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野分 夏目漱石, 「一」 野分 夏目漱石

「一」 野分 夏目漱石

八 年 前 大学 を 卒業 して から 田舎 の 中学 を 二三 箇所 流して 歩いた 末 、 去年 の 春 飄然 と 東京 へ 戻って 来た 。

流す と は 門 附 に 用いる 言葉 で 飄然 と は 徂徠 に 拘わら ぬ 意味 と も 取れる 。

道也 の 進退 を かく 形容 する の 適否 は 作者 と いえ ども 受 合わ ぬ 。

縺 れ たる 糸 の 片 端 も 眼 を 着すれば ただ 一筋 の 末 と あら わる る に 過ぎ ぬ 。

ただ 一筋 の 出 処 の 裏 に は 十重二十重 の 因縁 が 絡んで いる かも 知れ ぬ 。

鴻 雁 の 北 に 去り て 乙鳥 の 南 に 来る さえ 、 鳥 の 身 に なって は 相当 の 弁解 が ある はずじゃ 。

始めて 赴任 した の は 越後 の どこ か であった 。

越後 は 石油 の 名所 である 。

学校 の 在る 町 を 四五 町 隔てて 大きな 石油 会社 が あった 。

学校 の ある 町 の 繁栄 は 三 分 二 以上 この 会社 の 御蔭 で 維持 されて いる 。 町 の もの に 取って は 幾 個 の 中学校 より も この 石油 会社 の 方 が 遥かに ありがたい 。

会社 の 役員 は 金 の ある 点 に おいて 紳士 である 。

中学 の 教師 は 貧乏な ところ が 下等に 見える 。

この 下等な 教師 と 金 の ある 紳士 が 衝突 すれば 勝敗 は 誰 が 眼 に も 明か である 。

道也 は ある 時 の 演説 会 で 、 金 力 と 品性 と 云 う 題目 の もと に 、 両者 の 必ずしも 一致 せ ざる 理由 を 説明 して 、 暗に 会社 の 役員 ら の 暴 慢 と 、 青年 子弟 の 何ら の 定見 も なくして いたずらに 黄 白 万能 主義 を 信奉 する の 弊 と を 戒めた 。

役員 ら は 生意気な 奴 だ と 云った 。 町 の 新聞 は 無能 の 教師 が 高慢な 不平 を 吐く と 評した 。

彼 の 同僚 すら 余計な 事 を して 学校 の 位 地 を 危うく する の は 愚 だ と 思った 。

校長 は 町 と 会社 と の 関係 を 説いて 、 漫 に 平地 に 風波 を 起す の は 得策 で ない と 説 諭した 。

道也 の 最後に 望 を 属して いた 生徒 すら も 、 父兄 の 意見 を 聞いて 、 身のほど を 知ら ぬ 馬鹿 教師 と 云 い 出した 。

道也 は 飄然 と して 越後 を 去った 。

次に 渡った の は 九州 である 。

九州 を 中断 して その 北部 から 工業 を 除けば 九州 は 白紙 と なる 。

炭 礦 の 煙り を 浴びて 、 黒い 呼吸 を せ ぬ 者 は 人間 の 資格 は ない 。

垢 光り の する 背広 の 上 へ 蒼 い 顔 を 出して 、 世の中 が こう の 、 社会 が ああ の 、 未来 の 国民 が な ん の か の と 白銅 一 個 に さえ 換算 の 出来 ぬ 不 生産 的な 言説 を 弄する もの に 存在 の 権利 の あろう はず が ない 。

権利 の ない もの に 存在 を 許す の は 実業 家 の 御 慈悲 である 。

無駄 口 を 叩く 学者 や 、 蓄音機 の 代理 を する 教師 が 露 命 を つなぐ 月々 幾 片 の 紙幣 は 、 どこ から 湧いて くる 。

手 の 掌 を ぽん と 叩けば 、 自から 降る 幾 億 の 富 の 、 塵 の 塵 の 末 を 舐め さ して 、 生かして 置く の が 学者 である 、 文士 である 、 さては 教師 である 。

金 の 力 で 活 きて おり ながら 、 金 を 誹 る の は 、 生んで 貰った 親 に 悪 体 を つく と 同じ 事 である 。

その 金 を 作って くれる 実業 家 を 軽 ん ずる なら 食わ ず に 死んで 見る が いい 。

死ねる か 、 死に 切れ ず に 降参 を する か 、 試 めして 見よう と 云って 抛 り 出さ れた 時 、 道也 は また 飄然 と 九州 を 去った 。 第 三 に 出現 した の は 中国 辺 の 田舎 である 。

ここ の 気風 は さほど に 猛烈な 現金 主義 で は なかった 。

ただ 土着 の もの が むやみに 幅 を 利かして 、 他県 の もの を 外国 人 と 呼ぶ 。

外国 人 と 呼ぶ だけ なら それ まで である が 、 いろいろに 手 を 廻 わして この 外国 人 を 征服 しよう と する 。

宴会 が あれば 宴会 で ひやかす 。

演説 が あれば 演説 で あてこ する 。

それ から 新聞 で 厭 味 を 並べる 。

生徒 に からかわ せる 。

そうして それ が 何の ため で も ない 。

ただ 他県 の もの が 自分 と 同化 せ ぬ の が 気 に 懸る から である 。

同化 は 社会 の 要素 に 違 ない 。

仏蘭西 ( フランス ) の タルド と 云 う 学 者 は 社会 は 模倣 なり と さえ 云 うた くらい だ 。

同化 は 大切 かも 知れ ぬ 。

その 大切 さ 加減 は 道也 と いえ ども 心得て いる 。

心得て いる どころ で は ない 、 高等な 教育 を 受けて 、 広義 な 社会 観 を 有して いる 彼 は 、 凡俗 以上 に 同化 の 功徳 を 認めて いる 。

ただ 高い もの に 同化 する か 低い もの に 同化 する か が 問題 である 。

この 問題 を 解釈 し ないで いたずらに 同化 する の は 世 の ため に なら ぬ 。

自分 から 云 えば 一 分 が 立た ぬ 。

ある 時 旧 藩主 が 学校 を 参観 に 来た 。

旧 藩主 は 殿様 で 華族 様 である 。

所 の もの から 云 えば 神様 である 。

この 神様 が 道也 の 教室 へ 這 入って 来た 時 、 道也 は 別に 意 に も 留め ず 授業 を 継続 して いた 。

神様 の 方 で は 無論 挨拶 も し なかった 。

これ から 事 が 六 ず か しく なった 。

教 場 は 神聖である 。

教師 が 教壇 に 立って 業 を 授ける の は 侍 が 物 の 具に 身 を 固めて 戦場 に 臨む ような もの である 。

いくら 華族 でも 旧 藩主 でも 、 授業 を 中絶 さ せる 権利 は ない と は 道也 の 主張 であった 。

この 主張 の ため に 道也 は また 飄然 と して 任地 を 去った 。

去る 時 に 土地 の もの は 彼 を 目して 頑愚 だ と 評し 合う たそう である 。

頑愚 と 云 われ たる 道也 は この 嘲 罵 を 背 に 受け ながら 飄然 と して 去った 。

三 たび 飄然 と 中学 を 去った 道也 は 飄然 と 東京 へ 戻った なり 再び 動く 景色 が ない 。

東京 は 日本 で 一 番 世 地 辛い 所 である 。

田舎 に いる ほど の 俸給 を 受けて さえ 楽に は 暮せ ない 。

まして 教職 を 抛って 両手 を 袂 へ 入れた まま で 遣 り 切る の は 、 立ち ながら みいら と なる 工夫 と 評する より ほか に 賞 め よう の ない 方法 である 。

道也 に は 妻 が ある 。

妻 と 名 が つく 以上 は 養う べき 義務 は 附随 して くる 。

自から みいら と なる の を 甘んじて も 妻 を 干 乾 に する 訳 に は 行か ぬ 。

干 乾 に なら ぬ よ ほど 前 から 妻君 は すでに 不平 である 。

始めて 越後 を 去る 時 に は 妻君 に 一部始終 を 話した 。

その 時 妻君 は ご もっともで ご ざん す と 云って 、 甲斐 甲斐 しく 荷物 の 手 拵 を 始めた 。 九州 を 去る 時 に も その 顛末 を 云って 聞か せた 。 今度 は また です か と 云った ぎり 何にも 口 を 開か なかった 。 中国 を 出る 時 の 妻君 の 言葉 は 、 あなた の ように 頑固で は どこ へ いら しって も 落ちつけっこ ありません わ と 云 う 訓 戒的 の 挨拶 に 変化 して いた 。 七 年 の 間 に 三 たび 漂泊 して 、 三 たび 漂泊 する うち に 妻君 は しだい と 自分 の 傍 を 遠退く ように なった 。

