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野分 夏目漱石, 「八」 野分 夏目漱石

「八 」野 分 夏目 漱石

秋 は 次第に 行く 。 虫 の 音 は ようやく 細る 。 筆 硯 に 命 を 籠む る 道也 先生 は 、ただ 人生 の 一大事 因縁 に 着して 、他 を 顧みる の 暇 なき が 故に 、暮るる 秋 の 寒き を 知らず 、虫 の 音 の 細る を 知らず 、世 の 人 の われ に つれなき を 知らず 、爪 の 先 に 垢 の たまる を 知らず 、蛸寺 の 柿 の 落ちた 事 は 無論 知らぬ 。 動く べき 社会 を わが 力 にて 動かす が 道也 先生 の 天職 である 。 高く 、偉い なる 、公け なる 、ある ものの 方に 一歩 なり とも 動かす が 道也 先生 の 使命 である 。 道也 先生 は その他 を 知ら ぬ 。 高柳 君 は そう は 行か ぬ 。 道也 先生 の 何事 を も 知ら ざる に 反して 、彼 は 何事 を も 知る 。 往来 の 人 の 眼つき も 知る 。 肌寒く 吹く 風 の 鋭 どき も 知る 。 かすれて 渡る 雁 の 数 も 知る 。 美 くし き 女 も 知る 。 黄金 の 貴き も 知る 。 木屑 の ごとく 取り扱 わる る 吾身 の はかなくて 、 浮世 の 苦しみ の 骨 に 食い入る 夕 々 を 知る 。 下宿 の 菜 の 憐れ に して 芋 ばかり なる は もとより 知る 。 知り 過ぎ たる が 君 の 癖 に して 、この 癖 を 増長 せ しめ たる が 君 の 病 である 。 天下 に 、人間 は 殺して も 殺し 切れ ぬ ほど ある 。 しかし この 病 を 癒して くれる もの は 一 人 も ない 。 この 病 を 癒して くれ ぬ 以上 は 何 千万 人 いる も 、おら ぬ と 同様 である 。 彼 は 一人 坊っち に なった 。 己 れ に 足りて 人 に 待つ 事 なき 呑気 な 一人 坊っち で は ない 。 同情 に 餓え 、人間 に 渇 して やるせなき 一人 坊っち である 。 中野 君 は 病気 と 云う 、われ も 病気 と 思う 。 しかし 自分 を 一人 坊っち の 病気 に した もの は 世間 である 。 自分 を 一人 坊っち の 病気 に した 世間 は 危篤 なる 病人 を 眼前 に 控えて 嘯いて いる 。 世間 は 自分 を 病気 に した ばかりで は 満足 せ ぬ 。 半 死 の 病人 を 殺さ ねば やま ぬ 。 高柳 君 は 世間 を 呪わ ざる を 得 ぬ 。 道也 先生 から 見た 天地 は 人 の ため に する 天地 である 。 高柳 君 から 見た 天地 は 己 れ の ため に する 天地 である 。 人 の ため に する 天地 である から 、世話 を して くれ 手 が なくて も 恨 とは 思わ ぬ 。 己 れ の ため に する 天地 である から 、 己 れ を かまって くれ ぬ 世 を 残酷 と 思う 。 世話 を する ために 生れた 人 と 、世話 を され に 生れた 人 と は これほど 違う 。 人 を 指導 する もの と 、人 に たよる もの と は これほど 違う 。 同じく 一 人 坊っち で あり ながら これほど 違う 。 高柳 君 に は この 違い が わから ぬ 。 垢 染みた 布団 を 冷やかに 敷いて 、五 分 刈り が 七 分 ほど に 延びた 頭 を 薄ぎたない 枕 の 上 に 横 えていた 高柳 君 は ふと 眼 を 挙げて 庭 前 の 梧桐 を 見た 。 高柳 君 は 述作 を して 眼 が つかれる と 必ず この 梧桐 を 見る 。 地理 学 教授 法 を 訳して 、くさく さ する と 必ず この 梧桐 を 見る 。 手紙 を 書いて さえ 行き詰まる と きっと この 梧桐 を 見る 。 見る はず である 。 三 坪 ほど の 荒 庭 に 見る べき もの は 一本 の 梧桐 を 除いて は ほか に 何にも ない 。 