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野分  夏目漱石, 「六」 野分  夏目漱石 – Text to read

野分 夏目漱石, 「六」 野分 夏目漱石

Avanzato 2 di giapponese lesson to practice reading

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「六 」野 分 夏目 漱石

「 私 は 高柳 周作 と 申す も ので ……」 と 丁寧に 頭 を 下げた 。 高柳 君 が 丁寧に 頭 を 下げた 事 は 今 まで 何度 も ある 。 しかし この 時 の ように 快 よく 頭 を 下げた 事 は ない 。 教授 の 家 を 訪問 して も 、翻訳 を 頼ま れる 人 に 面会 して も 、その他 の 先輩 に 対して も 皆 丁寧に 頭 を さげる 。 せんだって 中野 の おやじ に 紹介 さ れた 時 など は いよいよ もって 丁寧に 頭 を さげた 。 しかし 頭 を 下げる うち に いつでも 圧迫 を 感じて いる 。 位 地 、年輩 、服装 、住居 が 睥睨 して 、頭 を 下げ ぬ か 、下げ ぬ か と 催促 されて や むを得ず 頓首 する のである 。 道也 先生 に 対して は 全く 趣 が 違う 。 先生 の 服装 は 中野 君 の 説明 した ごとく 、自分 と 伯仲 の 間 に ある 。 先生 の 書斎 は 座敷 を かねる 点 に おいて 自分 の 室 と 同様 である 。 先生 の 机 は 白木 なる の 点 に おいて 、丸裸 なる の 点 に おいて 、また もっとも 無趣味 に 四角張った る 点 に おいて 自分 の 机 と 同様である 。 先生 の 顔 は 蒼い 点 に おいて 瘠せた 点 に おいて 自分 と 同様 である 。 すべて これら の 諸点 に おいて 、先生 と 弟 たり がたく 兄 たり がたき 間柄 に あり ながら 、しかも 丁寧に 頭 を 下げる の は 、逼まられて 仕方 なし に 下げる の で は ない 。 仕方 ある に も かかわらず 、こっち の 好意 を もって 下げる のである 。 同類 に 対する 愛 憐 の 念 より 生ずる 真正 の 御辞儀 である 。 世間 に 対する 御辞儀 は この 野郎 が と 心中 に 思い ながら も 、公然 に は 反比例 に 丁寧 を 極めたる 虚偽 の 御辞儀 で あります と 断わりたい くらい に 思って 、高柳 君 は 頭 を 下げた 。 道也 先生 は それ と 覚った か どう か 知ら ぬ 。 「 ああ 、 そう です か 、 私 が 白井 道也 で ……」 と つくろった 景色 も なく 云 う 。 高柳 君 に は この 挨拶 振り が 気 に 入った 。 両人 は しばらく の 間 黙って 控えて いる 。 道也 は 相手 の 来意 が わから ぬ から 、先方 の 切り出す の を 待つ のが 当然 と 考える 。 高柳 君 は 昔 し の 関係 を 残り なく 打ち開けて 、一刻 も 早く 同類 相憐む の 間柄 に なりたい 。 しかし あまり 突然である から 、ちょっと 言い出し かねる 。 のみ ならず 、一昔 し 前 の 事 と は 申し ながら 、自分達 が いじめて 追い出した 先生 が 、その ため に かく 零落した ので は あるまいか と 思う と 、何となく 気がひけて 云い切れない 。 高柳 君 は こんな ところ に なる と すこぶる 勇気 に 乏しい 。 謝罪 かたがた 尋ね は した が 、いよいよ と 云う 段 に なる と 少々 怖くて 罪 滅し が 出来 かねる 。 心 に いろいろな 冒頭 を 作って 見た が 、どれ も これ も きまり が わるい 。 「だんだん 寒く なります ね 」と 道也 先生 は 、こっち の 了 簡 を 知ら ない から 、超然 たる 時候 の 挨拶 を する 。 