妻君 が 自分 の 傍 を 遠退く の は 漂泊 の ため であろう か 、 俸禄 を 棄 てる ため であろう か 。

何度 漂泊 して も 、 漂泊 する たび に 月給 が 上がったら どう だろう 。

妻君 は 依然と して 「 あなた の ように ……」 と 不服 が まし い 言葉 を 洩らしたろう か 。

博士 に でも なって 、 大学 教授 に 転任 して も やはり 「 あなた の ように ……」 が 繰り返さ れる であろう か 。

妻君 の 了 簡 は 聞いて 見 なければ 分 ら ぬ 。

博士 に なり 、 教授 に なり 、 空しき 名 を 空しく 世間 に 謳わ る る が ため 、 その 反響 が 妻君 の 胸 に 轟いて 、 急に 夫 の 待遇 を 変える ならば この 細 君 は 夫 の 知己 と は 云 え ぬ 。

世の中 が 夫 を 遇 する 朝夕 の 模様 で 、 夫 の 価値 を 朝夕 に 変える 細 君 は 、 夫 を 評価 する 上 に おいて 、 世間並の 一 人 である 。

嫁が ぬ 前 、 名 を 知ら ぬ 前 、 の 己 れ と 異なる ところ が ない 。

従って 夫 から 見れば あか の 他人 である 。

夫 を 知る 点 に おいて 嫁ぐ 前 と 嫁ぐ 後 と に 変り が なければ 、 少なくとも この 点 に おいて 細 君 らしい ところ が ない のである 。

世界 は この 細 君 らしから ぬ 細 君 を もって 充満 して いる 。

道也 は 自分 の 妻 を やはり この 同類 と 心得て いる だろう か 。

至る所 に 容 れられ ぬ 上 に 、 至る所 に 起居 を 共に する 細 君 さえ 自分 を 解して くれ ない のだ と 悟ったら 、 定めて 心細い だろう 。 世の中 は かかる 細 君 を もって 充満 して いる と 云った 。 かかる 細 君 を もって 充満 して おり ながら 、 皆 円満に くらして いる 。

順 境 に ある 者 が 細 君 の 心 事 を ここ まで に 解剖 する 必要 が ない 。

皮膚 病 に 罹 れば こそ 皮膚 の 研究 が 必要に なる 。

病気 も 無い のに 汚 ない もの を 顕微 鏡 で 眺める の は 、 事 なき に 苦しんで 肥 柄杓 を 振り 廻す と 一般 である 。

ただ この 順 境 が 一転 して 逆落し に 運命 の 淵 へ ころがり込む 時 、 いか な 夫婦 の 間 に も 気まずい 事 が 起る 。

親子 の 覊絆 も ぽつり と 切れる 。

美 くし いの は 血 の 上 を 薄く 蔽 う 皮 の 事 であった と 気 が つく 。

道也 は どこ まで 気 が ついた か 知ら ぬ 。

道也 の 三 たび 去った の は 、 好んで 自から 窮地 に 陥る ため で は ない 。

罪 も ない 妻 に 苦労 を 掛ける ため で は なおさら ない 。

世間 が 己 れ を 容 れ ぬ から 仕方 が ない のである 。

世 が 容 れ ぬ なら なぜ こちら から 世に 容 れられよう と は せ ぬ ? 世に 容 れられよう と する 刹那 に 道也 は 奇麗に 消滅 して しまう から である 。 道也 は 人格 に おいて 流 俗 より 高い と 自信 して いる 。

流 俗 より 高ければ 高い ほど 、 低い もの の 手 を 引いて 、 高い 方 へ 導いて やる の が 責任 である 。

高い と 知り ながら も 低き につく の は 、 自から 多年 の 教育 を 受け ながら 、 この 教育 の 結果 が もたらした 財宝 を 床下 に 埋 む る ような もの である 。

自分 の 人格 を 他 に 及ぼさ ぬ 以上 は 、 せっかく に 築き上げた 人格 は 、 築きあげ ぬ 昔 と 同じく 無 功 力 で 、 築き上げた 労力 だけ を 徒費 した 訳 に なる 。

英語 を 教え 、 歴史 を 教え 、 ある 時 は 倫理 さえ 教えた の は 、 人格 の 修養 に 附随 して 蓄えられた 、 芸 を 教えた のである 。 単に この 芸 を 目的 に して 学問 を した ならば 、 教 場 で 書物 を 開いて さえ いれば 済む 。

書物 を 開いて 飯 を 食って 満足 して いる の は 綱渡り が 綱 を 渡って 飯 を 食い 、 皿 廻し が 皿 を 廻 わして 飯 を 食う の と 理論 に おいて 異なる ところ は ない 。

学問 は 綱渡り や 皿 廻し と は 違う 。

芸 を 覚える の は 末 の 事 である 。

人間 が 出来上る の が 目的 である 。

大小 の 区別 の つく 、 軽重 の 等 差 を 知る 、 好悪 の 判然 する 、 善悪 の 分 界 を 呑み込んだ 、 賢 愚 、 真偽 、 正邪 の 批判 を 謬 ま ら ざる 大丈夫 が 出来上がる の が 目的 である 。

道也 は こう 考えて いる 。

だから 芸 を 售って 口 を 糊 する の を 恥 辱 と せ ぬ と 同時に 、 学問 の 根底 たる 立脚 地 を 離 る る の を 深く 陋劣 と 心得た 。 彼 が 至る所 に 容 れられ ぬ の は 、 学問 の 本体 に 根拠 地 を 構えて の 上 の 去就 である から 、 彼 自身 は 内 に 顧みて 疚 しい ところ も なければ 、 意気地 が ない と も 思いつか ぬ 。 頑愚 など と 云 う 嘲 罵 は 、 掌 へ 載せて 、 夏 の 日 の 南 軒 に 、 虫 眼鏡 で 検査 して も 了解 が 出来 ん 。

三 度 教師 と なって 三 度 追い出さ れた 彼 は 、 追い出さ れる たび に 博士 より も 偉大な 手柄 を 立てた つもりで いる 。

博士 は えらかろう 、 しかし たかが 芸 で 取る 称号 である 。

富豪 が 製 艦 費 を 献 納 して 従 五 位 を ちょうだい する の と 大した 変り は ない 。

道也 が 追い出さ れた の は 道也 の 人物 が 高い から である 。

正しき 人 は 神 の 造れる すべて の うち にて 最も 尊き もの なり と は 西 の 国 の 詩人 の 言葉 だ 。

道 を 守る もの は 神 より も 貴し と は 道也 が 追 わる る ごと に 心 の うち で 繰り返す 文句 である 。

ただし 妻君 は かつて この 文句 を 道也 の 口 から 聞いた 事 が ない 。

聞いて も 分かる まい 。

わから ねば こそ 餓え 死に も せ ぬ 先 から 、 夫 に 対して 不平 な のである 。

不平 な 妻 を 気の毒 と 思わぬ ほど の 道也 で は ない 。

ただ 妻 の 歓心 を 得る ため に 吾 が 行く 道 を 曲げ ぬ だけ が 普通の 夫 と 違う のである 。

世 は 単に 人 と 呼ぶ 。

娶れば 夫 である 。

交われば 友 である 。

手 を 引けば 兄 、 引 かる れば 弟 である 。

社会 に 立てば 先覚者 に も なる 。

校舎 に 入れば 教師 に 違いない 。

さる を 単に 人 と 呼ぶ 。

人 と 呼んで 事 足る ほど の 世間 なら 単純である 。

妻君 は 常に この 単純な 世界 に 住んで いる 。

妻君 の 世界 に は 夫 と して の 道也 の ほか に は 学者 と して の 道也 も ない 、 志士 と して の 道也 も ない 。

道 を 守り 俗 に 抗する 道也 は なおさら ない 。

夫 が 行く先 き 先 き で 評判 が 悪く なる の は 、 夫 の 才 が 足ら ぬ から で 、 到る所 に 職 を 辞する の は 、 自から 求 む る 酔 興 に ほかなら ん と まで 考えて いる 。

酔 興 を 三 たび 重ねて 、 東京 へ 出て 来た 道也 は 、 もう 田舎 へ は 行か ぬ と 言い出した 。

教師 も もう やら ぬ と 妻君 に 打ち明けた 。

学校 に 愛想 を つかした 彼 は 、 愛想 を つかした 社会 状態 を 矯正 する に は 筆 の 力 に よら ねば なら ぬ と 悟った のである 。

今 まで は いずこ の 果 で 、 どんな 職業 を しよう と も 、 己 れ さえ 真 直 であれば 曲がった もの は 苧殻 の ように 向 うで 折れ べき もの と 心得て いた 。

