33.2 或る 女
しばらく して から 、倉地 は 葉子 の 肩 越しに 杯 を 取り上げ ながら こう 尋ねた 。 葉子 に は 返事 が なかった 。 また しばらく の 沈黙 の 時間 が 過ぎた 。 倉地 が もう 一度 何か いおう と した 時 、葉子 は いつのまにか しくしくと 泣いて いた 。 倉地 は この 不意打ち に 思わず はっと した ようだった 。 ・・
「 なぜ 木村 から 送ら せる の が 悪い ん です 」・・
葉子 は 涙 を 気取らせまい と する ように 、しかし 打ち沈んだ 調子 で こう いい出した 。 ・・
「あなた の 御様子 で お心持ち が 読めない わたし だ と お思い に なって ? わたし ゆえに 会社 を お引き に なって から 、どれほど 暮らし向き に 苦しんで いらっしゃる か ……その くらい は ばか でも わたし に は ちゃんと 響いて います 。 それでも しみったれた 事を するのは あなたも おきらい 、わたしも きらい ……わたしは 思うように お金を つかっては いました 。 いました けれども ……心では 泣いてた んです 。 あなたの ためなら どんな 事でも 喜んで しよう ……そう このごろ 思った んです 。 それから 木村に とうとう 手紙を 書きました 。 わたし が 木村 を なんと 思って る か 、今さら そんな 事 を お疑い に なる の あなた は 。 そんな 水臭い 回し 気 を なさる から つい くやしく なっち まいます 。 ……そんな わたし だ か わたし で は ない か ……(そこ で 葉子 は 倉地 から 離れて きちんと すわり 直して 袂 で 顔 を おおう て しまった )泥棒 を しろ と おっしゃる ほう が まだ 増しです ……あなた お一人 で くよくよ なさって ……お金 の 出所 を ……暮らし向き が 張り 過ぎる なら 張り 過ぎる と ……なぜ 相談 に 乗ら せて は くださら ない の ……やはり あなた は わたし を 真身 に は 思って いらっしゃら ない の ね ……」・・
倉地 は 一度 は 目 を 張って 驚いた ようだった が 、やがて 事もなげに 笑い 出した 。 ・・
「 そんな 事 を 思っとった の か 。 ばかだ な あお 前 は 。 御 好意 は 感謝 します …… 全く 。 しかし なんぼ やせて も 枯れて も 、おれ は 女の子 の 二人 や 三人 養う に 事 は 欠かん よ 。 月に 三百 や 四百 の 金 が 手 回ら ん よう なら 首を くくって 死んで 見せる 。 お前を まで 相談に 乗せる ような 事は いらん のだ よ 。 そんな 陰に まわった 心配事 は せん 事に しよう や 。 この のんき 坊 の おれ まで が いらん 気 を もま せられる で ……」・・
「そりゃ うそ です 」・・
葉子 は 顔 を おおう た まま きっぱりと 矢継ぎ早に いい放った 。 倉地 は 黙って しまった 。 葉子 も そのまま しばらく は なんとも 言い出 で なかった 。 ・・
母屋 の ほう で 十二 を 打つ 柱時計 の 声 が かすかに 聞こえて 来た 。 寒さ も しんしんと 募って いた に は 相違 なかった 。 しかし 葉子は その いずれを も 心の 戸の 中まで は 感じなかった 。 始めは 一種の たくらみから 狂言でも する ような 気で かかった のだった けれども 、こうなる と 葉子は いつのまにか 自分 で 自分 の 情に おぼれて しまって いた 。 木村 を 犠牲 に して まで も 倉地 に おぼれ 込んで 行く 自分 が あわれま れ も した 。 倉地 が 費用 の 出所 を ついぞ 打ち明けて 相談 して くれない の が 恨み が ま しく 思わ れ も した 。 知らず知らず のうちに どれほど 葉子は 倉地に 食い込み 、倉地に 食い込まれて いたか を しみじみと 今さら に 思い知った 。 どうなろうと どうあろうと 倉地から 離れる 事は もう できない 。 倉地から 離れる くらいなら 自分は きっと 死んで 見せる 。 倉地の 胸に 歯を 立てて その 心臓を かみ 破って しまいたい ような 狂暴な 執念が 葉子を 底知れぬ 悲しみへ 誘い込んだ 。 ・・