「ええ 、だいぶ 寒く なった ようで ……」高柳 君 の 脳中 の 冒頭 は これ で まるで 打ち 壊されて しまった 。 いっその事 自白 は この 次 に しよう と いう 気 に なる 。 しかし 何だか 話して 行きたい 気 が する 。 「 先生 御 忙 が しい です か ……」 「 ええ 、 なかなか 忙 が しいん で 弱ります 。 貧乏 閑 なし で 」高柳 君 は やり損なった と 思う 。 再び 出直さ ねば なら ん 。 「少し 御 話 を 承りたい と 思って 上がった んです が ……」「は あ 、何か 雑誌 へ でも 御 載せ に なる んです か 」あて は また はずれる 。 おれ の 態度 が どうしても 向 に は 酌み 取れない と 見える と 青年 は 心中 少し く 残念に 思った 。 「いえ 、そう じゃ ない ので ――ただ ――ただっちゃ 失礼です が 。 ――御邪魔 なら また 上がって も よろしゅう ございます が ……」「いえ 邪魔じゃ ありません 。 談話 と 云う から ちょっと 聞いて 見た のです 。 ――わたし の うち へ 話 なんか 聞き に くる もの は ありません よ 」「いいえ 」と 青年 は 妙な 言葉 を もって 先生 の 辞 を 否定 した 。 「あなた は 何の 学問 を なさる です か 」「文学 の 方 を ――今年 大学 を 出た ばかりです 」「は あ そうですか 。 では これ から 何か お やり に なる んです ね 」「やれれば 、やりたい のです が 、暇 が なくって ……」「暇 は ないです ね 。 わたし など も 暇 が なくって 困って います 。 しかし 暇 は かえって ない 方が いい かも 知れない 。 何 です ね 。 暇 の ある もの は だいぶ いる ようだ が 、余り 誰 も 何も やって いない ようじゃありませんか 」「それ は 人 に 依り は しませんか 」と 高柳 君 は おれ が 暇 さえ あれば と 云う ところ を 暗に ほのめかした 。 「 人 に も 依る でしょう 。 しかし 今 の 金持ち と 云 う もの は ……」 と 道也 は 句 を 半分 で 切って 、 机 の 上 を 見た 。 机 の 上 に は 二 寸 ほど の 厚さ の 原稿 が のっている 。 障子 に は 洗濯 した 足袋 の 影 が さす 。 「金持ち は 駄目です 。 金 が なくって 困って る もの が ……」「金 が なくって 困って る もの は 、困り なり に やれば いい のです 」と 道也 先生 困ってる 癖 に 太平 な 事 を 云う 。 高柳 君 は 少々 不満 である 。 「しかし 衣食 の ため に 勢力 を とられて しまって ……」「それ で いい のです よ 。 勢力 を とられて しまったら 、ほか に 何にも しないで 構わない のです 」青年 は 唖然と して 、道也 を 見た 。 道也 は 孔子 様 の ように 真面目 である 。 馬鹿 に されて る んじゃ たまらない と 高柳 君 は 思う 。 高柳 君 は 大抵 の 事 を 馬鹿に さ れた ように 聞き取る 男 である 。 「先生 なら いい かも 知れません 」と つるつる と 口 を 滑らして 、はっと 言い過ぎた と 下を 向いた 。 道也 は 何とも 思わ ない 。 「わたし は 無論 いい 。 あなた だって 好 い です よ 」と 相手 まで も 平気 に 捲き込もう と する 。 「なぜ です か 」と 二三 歩 逃げて 、振り向き ながら 佇む 狐 の ように 探り を 入れた 。 「だって 、あなた は 文学 を やった と 云わ れた じゃ ありません か 。 そう です か 」「ええ やりました 」と 力 を 入れる 。 すべて 他の 点 に 関して は 断乎 たる 返事 を する 資格 の ない 高柳 君 は 自己 の 本領 に おいて は 何人 の 前 に 出て も ひるまぬ つもりである 。 