盛 名 は わ が 望む ところ で は ない 。

威 望 も わ が 欲する ところ で は ない 。

ただ わが 人格 の 力 で 、 未来 の 国民 を かたちづくる 青年 に 、 向上 の 眼 を 開か しむ る ため 、 取捨 分別 の 好例 を 自家 身上 に 示せば 足る と のみ 思い込んで 、 思い込んだ 通り を 六 年 余り 実行 して 、 見事に 失敗 した のである 。

渡る 世間 に 鬼 は ない と 云 う から 、 同情 は 正しき 所 、 高き 所 、 物 の 理 窟 の よく 分かる 所 に 聚 まる と 早合点 して 、 この 年月 を 今度 こそ 、 今度 こそ 、 と 経験 の 足ら ぬ 吾身 に 、 待ち受けた の は 生涯 の 誤り である 。

世 は わ が 思う ほど に 高尚な もの で は ない 、 鑑識 の ある もの で も ない 。

同情 と は 強き もの 、 富め る もの に のみ 随 う 影 に ほかなら ぬ 。

ここ まで 進んで おら ぬ 世 を 買い被って 、 一足飛び に 田舎 へ 行った の は 、 地ならし を せ ぬ 地面 の 上 へ 丈夫な 家 を 建てよう と あせる ような もの だ 。

建て かける が 早い か 、 風 と 云 い 雨 と 云 う 曲者 が 来て 壊して しまう 。

地ならし を する か 、 雨 風 を 退 治る か せ ぬ うち は 、 落ちついて この世 に 住め ぬ 。

落ちついて 住め ぬ 世 を 住める ように して やる の が 天下 の 士 の 仕事 である 。

金 も 勢 も ない もの が 天下 の 士 に 恥じ ぬ 事業 を 成す に は 筆 の 力 に 頼ら ねば なら ぬ 。

舌 の 援 を 藉 ら ねば なら ぬ 。

脳味噌 を 圧搾 して 利 他 の 智 慧 を 絞ら ねば なら ぬ 。

脳味噌 は 涸 れる 、 舌 は 爛れる 、 筆 は 何 本 でも 折れる 、 それ でも 世の中 が 云 う 事 を 聞か なければ それ まで である 。

しかし 天下 の 士 と いえ ども 食わ ず に は 働け ない 。

よし 自分 だけ は 食わ ん で 済む と して も 、 妻 は 食わ ず に 辛抱 する 気遣 は ない 。

豊かに 妻 を 養わ ぬ 夫 は 、 妻 の 眼 から 見れば 大 罪人 である 。

今年 の 春 、 田舎 から 出て 来て 、 芝 琴平 町 の 安 宿 へ 着いた 時 、 道也 と 妻君 の 間 に は こんな 会話 が 起った 。

「 教師 を お やめ なさるって 、 これ から 何 を なさる お つもり です か 」 「 別に これ と 云 う つもり も ない が ね 、 まあ 、 その うち 、 どうか なる だろう 」 「 その 内 どうか なる だろうって 、 それ じゃ まるで 雲 を 攫む ような 話し じゃ ありません か 」 「 そう さ な 。 あんまり 判然と しちゃ いない 」 「 そう 呑気 じゃ 困ります わ 。 あなた は 男 だ から それ で ようご ざんしょう が 、 ちっと は 私 の 身 に も なって 見て 下さら なくっちゃ あ ……」 「 だ から さ 、 もう 田舎 へ は 行か ない 、 教師 に も なら ない 事 に きめた んだ よ 」 「 きめる の は 御 勝手です けれども 、 きめたって 月給 が 取れ なけりゃ 仕方 が ない じゃ ありません か 」 「 月給 が とれ なくって も 金 が とれれば 、 よかろう 」 「 金 が とれれば …… そりゃ ようご ざん す と も 」 「 そん なら 、 いい さ 」 「 いい さって 、 御 金 が とれる んです か 、 あなた 」 「 そう さ 、 まあ 取れる だろう と 思う の さ 」 「 どうして ? 」 「 そこ は 今 考え 中 だ 。

そう 着 、 早々 計画 が 立つ もの か 」 「 だ から 心配に なる んです わ 。

いくら 東京 に いる と きめたって 、 きめた だけ の 思案 じゃ 仕方 が ない じゃ ありません か 」 「 どうも 御前 は むやみに 心配 性 で いけない 」 「 心配 も します わ 、 どこ へ いら しって も 折合 が わるくっちゃ 、 おや めに なる んです もの 。 私 が 心配 性 なら 、 あなた は よっぽど 癇癪 持ち です わ 」 「 そう かも 知れ ない 。

しかし おれ の 癇癪 は …… まあ 、 いい や 。

どうにか 東京 で 食える ように する から 」 「 御 兄さん の 所 へ いら しって 御 頼み な すったら 、 どう でしょう 」 「 うん 、 それ も 好 いが ね 。 兄 は いったい 人 の 世話 なんか する 男 じゃ ない よ 」 「 あら 、 そう 何でも 一 人 で きめて 御 しまい に なる から 悪 るい んです わ 。

昨日 も あんなに 親切に いろいろ 言って 下さった じゃ ありません か 」 「 昨日 か 。 昨日 は いろいろ 世話 を 焼く ような 事 を 言った 。

言った が ね ……」 「 言って も いけない んです か 」 「 いけな か ない よ 。

言う の は 結構だ が …… あんまり 当 に なら ない から な 」 「 なぜ ?

」 「 なぜって 、 その 内 だんだん わかる さ 」 「 じゃ 御 友達 の 方 に でも 願って 、 あした から でも 運動 を なすったら いい でしょう 」 「 友達って 別に 友達 なんか ありゃ し ない 。 同級 生 は みんな 散って しまった 」 「 だって 毎年 年始 状 を 御 寄こし に なる 足立 さん なんか 東京 で 立派に して いらっしゃる じゃ ありません か 」 「 足立 か 、 うん 、 大学 教授 だ ね 」 「 そう 、 あなた の ように 高く ばかり 構えて いらっしゃる から 人 に 嫌わ れる んです よ 。 大学 教授 だ ねって 、 大学 の 先生 に なりゃ 結構じゃ ありません か 」 「 そう か ね 。 じゃ 足立 の 所 へ でも 行って 頼んで 見よう よ 。

しかし 金 さえ 取れれば 必ず 足立 の 所 へ 行く 必要 は なかろう 」 「 あら 、 まだ あんな 事 を 云って いらっしゃる 。 あなた は よっぽど 強情 ね 」 「 うん 、 おれ は よっぽど 強情だ よ 」


「一」 野分 夏目漱石 ひと|の ぶん|なつめ そうせき Ichi" Nobe Natsume Soseki 'I' Nobe, Natsume Soseki. 「1」 야분 나츠메 소세키 Eu" Nobe, Natsume Soseki. 《一》野分漱石 夏目 我 "野部,夏目漱石。

八 年 前 大学 を 卒業 して から 田舎 の 中学 を 二三 箇所 流して 歩いた 末 、 去年 の 春 飄然 と 東京 へ 戻って 来た 。 やっ|とし|ぜん|だいがく||そつぎょう|||いなか||ちゅうがく||ふみ|かしょ|ながして|あるいた|すえ|きょねん||はる|ひょうぜん||とうきょう||もどって|きた Eight years ago, after graduating from university, I walked through a few junior high schools in the countryside, and then came back to Tokyo in the spring of last year. Otto anni fa, dopo la laurea, ho attraversato alcune scuole medie in campagna e poi sono tornato a Tokyo nella primavera dello scorso anno. 8년 전 대학 을 졸업한 후 시골 의 중학교 를 두 군데 흘려 걸어 온 뒤 , 작년 의 봄 굉연히 도쿄 로 돌아왔다 . Depois de terminar a universidade há oito anos, andei pelo campo durante alguns anos e depois regressei a Tóquio na primavera do ano passado.

流す と は 門 附 に 用いる 言葉 で 飄然 と は 徂徠 に 拘わら ぬ 意味 と も 取れる 。 ながす|||もん|ふ||もちいる|ことば||ひょうぜん|||そらい||こだわら||いみ|||とれる "Flowing" is a word used for kadozuke, and it can be taken to mean "easy" regardless of wandering. La palabra "flujo" se utiliza para referirse a los guardianes, y "distante" puede entenderse en el sentido de que la organización no se ciñe a los ideales de la provincia de Casas de Culto. A palavra "fluxo" é utilizada para se referir aos guardiões, e "distante" pode ser entendida como o facto de a organização não se ater aos ideais da província das Casas de Culto.

道也 の 進退 を かく 形容 する の 適否 は 作者 と いえ ども 受 合わ ぬ 。 みちや||しんたい|||けいよう|||てきひ||さくしゃ||||じゅ|あわ| Even the author does not accept the suitability of describing Michiya's advancement and retreat. Nem mesmo o autor pode aceitar a pertinência de descrever desta forma a evolução ou o declínio de Doya.