心 の 不思議な 作用 と して 倉地 も 葉子 の 心持ち は 刺青 を される ように 自分 の 胸 に 感じて 行く らしかった 。 やや 程 経って から 倉地 は 無感情 の ような 鈍い 声 で いい出した 。 ・・
「全く は おれ が 悪かった のかも しれない 。 一 時 は 全く 金 には 弱り込んだ 。 しかし おれ は 早 や 世の中 の 底 潮 に もぐり込んだ 人間 だ と 思う と 度胸 が すわって しまい おった 。 毒 も 皿 も 食って くれよう 、そう 思って (倉地 は あたりを はばかる ように さらに 声を 落とした )やり出した 仕事 が あの 組合 の 事 よ 。 水先案内 の やつら は くわしい 海図 を 自分 で 作って 持っとる 。 要塞地 の 様子 も 玄人 以上 だ さ 。 それ を 集め に かかって みた 。 思う ように は 行かん が 、食う だけ の 金 は 余る ほど 出る 」・・
葉子 は 思わず ぎょっと して 息 気がつまった 。 近ごろ 怪しげな 外国人 が 倉地 の 所 に 出入り する のも 心当たりに なった 。 倉地 は 葉子 が 倉地 の 言葉 を 理解 して 驚いた 様子 を 見る と 、ほとほと 悪魔 のような 顔 を して にやりと 笑った 。 捨てばちな 不敵さ と 力 とが みなぎって 見えた 。 ・・
「愛想が尽きたか ……」・・
愛想が尽きた 。 葉子は 自分自身に 愛想が尽きようとしていた 。 葉子 は 自分 の 乗った 船 は いつでも 相 客 もろとも に 転覆 して 沈んで 底 知れ ぬ 泥 土 の 中 に 深々と もぐり込んで 行く 事 を 知った 。 売 国 奴 、国 賊 、――あるいは そういう 名 が 倉地 の 名 に 加えられる かも しれない ……と 思った だけ で 葉子 は 怖 毛 を ふるって 、倉地 から 飛びのこう と する 衝動 を 感じた 。 ぎょっと した 瞬間 に ただ 瞬間 だけ 感じた 。 次に どうかして そんな 恐ろしい はめ から 倉地 を 救い出さ なければ なら ない と いう 殊勝な 心 に も なった 。 しかし 最後に 落ち着いた のは 、その 深みに 倉地を ことさら 突き落として みたい 悪魔的な 誘惑 だった 。 それほど まで の 葉子に 対する 倉地の 心尽くしを 、臆病な 驚きと 躊躇とで 迎える 事に よって 、倉地に 自分の 心持ちの 不徹底な のを 見下げられ は しない かと いう 危惧 よりも 、倉地が 自分の ために どれほど の 堕落でも 汚辱でも 甘んじて 犯すか 、それを さ せて みて 、満足して も 満足して も 満足しきらない 自分の 心の 不足を 満たしたかった 。 そこまで 倉地を 突き落とす ことは 、それだけ 二人の 執着を 強める 事だと も 思った 。 葉子は 何事を 犠牲に 供しても 灼熱した 二人の 間の 執着を 続ける ばかりでなく さらに 強める 術を 見いだそうと した 。 倉地 の 告白 を 聞いて 驚いた 次の 瞬間 に は 、葉子 は 意識 こそ せね これ だけ の 心持ち に 働かれて いた 。 「そんな 事 で 愛想 が 尽きて たまる もの か 」と 鼻で あしらう ような 心持ち に 素早く も 自分 を 落ち着けて しまった 。 驚き の 表情 は すぐ 葉子 の 顔 から 消えて 、 妖婦 に のみ 見る 極端に 肉的 な 蠱惑 の 微笑 が それ に 代わって 浮か み 出した 。 ・・
「 ちょっと 驚か さ れ は しました わ 。 ……いい わ 、わたし だって なんでも します わ 」・・
倉地 は 葉子 が 言わ ず 語ら ず の うち に 感激 して いる の を 感得 して いた 。 ・・
「よし それで 話は わかった 。 木村 ……木村から も しぼり上げろ 、構うものかい 。 人間並みに 見られない おれたちが 人間並みに 振る舞っていて たまるかい 。 葉ちゃん ……命 」・・
「命 ! …… 命 命 ※[# 感嘆 符 三 つ 、131-15]」・・