「それ なら いい 訳 だ 。 それ なら それ で いい 訳 だ 」と 道也 先生 は 繰り返して 云った 。 高柳 君 に は 何の 事か 少しも 分らない 。 また 、なぜ です と 突き 込む の も 、何だか 伏兵 に 罹る 気持 が して 厭 である 。 ちょっと 手 の つけよう が ない ので 、黙って 相手 の 顔 を 見た 。 顔 を 見ている うちに 、先方 で どうか 解決してくれる だろう と 、暗に 催促の意を 籠めて 見た のである 。 「分 りました か 」と 道也 先生 が 云う 。 顔 を 見た の は やっぱり 何の 役 に も 立た なかった 。 「 どうも 」 と 折れ ざる を 得ない 。 「だって そうじゃ ありません か 。 ――文学 は ほか の 学問 と は 違う のです 」と 道也 先生 は 凛然 と 云い放った 。 「は あ 」と 高柳 君 は 覚えず 応答 を した 。 「ほか の 学問 は です ね 。 その 学問 や 、その 学問 の 研究 を 阻害 する もの が 敵 である 。 たとえば 貧 と か 、多忙 と か 、圧迫 と か 、不幸 と か 、悲酸 な 事情 と か 、不和 と か 、喧嘩 と か です ね 。 これ が ある と 学問 が 出来ない 。 だから なるべく これ を 避けて 時 と 心 の 余裕 を 得よう と する 。 文学 者 も 今 まで は やはり そう 云う 了 簡 で いた のです 。 そう 云う 了 簡 どころ で は ない 。 あらゆる 学問 の うち で 、 文学者 が 一 番 呑気 な 閑日 月 が なくて は なら ん よう に 思われて いた 。 おかしい の は 当人 自身 まで が その 気 で いた 。 しかし それ は 間違 です 。 文学 は 人生 そのもの である 。 苦痛 に あれ 、困窮 に あれ 、窮愁 に あれ 、凡そ 人生 の 行路 に あたる もの は すなわち 文学 で 、それら を 甞め 得た もの が 文学者 である 。 文学者 と 云 うの は 原稿 紙 を 前 に 置いて 、 熟語 字典 を 参考 して 、 首 を ひねって いる ような 閑人 じゃ ありません 。 円熟 して 深厚 な 趣味 を 体して 、人間 の 万事 を 臆面 なく 取り捌いたり 、感得したり する 普通 以上 の 吾々 を 指す のであります 。 その 取り捌き方 や 感得 し 具合 を 紙 に 写した の が 文学書 に なる のです 、だから 書物 は 読まない でも 実際 その 事 に あたれば 立派な 文学者 です 。 したがって ほか の 学問 が でき得る 限り 研究 を 妨害 する 事物 を 避けて 、しだいに 人世に 遠かる に 引き易えて 文学者 は 進んで この 障害 の なか に 飛び込む のであります 」「なるほど 」と 高柳 君 は 妙な 顔 を して 云った 。 「あなた は 、そう は 考えません か 」そう 考える に も 、考えぬ に も 生れて 始めて 聞いた 説 である 。 批評 的 の 返事 が 出る とき は 大抵 用意 の ある 場合 に 限る 。 不意 撃 に 応ずる 事 が 出来れば 不意 撃 で は ない 。 「ふうん 」と 云って 高柳 君 は 首 を 低 れた 。 文学 は 自己 の 本領 である 。 自己 の 本領 に ついて 、他人 が 答弁 さえ 出来ぬ ほど の 説 を 吐く ならば その 本領 は あまり 鞏固 な もの で は ない 。 道也 先生 さえ 、こんな 見すぼらしい 家 に 住んで 、こんな 、 きたな らしい 着物 を きている ならば 、おれ は 当然 二十 円 五十 銭 の 月給 で 沢山 だ と 思った 。 何だか 急に 広い 世界 へ 引き出さ れた ような 感じ が する 。 「先生 は だいぶ 御 忙しい ようです が ……」「ええ 。 進んで 忙しい 中 へ 飛び込んで 、人 から 見る と 酔興 な 苦労 を します 。 