縺 れ たる 糸 の 片 端 も 眼 を 着すれば ただ 一筋 の 末 と あら わる る に 過ぎ ぬ 。 れん|||いと||かた|はし||がん||ちゃくすれば||ひとすじ||すえ||||||すぎ| If you put your eyes on one end of the entwined thread, it will be just the end of a single line.

ただ 一筋 の 出 処 の 裏 に は 十重二十重 の 因縁 が 絡んで いる かも 知れ ぬ 。 |ひとすじ||だ|しょ||うら|||とえはたえ||いんねん||からんで|||しれ| However, it may be that there are ten or twenty layers of ties behind the source.

鴻 雁 の 北 に 去り て 乙鳥 の 南 に 来る さえ 、 鳥 の 身 に なって は 相当 の 弁解 が ある はずじゃ 。 ひろし|がん||きた||さり||おつとり||みなみ||くる||ちょう||み||||そうとう||べんかい||| Even if you leave the north of the geese and come to the south of the ototori, there must be a good excuse for being a bird.

始めて 赴任 した の は 越後 の どこ か であった 。 はじめて|ふにん||||えちご|||| I was assigned to work somewhere in Echigo for the first time.

越後 は 石油 の 名所 である 。 えちご||せきゆ||めいしょ| Echigo is a famous place for oil.

学校 の 在る 町 を 四五 町 隔てて 大きな 石油 会社 が あった 。 がっこう||ある|まち||しご|まち|へだてて|おおきな|せきゆ|かいしゃ|| There was a big oil company across the town where the school was located by forty-five towns.

学校 の ある 町 の 繁栄 は 三 分 二 以上 この 会社 の 御蔭 で 維持 されて いる 。 がっこう|||まち||はんえい||みっ|ぶん|ふた|いじょう||かいしゃ||おかげ||いじ|さ れて| The prosperity of the town where the school is located is maintained by the company for more than two-thirds. 町 の もの に 取って は 幾 個 の 中学校 より も この 石油 会社 の 方 が 遥かに ありがたい 。 まち||||とって||いく|こ||ちゅうがっこう||||せきゆ|かいしゃ||かた||はるかに| For the things in town, this oil company is far more thankful to some junior high schools.

会社 の 役員 は 金 の ある 点 に おいて 紳士 である 。 かいしゃ||やくいん||きむ|||てん|||しんし| Company officers are gentlemen in some respects.

中学 の 教師 は 貧乏な ところ が 下等に 見える 。 ちゅうがく||きょうし||びんぼうな|||かとうに|みえる Middle school teachers look poor in poor places.

この 下等な 教師 と 金 の ある 紳士 が 衝突 すれば 勝敗 は 誰 が 眼 に も 明か である 。 |かとうな|きょうし||きむ|||しんし||しょうとつ||しょうはい||だれ||がん|||あか| If this inferior teacher collides with a gentleman with money, the victory or defeat is obvious to everyone.

道也 は ある 時 の 演説 会 で 、 金 力 と 品性 と 云 う 題目 の もと に 、 両者 の 必ずしも 一致 せ ざる 理由 を 説明 して 、 暗に 会社 の 役員 ら の 暴 慢 と 、 青年 子弟 の 何ら の 定見 も なくして いたずらに 黄 白 万能 主義 を 信奉 する の 弊 と を 戒めた 。 みちや|||じ||えんぜつ|かい||きむ|ちから||ひんせい||うん||だいもく||||りょうしゃ||かならずしも|いっち|||りゆう||せつめい||あんに|かいしゃ||やくいん|||あば|まん||せいねん|してい||なんら||ていけん||||き|しろ|ばんのう|しゅぎ||しんぽう|||へい|||いましめた At a speech at one time, Michiya explained the reasons why the two did not necessarily match, based on the subject of money and character, and implicitly the brutality of the company's officers and the youth's children. He warned against the evil of adhering to the yellow-white universalism unnecessarily without any prejudice.

役員 ら は 生意気な 奴 だ と 云った 。 やくいん|||なまいきな|やつ|||うん った 町 の 新聞 は 無能 の 教師 が 高慢な 不平 を 吐く と 評した 。 まち||しんぶん||むのう||きょうし||こうまんな|ふへい||はく||ひょうした

彼 の 同僚 すら 余計な 事 を して 学校 の 位 地 を 危うく する の は 愚 だ と 思った 。 かれ||どうりょう||よけいな|こと|||がっこう||くらい|ち||あやうく||||ぐ|||おもった I thought it was foolish for even his colleague to do extra things and jeopardize the school's position.

校長 は 町 と 会社 と の 関係 を 説いて 、 漫 に 平地 に 風波 を 起す の は 得策 で ない と 説 諭した 。 こうちょう||まち||かいしゃ|||かんけい||といて|まん||へいち||ふうは||おこす|||とくさく||||せつ|さとした

道也 の 最後に 望 を 属して いた 生徒 すら も 、 父兄 の 意見 を 聞いて 、 身のほど を 知ら ぬ 馬鹿 教師 と 云 い 出した 。 みちや||さいごに|のぞみ||ぞくして||せいと|||ふけい||いけん||きいて|みのほど||しら||ばか|きょうし||うん||だした

道也 は 飄然 と して 越後 を 去った 。 みちや||ひょうぜん|||えちご||さった Michiya left Echigo with an air of aloofness.

次に 渡った の は 九州 である 。 つぎに|わたった|||きゅうしゅう|

九州 を 中断 して その 北部 から 工業 を 除けば 九州 は 白紙 と なる 。 きゅうしゅう||ちゅうだん|||ほくぶ||こうぎょう||のぞけば|きゅうしゅう||はくし||

炭 礦 の 煙り を 浴びて 、 黒い 呼吸 を せ ぬ 者 は 人間 の 資格 は ない 。 すみ|こう||けむり||あびて|くろい|こきゅう||||もの||にんげん||しかく||

垢 光り の する 背広 の 上 へ 蒼 い 顔 を 出して 、 世の中 が こう の 、 社会 が ああ の 、 未来 の 国民 が な ん の か の と 白銅 一 個 に さえ 換算 の 出来 ぬ 不 生産 的な 言説 を 弄する もの に 存在 の 権利 の あろう はず が ない 。 あか|ひかり|||せびろ||うえ||あお||かお||だして|よのなか||||しゃかい||||みらい||こくみん||||||||はくどう|ひと|こ|||かんさん||でき||ふ|せいさん|てきな|げんせつ||ろうする|||そんざい||けんり|||||

権利 の ない もの に 存在 を 許す の は 実業 家 の 御 慈悲 である 。 けんり|||||そんざい||ゆるす|||じつぎょう|いえ||ご|じひ|

無駄 口 を 叩く 学者 や 、 蓄音機 の 代理 を する 教師 が 露 命 を つなぐ 月々 幾 片 の 紙幣 は 、 どこ から 湧いて くる 。 むだ|くち||たたく|がくしゃ||ちくおんき||だいり|||きょうし||ろ|いのち|||つきづき|いく|かた||しへい||||わいて|

手 の 掌 を ぽん と 叩けば 、 自から 降る 幾 億 の 富 の 、 塵 の 塵 の 末 を 舐め さ して 、 生かして 置く の が 学者 である 、 文士 である 、 さては 教師 である 。 て||てのひら||||たたけば|おのずから|ふる|いく|おく||とみ||ちり||ちり||すえ||なめ|||いかして|おく|||がくしゃ||ぶんし|||きょうし|

金 の 力 で 活 きて おり ながら 、 金 を 誹 る の は 、 生んで 貰った 親 に 悪 体 を つく と 同じ 事 である 。 きむ||ちから||かつ||||きむ||ひ||||うんで|もらった|おや||あく|からだ||||おなじ|こと|

その 金 を 作って くれる 実業 家 を 軽 ん ずる なら 食わ ず に 死んで 見る が いい 。 |きむ||つくって||じつぎょう|いえ||けい||||くわ|||しんで|みる||

死ねる か 、 死に 切れ ず に 降参 を する か 、 試 めして 見よう と 云って 抛 り 出さ れた 時 、 道也 は また 飄然 と 九州 を 去った 。 しねる||しに|きれ|||こうさん||||ため||みよう||うん って|なげう||ださ||じ|みちや|||ひょうぜん||きゅうしゅう||さった 第 三 に 出現 した の は 中国 辺 の 田舎 である 。 だい|みっ||しゅつげん||||ちゅうごく|ほとり||いなか|