ことに この 間 から 、気分 が わるくて 、仕事 を する 元気 が ない ので 、あやしげな 机 に 頬杖 を 突いて は 朝な夕な に 梧桐 を 眺め くらして 、うつらうつら と していた 。 一 葉 落ちて と 云う 句 は 古い 。 悲しき 秋 は 必ず 梧桐 から 手 を 下す 。 ばっさり と 垣 に かかる 袷 の 頃 は 、さ まで に 心 を 動かす 縁 とも ならぬ と 油断 する 翌朝 また ば さり と 落ちる 。 うそ 寒い から と 早く 繰る 雨戸 の 外 に ま たば さり と 音 が する 。 葉 は ようやく 黄ばんで 来る 。 青い もの が しだいに 衰える 裏 から 、浮き上がる の は 薄く 流した 脂 の 色 である 。 脂 は 夜 ごと を 寒く 明けて 、濃く 変って 行く 。 婆娑 たる 命 は 旦夕 に 逼る 。 風 が 吹く 。 どこ から 来る か 知らぬ 風 が すう と 吹く 。 黄ばんだ 梢 は 動 ぐ とも 見えぬ 先 に 一 葉 二葉 が はらはら 落ちる 。 あと は ようやく 助かる 。 脂 は 夜 ごと の 秋 の 霜 に だんだん 濃く なる 。 脂 の なか に 黒い 筋 が 立つ 。 箒 で 敲けば 煎餅 を 折る ような 音 が する 。 黒い 筋 は 左右 へ 焼け ひろがる 。 もう 危うい 。 風 が くる 。 垣 の 隙 から 、椽 の 下 から 吹いて くる 。 危うい もの は 落ちる 。 しきりに 落ちる 。 危うい と 思う 心 さえ なくなる ほど 梢 を 離れる 。 明らさま なる 月 が さす と 枝 の 数 が 読まれる くらい あらわに 骨 が 出る 。 わずか に 残る 葉 を 虫 が 食う 。 渋 色 の 濃い なか に ぽつり と 穴 が あく 。 隣り に も あく 、その 隣り に も ぽつりぽつり と あく 。 一面 が 穴 だらけ に なる 。 心細い と 枯れた 葉 が 云う 。 心細かろう と 見ている 人 が 云う 。 ところ へ 風 が 吹いて 来る 。 葉 は みんな 飛んで しまう 。 高柳 君 が ふと 眼 を 挙げた 時 、梧桐 は すべて これら の 径路 を 通り越して 、から 坊主 に なって いた 。 窓 に 近く 斜めに 張った 枝 の 先 に ただ 一枚 の 虫食 葉 が かぶり ついている 。 「一人 坊っち だ 」と 高柳 君 は 口 の なか で 云った 。 高柳 君 は 先月 あたり から 、妙な 咳 を する 。 始め は 気 に も し なかった 。 だんだん 腹 に 答え の ない 咳 が 出る 。 咳 だけ で は ない 。 熱 も 出る 。 出る か と 思う と やむ 。 やんだ から 仕事 を しよう か と 思う と また 出る 。 高柳 君 は 首 を 傾けた 。 医者 に 行って 見て もらおう か と 思った が 、見て もらう と 決心 すれば 、自分 で 自分 を 病気 だ と 認定 した 事 に なる 。 自分 で 自分の 病気 を 認定 する の は 、自分 で 自分の 罪悪 を 認定 する ような もの である 。 自分 の 罪悪 は 判決 を 受ける まで は 腹 の なか で 弁護 する のが 人情 である 。 高柳 君 は 自分 の 身体 を 医師 の 宣告 に かからぬ 先に 弁護 した 。 神経 である と 弁護 した 。 神経 と 事実 と は 兄弟 である と 云う 事 を 高柳 君 は 知らない 。 夜 に なる と 時々 寝汗 を かく 。 汗 で 眼 が さめる 事 が ある 。 真 暗 な なか で 眼 が さめる 。 この 真 暗さ が 永久 続いて くれれば いい と 思う 。 夜 が あけて 、人 の 声 が して 、世間 が 存在 している と 云う 事 が わかる と 苦痛 である 。 暗い なか を なお 暗く する ために 眼 を 眠って 、夜 着 の なか へ 頭 を つき 込んで 、もう これ ぎり 世の中 へ 顔 が 出し たく ない 。 