ハハハハ 」と 笑う 。 これ なら 苦労 が 苦労に たた ない 。 「失礼 ながら 今 は どんな 事 を やって おいで で ……」「今 です か 、ええ いろいろな 事 を やります よ 。 飯 を 食う 方 と 本領 の 方 と 両方 やろう と する から なかなか 骨 が 折れます 。 近頃 は 頼まれて よく 方々 へ 談話 の 筆記 に 行きます が ね 」「随分 御 面倒 でしょう 」「面倒 と 云いや 、面倒です が ね 。 そう 面倒 と 云う より むしろ 馬鹿 気 ています 。 まあ いい加減に 書いて は 来ます が 」「なかなか 面白い 事 を 云うの が おりましょう 」と 暗に 中野 春台 の 事 を 釣り出そう と する 。 「面白い の 何のって 、この 間 は うま 、うまの 講釈 を 聞かされました 」「うま 、うまですか ? 」「ええ 、あの 小供 が 食物 の 事 を うまうま と 云いましょう 。 あれ の 来歴 です ね 。 その 人 の 説 に よる と 小供 が 舌 が 回り出して から 一番 早く 出る 発音 が うまうま だ そうです 。 それ で その 時分 は 何 を 見て もう ま うま 、何 を 見 なくって も うまう まだ から つまり は 何にも つけ なくて も いい のだ そうだ が 、そこ が 小供 に 取って 一番 大切な もの は 食物 だ から 、とうとう 食物 の 方 で 、うま うまを 専有 してしまった のだ そうです 。 そこ で 大人 も その 癖 が のこって 、美味な もの を うまい と 云う ように なった 。 だから 人生 の 煩悶 は 要するに 元 へ 還って うまうま の 二字 に 帰着 する と 云う のです 。 何だか 寄席 へ でも 行った ようじゃない です か 」 「 馬鹿に して います ね 」 「 ええ 、 大抵 は 馬鹿に さ れ に 行く ん です よ 」 「 しかし そんな つまらない 事 を 云 うって 失敬 です ね 」 「 なに 、 失敬 だって いい で さあ 、 どうせ 、 分 らない ん だ から 。 そう か と 思う と ね 。 非常に 真面目だ けれども なかなか 突飛な の が あって ね 。 この 間 は 猛烈な 恋愛 論 を 聞か さ れました 。 もっとも 若い 人 です が ね 」「中野 じゃありません か 」「君 、知ってます か 。 ありゃ 熱心な もの だった 」「私 の 同級生 です 」「ああ 、そう ですか 。 中野 春 台 と か 云う 人 です ね 。 よっぽど 暇 が ある んでしょう 。 あんな 事 を 真面目に 考えて いる くらい だ から 」「金持ち です 」「うん 立派な 家 に います ね 。 君 は あの 男 と 親密な のです か 」「ええ 、もと は ごく 親密でした 。 しかし どうも いかんです 。 近頃 は ――何だか ――未来 の 細 君 か 何 か 出来た んで 、あんまり 交際 して くれない のです 」「いい でしょう 。 交際 し なくって も 。 損 に も なり そう も ない 。 ハハハハハ 」「何だか しか し 、こう 、一人 坊っち の ような 気 が して 淋しくって いけません 」「一人 坊っち で 、いい で さあ 」と 道也 先生 また いい で さあ を 担ぎ出した 。 高柳 君 は もう 「先生 なら いい でしょう 」と 突き込む 勇気 が 出 なかった 。 「昔 から 何 か しよう と 思えば 大概 は 一人 坊っち に なる もの です 。 そんな 一 人 の 友達 を たより に する ようじゃ 何も 出来ません 。 ことに よる と 親類 と も 仲違 に なる 事 が 出来て 来ます 。 妻 に まで 馬鹿に さ れる 事 が あります 。 しまい に 下 女 まで からかいます 」「私 は そんなに なったら 、不愉快で 生きて いられない だろう と 思います 」「それじゃ 、文学者 に は なれないです 」高柳 君 は だまって 下 を 向いた 。 