葉子 は 自分 の 激しい 言葉 に 目 も くるめく ような 酔い を 覚え ながら 、あらん限り の 力 を こめて 倉地 を 引き寄せた 。 膳 の 上 の もの が 音 を 立てて くつがえる の を 聞いた ようだった が 、その あと は 色 も 音 も ない 焔 の 天地 だった 。 すさまじく 焼け ただれた 肉 の 欲念 が 葉子 の 心 を 全く 暗まして しまった 。 天国 か 地獄 か それ は 知ら ない 。 しかも 何もかも みじん に つき くだいて 、 びりびり と 震動 する 炎々 たる 焔 に 燃やし 上げた この 有頂天の 歓楽 の ほか に 世に 何者 が あろう 。 葉子 は 倉地 を 引き寄せた 。 倉地 に おいて 今 まで 自分 から 離れて いた 葉子 自身 を 引き寄せた 。 そして 切る ような 痛み と 、 痛み から のみ 来る 奇怪な 快感 と を 自分 自身 に 感じて 陶然 と 酔いしれ ながら 、 倉地 の 二の腕 に 歯 を 立てて 、思いきり 弾力 性 に 富んだ 熱した その 肉 を かんだ 。 ・・
その 翌日 十一 時 すぎ に 葉子 は 地 の 底 から 掘り起こさ れた ように 地球 の 上 に 目 を 開いた 。 倉地 は まだ 死んだ もの 同然に いぎ た なく 眠って いた 。 戸 板 の 杉 の 赤み が 鰹節 の 心 の ように 半透明に まっ赤に 光って いる ので 、日が 高い のも 天気 が 美しく 晴れて いる のも 察せられた 。 甘 ずっぱく 立てこもった 酒 と 煙草 の 余 燻 の 中に 、すき間 もる 光線 が 、透明に 輝く 飴色 の 板 と なって 縦に 薄暗さ の 中を 区切って いた 。 いつも ならば まっ赤に 充血 して 、精力に 充ち 満ちて 眠り ながら 働いて いる ように 見える 倉地 も 、その 朝 は 目 の 周囲に 死色 を さえ 注 して いた 。 むき出しに した 腕 には 青筋 が 病的に 思われる ほど 高く 飛び出て は いずって いた 。 泳ぎ 回る者 でも いる よう に 頭 の 中 が ぐらぐら する 葉子 に は 、 殺人者 が 凶行 から 目ざめて 行った 時 の ような 底 の 知れない 気味 わる さ が 感ぜられた 。 葉子 は 密やかに その 部屋 を 抜け出して 戸外に 出た 。 ・・
降る ような 真昼 の 光線 に あう と 、両眼 は 脳 心 の ほう に しゃにむに 引きつけられて たまらない 痛さ を 感じた 。 かわいた 空気 は 息 気 を とめる ほど 喉 を 干 から ば した 。 葉子 は 思わず よろけて 入り口 の 下見板 に 寄りかかって 、打撲 を 避ける ように 両手 で 顔 を 隠して うつむいて しまった 。 ・・
やがて 葉子 は 人 を 避け ながら 芝生 の 先 の 海 ぎわ に 出て みた 。 満月 に 近い ころ の 事 とて 潮 は 遠く ひいて いた 。 蘆 の 枯れ葉 が 日 を 浴びて 立つ 沮洳 地 の ような 平地 が 目の前 に 広がって いた 。 しかし 自然 は 少しも 昔 の 姿 を 変えて は いなかった 。 自然 も 人 も きのう の まま の 営み を して いた 。 葉子 は 不思議な もの を 見せつけられた ように 茫然と して 潮 干潟 の 泥 を 見 、うろこ雲 で 飾ら れた 青空 を 仰いだ 。 ゆうべ の 事 が 真実 なら この 景色 は 夢 で あら ねば なら ぬ 。 この 景色 が 真実 なら ゆうべ の 事 は 夢 で あら ねば なら ぬ 。 二つ が 両立 しよう はず は ない 。 …… 葉子 は 茫然と して なお 目 に は いって 来る もの を ながめ 続けた 。 ・・
痲痺 しきった ような 葉子 の 感覚 は だんだん 回復 して 来た 。 それ と 共に 瞑眩 を 感ずる ほど の 頭痛 を まず 覚えた 。 次いで 後腰部 に 鈍重な 疼み が むくむくと 頭 を もたげる の を 覚えた 。 肩 は 石 の ように 凝って いた 。 足 は 氷 の ように 冷えて いた 。 ・・
ゆうべ の 事 は 夢 で は なかった のだ …… そして 今 見る この 景色 も 夢 で は あり 得ない …… それ は あまりに 残酷だ 、 残酷だ 。 なぜ ゆうべ を さかい に して 、 世の中 は かるた を 裏返した よう に 変わって いて は くれ なかった のだ 。 ・・
この 景色 の どこ に 自分 は 身 を おく 事 が できよう 。 葉子 は 痛切に 自分 が 落ち込んで 行った 深淵 の 深み を 知った 。 そして そこ に しゃがんで しまって 、苦い 涙 を 泣き 始めた 。 ・・
懺悔 の 門 の 堅く 閉ざさ れた 暗い 道 が ただ 一筋 、葉子 の 心 の 目 には 行く手 に 見やられる ばかりだった 。