中村 彝 (164 )
こんにちは 。 人 から 分かる 3 分 美術 史 。 今日 は 中村 彝 に ついて 勉強 して いきましょう 。 中村 彝 。 1887 年 生まれ 。 大正 時代 の 洋画 家 であり 、病 と 戦い 続けた 画家 として 知られます 。 ・・
彝 は 明治 20 年 、茨城 県 の 水戸 に 生まれました 。 中村 家 は 水戸藩 に 仕える 武士 の 家系 であり 、廃藩置県 後 も 軍人 一家 と なって いました 。 彝 が 生まれて 間も無く 父親 が 死去 。 末っ子 であった 彝 は 、15 歳 年 上 の 兄 の 元 で 育ちました 。 彝 は 幼い 頃 より 絵 を 好んだ と いいます 。 そんななか 、16 歳 で 結核 が 発症 します 。 当時 結核 は 不治 の 病 と 考えられ 、彝 は 、長生き は でき ない こと が 明らか と なって いました 。 そして 1904 年 、彝 が 17 歳 の 頃 に 、育ての親 であった 兄 が 日露戦争 で 戦死 します 。 彝 は 病 に 苦しむ 中 で 、天涯孤独 の 身 と なりました 。 彝 は 療養 の なか で 水彩画 を はじめ 、18歳 から 白馬会 研究所 と 太平洋画会 研究所 で 本格的に 洋画 を 学ぶ ように なります 。 ここ で 彝 は 、生涯 の 友人 と なる 中原 悌二郎 、鶴田 吾郎 ら と 知り合いました 。 21 歳 の おり 、彝 は 中原 の 誘い で 荻原 碌山 を 訪ねます 。 碌山 は オーギュスト ・ロダン を 教え を 受けた 彫刻 家 であり 、新宿 中村屋 の 相馬 愛蔵 ・黒光 夫妻 の もと で アトリエ を 開いて いました 。 碌山 、個人主義 に 基づいた 作品 制作 を 強く 訴えました 。 この頃 の 作品 が 「自画像 」。 1909年 、彝 22 歳 ごろ の 作品 です 。 当時 主流 の 外光派 から 離れた 、レンブラント 風 の 画風 と なって います 。 間もなく して 、高村 光太郎 や 白樺 派 も 個人 主義 の 芸術論 を 展開 し 、彝 に 大きな 影響 を 与えました 。 1911 年 、碌山 が 突如 喀血 して 亡くなります 。 残さ れた 新宿 中村 屋 の 碌山 の アトリエ は 、彝 が 引継ぎました 。 そこ で 彝 は 、相馬 夫妻 と 家族 同様 の 間柄 と なりました 。 引き続き 、彝 の 作品 を 見て いきましょう 。 ・・
「 少女 」。 1914年 、彝 27歳 ごろ の 作品 です 。 中村 夫妻 の 娘 であった 俊子 を 描いて います 。 「頭蓋骨 を 持てる 自画像 」。 1924 年 、彝 37 歳 ごろ の 作品 です 。 ・・
1924年 、彝 は 37 歳 に おり に 結核 で 亡くなります 。 大正 期 に は 、結核 で 亡くなった 芸術家 は 少なく ありません 。 彝 は その なか に おいて も 、独自 の 作風 を 築いた 代表的な 画家 として 知られて います 。 以上 !