このまま 眠り に 入って 、眠り から 醒めぬ 間に 、あの世 に 行ったら 結構だろう と 考え ながら 寝る 。 あくる 日 に なる と 太陽 は 無慈悲に も 赫奕 と して 窓 を 照らしている 。 時計 を 出して は 一 日 に 脈 を 何遍 と なく 験して 見る 。 何遍 験 して も 平 脈 で は ない 。 早く 打ち 過ぎる 。 不規則 に 打ち 過ぎる 。 どうしても 尋常に は 打た ない 。 痰 を 吐く たび に 眼 を 皿 の ように して 眺める 。 赤い もの の 見えない の が 、せめても の 慰安 である 。 痰 に 血 の 交らぬ の を 慰安 と する もの は 、血 の 交る 時 に は ただ 生きている の を 慰安 と せねば ならぬ 。 生きて いる だけ を 慰安 と する 運命 に 近づく かも 知れぬ 高柳 君 は 、生きて いる だけ を 厭う 人 である 。 人 は 多く の 場合 に おいて この 矛盾 を 冒す 。 彼ら は 幸福に 生きる の を 目的 と する 。 幸福 に 生き ん が ため に は 、幸福 を 享受 すべき 生 そのもの の 必要 を 認め ぬ 訳 に は 行か ぬ 。 単なる 生命 は 彼ら の 目的 に あらず と する も 、幸福 を 享け得る 必須 条件 として 、あらゆる 苦痛 の もと に 維持 せねば ならぬ 。 彼ら が この 矛盾 を 冒して 塵 界 に 流転 する とき 死な ん と して 死ぬ 能 わ ず 、 しかも 日ごと に 死に 引き入れ ら る る 事 を 自覚 する 。 負債 を 償う の 目的 を もって 月々 に 負債 を 新たに し つつ ある と 変り は ない 。 これ を 悲酸 なる 煩悶 と 云う 。 高柳 君 は 床 の なか から 這い出した 。 瓦 斯糸 ( ガス いと ) の 蚊 絣 の 綿 入 の 上 から 黒 木綿 の 羽織 を 着る 。 机 に 向う 。 やっぱり 翻訳 を する 了 簡 である 。 四五 日 そのまま に して 置いた 机 の 上 に は 、障子 の 破れ から 吹き込んだ 砂 が 一面に 軽く たまっている 。 硯 の なか は 白く 見える 。 高柳 君 は 面倒 だ と 見えて 、塵 も 吹かず に 、上 から 水 を さした 。 水 入 に 在る 水 で は ない 。 五六 輪 の 豆 菊 を 挿した 硝子 ( ガラス ) の 小 瓶 を 花 ながら 傾けて 、 どっと 硯 の 池 に 落した 水 である 。 さ かに 磨り減らした 古 梅園 を しきりに 動かす と 、じゃり じゃり 云う 。 高柳 君 は 不愉快 の 眉 を あつめた 。 不愉快 の 起る 前 に 、不愉快 を 取り除く 面倒 を あえて せず して 、不愉快 の 起った 時 に 唇 を 噛む のは かかる 人 の 例 である 。 彼 は 不愉快 を 忍ぶ べく 余り 鋭敏 である 。 しか して あらかじめ これ に 備う べく あまり 自棄 である 。 机上 に 原稿 紙 を 展べた 彼 は 、一時間 ほど 呻吟 して ようやく 二三 枚 黒く した が 、やがて 打ちやる ように 筆 を 擱いた 。 窓 の 外 に は 落ち損なった 一枚 の 桐 の 葉 が 淋しく 残っている 。 「一人 坊っち だ 」と 高柳 君 は 口 の うち で また 繰り返した 。 見る うち に 、葉 は 少し く 上 に 揺れて また 下 に 揺れた 。 いよいよ 落ちる 。 と 思う 間 に 風 は はたと やんだ 。 高柳 君 は 巻紙 を 出して 、今度 は 故里 の 御母さん の 所 へ 手紙 を 書き 始めた 。 「寒気 相 加わり 候 処 如何 御 暮し 被 遊 候 や 。 不 相 変 御 丈夫 の 事 と 奉 遥 察 候 。 私事 も 無事 」と まで かいて 、しばらく 考えていた が 、やがて この 五六 行 を 裂いて しまった 。 裂いた 反古 を 口 へ 入れて くちゃくちゃ 噛んでいる と思ったら 、ぽっと 黒い もの を 庭 へ 吐き出した 。 一 人 坊っち の 葉 が また 揺れる 。 