「わたし も 、あなた ぐらい の 時 に は 、ここ まで と は 考えて いなかった 。 しかし 世の中 の 事実 は 実際 ここ まで やって 来る んです 。 うそ じゃ ない 。 苦しんだ の は 耶蘇 ( ヤソ ) や 孔子 ばかり で 、 吾々 文学者 は その 苦しんだ 耶蘇 や 孔子 を 筆 の 先 で ほめて 、 自分 だけ は 呑気 に 暮して 行けば いい のだ など と 考えてる の は 偽 文学者 です よ 。 そんな もの は 耶蘇 や 孔子 を ほめる 権利 は ない のです 」高柳 君 は 今 こそ 苦しい が 、もう 少し 立てば 喬木 に うつる 時節 が ある だろう と 、苦しい うち に 絹糸 ほど な 細い 望み を 繋いで いた 。 その 絹糸 が 半分 ばかり 切れて 、暗い 谷 から 上 へ 出る たより は 、生きて いる うち は 容易に 来 そうに 思わ れなく なった 。 「高柳 さん 」「はい 」「世の中 は 苦しい もの です よ 」「苦しい です 」「知ってます か 」と 道也 先生 は 淋し 気 に 笑った 。 「知って る つもり です けれど 、いつまでも こう 苦しくっちゃ ……」「やり 切れません か 。 あなた は 御両親 が 御在りか 」「母 だけ 田舎 に います 」「おっかさん だけ ? 」「ええ 」「御母さん だけ でも あれば 結構だ 」「なかなか 結構でない です 。 ――早く どうかして やら ない と 、もう 年 を 取って います から 。 私 が 卒業 したら 、どう か 出来る だろう と 思ってた のです が ……」「さよう 、近頃 の ように 卒業生 が 殖えちゃ 、ちょっと 、口 を 得る のが 困難です ね 。 ――どう です 、田舎 の 学校 へ 行く 気 は ない ですか 」「時々 は 田舎 へ 行こう とも 思う んです が ……」「また いやに なる か ね 。 ――そう さ 、あまり 勧められ も し ない 。 私 も 田舎 の 学校 は だいぶ 経験 が ある が 」「先生 は …… 」と 言い かけた が 、また 昔 の 事 を 云い 出し にくく なった 。 「ええ ? 」と 道也 は 何も 知ら ぬ 気 である 。 「先生 は ――あの ――江湖 雑誌 を 御 編輯 に なる と 云う 事 です が 、本当に そう なんで 」「ええ 、この 間 から 引き受けて やって います 」「今月 の 論説 に 解脱 と 拘泥 と 云うの が ありました が 、あの 憂世子 と 云うのは ……」「あれ は 、わたし です 。 読みました か 」「ええ 、大変 面白く 拝見 しました 。 そう 申しちゃ 失礼です が 、あれ は 私 の 云いたい 事 を 五六 段 高く して 、表出 した ような もの で 、利益 を 享けた 上に 痛快に 感じました 」「それ は ありがたい 。 それ じゃ 君 は 僕 の 知己 です ね 。 恐らく 天下 唯一 の 知己 かも 知れ ない 。 ハハハハ 」「そんな 事 は ない でしょう 」と 高柳 君 は やや 真面目に 云った 。 「そう です か 、それ じゃ なお 結構だ 。 しかし 今 まで 僕 の 文章 を 見て ほめて くれた もの は 一 人 も ない 。 君 だけ です よ 」「これ から 皆 んな 賞める つもりです 」「ハハハハ そう 云う 人 が せめて 百 人 も いて くれる と 、わたし も 本望 だが ――随分 頓珍漢 な 事 が あります よ 。 この 間 なんか 妙な 男 が 尋ねて 来て ね 。 ……」「何 です か 」「なあに 商人 です が ね 。 どこ から 聞いて 来た か 、わたし に 、あなた は 雑誌 を やって おいで だ そうだ が 文章 を 御 書き なさる だろう と 云う のです 」「へえ 」「書く 事 は 書く と まあ 云った んです 。 