29.2或る 女
それ でも その 夜 の 夕食 は 珍しく にぎやかだった 。 貞 世 が はしゃぎ きって 、胸 いっぱい の もの を 前後 も 連絡 も なく しゃべり 立てる ので 愛子 さえ も 思わず にやり と 笑ったり 、自分 の 事 を 容赦 なく いわ れたり する と 恥ずかし そうに 顔 を 赤らめたり した 。 ・・
貞 世 は うれし さ に 疲れ果てて 夜 の 浅い うち に 寝床 に はいった 。 明るい 電 燈 の 下 に 葉子 と 愛子 と 向かい合う と 、久しく あわないで いた 骨肉 の 人々 の 間 に のみ 感ぜられる 淡い 心置き を 感じた 。 葉子 は 愛子 に だけ は 倉地 の 事 を 少し 具体的に 知らして おく ほうが いい と 思って 、話 の きっかけ に 少し 言葉 を 改めた 。 ・・
「まだ あなた方 に お引き合わせ が して ない けれども 倉地 って いう 方 ね 、絵島丸 の 事務長 の ……(愛子 は 従順に 落ち着いて うなずいて 見せた )……あの 方 が 今 木村さん に 成りかわって わたし の 世話 を 見ていて くださる の よ 。 木村 さん から お 頼まれ に なった もの だ から 、迷惑 そうに も なく 、こんな いい 家 まで 見つけて くださった の 。 木村 さん は 米国 で いろいろ 事業 を 企てて いらっしゃる んだ けれども 、どうも お 仕事 が うまく 行かない で 、お金 が 注ぎ込み に ばかり なって いて 、とても こっち に は 送って くだされ ない の 、わたし の 家 は あなた も 知って の とおり でしょう 。 どうしても しばらく の 間 は 御 迷惑 でも 倉地 さん に 万事 を 見て いただか なければ ならない のだ から 、あなた も その つもり で いて ちょうだい よ 。 ちょくちょく ここ に も 来て くださる から ね 。 それ に つけて 世間 で は 何 か くだらない うわさ を している に 違いない が 、愛 さん の 塾 なんか で は なんにも お 聞き で は なかった かい 」・・
「 い ゝ え 、 わたし たち に 面 と 向かって 何 か おっしゃる 方 は 一人 も ありません わ 。 でも 」・・
と 愛子 は 例の 多 恨らしい 美しい 目 を 上目 に 使って 葉子 を ぬすみ 見る ように しながら 、・・
「でも 何しろ あんな 新聞 が 出た もん です から 」・・
「どんな 新聞 ? 」・・
「あら お ねえ 様 御存じ なし な の 。 報 正 新報 に 続き物 で おね え 様 と その 倉地 という 方 の 事 が 長く 出て いました の よ 」・・
「 へ ー え 」・・
葉子 は 自分 の 無知 に あきれる ような 声 を 出して しまった 。 それ は 実際 思い も かけぬ と いう より は 、ありそうな 事 で は ある が 今の今まで 知らずに いた 、それに 葉子 は あきれた のだった 。 しかし それ は 愛子 の 目 に 自分 を 非常に 無辜 らしく 見せた だけ の 利益 は あった 。 さすが の 愛子 も 驚いた らしい 目 を して 姉 の 驚いた 顔 を 見やった 。 ・・
「 いつ ? 」・・
「今月 の 始め ごろ でした かしら ん 。 だ もん です から 皆さん 方 の 間 で は たいへんな 評判 らしい んです の 。 今度 も 塾 を 出て 来年 から 姉 の 所 から 通います と 田島 先生 に 申し上げたら 、先生 も 家 の 親類 たち に 手紙 や なんか で だいぶ お 聞き合わせ に なった ようです の よ 。 そして きょう わたし たち を 自分 の お部屋 に お呼び に なって 『わたし は お前 さん 方 を 塾 から 出したく は ない けれども 、塾 に 居続ける 気 は ない か 』と おっしゃる の よ 。 でも わたし たち は なんだか 塾 に いる のが 肩身 が ……どうしても いやに なった もん ですから 、無理に お 願い して 帰って 来て しまいました の 」・・