今度 は 右 へ 左 へ 二三 度 首 を 振る 。 その 振り が ようやく 収った と 思う 頃 、颯 と 音 が して 、病 葉 は ぽたり と 落ちた 。 「 落ちた 。 落ちた 」と 高柳 君 は さ も 落ちた らしく 云った 。 やがて 三 尺 の 押入 を 開けて 茶色 の 中 折 を 取り出す 。 門口 へ 出て 空 を 仰ぐ と 、行く 秋 を 重い もの が 上 から 囲んで いる 。 「 御婆 さん 、 御婆 さん 」 はい と 婆さん が 雑巾 を 刺す 手 を やめて 出て 来る 。 「傘 を とって 下さい 。 わたし の 室 の 椽側 に ある 」降れば 傘 を さす まで も 歩く 考 である 。 どこ と 云う 目的 も ない が ただ 歩く つもり な のである 。 電車 の 走る の は 電車 が 走る のだ が 、なぜ 走る のだ か は 電車 に も わかる まい 。 高柳 君 は 自分 が あるく だけ は 承知 して いる 。 しかし なぜ あるく のだ か は 電車 の ごとく 無意識である 。 用 も なく 、あて も なく 、また ある きたく も ない もの を 無理に あるか せる のは 残酷である 。 残酷 が ある か せる のだ から 敵 は 取れ ない 。 敵 が 取り たければ 、残酷 を 製造 した 発頭 人 に 向う より ほか に 仕方 が ない 。 残酷 を 製造 した 発頭 人 は 世間 である 。 高柳 君 は ひとり 敵 の 中 を あるいている 。 いくら 、あるいて も やっぱり 一人 坊っち である 。 ぽつりぽつり と 折々 降って くる 。 初 時雨 と 云う のだろう 。 豆腐屋 の 軒下 に 豆 を 絞った 殻 が 、山 の ように 桶 に もって ある 。 山 の 頂 が ぽくり と 欠けて 四 面 から 煙 が 出る 。 風 に 連れて 煙 は 往来 へ 靡く 。 塩 物 屋 に 鮭 の 切身 が 、渋びた 赤い 色 を 見せて 、並んでいる 。 隣り に 、しらす 干 が かたまって 白く 反り返る 。 鰹節 屋 の 小僧 が 一生懸命 に 土佐 節 を ささら で 磨いて いる 。 ぴかり ぴかり と 光る 。 奥 に 婚礼用 の 松 が 真青 に 景気 を 添える 。 葉 茶屋 で は 丁稚 が 抹茶 を ゆっくり ゆっくり 臼 で 挽いて いる 。 番頭 は 往来 を 睨め ながら 茶 を 飲んで いる 。 ――「えっ、あぶねえ」と高柳君は突き飛ばされた。 黒 紋 付 の 羽織 に 山高 帽 を 被った 立派な 紳士 が 綱 曳 で 飛んで 行く 。 車 へ 乗る もの は 勢 が いい 。 あるく もの は 突き飛ばされて も 仕方 が ない 。 「えっ、あぶねえ」と拳突を喰わされても黙っておらねばならん。 高柳 君 は 幽霊 の ように あるいて いる 。 青銅 の 鳥居 を くぐる 。 敷石 の 上 に 鳩 が 五六 羽 、時雨 の 中 を 遠近 している 。 唐人 髷 に 結った 半玉 が 渋 蛇の目 を さして 鳩 を 見ている 。 あらい 八丈 の 羽織 を 長く 着て 、素足 を 爪 皮 の なか へ さし込んで 立った 姿 を 、下宿 の 二 階 窓 から 書生 が 顔 を 二 つ 出して 評して いる 。 柏手 を 打って 鈴 を 鳴らして 御賽銭 を なげ込んだ 後 姿 が 、見ている 間に こっち へ 逆戻 を する 。 黒 縮緬 へ 三 つ 柏 の 紋 を つけた 意気 な 芸者 が すれ違う とき に 、高柳 君 の 方 に 一瞥 の 秋波 を 送った 。 高柳 君 は 鉛 を 背負った ような 重い 心持ち に なる 。 石段 を 三十六 おりる 。 電車 が ごうっごうっと 通る 。 岩崎 の 塀 が 冷酷 に 聳えて いる 。 あの 塀 へ 頭 を ぶつけて 壊して やろう か と 思う 。 時雨 は いつか 休んで 電車 の 停留所 に 五六 人 待って いる 。 背 の 高い 黒 紋付 が 蝙蝠 傘 を 畳んで 空 を 仰いで いた 。 「先生 」と 一人 坊っち の 高柳 君 は 呼びかけた 。 