ここ の 気風 は さほど に 猛烈な 現金 主義 で は なかった 。 ||きふう||||もうれつな|げんきん|しゅぎ|||

ただ 土着 の もの が むやみに 幅 を 利かして 、 他県 の もの を 外国 人 と 呼ぶ 。 |どちゃく|||||はば||きかして|たけん||||がいこく|じん||よぶ

外国 人 と 呼ぶ だけ なら それ まで である が 、 いろいろに 手 を 廻 わして この 外国 人 を 征服 しよう と する 。 がいこく|じん||よぶ||||||||て||まわ|||がいこく|じん||せいふく|||

宴会 が あれば 宴会 で ひやかす 。 えんかい|||えんかい||

演説 が あれば 演説 で あてこ する 。 えんぜつ|||えんぜつ|||

それ から 新聞 で 厭 味 を 並べる 。 ||しんぶん||いと|あじ||ならべる

生徒 に からかわ せる 。 せいと|||

そうして それ が 何の ため で も ない 。 |||なんの||||

ただ 他県 の もの が 自分 と 同化 せ ぬ の が 気 に 懸る から である 。 |たけん||||じぶん||どうか|||||き||かかる||

同化 は 社会 の 要素 に 違 ない 。 どうか||しゃかい||ようそ||ちが|

仏蘭西 ( フランス ) の タルド と 云 う 学 者 は 社会 は 模倣 なり と さえ 云 うた くらい だ 。 ふらんす|ふらんす||||うん||まな|もの||しゃかい||もほう||||うん||| A scholar named Tarde of France's Ransai (France) even said that society was an imitation.

同化 は 大切 かも 知れ ぬ 。 どうか||たいせつ||しれ| Assimilation may be important.

その 大切 さ 加減 は 道也 と いえ ども 心得て いる 。 |たいせつ||かげん||みちや||||こころえて|

心得て いる どころ で は ない 、 高等な 教育 を 受けて 、 広義 な 社会 観 を 有して いる 彼 は 、 凡俗 以上 に 同化 の 功徳 を 認めて いる 。 こころえて||||||こうとうな|きょういく||うけて|こうぎ||しゃかい|かん||ゆうして||かれ||ぼんぞく|いじょう||どうか||くどく||みとめて|

ただ 高い もの に 同化 する か 低い もの に 同化 する か が 問題 である 。 |たかい|||どうか|||ひくい|||どうか||||もんだい| The question is whether to assimilate to something high or something low.

この 問題 を 解釈 し ないで いたずらに 同化 する の は 世 の ため に なら ぬ 。 |もんだい||かいしゃく||||どうか||||よ|||||

自分 から 云 えば 一 分 が 立た ぬ 。 じぶん||うん||ひと|ぶん||たた|

ある 時 旧 藩主 が 学校 を 参観 に 来た 。 |じ|きゅう|はんしゅ||がっこう||さんかん||きた

旧 藩主 は 殿様 で 華族 様 である 。 きゅう|はんしゅ||とのさま||かぞく|さま|

所 の もの から 云 えば 神様 である 。 しょ||||うん||かみさま|

この 神様 が 道也 の 教室 へ 這 入って 来た 時 、 道也 は 別に 意 に も 留め ず 授業 を 継続 して いた 。 |かみさま||みちや||きょうしつ||は|はいって|きた|じ|みちや||べつに|い|||とどめ||じゅぎょう||けいぞく||

神様 の 方 で は 無論 挨拶 も し なかった 。 かみさま||かた|||むろん|あいさつ|||

これ から 事 が 六 ず か しく なった 。 ||こと||むっ||||

教 場 は 神聖である 。 きょう|じょう||しんせいである The school is sacred.

教師 が 教壇 に 立って 業 を 授ける の は 侍 が 物 の 具に 身 を 固めて 戦場 に 臨む ような もの である 。 きょうし||きょうだん||たって|ぎょう||さずける|||さむらい||ぶつ||つぶさに|み||かためて|せんじょう||のぞむ|||

いくら 華族 でも 旧 藩主 でも 、 授業 を 中絶 さ せる 権利 は ない と は 道也 の 主張 であった 。 |かぞく||きゅう|はんしゅ||じゅぎょう||ちゅうぜつ|||けんり|||||みちや||しゅちょう| It was Michiya's claim that neither the Kazoku nor the former feudal lord had the right to abort the class.

この 主張 の ため に 道也 は また 飄然 と して 任地 を 去った 。 |しゅちょう||||みちや|||ひょうぜん|||にんち||さった Because of this allegation, Michiya also left his post in a hurry.

去る 時 に 土地 の もの は 彼 を 目して 頑愚 だ と 評し 合う たそう である 。 さる|じ||とち||||かれ||もくして|がんぐ|||ひょうし|あう||

頑愚 と 云 われ たる 道也 は この 嘲 罵 を 背 に 受け ながら 飄然 と して 去った 。 がんぐ||うん|||みちや|||あざけ|ののし||せ||うけ||ひょうぜん|||さった Michiya, who is said to be stubborn, left with this ridicule on his back.

三 たび 飄然 と 中学 を 去った 道也 は 飄然 と 東京 へ 戻った なり 再び 動く 景色 が ない 。 みっ||ひょうぜん||ちゅうがく||さった|みちや||ひょうぜん||とうきょう||もどった||ふたたび|うごく|けしき||

東京 は 日本 で 一 番 世 地 辛い 所 である 。 とうきょう||にっぽん||ひと|ばん|よ|ち|からい|しょ|

田舎 に いる ほど の 俸給 を 受けて さえ 楽に は 暮せ ない 。 いなか|||||ほうきゅう||うけて||らくに||くらせ|

まして 教職 を 抛って 両手 を 袂 へ 入れた まま で 遣 り 切る の は 、 立ち ながら みいら と なる 工夫 と 評する より ほか に 賞 め よう の ない 方法 である 。 |きょうしょく||なげうって|りょうて||たもと||いれた|||つか||きる|||たち|||||くふう||ひょうする||||しょう|||||ほうほう|

道也 に は 妻 が ある 。 みちや|||つま|| Michiya has a wife.

妻 と 名 が つく 以上 は 養う べき 義務 は 附随 して くる 。 つま||な|||いじょう||やしなう||ぎむ||ふずい||

自から みいら と なる の を 甘んじて も 妻 を 干 乾 に する 訳 に は 行か ぬ 。 おのずから||||||あまんじて||つま||ひ|いぬい|||やく|||いか|

干 乾 に なら ぬ よ ほど 前 から 妻君 は すでに 不平 である 。 ひ|いぬい||||||ぜん||さいくん|||ふへい| My wife has already complained for a long time before it became dry.

始めて 越後 を 去る 時 に は 妻君 に 一部始終 を 話した 。 はじめて|えちご||さる|じ|||さいくん||いちぶしじゅう||はなした When I left Echigo for the first time, I told my wife the whole story.

その 時 妻君 は ご もっともで ご ざん す と 云って 、 甲斐 甲斐 しく 荷物 の 手 拵 を 始めた 。 |じ|さいくん||||||||うん って|かい|かい||にもつ||て|そん||はじめた 九州 を 去る 時 に も その 顛末 を 云って 聞か せた 。 きゅうしゅう||さる|じ||||てんまつ||うん って|きか| 今度 は また です か と 云った ぎり 何にも 口 を 開か なかった 。 こんど||||||うん った||なんにも|くち||あか| 中国 を 出る 時 の 妻君 の 言葉 は 、 あなた の ように 頑固で は どこ へ いら しって も 落ちつけっこ ありません わ と 云 う 訓 戒的 の 挨拶 に 変化 して いた 。 ちゅうごく||でる|じ||さいくん||ことば|||||がんこで|||||||おちつけ っこ|あり ませ ん|||うん||さとし|かいてき||あいさつ||へんか|| 七 年 の 間 に 三 たび 漂泊 して 、 三 たび 漂泊 する うち に 妻君 は しだい と 自分 の 傍 を 遠退く ように なった 。 なな|とし||あいだ||みっ||ひょうはく||みっ||ひょうはく||||さいくん||||じぶん||そば||とおのく||

妻君 が 自分 の 傍 を 遠退く の は 漂泊 の ため であろう か 、 俸禄 を 棄 てる ため であろう か 。 さいくん||じぶん||そば||とおのく|||ひょうはく|||||ぼうろく||き||||

何度 漂泊 して も 、 漂泊 する たび に 月給 が 上がったら どう だろう 。 なんど|ひょうはく|||ひょうはく||||げっきゅう||あがったら||

妻君 は 依然と して 「 あなた の ように ……」 と 不服 が まし い 言葉 を 洩らしたろう か 。 さいくん||いぜん と||||||ふふく||||ことば||もらしたろう|

博士 に でも なって 、 大学 教授 に 転任 して も やはり 「 あなた の ように ……」 が 繰り返さ れる であろう か 。 はかせ||||だいがく|きょうじゅ||てんにん||||||||くりかえさ||| Even if I become a doctor and transfer to a university professor, will "like you ..." be repeated?