愛子 は ふだん の 無口 に 似ず こういう 事 を 話す 時 に は ちゃんと 筋目 が 立って いた 。 葉子 に は 愛子 の 沈んだ ような 態度 が すっかり 読めた 。 葉子 の 憤怒 は 見る見る その 血相 を 変え させた 。 田川 夫人 と いう 人 は どこ まで 自分 に 対して 執念 を 寄せよう と する のだろう 。 それにしても 夫人 の 友だち に は 五十川 と いう 人 も ある はずだ 。 もし 五十川 の おばさん が ほんとうに 自分 の 改悛 を 望んで いて くれる なら 、その 記事 の 中止 なり 訂正 なり を 、夫 田川 の 手 を 経て させる 事 は できる はず な のだ 。 田島 さん も なんとか して くれよう が あり そうな もの だ 。 そんな 事 を 妹 たち に いう くらい なら なぜ 自分 に 一言 忠告 でも して は くれない のだ (ここ で 葉子 は 帰朝 以来 妹 たち を 預かって もらった 礼 を し に 行って いなかった 自分 を 顧みた 。 しかし 事情 が それ を 許さ ない のだろう ぐらい は 察して くれて も よ さそうな もの だ と 思った )それほど 自分 は もう 世間 から 見くびられ 除け者 に されて いる のだ 。 葉子 は 何 か たたきつける もの で も あれば 、そして 世間 という もの が 何か 形 を 備えた ものであれば 、力 の 限り 得 物 を たたきつけて やりたかった 。 葉子 は 小刻みに 震え ながら 、言葉 だけ は しとやかに 、・・
「古藤 さん は 」・・
「たまに お たより を くださいます 」・・
「あなた 方 も 上げる の 」・・
「 え ゝ たまに 」・・
「新聞 の 事 を 何 か いって 来た かい 」・・
「 なんにも 」・・
「ここ の 番地 は 知らせて 上げて 」・・
「 い ゝ え 」・・
「 なぜ 」・・
「おねえ様 の 御迷惑 に なり は しない か と 思って 」・・
この 小 娘 は もう みんな 知っている 、と 葉子 は 一種 の おそれ と 警戒 と を もって 考えた 。 何事 も 心得 ながら 白々しく 無邪気 を 装って いる らしい この 妹 が 敵 の 間 諜 の ように も 思えた 。 ・・
「今夜 は もう お 休み 。 疲れた でしょう 」・・
葉子 は 冷然 と して 、灯 の 下 に うつむいて きちんと すわっている 妹 を 尻目 に かけた 。 愛子 は しとやかに 頭 を 下げて 従順に 座 を 立って 行った 。 ・・
その 夜 十一時 ごろ 倉地 が 下宿 の ほう から 通って 来た 。 裏庭 を ぐるっと 回って 、毎夜 戸じまり を せずに おく 張り出し の 六 畳 の 間 から 上がって 来る 音 が 、じれ ながら 鉄びん の 湯気 を 見ている 葉子 の 神経 に すぐ 通じた 。 葉子 は すぐ 立ち上がって 猫 の ように 足音 を 盗み ながら 急いで そっち に 行った 。 ちょうど 敷居 を 上がろう と して いた 倉地 は 暗い 中 に 葉子 の 近づく 気配 を 知って 、いつも の とおり 、立ち上がり ざま に 葉子 を 抱擁 しよう と した 。 しかし 葉子 は そう は させ なかった 。 そして 急いで 戸 を 締めきって から 、電灯 の スイッチ を ひねった 。 火の気 の ない 部屋 の 中 は 急に 明るく なった けれども 身 を 刺す ように 寒かった 。 倉地 の 顔 は 酒 に 酔っている ように 赤かった 。 ・・
「どうした 顔色 が よく ない ぞ 」・・
倉地 は いぶかる ように 葉子 の 顔 を まじまじ と 見やり ながら そういった 。 ・・
「待って ください 、今 わたし ここ に 火鉢 を 持って 来ます から 。 妹 たち が 寝 ば なだ から あす こ で は 起こす と いけません から 」・・
そう いい ながら 葉子 は 手 あぶり に 火 を ついで 持って 来た 。 そして 酒 肴 も そこ に ととのえた 。 ・・