「や あ 妙な 所 で 逢いました ね 。 散歩 か ね 」「ええ 」と 高柳 君 は 答えた 。 「天気 の わるい のに よく 散歩 する です ね 。 ――岩崎 の 塀 を 三 度 周る と いい 散歩 に なる 。 ハハハハ 」高柳 君 は ちょっと いい 心持ち に なった 。 「先生 は ? 」「僕 です か 、僕 は なかなか 散歩 する 暇 なんか ない で す 。 不 相変 多忙 で ね 。 今日 は ちょっと 上野 の 図書館 まで 調べ物 に 行った です 」高柳 君 は 道也 先生 に 逢う と 何だか 元気 が 出る 。 一 人 坊っち で あり ながら 、こう 平気に している 先生 が 現在 世 の なか に ある と 思う と 、多少 は 心 丈夫に なる と 見える 。 「 先生 もう 少し 散歩 を なさ いません か 」「 そう 、 少し なら 、 して も いい 。 どっち の 方 へ 。 上野 は もう よ そう 。 今 通って 来た ばかりだ から 」「私 は どっち でも いい のです 」「じゃ 坂 を 上って 、本郷 の 方 へ 行きましょう 。 僕 は あっち へ 帰る ん だ から 」 二人 は 電車 の 路 を 沿う て あるき 出した 。 高柳 君 は 一人 坊っち が 急に 二人 坊っち に なった ような 気 が する 。 そう 思う と 空 も 広く 見える 。 もう 綱 曳 から 突き飛ばさ れる 気遣 は ある まい と まで 思う 。 「先生 」「何 です か 」「さっき 、車屋 から 突き飛ばされました 」「そりゃ 、あぶなかった 。 怪我 を しや しません か 」「いいえ 、怪我 は しません が 、腹 は 立ちました 」「そう 。 しかし 腹 を 立てて も 仕方 が ない でしょう 。 ――しかし 腹 も 立てよう に よる です な 。 昔 し 渡辺 崋山 が 松平 侯 の 供 先 に 粗忽 で 突き当って ひどい 目 に 逢った 事 が ある 。 崋山 が その 時 の 事 を 書いて ね 。 ――松平 侯御 横行 ――と 云って る です が 。 この 御 横行 の 三 字 が 非常に 面白い じゃない ですか 。 尊んで 御 の 字 を つけて る が その 裏 に 立派な 反抗心 が ある 。 気概 が ある 。 君 も 綱引 御 横行 と 日記 に かくさ 」「松平 侯 って 、だれ です か 」「だれ だ か 知れ やしない 。 それ が 知れる くらい なら 御 横行 は しない です よ 。 その 時 発 憤 した 崋山 は いまだに 生きてる が 、松平 某 なる もの は 誰 も 知りゃ しない 」「そう 思う と 愉快です が 、岩崎 の 塀 など を 見る と 頭 を ぶつけて 、壊して やりたく なります 」「頭 を ぶつけて 、壊せりゃ 、君 より 先 に 壊してる もの が ある かも 知れない 。 そんな 愚 な 事 を 云わずに 正々堂々と 創作 なら 、創作を なされば 、それで 君 の 寿命 は 岩崎 など よりも 長く 伝わる のです 」「その 創作を させて くれない のです 」「誰が 」「誰がって 訳じゃない です が 、出来ない のです 」「からだ でも 悪い ですか 」と 道也 先生 横から 覗き込む 。 高柳 君 の 頬 は 熱 を 帯びて 、蒼い 中 から 、ほてっている 。 道也 は 首 を 傾けた 。 「君 坂 を 上がる と 呼吸 が 切れる ようだ が 、どこ か 悪い じゃない ですか 」強いて 自分 に さえ 隠そう と する 事 を 言いあてられる と 、言いあてられる ほど 、明白な 事実 であった か と 落胆 する 。 言いあてられた 高柳 君 は 暗い 穴 の 中 へ 落ちた 。 人 は 知ら ず 、かかる 冷酷なる 同情 を 加えて 憚 から ぬが 多い 。 「先生 」と 高柳 君 は 往来 に 立ち 留まった 。 