妻君 の 了 簡 は 聞いて 見 なければ 分 ら ぬ 。 さいくん||さとる|かん||きいて|み||ぶん||

博士 に なり 、 教授 に なり 、 空しき 名 を 空しく 世間 に 謳わ る る が ため 、 その 反響 が 妻君 の 胸 に 轟いて 、 急に 夫 の 待遇 を 変える ならば この 細 君 は 夫 の 知己 と は 云 え ぬ 。 はかせ|||きょうじゅ|||むなしき|な||むなしく|せけん||うたわ||||||はんきょう||さいくん||むね||とどろいて|きゅうに|おっと||たいぐう||かえる|||ほそ|きみ||おっと||ちき|||うん||

世の中 が 夫 を 遇 する 朝夕 の 模様 で 、 夫 の 価値 を 朝夕 に 変える 細 君 は 、 夫 を 評価 する 上 に おいて 、 世間並の 一 人 である 。 よのなか||おっと||ぐう||あさゆう||もよう||おっと||かち||あさゆう||かえる|ほそ|きみ||おっと||ひょうか||うえ|||せけんなみの|ひと|じん|

嫁が ぬ 前 、 名 を 知ら ぬ 前 、 の 己 れ と 異なる ところ が ない 。 よめ が||ぜん|な||しら||ぜん||おのれ|||ことなる||| Before the bride is gone, before she doesn't know her name, there is nothing different from herself.

従って 夫 から 見れば あか の 他人 である 。 したがって|おっと||みれば|||たにん|

夫 を 知る 点 に おいて 嫁ぐ 前 と 嫁ぐ 後 と に 変り が なければ 、 少なくとも この 点 に おいて 細 君 らしい ところ が ない のである 。 おっと||しる|てん|||とつぐ|ぜん||とつぐ|あと|||かわり|||すくなくとも||てん|||ほそ|きみ|||||

世界 は この 細 君 らしから ぬ 細 君 を もって 充満 して いる 。 せかい|||ほそ|きみ|||ほそ|きみ|||じゅうまん||

道也 は 自分 の 妻 を やはり この 同類 と 心得て いる だろう か 。 みちや||じぶん||つま||||どうるい||こころえて|||

至る所 に 容 れられ ぬ 上 に 、 至る所 に 起居 を 共に する 細 君 さえ 自分 を 解して くれ ない のだ と 悟ったら 、 定めて 心細い だろう 。 いたるところ||よう|れ られ||うえ||いたるところ||ききょ||ともに||ほそ|きみ||じぶん||かいして|||||さとったら|さだめて|こころぼそい| 世の中 は かかる 細 君 を もって 充満 して いる と 云った 。 よのなか|||ほそ|きみ|||じゅうまん||||うん った He said that the world is filled with such a person. かかる 細 君 を もって 充満 して おり ながら 、 皆 円満に くらして いる 。 |ほそ|きみ|||じゅうまん||||みな|えんまんに||

順 境 に ある 者 が 細 君 の 心 事 を ここ まで に 解剖 する 必要 が ない 。 じゅん|さかい|||もの||ほそ|きみ||こころ|こと|||||かいぼう||ひつよう||

皮膚 病 に 罹 れば こそ 皮膚 の 研究 が 必要に なる 。 ひふ|びょう||り|||ひふ||けんきゅう||ひつように|

病気 も 無い のに 汚 ない もの を 顕微 鏡 で 眺める の は 、 事 なき に 苦しんで 肥 柄杓 を 振り 廻す と 一般 である 。 びょうき||ない||きたな||||けんび|きよう||ながめる|||こと|||くるしんで|こえ|ひしゃく||ふり|まわす||いっぱん|

ただ この 順 境 が 一転 して 逆落し に 運命 の 淵 へ ころがり込む 時 、 いか な 夫婦 の 間 に も 気まずい 事 が 起る 。 ||じゅん|さかい||いってん||さかおとし||うんめい||ふち||ころがりこむ|じ|||ふうふ||あいだ|||きまずい|こと||おこる

親子 の 覊絆 も ぽつり と 切れる 。 おやこ||たづなきずな||||きれる

美 くし いの は 血 の 上 を 薄く 蔽 う 皮 の 事 であった と 気 が つく 。 び||||ち||うえ||うすく|へい||かわ||こと|||き||

道也 は どこ まで 気 が ついた か 知ら ぬ 。 みちや||||き||||しら| Michiya didn't know how much he had noticed.

道也 の 三 たび 去った の は 、 好んで 自から 窮地 に 陥る ため で は ない 。 みちや||みっ||さった|||このんで|おのずから|きゅうち||おちいる||||

罪 も ない 妻 に 苦労 を 掛ける ため で は なおさら ない 。 ざい|||つま||くろう||かける|||||

世間 が 己 れ を 容 れ ぬ から 仕方 が ない のである 。 せけん||おのれ|||よう||||しかた||| It can't be helped because the world won't accept it.

世 が 容 れ ぬ なら なぜ こちら から 世に 容 れられよう と は せ ぬ ? よ||よう|||||||よに|よう|れ られよう|||| 世に 容 れられよう と する 刹那 に 道也 は 奇麗に 消滅 して しまう から である 。 よに|よう|れ られよう|||せつな||みちや||きれいに|しょうめつ|||| 道也 は 人格 に おいて 流 俗 より 高い と 自信 して いる 。 みちや||じんかく|||りゅう|ぞく||たかい||じしん||

流 俗 より 高ければ 高い ほど 、 低い もの の 手 を 引いて 、 高い 方 へ 導いて やる の が 責任 である 。 りゅう|ぞく||たかければ|たかい||ひくい|||て||ひいて|たかい|かた||みちびいて||||せきにん| The higher you are in the world, the more responsibility you have to take the hands of those who are lower and lead them to the higher.

高い と 知り ながら も 低き につく の は 、 自から 多年 の 教育 を 受け ながら 、 この 教育 の 結果 が もたらした 財宝 を 床下 に 埋 む る ような もの である 。 たかい||しり|||ひくき||||おのずから|たねん||きょういく||うけ|||きょういく||けっか|||ざいほう||ゆかした||うずま|||||

自分 の 人格 を 他 に 及ぼさ ぬ 以上 は 、 せっかく に 築き上げた 人格 は 、 築きあげ ぬ 昔 と 同じく 無 功 力 で 、 築き上げた 労力 だけ を 徒費 した 訳 に なる 。 じぶん||じんかく||た||およぼさ||いじょう||||きずきあげた|じんかく||きずきあげ||むかし||おなじく|む|いさお|ちから||きずきあげた|ろうりょく|||とひ||やく||

英語 を 教え 、 歴史 を 教え 、 ある 時 は 倫理 さえ 教えた の は 、 人格 の 修養 に 附随 して 蓄えられた 、 芸 を 教えた のである 。 えいご||おしえ|れきし||おしえ||じ||りんり||おしえた|||じんかく||しゅうよう||ふずい||たくわえ られた|げい||おしえた| 単に この 芸 を 目的 に して 学問 を した ならば 、 教 場 で 書物 を 開いて さえ いれば 済む 。 たんに||げい||もくてき|||がくもん||||きょう|じょう||しょもつ||あいて|||すむ

書物 を 開いて 飯 を 食って 満足 して いる の は 綱渡り が 綱 を 渡って 飯 を 食い 、 皿 廻し が 皿 を 廻 わして 飯 を 食う の と 理論 に おいて 異なる ところ は ない 。 しょもつ||あいて|めし||くって|まんぞく|||||つなわたり||つな||わたって|めし||くい|さら|まわし||さら||まわ||めし||くう|||りろん|||ことなる|||

学問 は 綱渡り や 皿 廻し と は 違う 。 がくもん||つなわたり||さら|まわし|||ちがう Learning is not like tightrope walking or spinning a platter.