すると ね その 男 が どうぞ 一つ 、眼薬 の 広告 を かいて もらいたい と 云うんです 」「馬鹿な 奴 です ね 」「その代り 雑誌 へ 眼薬 の 広告 を 出す から 是非 一つ 願いたいって ――何でも 点明水 とか 云う 名 です が ね ……」「妙な 名を つけて ――。 御 書き に なった んです か 」「いえ 、とうとう 断わりました が ね 。 それ で まだ おかしい 事 が ある のです よ 。 その 薬屋 で 売出し の 日 に 大きな 風船 を 揚げる んだ と 云う のです 」「御 祝い の ため ですか 」「いえ 、やはり 広告 の ため に 。 ところが 風船 は 声 も 出さ ず に 高い 空 を 飛んで いる のだ から 、 仰向けば 誰 に でも 見える が 、 仰向か せ なくっちゃ いけない でしょう 」 「 へえ 、 なるほど 」 「 それ で わたし に その 、 仰向か せ の 役 を やって くれって 云 う の です 」 「 どう する の です 」 「 何 、 往来 を あるいて いて も 、 電車 へ 乗って いて も いい から 、 風船 を 見たら 、 おや 風船 だ 風船 だ 、 何でも ありゃ 点 明 水 の 広告 に 違いないって 何遍 も 何遍 も 云 う のだ そう です 」 「 ハハハ 随分 思い切って人 を 馬鹿に した 依頼 です ね 」 「 おかしく も あり 馬鹿馬鹿しく も ある が 、 何も それ だけ の 事 を する に は わたし で なくて も よかろう 。 車 引 でも 雇えば 訳ない じゃ ない か と 聞いて 見た のです 。 すると その 男 が ね 。 いえ 、車 引 なんぞ ばかり で は 信用 が なくって いけません 。 やっぱり 髭 でも 生やして もっともらしい 顔 を した 人 に 頼ま ない と 、人 が だまさ れません から と 云う のです 」「実に 失敬な 奴 です ね 。 全体 何物 でしょう 」「何物って やはり 普通の 人間 です よ 。 世の中 を だます ため に 人 を 雇い に 来た のです 。 呑気 な もの さ ハハハハ 」「どうも 驚ろいちまう 。 私 なら 撲 ぐって やる 」「そんな の を 撲った 日 にゃ 片っ端から 撲ら なくっちゃ あ ならない 。 君 そう 怒る が 、今 の 世の中 は そんな 男 ばかり で 出来て る んです よ 」高柳 君 は まさか と 思った 。 障子 に さした 足袋 の 影 は いつしか 消えて 、開け放った 一枚 の 間 から 、靴刷毛 の 端 が 見える 。 椽 は 泥 だらけ である 。 手 の 平 ほど な 庭 の 隅 に 一 株 の 菊 が 、清らかに 先生 の 貧 を 照らして いる 。 自然 を どうでも いい と 思って いる 高柳 君 も この 菊 だけ は 美 くし い と 感じた 。 杉 垣 の 遥か 向 に 大きな 柿 の 木 が 見えて 、空 の なか へ 五 分 珠 の 珊瑚 を かためて 嵌め込んだ ように 奇麗に 赤く 映る 。 鳴子 の 音 が して 烏 が ぱっと 飛んだ 。 「閑静 な 御 住居 です ね 」「ええ 。 蛸 寺 の 和尚 が 烏 を 追って いる んです 。 毎日 が らん がらん 云 わして 、烏 ばかり 追って いる 。 ああ 云 う 生涯 も 閑静で いい な 」 「 大変 たくさん 柿 が 生って います ね 」 「 渋 柿 です よ 。 あの 和尚 は 何 が 惜しくて 、ああ 渋柿 の 番 ばかり する の か な 。 ――君 妙な 咳 を 時々 する が 、身体 は 丈夫です か 。 だいぶ 瘠せて る ようじゃ ありません か 。 そう 瘠せて ちゃ いかん 。 身体 が 資本 だ から 」「しかし 先生 だって 随分 瘠せて いらっしゃる じゃありませんか 」「わたし ? わたし は 瘠せて いる 。 瘠せて は いる が 大丈夫 」

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