「何 です か 」「私 は 病人 に 見える でしょう か 」「ええ 、まあ 、――少し 顔色 は 悪い です 」「どうしても 肺病 でしょう か 」「肺病 ? そんな 事 は ないです 」「いいえ 、遠慮なく 云って 下さい 」「肺 の 気 で も あるんですか 」「遺伝 です 。 おやじ は 肺病 で 死にました 」「それ は ……」と 云った が 先生 返答 に 窮した 。 膀胱 に は ち 切れる ばかり 水 を 詰めた の を 針 ほど の 穴 に 洩らせば 、針 ほど の 穴 は すぐ 白銅 ほど に なる 。 高柳 君 は 道也 の 返答 を きか ぬ が ごとくに 、しゃべって しまう 。 「先生 、私 の 歴史 を 聞いて 下さいます か 」「ええ 、聞きます とも 」「おやじ は 町 で 郵便局 の 役人 でした 。 私 が 七つ の 年 に 拘引されて しまいました 」道也 先生 は 、だまった まま 、話し手 と いっしょに ゆるく 歩を 運ばして 行く 。 「あと で 聞く と 官 金 を 消費 した んだ そうで ――その 時 は なんにも 知りません でした 。 母 に きく と 、おとっさん は 今に 帰る 、今に 帰る と 云ってました 。 ――しかし とうとう 帰って 来ません 。 帰ら ない はず です 。 肺病 に なって 、牢屋 の なか で 死んで しまった んです 。 それ も ずっと あと で 聞きました 。 母 は 家 を 畳んで 村 へ 引き込みました 。 ……」向 から 威勢 の いい 車 が 二 梃 束 髪 の 女 を 乗せて くる 。 二 人 は ちょっと よける 。 話 は とぎれる 。 「先生 」「何 です か 」「だから 私 に は 肺病 の 遺伝 が ある んです 。 駄目です 」「医者 に 見せた ですか 」「医者 に は ――見せません 。 見せたって 見せ なくったって 同じ 事 です 」「そりゃ 、いけない 。 肺病 だって 癒らん と は 限らない 」高柳 君 は 気味 の 悪い 笑い を 洩らした 。 時雨 が はらはら と 降って 来る 。 から たち 寺 の 門 の 扉 に 碧 巌 録 提唱 と 貼り つけた 紙 が 際立って 白く 見える 。 女学校 から 生徒 が ぞろぞろ 出て くる 。 赤 や 、紫 や 、海老茶 の 色 が 往来 へ ちらばる 。 「先生 、罪悪 も 遺伝 する もの でしょうか 」と 女学生 の 間 を 縫い ながら 歩を移しつつ 高柳君 が 聞く 。 「そんな 事 が ある もの です か 」「遺伝 は しない でも 、私 は 罪人 の 子 です 。 切ない です 」「それ は 切ない に 違いない 。 しかし 忘れ なくっちゃ いけない 」警察署 から 手錠 を はめた 囚人 が 二人 、巡査 に 護送 されて 出て くる 。 時雨 が 囚人 の 髪 に かかる 。 「忘れて も 、すぐ 思い出します 」道也 先生 は 少し 大きな 声 を 出した 。 「しかし あなた の 生涯 は 過去 に ある んです か 未来 に ある んです か 。 君 は これ から 花 が 咲く 身 です よ 」「花 が 咲く 前 に 枯れる んです 」「枯れる 前 に 仕事 を する んです 」高柳 君 は だまって いる 。 過去 を 顧みれば 罪 である 。 未来 を 望めば 病気 である 。 現在 は 麺 麭 ( パン ) の ため に する 写 字 である 。 道也 先生 は 高柳 君 の 耳 の 傍 へ 口 を 持って 来て 云った 。 「君 は 自分 だけ が 一人 坊っち だ と 思う かも 知れない が 、僕 も 一人 坊っち です よ 。 一 人 坊っち は 崇高な もの です 」高柳 君 に は この 言葉 の 意味 が わから なかった 。 「わかった です か 」と 道也 先生 が きく 。 「崇高 ――なぜ ……」「それ が 、わから なければ 、とうてい 一人 坊っち で は 生きて いられません 。 ――君 は 人 より 高い 平面 に いる と 自信 し ながら 、人 が その 平面 を 認めて くれない ために 一人 坊っち な のでしょう 。 しかし 人 が 認めて くれる ような 平面 ならば 人 も 上って くる 平面 です 。 