芸 を 覚える の は 末 の 事 である 。 げい||おぼえる|||すえ||こと|

人間 が 出来上る の が 目的 である 。 にんげん||できあがる|||もくてき|

大小 の 区別 の つく 、 軽重 の 等 差 を 知る 、 好悪 の 判然 する 、 善悪 の 分 界 を 呑み込んだ 、 賢 愚 、 真偽 、 正邪 の 批判 を 謬 ま ら ざる 大丈夫 が 出来上がる の が 目的 である 。 だいしょう||くべつ|||けいちょう||とう|さ||しる|こうお||はんぜん||ぜんあく||ぶん|かい||のみこんだ|かしこ|ぐ|しんぎ|せいじゃ||ひはん||びゅう||||だいじょうぶ||できあがる|||もくてき|

道也 は こう 考えて いる 。 みちや|||かんがえて|

だから 芸 を 售って 口 を 糊 する の を 恥 辱 と せ ぬ と 同時に 、 学問 の 根底 たる 立脚 地 を 離 る る の を 深く 陋劣 と 心得た 。 |げい||しゅう って|くち||のり||||はじ|じょく|||||どうじに|がくもん||こんてい||りっきゃく|ち||はな|||||ふかく|ろうれつ||こころえた 彼 が 至る所 に 容 れられ ぬ の は 、 学問 の 本体 に 根拠 地 を 構えて の 上 の 去就 である から 、 彼 自身 は 内 に 顧みて 疚 しい ところ も なければ 、 意気地 が ない と も 思いつか ぬ 。 かれ||いたるところ||よう|れ られ||||がくもん||ほんたい||こんきょ|ち||かまえて||うえ||きょしゅう|||かれ|じしん||うち||かえりみて|きゅう|||||いくじ|||||おもいつか| 頑愚 など と 云 う 嘲 罵 は 、 掌 へ 載せて 、 夏 の 日 の 南 軒 に 、 虫 眼鏡 で 検査 して も 了解 が 出来 ん 。 がんぐ|||うん||あざけ|ののし||てのひら||のせて|なつ||ひ||みなみ|のき||ちゅう|めがね||けんさ|||りょうかい||でき|

三 度 教師 と なって 三 度 追い出さ れた 彼 は 、 追い出さ れる たび に 博士 より も 偉大な 手柄 を 立てた つもりで いる 。 みっ|たび|きょうし|||みっ|たび|おいださ||かれ||おいださ||||はかせ|||いだいな|てがら||たてた||

博士 は えらかろう 、 しかし たかが 芸 で 取る 称号 である 。 はかせ|||||げい||とる|しょうごう|

富豪 が 製 艦 費 を 献 納 して 従 五 位 を ちょうだい する の と 大した 変り は ない 。 ふごう||せい|かん|ひ||けん|おさむ||じゅう|いつ|くらい||||||たいした|かわり||

道也 が 追い出さ れた の は 道也 の 人物 が 高い から である 。 みちや||おいださ||||みちや||じんぶつ||たかい|| The reason why Michiya was kicked out was because of his high character.

正しき 人 は 神 の 造れる すべて の うち にて 最も 尊き もの なり と は 西 の 国 の 詩人 の 言葉 だ 。 ただしき|じん||かみ||つくれる|||||もっとも|とうとき|||||にし||くに||しじん||ことば|

道 を 守る もの は 神 より も 貴し と は 道也 が 追 わる る ごと に 心 の うち で 繰り返す 文句 である 。 どう||まもる|||かみ|||とうとし|||みちや||つい|||||こころ||||くりかえす|もんく|

ただし 妻君 は かつて この 文句 を 道也 の 口 から 聞いた 事 が ない 。 |さいくん||||もんく||みちや||くち||きいた|こと|| However, his wife had never heard this complaint from Michiya's mouth.

聞いて も 分かる まい 。 きいて||わかる| I don't know if you can hear me.

わから ねば こそ 餓え 死に も せ ぬ 先 から 、 夫 に 対して 不平 な のである 。 |||うえ|しに||||さき||おっと||たいして|ふへい||

不平 な 妻 を 気の毒 と 思わぬ ほど の 道也 で は ない 。 ふへい||つま||きのどく||おもわぬ|||みちや||| Michiya isn't so sorry for his complaining wife.

ただ 妻 の 歓心 を 得る ため に 吾 が 行く 道 を 曲げ ぬ だけ が 普通の 夫 と 違う のである 。 |つま||かんしん||える|||われ||いく|どう||まげ||||ふつうの|おっと||ちがう|

世 は 単に 人 と 呼ぶ 。 よ||たんに|じん||よぶ The world simply calls them people.

娶れば 夫 である 。 めとれば|おっと| If you are a husband, you are a husband.

交われば 友 である 。 まじわれば|とも|

手 を 引けば 兄 、 引 かる れば 弟 である 。 て||ひけば|あに|ひ|||おとうと| If you pull your hand, you are your brother, and if you pull your hand, you are your younger brother.

社会 に 立てば 先覚者 に も なる 。 しゃかい||たてば|せんかくしゃ|||

校舎 に 入れば 教師 に 違いない 。 こうしゃ||はいれば|きょうし||ちがいない

さる を 単に 人 と 呼ぶ 。 ||たんに|じん||よぶ

人 と 呼んで 事 足る ほど の 世間 なら 単純である 。 じん||よんで|こと|たる|||せけん||たんじゅんである

妻君 は 常に この 単純な 世界 に 住んで いる 。 さいくん||とわに||たんじゅんな|せかい||すんで| Your wife has always lived in this simple world.

妻君 の 世界 に は 夫 と して の 道也 の ほか に は 学者 と して の 道也 も ない 、 志士 と して の 道也 も ない 。 さいくん||せかい|||おっと||||みちや|||||がくしゃ||||みちや|||しし||||みちや||

道 を 守り 俗 に 抗する 道也 は なおさら ない 。 どう||まもり|ぞく||こうする|みちや|||

夫 が 行く先 き 先 き で 評判 が 悪く なる の は 、 夫 の 才 が 足ら ぬ から で 、 到る所 に 職 を 辞する の は 、 自から 求 む る 酔 興 に ほかなら ん と まで 考えて いる 。 おっと||ゆくさき||さき|||ひょうばん||わるく||||おっと||さい||たら||||いたるところ||しょく||じする|||おのずから|もとむ|||よ|きょう||||||かんがえて|

酔 興 を 三 たび 重ねて 、 東京 へ 出て 来た 道也 は 、 もう 田舎 へ は 行か ぬ と 言い出した 。 よ|きょう||みっ||かさねて|とうきょう||でて|きた|みちや|||いなか|||いか|||いいだした Michiya, who came out to Tokyo after repeated drunkenness, said that he would no longer go to the countryside.

教師 も もう やら ぬ と 妻君 に 打ち明けた 。 きょうし||||||さいくん||うちあけた

学校 に 愛想 を つかした 彼 は 、 愛想 を つかした 社会 状態 を 矯正 する に は 筆 の 力 に よら ねば なら ぬ と 悟った のである 。 がっこう||あいそ|||かれ||あいそ|||しゃかい|じょうたい||きょうせい||||ふで||ちから|||||||さとった|

今 まで は いずこ の 果 で 、 どんな 職業 を しよう と も 、 己 れ さえ 真 直 であれば 曲がった もの は 苧殻 の ように 向 うで 折れ べき もの と 心得て いた 。 いま|||||か|||しょくぎょう|||||おのれ|||まこと|なお||まがった|||ちょから|||むかい||おれ||||こころえて|

盛 名 は わ が 望む ところ で は ない 。 さかり|な||||のぞむ||||

威 望 も わ が 欲する ところ で は ない 。 たけし|のぞみ||||ほっする||||

ただ わが 人格 の 力 で 、 未来 の 国民 を かたちづくる 青年 に 、 向上 の 眼 を 開か しむ る ため 、 取捨 分別 の 好例 を 自家 身上 に 示せば 足る と のみ 思い込んで 、 思い込んだ 通り を 六 年 余り 実行 して 、 見事に 失敗 した のである 。 ||じんかく||ちから||みらい||こくみん|||せいねん||こうじょう||がん||あか||||しゅしゃ|ぶんべつ||こうれい||じか|しんじょう||しめせば|たる|||おもいこんで|おもいこんだ|とおり||むっ|とし|あまり|じっこう||みごとに|しっぱい||

渡る 世間 に 鬼 は ない と 云 う から 、 同情 は 正しき 所 、 高き 所 、 物 の 理 窟 の よく 分かる 所 に 聚 まる と 早合点 して 、 この 年月 を 今度 こそ 、 今度 こそ 、 と 経験 の 足ら ぬ 吾身 に 、 待ち受けた の は 生涯 の 誤り である 。 わたる|せけん||おに||||うん|||どうじょう||ただしき|しょ|たかき|しょ|ぶつ||り|いわや|||わかる|しょ||じゅ|||はやがてん|||ねんげつ||こんど||こんど|||けいけん||たら||われみ||まちうけた|||しょうがい||あやまり|

世 は わ が 思う ほど に 高尚な もの で は ない 、 鑑識 の ある もの で も ない 。 よ||||おもう|||こうしょうな|||||かんしき||||||

同情 と は 強き もの 、 富め る もの に のみ 随 う 影 に ほかなら ぬ 。 どうじょう|||つよき||とめ|||||ずい||かげ|||

ここ まで 進んで おら ぬ 世 を 買い被って 、 一足飛び に 田舎 へ 行った の は 、 地ならし を せ ぬ 地面 の 上 へ 丈夫な 家 を 建てよう と あせる ような もの だ 。 ||すすんで|||よ||かいかぶって|いっそくとび||いなか||おこなった|||じならし||||じめん||うえ||じょうぶな|いえ||たてよう|||||

