雄 的に 見える この 決心 に 感激 して また 新しく 泣きくずれた 。 ・・
「どうか 、どうか 、……どうーか 」・・
葉子 は だれ に とも なく 手 を 合わして 、一心に 念じて おいて 、雄々しく 涙 を 押しぬぐう と 、そっと 座 を 立って 、倉地 の 寝て いる ほう へ と 忍びよった 。 廊下 の 明り は 大半 消されて いる ので 、ガラス 窓 から おぼろに さし込む 月 の 光 が たより に なった 。 廊下 の 半分 が た 燐 の 燃えた ような その 光 の 中 を 、やせ細って いっそう 背たけ の 伸びて 見える 葉子 は 、影 が 歩む ように 音 も なく 静かに 歩み ながら 、そっと 倉地 の 部屋 の 襖 を 開いて 中 に はいった 。 薄暗く ともった 有明け の 下 に 倉地 は 何事 も 知ら ぬ げ に 快く 眠って いた 。 葉子 は そっと その 枕もと に 座を 占めた 。 そして 倉地 の 寝顔 を 見守った 。 ・・
葉子 の 目 に は ひとりでに 涙 が わく ように あふれ出て 、厚 ぼったい ような 感じ に なった 口 びる は われ に も なく わなわな と 震えて 来た 。 葉子 は そうした まま で 黙って なおも 倉地 を 見 続けて いた 。 葉子 の 目 に たまった 涙 の ため に 倉地 の 姿 は 見る見る にじんだ ように 輪郭 が ぼやけて しまった 。 葉子 は 今さら 人 が 違った ように 心 が 弱って 、受け身に ばかり なら ず には いられ なく なった 自分 が 悲しかった 。 なんという 情けない かわいそうな 事 だろう 。 そう 葉子 は しみじみと 思った 。 ・・
だんだん 葉子 の 涙 は すすり泣き に かわって 行った 。 倉地 が 眠り の 中 で それ を 感じた らしく 、 うるさ そうに うめき声 を 小さく 立てて 寝返り を 打った 。 葉子 は ぎょっと して 息 気 を つめた 。 ・・
しかし すぐ すすり泣き は また 帰って 来た 。 葉子 は 何事 も 忘れ 果てて 、倉地 の 床 の そば に きちんと すわった まま いつまでも いつまでも 泣き 続けて いた 。