芸者 や 車 引 に 理 会さ れる ような 人格 なら 低い に きまってます 。 それ を 芸者 や 車 引 も 自分 と 同等な もの と 思い込んで しまう から 、先方 から 見くびられた 時 腹 が 立ったり 、煩悶 する のです 。 もし あんな もの と 同等 なら 創作 を したって 、やっぱり 同等の 創作 しか 出来ない 訳 だ 。 同等 で なければ こそ 、立派な 人格 を 発揮する 作物 も 出来る 。 立派な 人格 を 発揮 する 作物 が 出来 なければ 、彼ら から は 見くびられる のは もっともでしょう 」「芸者 や 車引 は どうでもいい です が ……」「例 は だれ だって 同じ 事 です 。 同じ 学校 を 同じに 卒業 した 者 だって 変り は ありません 。 同じ 卒業 生 だ から 似た もの だろう と 思う のは 教育 の 形式 が 似ている のを 教育 の 実体 が 似ている もの と 考え 違した 議論 です 。 同じ 大学 の 卒業生 が 同じ 程度 の もの であったら 、大学 の 卒業生 は ことごとく 後世 に 名 を 残す か 、または ことごとく 消えて しまわなくって は ならない 。 自分 こそ 後世 に 名 を 残そう と 力む ならば 、 た とい 同じ 学校 の 卒業 生 に も せよ 、 ほか の もの は 残らない のだ と 云 う 事 を 仮定 して か から なければ なります まい 。 すでに その 仮定 が ある なら 自分 と 、ほか の 人 と は 同様の 学士 である にもかかわらず すでに 大 差別 が ある と 自認した 訳 じゃありませんか 。 大 差別 が ある と 自任 し ながら 他 が 自分 を 解して くれ ん と 云って 煩悶 する のは 矛盾 です 」「それで 先生 は 後世 に 名 を 残す おつもり で やって いらっしゃる んです か 」「わたし の は 少し 、違います 。 今 の 議論 は あなた を 本位 に して 立てた 議論 です 。 立派な 作物 を 出して 後世 に 伝えたい と 云う の が 、あなた の 御希望 の ようだ から 御話し を した のです 」「先生 の が 承る 事 が 出来る なら 、教えて 頂けます まいか 」「わたし は 名前 なんて あてに ならない もの は どうでも いい 。 ただ 自分 の 満足 を 得る ため に 世 の ため に 働く のです 。 結果 は 悪名 に なろう と 、臭名 に なろう と 気狂 に なろう と 仕方がない 。 ただ こう 働か なくって は 満足 が 出来 ない から 働く まで の 事 です 。 こう 働か なくって 満足 が 出来 ない ところ を もって 見る と 、これ が 、わたし の 道 に 相違 ない 。 人間 は 道 に 従う より ほか に やり よう の ない もの だ 。 人間 は 道 の 動物 である から 、道 に 従う の が 一番 貴い のだろう と 思って います 。 道 に 従う 人 は 神 も 避け ねば ならん のです 。 岩崎 の 塀 なんか 何でもない 。 ハハハハ 」剥げ かかった 山高 帽 を 阿弥陀 に 被って 毛 繻子 張り の 蝙蝠 傘 を さした 、一人 坊っち の 腰 弁当 の 細長い 顔 から 後光 が さした 。 高柳 君 は はっと 思う 。 往来 の もの は 右 へ 左 へ 行く 。 往来 の 店 は 客 を 迎え 客 を 送る 。 電車 は 出来る だけ 人 を 載せて 東西 に 走る 。 織る が ごとき 街 の 中 に 喪家 の 犬 の ごとく 歩む 二人 は 、免職 に なりたて の 属官 と 、堕落した 青書生 と 見える だろう 。 見えて も 仕方 が ない 。 道也 は それ で たくさんだ と 思う 。 周作 は それ で は ならぬ と 思う 。 二 人 は 四 丁目 の 角 で わかれた 。

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