建て かける が 早い か 、 風 と 云 い 雨 と 云 う 曲者 が 来て 壊して しまう 。 たて|||はやい||かぜ||うん||あめ||うん||くせもの||きて|こわして|

地ならし を する か 、 雨 風 を 退 治る か せ ぬ うち は 、 落ちついて この世 に 住め ぬ 。 じならし||||あめ|かぜ||しりぞ|なおる||||||おちついて|このよ||すめ|

落ちついて 住め ぬ 世 を 住める ように して やる の が 天下 の 士 の 仕事 である 。 おちついて|すめ||よ||すめる||||||てんか||し||しごと|

金 も 勢 も ない もの が 天下 の 士 に 恥じ ぬ 事業 を 成す に は 筆 の 力 に 頼ら ねば なら ぬ 。 きむ||ぜい|||||てんか||し||はじ||じぎょう||なす|||ふで||ちから||たよら|||

舌 の 援 を 藉 ら ねば なら ぬ 。 した||えん||せき||||

脳味噌 を 圧搾 して 利 他 の 智 慧 を 絞ら ねば なら ぬ 。 のうみそ||あっさく||り|た||さとし|さとし||しぼら|||

脳味噌 は 涸 れる 、 舌 は 爛れる 、 筆 は 何 本 でも 折れる 、 それ でも 世の中 が 云 う 事 を 聞か なければ それ まで である 。 のうみそ||こ||した||ただれる|ふで||なん|ほん||おれる|||よのなか||うん||こと||きか||||

しかし 天下 の 士 と いえ ども 食わ ず に は 働け ない 。 |てんか||し||||くわ||||はたらけ|

よし 自分 だけ は 食わ ん で 済む と して も 、 妻 は 食わ ず に 辛抱 する 気遣 は ない 。 |じぶん|||くわ|||すむ||||つま||くわ|||しんぼう||きづか||

豊かに 妻 を 養わ ぬ 夫 は 、 妻 の 眼 から 見れば 大 罪人 である 。 ゆたかに|つま||やしなわ||おっと||つま||がん||みれば|だい|ざいにん|

今年 の 春 、 田舎 から 出て 来て 、 芝 琴平 町 の 安 宿 へ 着いた 時 、 道也 と 妻君 の 間 に は こんな 会話 が 起った 。 ことし||はる|いなか||でて|きて|しば|ことひら|まち||やす|やど||ついた|じ|みちや||さいくん||あいだ||||かいわ||おこった

「 教師 を お やめ なさるって 、 これ から 何 を なさる お つもり です か 」 「 別に これ と 云 う つもり も ない が ね 、 まあ 、 その うち 、 どうか なる だろう 」 「 その 内 どうか なる だろうって 、 それ じゃ まるで 雲 を 攫む ような 話し じゃ ありません か 」 「 そう さ な 。 きょうし||||なさる って|||なん|||||||べつに|||うん||||||||||||||うち|||だろう って||||くも||つかむ||はなし||あり ませ ん|||| あんまり 判然と しちゃ いない 」 「 そう 呑気 じゃ 困ります わ 。 |はんぜんと||||のんき||こまり ます| あなた は 男 だ から それ で ようご ざんしょう が 、 ちっと は 私 の 身 に も なって 見て 下さら なくっちゃ あ ……」 「 だ から さ 、 もう 田舎 へ は 行か ない 、 教師 に も なら ない 事 に きめた んだ よ 」 「 きめる の は 御 勝手です けれども 、 きめたって 月給 が 取れ なけりゃ 仕方 が ない じゃ ありません か 」 「 月給 が とれ なくって も 金 が とれれば 、 よかろう 」 「 金 が とれれば …… そりゃ ようご ざん す と も 」 「 そん なら 、 いい さ 」 「 いい さって 、 御 金 が とれる んです か 、 あなた 」 「 そう さ 、 まあ 取れる だろう と 思う の さ 」 「 どうして ? ||おとこ||||||||ち っと||わたくし||み||||みて|くださら|||||||いなか|||いか||きょうし|||||こと||||||||ご|かってです||きめた って|げっきゅう||とれ||しかた||||あり ませ ん||げっきゅう|||なく って||きむ||||きむ|||||||||||||||ご|きむ|||||||||とれる|||おもう||| 」 「 そこ は 今 考え 中 だ 。 ||いま|かんがえ|なか| I'm thinking about it right now.

そう 着 、 早々 計画 が 立つ もの か 」 「 だ から 心配に なる んです わ 。 |ちゃく|はやばや|けいかく||たつ|||||しんぱいに|||

いくら 東京 に いる と きめたって 、 きめた だけ の 思案 じゃ 仕方 が ない じゃ ありません か 」 「 どうも 御前 は むやみに 心配 性 で いけない 」 「 心配 も します わ 、 どこ へ いら しって も 折合 が わるくっちゃ 、 おや めに なる んです もの 。 |とうきょう||||きめた って||||しあん||しかた||||あり ませ ん|||おまえ|||しんぱい|せい|||しんぱい||し ます|||||||おりあ||||||| 私 が 心配 性 なら 、 あなた は よっぽど 癇癪 持ち です わ 」 「 そう かも 知れ ない 。 わたくし||しんぱい|せい|||||かんしゃく|もち|||||しれ|

しかし おれ の 癇癪 は …… まあ 、 いい や 。 |||かんしゃく|||| But my tantrum was ...... Well, never mind.

どうにか 東京 で 食える ように する から 」 「 御 兄さん の 所 へ いら しって 御 頼み な すったら 、 どう でしょう 」 「 うん 、 それ も 好 いが ね 。 |とうきょう||くえる||||ご|にいさん||しょ||||ご|たのみ||||||||よしみ|| 兄 は いったい 人 の 世話 なんか する 男 じゃ ない よ 」 「 あら 、 そう 何でも 一 人 で きめて 御 しまい に なる から 悪 るい んです わ 。 あに|||じん||せわ|||おとこ||||||なんでも|ひと|じん|||ご|||||あく|||

昨日 も あんなに 親切に いろいろ 言って 下さった じゃ ありません か 」 「 昨日 か 。 きのう|||しんせつに||いって|くださった||あり ませ ん||きのう| 昨日 は いろいろ 世話 を 焼く ような 事 を 言った 。 きのう|||せわ||やく||こと||いった

言った が ね ……」 「 言って も いけない んです か 」 「 いけな か ない よ 。 いった|||いって||||||||

言う の は 結構だ が …… あんまり 当 に なら ない から な 」 「 なぜ ? いう|||けっこうだ|||とう||||||

」 「 なぜって 、 その 内 だんだん わかる さ 」 「 じゃ 御 友達 の 方 に でも 願って 、 あした から でも 運動 を なすったら いい でしょう 」 「 友達って 別に 友達 なんか ありゃ し ない 。 なぜ って||うち|||||ご|ともだち||かた|||ねがって||||うんどう||な すったら|||ともだち って|べつに|ともだち|||| 同級 生 は みんな 散って しまった 」 「 だって 毎年 年始 状 を 御 寄こし に なる 足立 さん なんか 東京 で 立派に して いらっしゃる じゃ ありません か 」 「 足立 か 、 うん 、 大学 教授 だ ね 」 「 そう 、 あなた の ように 高く ばかり 構えて いらっしゃる から 人 に 嫌わ れる んです よ 。 どうきゅう|せい|||ちって|||まいとし|ねんし|じょう||ご|よこし|||あだち|||とうきょう||りっぱに||||あり ませ ん||あだち|||だいがく|きょうじゅ|||||||たかく||かまえて|||じん||きらわ||| 大学 教授 だ ねって 、 大学 の 先生 に なりゃ 結構じゃ ありません か 」 「 そう か ね 。 だいがく|きょうじゅ|||だいがく||せんせい|||けっこうじゃ|あり ませ ん|||| Isn't it okay if you're a university professor and become a university professor? "" That's right. じゃ 足立 の 所 へ でも 行って 頼んで 見よう よ 。 |あだち||しょ|||おこなって|たのんで|みよう| Then let's go to Adachi's place and ask him for help.

しかし 金 さえ 取れれば 必ず 足立 の 所 へ 行く 必要 は なかろう 」 「 あら 、 まだ あんな 事 を 云って いらっしゃる 。 |きむ||とれれば|かならず|あだち||しょ||いく|ひつよう||||||こと||うん って| あなた は よっぽど 強情 ね 」 「 うん 、 おれ は よっぽど 強情だ よ 」 |||ごうじょう||||||ごうじょうだ|