「色 が 悪い はず ……今夜 は また すっかり 向かっ腹 が 立った んです もの 。 わたし たち の 事 が 報 正 新報 に みんな 出て しまった の を 御存じ ? 」・・
「知っと る とも 」・・
倉地 は 不思議 で も ない と いう 顔 を して 目 を しばだたいた 。 ・・
「田川 の 奥さん と いう 人 は ほんとうに ひどい 人 ね 」・・
葉子 は 歯 を かみくだく ように 鳴らし ながら いった 。 ・・
「全く あれ は 方 図 の ない 利口 ばかだ 」・・
そう 吐き捨てる ように いい ながら 倉地 の 語る 所 に よる と 、倉地 は 葉子 に 、きっと その うち 掲載 さ れ る 「報正新報 」の 記事 を 見せまい ために 引っ越して 来た 当座 わざと 新聞 は どれも 購読 しなかった が 、倉地 だけ の 耳 へ は ある 男 (それ は 絵島丸 の 中 で 葉子 の 身 を 上 を 相談した 時 、甲斐 絹 の どてら を 着て 寝床 の 中 に 二つ に 折れ込んで いた その 男 である のが あとで 知れた 。 その 男 は 名 を 正井 と いった )から つや の 取り次ぎ で 内 秘 に 知らされていた のだ そうだ 。 郵船 会社 は この 記事 が 出る 前 から 倉地 の ため に また 会社 自身 の ため に 、極力 もみ消し を した のだ けれども 、新聞社 で は いっこう 応ずる 色 が なかった 。 それ から 考える と それ は 当時 新聞社 の 慣用手段 の ふところ金 を むさぼろう という 目論見 ばかり から 来た ので ない 事 だけ は 明らかに なった 。 あんな 記事 が 現われて は もう 会社 と して も 黙って は いられなく なって 、大急ぎで 詮議 を した 結果 、倉地 と 船医 の 興録 と が 処分 される 事 に なった と いう のだ 。 ・・
「田川 の 嬶 の いたずら に 決まっとる 。 ばか に くやしかった と 見える て 。 ……が 、こう なりゃ 結局 パッと なった ほうが いい わい 。 みんな 知っと る だけ 一々 申し訳 を いわ ず と 済む 。 お前 は また まだ それ しき の 事 に くよくよ し とる ん か 。 ばかな 。 ……それ より 妹 たち は 来 とる ん か 。 寝顔 に でも お目にかかって おこう よ 。 写真 ――船 の 中 に あった ね ――で 見て も かわいらしい 子 たち だった が ……」・・
二 人 は やおら その 部屋 を 出た 。 そして 十 畳 と 茶の間 と の 隔て の 襖 を そっと 明ける と 、二人 の 姉妹 は 向かい合って 別々の 寝床 に すやすや と 眠っていた 。 緑色 の 笠 の かかった 、電灯 の 光 は 海 の 底 の ように 部屋 の 中 を 思わせた 。 ・・
「あっち は 」・・
「 愛子 」・・
「こっち は 」・・
「貞 世 」・・
葉子 は 心ひそかに 、世にも 艶やかな この 少女 二人 を 妹 に 持つ 事 に 誇り を 感じて 暖かい 心 に なって いた 。 そして 静かに 膝 を ついて 、切り下げ に した 貞世 の 前髪 を そっと なで あげて 倉地 に 見せた 。 倉地 は 声 を 殺す の に 少なからず 難儀な ふうで 、・・
「そう やる と こっち は 、貞世 は 、お前 に よく 似とる わい 。 ……愛子 は 、ふむ 、これ は また すてきな 美人 じゃ ない か 。 おれ は こんな の は 見た 事 が ない ……お前 の 二の舞い でも せにゃ 結構だ が ……」・・
そう いい ながら 倉地 は 愛子 の 顔 ほど も ある ような 大きな 手 を さし出して 、そう したい 誘惑 を 退け かねる ように 、紅 椿 の ような 紅い そ の 口 びる に 触れて みた 。 ・・
その 瞬間 に 葉子 は ぎょっと した 。 倉地 の 手 が 愛子 の 口びる に 触れた 時 の 様子 から 、葉子 は 明らかに 愛子 が まだ 目ざめて いて 、寝た ふり を している の を 感づいた と 思った から だ 。 葉子 は 大急ぎ で 倉地 に 目 くばせ して そっと その 部屋 を 出た 。